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わが鐘を撞かれたら その度合いや撞き方にしたがって わが鐘の音をそのまま成り響かせるだけ。

 これが さとりなる境地ではないのか?

質問者からの補足コメント

  • ▲ http://www.etymonline.com/index.php?term=silly&a …
     silly (adj.)
     原義は《たのしい》:Old English:gesælig "happy, fortuitous, prosperous
     German :selig "blessed, happy, blissful,"

     語義の変遷:"happy" >"blessed" >"pious," > "innocent" (c. 1200年),
     >"harmless," > "pitiable" (late 13c.), "weak" (c. 1300),
     > "feeble in mind, lacking in reason, foolish" (1570s).

     ☆ 《知らぬが仏》ではなく《至福は無知》になった?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/16 11:43
  • №11お礼欄で:
     ☆☆ この神論は 自慢して言えば 誰もまだ言っていません。
     ☆ と書きましたが でも 《神は インチキでなければ どんな名の神でも・誰にとっても 同じひとつである》ということは 日本人にはきわめて自然で理屈抜きにふつうに心得ていることだと思います。よね。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/19 22:36
  • 【Q:法螺吹き・・・】のほうは 気づいたら 運営サポートのほうから締め切られていました。

     長い時間――十日ほどでしょうか――やり取りがなかったからなのでしょうか。

     そういう事情です。


     そろそろあたらしい問い求めにすすめればよいなとは思っています。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/25 06:21

A 回答 (16件中1~10件)

あなたは、リンゴを食べたことがない人に、


言葉でリンゴの味を伝えられるでしょうか。
無理でしょう。その人がリンゴを食べるしか
方法がありません。

リンゴの味ひとつ伝えられないほど言葉は
無力です。ましてや、悟りの境地を伝えような
どと.とんでもないことでございます
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この回答へのお礼

そんなことはありません。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 つまり 梨だとか柿だとかのほかの果物のことを想い起こさせれば かなりの程度 伝えられましょう。大した問題ではありません。

 果物はいっさい食べたことがなかったとすれば だから伝えづらいというものでもありません。とにかく木に生る実としての説明をします。

 食べる前に伝える方法は あります。食べなければ分からないというのは また別の話です。

 ★ ましてや、悟りの境地を伝えようなどと.とんでもないことでございます
 ☆ そうでございますか。
 しかし 伝わったとしたら どうしますか?

 なぜなら すでに生まれたときに 人にその境地〔が分かる心〕はそなわっているのですから。
 
 それとも この共通感覚を否定なさいますか?

お礼日時:2015/10/14 15:41

西郷隆盛に対する人物評に、このような言葉があったことを


思い出しました。
「弱く叩けば弱く鳴り、強く叩けば強く響く」と。

人生の達人の悟りの境地と言っていいと思います。
なぜなら、鐘の撞き方、強さが、その人の求めるものであっ
てそれを見抜かなければならないし、剛力の者の撞き方にも
対応するべきだと思うからです。

昔は、レコードを大きなスピーカーで聴きました。重低音が
ズンズン腹に響いてきましたが、今はちっちゃなスピーカー
でシャカシャカ音ばっかり聞いてるから、人々の思考も変わ
ってきているのかも知れません。

現代社会に足りないもののひとつは、この「重低音」だと思
います。
どうすればいいかというと、「力ある人の鐘」を思い切り撞
くことです。御存命のうちに。
そうして、「重低音」を社会に響かせることです。キンキン
音ばかりじゃ、頭が痛くなるから。

それから、将来は自分がそうなれるよう「鐘」の質量を大きく
してゆくべきだ、と。

そんなことを考えました。
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この回答へのお礼

質問者の気分を《プンプン》にしてみましたが あまりシャレにもならなかったかも分かりません。ふつうにすればよかった。

 にゃんぽこりんさん こちらにもご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 ☆☆ その度合いや撞き方にしたがって
 ☆ というとき そこにハカラヒといった思考とその心の装置のようなものは 考えていなかったのですが そうですね 昔のえらい人はそのような思慮を心の中で重ねていたかも知れないですね。
 むろん それだけではなく 持って生まれた度量やしっかりと培った人柄もがそなわっていたのでしょう。


 《重低音》ですか。これも なかなかむつかしいことなのかも知れないですね 聞き取ることは。

 つまり ざっくばらんに言ってしまいますが 相手の鐘の撞き方に応じてこちらが鳴り響くというとき わたしは――普段からそうなのですが―― 能天気で応答するといったことを思っていました。フリーハンドと言うのか。

