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私は普通の女子大生で、特別な知識はありません。テレビやニュースを見てなんとなく感じたことです。アホな文章だったり、見当ハズレなことを言っているかもしれませんが、なんとか読み取ってください。

最近のスピリチュアルブームや日本に新興宗教がたくさんあることを考えると、これからの日本人の宗教への関わり方ってどうなっていくんだろう?と疑問に思いました。

宗教は人間が生きる上で必要なものだと思います。人間の心のよりどころとしての必要性もあると思いますが、さまざまな考え方を持つ人間をまとめるのに宗教はとても便利です。宗教ナシで法律や権力だけで統率するのは難しいと思います。答えが出しにくい問題でも、宗教を基盤に考えたらわかりやすい。
日本には、全くないとは言い切れないけど、宗教による縛り(?)や共通的な価値観は海外に比べて薄いです。それでもなんとかやってこれたのは宗教への鈍感さを補うものがあったからだと思います。
日本は「恥の文化」といわれますよね。そのほか義理人情だとか、仏教的だけどご先祖さまが~とか「今時古いよ」と言われるような考え方が他国の宗教と同じような働きをしてきたと思います。しかし、宗教のような確固たるものではないので、古きよき日本人の考え方古い常識は薄れてきていると思います。(もちろん良いものばかりではないけど)
というわけで、スピリチュアルがブームになるのは、今まで日本に当然のようにあった「常識」や指針が揺らいできちゃってるのが原因なのかなぁ?と考えています。流行っているのは必然的なタイミングなのかなぁ?と。
日本人的な考え方がこれからどんどん薄れていくとすると、日本人にも宗教が必要なんじゃないか?(神道の宗教教育?)ほうっておくと、指針のなくなった日本人がスピリチュアルや新興宗教にどんどんはまっていくんじゃないか?なんて思います。

なんか・・何が聞きたいのかわからない文章ですが、上記のことを読み取ってくれた上で、「これからの日本人と宗教はどんなふうにかかわっていくべきか?」について回答者さんの個人的な見解を教えてください。(わかりやすく♪)


私自身は、無宗教(初詣・お盆・クリスマスを楽しむ一般的な日本人)ですが、無神論者ではありません。神に対してはファンタジー感覚です。あと、一神教の排他的な感じはあまり好きではありません。八百万の神をかじった程度の柔軟な感じが好きです。アニミズムもおもしろくて◎。神様も排他的な要素はあるし、天皇が神様になるなど、危険もありますが・・。なので希望としては、今までどおり、宗教に対して曖昧なままで済む日本がいいです。
個人的には何を道徳の基盤にするのか・・というと、特定の宗教に頼らず、聖書やコーランお経、親のしつけ、自分の経験、小説・・などあらゆるものから良いとこ採りして自分なりバイブル(哲学?)を持って生きていたいなぁと思っています。

全体的に意味不明ですがよろしくお願いします。

A 回答 (30件中11~20件)

 あなたは神道に好意をお持ちのようですが、それはたいへんに素敵な心と思います。

神道は日本人の祖先がこの日本列島に渡ってきた頃から持っている霊魂観に根ざしています。親が死んでも霊魂は子供を護ってくれるということです。これは日本人にとつては公理みたいなものです。神道、仏教だろうと拝む対象は先祖、亡くなった人の魂です。同じような霊魂観が中国にあって(そちらが先でしょうが)儒教、儒教道徳として発達し日本に伝わり共感を得ることになりました。
今日、日本人が素晴らしいと思う行為,心情(現在、戦前、明治、江戸等の)は基本的には儒教道徳です。この素晴らしいと思う心があるかぎり日本の宗教はなくならないのです。ただし、あまりにも一神教の情報があふれていますから、宗教観を自覚して、先祖、氏神様を礼拝していくことが必要でしょう。
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<<これからの日本人と宗教はどんなふうにかかわっていくべきか?」について回答者さんの個人的な見解を教えてください。

>>

理性を大事にし、論理的で道徳的かつ実証的なものを実践していくことが重要だと思います。

テーラワーダ(上座)仏教はこれらをクリアしているように思います。信仰(信じ仰ぐ)を重んずる「宗教」ではありませんが、「個人の自由を守る、生き方に役に立つ実践の教え」です。わかる範囲で確かめていく教えです。

このテーラワーダ仏教の実生活における実践方法を取り入れ、生活していけばいいのでは。義務教育で教えればいいのに。という見解が今の私にはあります。

語られる道徳も厳密に語られているように思います。

ぜひ一度学ばれてみてはいかがでしょう。サンガ出版の「仏法」がかなり詳しいです。

あなたなりのバイブルにいい影響を与えると思いますよ。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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土着の人が住んでいるところに、新しい人々と文化が海の向こうからやってきました。

ある時は騒乱がありましたが、島国の中で融合していったと考えます。その後も新しい人々とその文化は陸続と日本に上陸し、島国の中で融合していきます。クリスマスもその一つかと。

何事も受け入れるということは、他のものを受け入れるなという部分は受け入れないということを意味するので、受け入れ方が日本的になるのではないかと考えます。それは排他的ではないという意味ではないかもしてません。それがもっとも肝要な部分かもしれませんから。

もちろん他のものを受け入れないという人々もあったでしょうが、その人たちが、その他の人々を全部征服できるほどには日本は遅れていなかったと思われます。

参考
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kou(03-7- …
http://www.do-amenity.co.jp/tv/masako/masako_003 …

日本語では、外国語の単語が入っても日本語であり、今日では外来語だけで構成される日本語の文章も想定されます。日本においては常に新しいものと融合し、変化していくのが自然なのではないかと考えます。自分たちの考えに固執するなら「出会いの物」に出会うことはできなかったわけで、現実的な環境に暮らしていると思います。
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産業革命以降、貨幣経済を優先させ、家庭生活と経済生活が切り離され、家庭は消費生活一本で男女の営みと子育てを行うところ、お金は家庭外に求める。

 それから核家族の増大。 小売業者は、大型店に負けて、地域の交流も助け合いもどんどん薄れて行く。

血縁地縁がベストではないかもしれませんが、それで、そこそこ上手く廻ってた日本社会,つまり質問者様のいう

「今まで日本に当然のようにあった「常識」や指針」が、そんなところから失われてきたのでしょうね。

だから、自分だけの利益や出世だけに目を向けないで、身近な人々に、優しい気持ちで手を差し伸べることで、小さな村社会がたくさんできるともっと生きやすくなりますかね。循環社会の義理と人情の世界かな。

教えてgooも、教えて貰ったり、参考意見を述べたりの,循環社会の一種ですかね。 どこかで、これで、儲かってる人がいるかもしれませんけどね。

あなたのバイブルが「特定の宗教に頼らず、聖書やコーランお経、親のしつけ、自分の経験、小説・・などあらゆるものから良いとこ採り」であって、他の人達もあなたのバイブルのような、よいとこどりをしていたら、果たしてどんなバイブルができるのでしょう?  あなたがいいと思うものが、他の人には、いいものではなく、それが競合したら?

回答にはなりませんが、考えることの参考になれば、幸いです。
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今から100年も前に外国人から


「日本人に宗教がなくてどうやって道徳教育を授けているのか?」
と疑問を受け、答えを出した人がいます。

五千円の肖像になっている新渡戸稲造さん。
第一次大戦後に発足した「国際平和連盟」の事務局次長となり、
その中で「国際知的協力委員会(現ユネスコ)」を設立した人です。

「我、太平洋の橋とならん」
といって人種差別を禁止する条例を提案しましたが、
白人優勢の多数決で決議に至れませんでした。

その新渡戸さんの著書「武士道」の抜粋。
「武士道は明確な形をとらないが、
語られも書かれもしない故実行を迫るのである。
武士道はその力と美をもって民族の心の中に生き続けている。
武士道は日本を表象する桜の花と同じように日本固有の花である。
その本体を失ってもなお我々の頭上で光り輝いている星のように、
我々の道徳を照らすのである」と説明しています。

詳しくないですが、「茶道」「花道」「古典文学」も
哲学的に深いものがありそうです。
日本人は庶民も手紙や日記をよく書き記録を残しました。

宮沢賢治さんは「いずれ宗教は芸術になるだろう」といったそうですが、
質素でありながら技巧やリサイクル?が発達していて、
自然と職人を尊ぶ風潮があったこと(
時代や風土によっては匠とか達人扱いされないで召使いです)
等も美意識が発達した所以でしょう。

宗教の教義を持たなくても、日常の生活の中で感情を刺激されたり、
はたまた平常を保つ実践力が基にあったのでしょう。
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日本人のすごいところは、


わび、さび、人生の儚さ、美しさの感性ですね。時間感覚だと思います。
そして生産性の高さです。

まぁそれは別にして、
どんな民族でもどんな国でも、宗教は風土文化の後から追いつくと言うか、その風土文化の裏の性格をもっているんだと思うんですね。
極端に言えば、神の国に宗教は存在しない訳で、その風土を補完する形で宗教が存在して、文化と一体になっているのでしょう。