 つまり――勝手なことを書きますが―― 鐘としての自分を大きくするというよりは それはすでにじゅうぶん大きい。誰もが 自然本性において大きい。のだと思っています。

 歳を取ると 勝手なことをしゃべりますね。
 哲学はけんかだなどと言っていますからねぇ。度し難いぢぢいでした。

お礼日時:2015/10/15 16:22

武道家の"押さば引け、引かば押せ"の柔の心



音楽家ならジャズメンの即興

政治家なら・・・(わかんない)

宗教家なら"機根"の響き(音色)

☆ さとりにレベル・段階(階級?)あり。

哲人ブラジュロンヌは菩薩的、的、的・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


 ★ 政治家なら・・・・
 ☆ 水心あれば魚心あり。――裏声での響きですが。鐘の音にもファルセットがあるかも知れません。

 それは:
 ★ シュウキョウ家
 ☆ も同じとちゃうの? わたしの色眼鏡ではそう映ります。

 
 №3でも書きましたが わたしは 《脳天気》ですよ。

 ▼ ( goo 辞書:のう‐てんき【能天気/能転気】 ) ~~~~~~~~~~~~
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/171431/m0u/

 [名・形動]軽薄でむこうみずであること。のんきでばかげていること。また、そのさまや、そのような人。

 ▲ (fleapedia: 能天気、脳天気 のうてんき) ~~~~~~~~~~~~~~

 http://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9 …

 能天気とは、頭の中が快晴であるという意味だが、空が澄み渡るように頭脳明晰であるということを言いたいのではなく、空に雲一つないようになにも考えていない様子を言い表している。

 普通の人間なら将来に不安を抱いたり、現状を思い悩んだりして、雲のふたつやみっつ空に浮かび、太陽もかげりを見せているだろうに、そうはなっていないことから、要するに頭の中が澄み渡るようにハッピーな状態を能天気と言うのであって、そんなお気楽な人を、どんよりと曇った頭を持ち日々愚痴と不満たらたらで過ごしている人が「このバカが」と思いつつも、うらやんで言う言葉である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ へっへっ。

お礼日時:2015/10/16 10:45

「能天気に応答する」



これは、更に奥深い「悟り」の境地だと思います。
西洋哲学には、こういう概念はあるのでしょうか?

東洋哲学の(ここでも私は初心者)、「無作」という
ことを仰っているのだと思いました。

即ち、思い通り自由にやる、嫌ならやめる、それで
人には迷惑をかけない、それどころか価値すら生む。

yy8さんの言われる「即興」もいいですね。

仏教の志向する境地、実は皆がそうなりたいと思っ
ている事なんだと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 yy8さんの言われる「即興」もいいですね。

 仏教の志向する境地、実は皆がそうなりたいと思っ
 ている事なんだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは なかなか言えないと思いました。あるいは 言っても そうたやすくは成れない。成ろうと思っても成りがたい。
 ――かつてのわたしにかんがみて そう感じました。いまの人たちは どうでしょう。

 《即興》と言っても むろんじゅうぶんな稽古をして来ているのでしょうし――(天才は別にしても)――という逆の見方も 《能天気》論には 出来るのかも知れません。


 ★ 東洋哲学の(ここでも私は初心者)、「無作」ということを仰っているのだと思いました。
 ☆ しらべてみると むしろ《真理》のことですか。
 これは 《霊》の問題になるかも知れませんね。ただし 応用して用いているのかも分からない。:
 ▼ (コトバンク:無作) ~~~~~~~~~~~~~~
 https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E4%BD%9C-641336

 ▽ 大辞林 第三版の解説:むさ【無作】

 〘仏〙 因縁によって生じたものではなく,従って生ずることも滅することもないこと。現象を超えた真理。無為。

 △ デジタル大辞泉の解説:む‐さ【無作】

 仏語。人為的な働きのないこと。自然のまま。無為。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 ★ 西洋哲学には、こういう概念はあるのでしょうか?
 ☆ あまりよくは知らないですね。

 ○ 学識ある無知 docta ignorantia  (思考や知識から自由になった知性(?))