ご質問者様自身がバイブルを模索していらっしゃるのですが、その落ち着くところが補完にあたるわけで、先に真の宗教があるのではなくて、
そのなにか不足しているという思いが宗教を発生させている、あるいは、宗教を取り込む素地になる訳です。

したがって、宗教とどう関わるかというのは、とりもなおさず、風土文化がどう形成されているかと言うことなんじゃありませんかね。個人でも同じなんだと思います。
そして、目指すのは宗教教義がいらない文化なんだと思いますね。そうなったときは、文化自身が宗教なのかもしれませんが・・・。
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海外の宗教人達とお話をしたことがありますでしょうか?


彼らは神無しでは生きて行けません。(白人社会では当然)無宗教なんてことは口にしない方が良いです。人間扱いされません。
進化論を信じているのですね?人間がネズミから勝手に変化し人間になり、死ぬと天国に行き、また虫から修行を始め人間になって・・ですか?
科学的に人間や地球を見ると、おもしろいです。たとえばエベレスト山頂の地質は海底の物です。中東のアララト山山頂付近で巨大木片が人工衛星によって発見されました。ノアの箱船?北極の凍結マンモスは口の中に草がありましたよね?北極が暖かかった?日本オーストラリア間の太平洋には巨大大陸文明があった?
また、生物が死ぬと地球を破壊するでしょうか?肥料になりませんか?
ミカンの木にリンゴを見たことがありますか?ネコと犬の子供って居ません。宇宙で星達が勝手にぶつかり合うことは無いです。地球の10万キロという速度は太陽を回る速度として完璧です。微妙な傾きも四季の為に必要です。つまり、すべてに設計、制作者が居るということです。
これらは聖書記述を裏付ける物ですが、そこにはこれから人類の数千年後のことも書かれています。
>何を道徳の基盤にするのか・・親のしつけ→キリストの山上の垂訓(黄金律と呼ばれている)道徳の基礎はここにあると信じています。
私はキリスト教ではありません。しかし海外の友人と話していると、考えざるをえないのです。
死ぬと、見たことのない天国に行くより、一部のキリスト教の地上にもう一度表れる、という方がいいな!と思いました。
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 No.4です。


★ 日本人に宗教教育が必要だとたまに聞きますが、もし宗教教育をほどこしたらどうなると思いますか??
☆ 要らないという立ち場ですが こんなふうに考えています。
(1) かつて 弥生時代の終り・古墳時代の初めに やまと(山処)なる三輪というところに 人びとの自由な共同自治が 築かれました。《和》とは言わなくとも 人びとは けんかはしても 互いを尊重し合い 共生を目指しました。
 ある日 この和の上に 《大和》なるヤマトが でっかい旗を立てて 本家本元の争いを始めました。最終の結果は 三輪市民が 譲歩しました。(これを 《国譲り》と言います)。
 社会が 形態として 二階建てになりました。

 ・スサノヲ市民の上に もっぱらの公民としてのアマテラス族。
 ・《まつり》の上に 《まつりごと》。
 ・家の上に くにいえ(国家)。
 ・《八重垣》(市民社会)の上に 《九重》(宮中禁裏)。
 ・和(やまと)の上に 大和(ヤマト)。

 この《大和》主義思想が 《和を以って貴しと為す》とお決めあそばしたのです。

(2)このような歴史哲学をみなで考え合っていくのがよいでしょう。同感を得た内容を 教えるとよいでしょう。

(3)そのような哲学を基礎として 信仰は 個人が それぞれ自由に抱くとよいでしょう。まったく自由にです。

(4)同じ信仰をもった人びとが 自分たちだけででも 別の信仰をもつ人たちと共にでも 信仰と直接にかかわらない文化活動や社会事業をおこなうのは まったく問題ないと思います。
 ところが 同じ信仰を持つという場合であったとしても 信徒のあつまりとしての宗教は 組織・教義・教祖を決め 運営規則に沿って行事慣習をもおこない その活動をいとなむということです。言いかえると 信仰を その信仰の上から 《信仰を以って貴しと為しなさい》と言い合って 生きようとするいとなみです。そこに 組織の長が 悪いと来た日には 目も当てられなくなります。支配欲に支配された人間が 宗教の名のもとに やりたい放題となります。
 要するに 宗教に ろくなものはありません。
 こういうことを教えるのなら よいと思います。