 ☆ ニコラウス・クザーヌスが言ったそうです。
 このところソクラテスは露出し過ぎですので控えていてもらって ただしそれでもクザーヌスの言うところも かの《無知の知》と同じようであるのかも分かりません。リンクは あえて掲げません。

 あるいは 西欧の言葉で 《 silly 》がおもしろいかも知れません。もともとは 《たのしい・しあわせ》であったのが 《バカな》という意味を帯びて来たようです。これを補足欄にて。

お礼日時:2015/10/16 11:29

ミスター哲人、ブラジュロンヌは「どんよりと曇った頭を持ち日々愚痴と不満たらたらで、日々を過ごして居る」とは思えない。



plapoti病を患っているとは、以外です。そして"心外"です。

本音はどこに?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ plapoti 病を患っている = 自己卑下
 ☆ は なぜか?

 1. 今回ソクラテスの質問でやっと分かりました。
  ぷらぽ氏の――あくまでわたし=ぶらじゅろんぬに対する――態度は こうです。:

  (あ) ぶらげろとして蔑む 
  (い) 哲学思想としての内容でよいものは 勝手にいただき。直接にやり取りしたものでも 間接的に得たものとする。

 2. (あ)は わたしが歯に衣着せずに相手の考えを批判するので この場から退出する場合が生じる。現に生じている。(これは 事情は別にして 事実です。brag 註)。よって さげすむ。

 3. (い)は そのままです。言いかえると わたしが《生産》した思想を ぷらぽクンは勝手に《消費》する。そこに何の権利義務の関係もないし 人間関係としても生じないということ。

 4. いま思えば これまでけっきょくぷらぽ式鐘の撞き方へのわたしの響き方は 試行錯誤であった。ようです。

 5. 初めの初めは 《八百万方角美人》だと言ってやりました。そうだと答えました。おれはアホだ それがおまえには関係することはない――という意味であり 満足した豚の振る舞い方です。

 6. たとえばニーチェについて いやというほどわたしは批判して ぷらぽ氏のニーチェ病を明らかにしそれを癒してやったつもりでしたが いま言ったように 思想内容のやり取りは いっさい直接にはかかわりないという姿勢なわけです。

 7. でも 訊いて来る場合もあったわけで それなら 直接にかかわっているはずですから やり取りの直接性をわたしは疑わなかった。

 8. こちらの勘違いやあるいは知らない点などについても 互いに了解することなどをも経つつ 最後にニーチェのディオニュソス讃歌は オウム真理教のポアの思想と同じ病気だという結論に到りました。《やつ》も 了解しました。

 9. ところが 思想をめぐっては あちらはもっぱら《消費》するのみだという姿勢と態度が 今回ようやく100%はっきりした。こういう経過です。

 10. 手こずったと言えば そうですし あちらも豚ではなく人間になりたいと思ったこともあったと思われるとき こちらは 豚ではなく人間としてふつうに対処し鳴り響いた。

 次のご投稿へのお礼欄でおぎないます。

お礼日時:2015/10/16 15:42

追記です。



plapoti病とは不満たらたらの事ではなく、自己卑下の事です。(念為)
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この回答へのお礼

ひるめしを食べて 録画しておいたクラシック倶楽部のバッハ演奏を聞いていたら ねむってしまっていました。
 久しぶりの昼寝です。

 前回の(あ)についてですが。:
 わたしとこの質疑応答の場でやり取りしたのが原因で 退会したという例は 数えてみたとき 十件ほどありました。(勝手にこちらが そういう経過だったであろうと見ているに過ぎない場合をふくめて)。

 たとえば ごろつき顔なし親分たるちょ○つも そうです。(相手がどう思っているかは 別です。確かめたこともない間柄です)。

 しかも ぷらぽクンは その人物をおのれの人生の師と仰いでいます。

 しかも ぷらぽ氏は ごろつき先生の見解をわたしが批判した内容については 妥当であると認めています。批判について あちらが突っぱねたことのほうがわるいと認めています。

 ですから 結論として このP氏については 放っておくよりほかに道は 当面 ない。です。

 

 理解を得ようとして・あるいは理解を深めようとして わたしは自分を低い位置に落としめたりしたことがあったかも知れません。
 だって 子どもには しゃがんで 子どもと同じ目の位置にいる姿勢をとることがありますから。

 もっと突っ込んで!

お礼日時:2015/10/16 15:57

「気がついたら時代が変わっていた」というのが、


私の実感でした。

お人好しのおっちゃんが、イヤミジジイになっちま
っている。優しいと思っていたおばちゃんが、なん
か偉そうだ。
皆、傷付け合っている。私も私が生きている世界で
傷付いている。
自分の身を守ろうとしてばかりいるから、冷たい社
会になってしまったと思います。

30年も前に、人類は「道徳的危機」に陥るだろう、
と言った人がいましたが、その通りになっていると
思います。


余談から入ってしまいましたが、「鐘」ということ
について。

「誰もが自然本性において大きい」
「生まれたときにそなわっている」
ということは、人格とか自我ということよりも、東
洋哲学で説く、「仏性」というような事を仰ってい
るように思うのですが、いかがなものでしょうか?

この哲学カテでも、「自分の中にすべてがある」と
言った人がいましたが、同様のことを言っていると
思っています。

尚、「無作」についてはもう少し思索してみます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 《心が傷つく》問題は 次のように考えています。

 ☆☆ 【Q:他人の言葉で 自分の心が傷つくか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9047457.html
 

 《鐘》の十全な大きさについては おっしゃるとおり《ブッダター(仏性)》のことです。
 あるいは 《自然本性にやどると想定される神の霊》のことです。

 あるいは 信仰論にまで入らないとすれば 人間の潜在的なチカラがあまねくそなわっていると想定した場合です。


 《無作》は 《自然法爾》につうじるかと思っています。
 《絶対他力》とは いったいどういう人間の状態であるのか?

 それには 身と心なる自然本性に さらにプラス・アルファがそなわっているとも見ています。
 感性の原野(=身)や思考の緑野(=心・精神)のほかにさらに 《ナゾの霊》として《非思考の庭》がそなわっていて そこにおいてわれわれはヒラメキ(直感ないし直観)を得る。

 ヒラメキは 人間の《自力》によるとは思えない。うんぬんです。


 昼ごろ戻ります。取り急ぎしたためました。

お礼日時:2015/10/17 09:09

「仏性」ですか。

さあ大変だ。

「一念三千論」は一応知っています。
「十界論」は一応納得できます。
「ああ、確かにそのようだ、と」
しかし、十番目の「仏界」が=「仏性」
と理解していますが、分かるような気が
するのですが、宙に浮いたような理解し
かできないのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《宙に浮いたような》図式で説明してみます。

 ○ われわれ人間の認識する対象についての区分

   経験事象(あなたの質問にある因果関係の世界)
     可知 
       既知
       未知
     不可知 (知り得ないと知った数学の定理のようなもの)
   非経験の場(有無を超え因果関係から自由な場の想定)
     非知 (知り得るか知り得ないかがひとには知り得ないナゾ)

 ○ 非知なる非経験の場――霊と呼べる――を心に受け容れると非思考の庭が成る

   信じる:非思考の庭:ヒラメキ(直観)
   -------------------
   考える:思考の緑野:コギト(精神のハタラキ)
   感じる:感性の原野:直感・知覚

 ☆ この《非思考の庭》に ブッダター(仏性)なり神の霊なりあるいはアートマン(霊我)なりがやどる。または その霊そのものだという想定です。

 十界論や一念三千論では 《経験事象と非経験の場》との区別が はっきりしない嫌いがあるように思います。
 つまりは 両方をふくむということなのでしょう。

 あるいはつまり ボディサトワ(菩薩界)は微妙なようですが いちおう九界は やはり《経験事象》の世界に対応しているはずです。
 つまりは 《思考の緑野 および 感性の原野》なる領域に 九界は対応していると捉えます。

 非思考の庭は 経験世界を超えている〔と想定する〕からには 感じるや考えるではなく 無条件に心に受け容れるという意味での信じるという事態に当たっている。こう考えます。
 つまり 信仰という意味ですが。

 ただし シュウキョウは オシへですから――人間の言葉で表現された思想内容なのですから―― あくまで《考える》問題です。
 シュウキョウを信じるというのは 表現として自己矛盾だと思います。

お礼日時:2015/10/17 22:25

極めて難しい問題です。

今の私にとってはこれを理解する
ということは、富士山を持ち上げるようなものです。
しかし、「持ち上げてみたい」と思うところが、私がド阿
呆と呼ばれる所以でもあります。

「非知」という概念は未だ理解できません。
「仏性」「仏界」というものは、一般の人にとっては永久
に分からないだろうとは思います。しかし、「非知」のも
のとしてしまうということが、分からないのです。

「非思考の庭」とは「信ずること」、「真理」というもの
は所詮は信ずる以外にないという意味では、理解できます。
その「信ずること」が即ち「信仰」であると。そして、人
は「信仰」を持つべきであると。

分からないのは、以前の私の質問の回答で仰っていた、「
真理を信ずることと、信じないことは同じである」という
点です。また、これの対極の存在は「関心がない人」とい
うことになるのでしょうか?