(5)長くなりますので あとは わたしのほかの回答を 参考にかかげます。よろしかったら どうぞ。
 
 ・日本の歴史に即して 考えた人間・交通関係(コミュニケーション)・社会についての議論です。
 《Q:今生きる社会のひな型が無い気がします。
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3610567.html 》そのNo.2

・同じ趣旨ですが それを さらに詳しく日本のシントウに即して 述べたものです。
 《Q:教義内では共存的な世界観の多神教が、対外的には排他的になるのはなぜですか。
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3762272.html
  そのNo.9~13・15・25

(6)なお スピリチュアル・占いというのは 無限判断を扱います。選択肢が 一般に 限りなくある場合について ああでもない・こうでもある / いや それは 一部分のことだ / ええ たしかに あれは その一時期のことでしたうんぬんと 延々とやっていく《知的な・知敵な・痴的な》ひまつぶしです。公共の電波では 自主規制すべきだと考えます。でも 大衆の需要があるですって? では しかたありません。
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日本人に宗教教育はそこまで必要ないと思いますが、海外に行った時「あなたの宗教は?」と聞かれて「ありません」なんて答えないようには教育したほうがいいと思います。



日本では、伝統的な日本神道の八百万の神々から多神教的な「初詣・お盆・クリスマスを楽しむ一般的な日本人」像が出来上がってますが、外国から見たら異常には違いありません。

それ以外は、誰がどんな信仰しようが自由ですし、たとえそれが終末思想的なものであっても、人に危害加えなければ問題はないと思います。

というのも、宗教は心の依り処としてすがるか、死への恐怖から逃れるためにすがるためのものですから、どんな教えでも結局はその教えを受ける人の気持ち次第でしょうし。

ですから、たとえスピリチュアルが流行っても全然気にしません。

 「常識」なんてのはその時代で変わる訳ですし、「古い常識」には良いものもあり悪いものも当然あるわけです。
 今の時代が必ずしも「悪い常識ばかりになってしまった」なんて誰が言えるのでしょうか?多分言えないと思いますよ。+-したら結局以前と変わってないような気がしますが。

神道の根本思想に「和」があったからこそ、争いごとの嫌いな古い日本人像があると思います。

個人的には争い事嫌い(別に戦争反対論者ではないが)なんで、「もっと『和』を持とうよ・・」なんて思ったりもしますが、グローバル化している現代において、外国との競争に勝ち抜くためにはそれだけじゃ生き残れませんしね。
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宗教から一歩はなれて、別の切り口から考えてみました。



今のスピリチュアルブームに限らず、歴史を振り返ると、昔からなんらかの信仰のようなものは沢山あるものです。賭博と風俗と占い(スピリチュアル?)は、どんな不況下においても無くならないビジネスだと歴史が証明しています。

こういうものは、時期的に廃り流行があるように見えますが、なぜ今はブームだと言われているのでしょうか。それは、これまでマスメディアがとりあげていなかったからです。では、なぜここ10年近く、あまり流行らないように見えたのか、ご存知でしょうか。

マスメディアが責任を感じて自重していたからです…何の責任かというと、松本サリン事件をはじめとする、反社会的事件を起こした宗教団体のオウム真理教教祖を、まるでコメディアンのように持ち上げていた時があったからです。

これまで、TVでは細木さんも江原さんのような人は登場させたくても、マスメディアが世間体を考え許さなかったのです…現在は過去の批判的な見方をする人が減り、収益に結びつくからスピリチュアルが解禁されて、今、とても持ち上げられているように見える。このことに危機を感じている知識人も少なくありませんね。

では、これらスピリチュアリズムを、民衆が古来の宗教観を取り戻すことで払拭できるだろうか?と考えた時に、そういう期待はできないと私は思います。宗教を持たない人に、思想統制を行えば済む問題でもなく、反対意見も多いことでしょう。思想を持たない人に宗教をおっかぶせることはできない。

欧米の思想を安易に取り入れるかのように、主な宗教を持ち出して子供に宗教観を伝えなくても、特に何をするでもなく日本人はもともと道徳観や倫理観ある人間がもともといたのですから、これらを普遍的な宗教観というのか分かりませんが、、、人間が人間らしく育つ仕組みを創り上げればいいのではないかと思います。その方法としてのキーワードは「宗教を持った人間」を育てるというよりは、宗教観や文化的な知識のようなものも含めて「哲学を持った人間」を育てることであると思います。
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