「宗教」を否定されているのではなく、宗教の教義を信ず
るということは間違いであり、その奥にある「非知たる真
理」を信ずるべきだということなのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 末尾のご判断は そのとおりだと思います。
 オシへ(人間の言葉による表現)としての宗教は 人間の考える対象として経験思想であり 無条件に心に受け容れるという意味での信じるものではない。です。

 《不可知》が明確になれば 全部はっきりすると考えます。数学などでくわしい議論があるのでしょうが まづは哲学での定義です。:

 ▲ (goo 辞書:不可知) ~~~~
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/191172/m0u/

 人知では知ることができないこと。また、そのさま。

 ○  ふかちろん【不可知論】《agnosticism》 
 哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。
~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 世界のものごとは 《分かるか分からないかが分かる(経験現象)》と《分かるか分からないかが分からない(非経験の場)》とのふたつに分かれるはずです。
 後者は ただし《そう想定する》ものですから 通常は 《世界 = 経験世界》だけです。

 でも 《経験事象として有るか無いかを超えている あるいは 原因と結果との関係から自由であるという世界》を人間は想像し得ます。二で割っても三で割ってもその商は やはりもとのままであるという《無限 あるいは 絶対》ということをも想像します。

 つまりこの想像を活かして――経験存在でしかない人間にとっての非現実なる現実として世界に含めて捉えるなら―― いまの《非経験の場:それは 分かるか分からないかが分からない非知として説明されるナゾ》を 昔から人びとが言って来た《かみ》に当てる。というものです。

 辞書には《存在は認めるが認識は不可能とする》とありますが そうではなく 《認識が可能か不可能かは人間には分からない》としてわれわれは定義します。《不可能だと分かったもの》は 不可知でありそれは 経験事象です。知り得ないと認識し得たのですから。

 言いかえると 《かみ》の存在は 人間が《認めるか否か》の問題を超えて それとして想定されてしまいます。よってその想定の成った非知を かみは有るか無いかのどちらかで人間は受け取ります。

お礼日時:2015/10/19 10:30

これ以上できないというくらいの分かりやすい


解説だと思うのですが、分かった気がする、と
いう程度であるのは、そもそも「可知」とか「
不可知」という言葉すら知らなかったど素人な
のでお許しを。

こんな人間が相手では、申し訳ないと思いつつ、
bragelloneさんの、尋常でない思索の深さを感じ
尋常でない知に対する貪欲さに驚き、その創造力
に魅かれている訳です。

「われわれはにんげんの前史を‥」の質問などは
誰が答えられるのだろうと思ってしまいます。私
などには無理です。(でも、入り込むかも知れませ
ん)

本題ですが、色々読んでいたら、頭が一杯になっ
てしまいましたので、小休止です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 神は いやしくも神であるなら 人間の誰にとっても同じひとつの普遍神であるしかない。
 ただし その名前は自由に人間たるワタシがつけても構わない。
 命名の違いによって 普遍神がどうにかなるといった気遣いはあり得ない。
 (もっと言えば 人間が神をけなそうがののしろうが 神にとっては痛くも痒くもない)。
 しかも 《有る神》の名前が民族の言語ごとに違っていても同じひとつの普遍神のことを言っているのと同じように 《無い神》としてもまったく同じである。
 普遍神は 有る無いを超えている《非経験の場》のことであり 《人間には分かるか分からないかが分からないナゾたる非知》として説明される。

 ――この神論は 自慢して言えば 誰もまだ言っていません。
 わづかに 次のような似た議論に出会っているだけです。:

▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~~~~~~~~
 《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何であるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。

 それは理解不可能性自体が把握できないことである。

 人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。

 (山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in 宮本久雄・大貫隆・山本巍共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・グノーシス』1997  pp.105-106 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》と似ています。《つかめるか掴めないかが掴めない》という意味ですから。
 残念ながら その本には出典が書いてありませんでした。西欧の人間が書いたものだと思われますが。

 OKヱーヴないしgooで 十年ほどこの神論をやっています。
 わたしには肩書きがありませんから 中身で勝負です。

 ぼちぼちしかも着実にまいりましょうか。

お礼日時:2015/10/19 22:05

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