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○ 信仰類型論:《非知なるナゾ と 人たるわれ との関係(非関係?)》としての信仰は そのかたちとして 《ブラフマン(梵天なる神) と アートマン(霊我) との霊的な一体》すなわち梵我一如なる形態を 類型としている。
 
 ☆ これを問います。検証してみてください。

 (あ) この梵我一如なるかたちは ただし わが心なる《非思考の庭》として成っているという想定ですから むろん仮りに説明したら このようになるのではないかというものです。

 (い) まづ 非思考の庭についての説明です。:

 ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~

  信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観
  ---------------------- 
  考える:《思考の緑野》:理性←→オシヘとしての宗教
  感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ


 ☆ (う) この《非思考の庭》における内実が 次のように捉えられる。:

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ


 ☆(え) 無神論( B や一般の無神論)と有神論(前項以外)とは いづれも信仰なのであって 自由に人がえらべばよく 互いに対等かつ同等である。
 
 (お) 樅の木に喩えられる信仰に 差はいっさいない。カザリをつけたクリスマスツリーとしての・つまりうオシへとしての宗教には 互いに差がある。というよりは オシへは 信仰という蝉の抜け殻として成り立ったものである。《信じる⇒ヒラメキ→思考によるオシへ・神学→宗教》。
 この考えるの対象となったオシへを 信じなさいと言うなら そこには百害あって一利なしである。ひとの自由意志を踏みにじるおそれさえある。

 (か) 有神論にあって神の名が互いに違っていても やはり問題にはならない。信仰類型が完全に同じである。
 それは 自然本性としての人間の条件(天与)として 半ば証明抜きでみとめられるのではないか? 言いかえると 普遍神の問題である。それとわれとの関係には 差は出て来ない。

 盛りだくさんですが 自由なご批判をたまわりたく。・・・
 この信仰論をとおして ひとつの道として世界の人びとのあいだの和をめざします。

A 回答 (12件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


信仰者が信仰に至る選択を行う事は、信仰者の内的要因によるならば、理性(理論)による認識は不可能と言えますが、それについても、部分の伝達が可能であるとすれば、信仰者が理性が演繹できる経験的事項で語る必要があると言えます。
これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
そこに何らかの類型が見られるのであれば、信仰に至る選択の比喩が一致する事が予想されます。(比喩は部分なので、部分の集合となる可能性もあります)
予想される反論としては、強知性が扱う言語が、理性の取り扱う言語との同一性を持つ事が保証されない事です。
それは、比喩と言う形で、理性の理解出来る言葉に翻訳される事が保証されなければいけません。
実は、言語自体に限界がある事は、哲学的に議論され尽くされていると言えます。
信仰者が認識する、信仰の対象としての非知=神は、信仰者の内的要因により選択されます。
この行為に対する言説は、その強知性から、理性が認識出来る言語では説明不能となります。(理性にとっては、依然二律背反の状態になります)
それは、比喩という翻訳によって、理性が認識できる言語に部分的に変換されます。
宗教哲学では、それを避ける為に、社会的要因や、宗教構造が、自然に信仰を要請すると分析する方法も取られました。
宗教が信仰を公準として要請する構造を持つと解体するわけです。(この理論は、宗教がその内的構造としての知解性を持つ事は保証しますが、これは同時に強知性を持つ為に、外的な理性の関与を拒絶してしまいます)
信仰が真に、信仰者に内在している場合は、これを他は認識出来ません。(強知性が、共通の言語を拒絶する部分を持つからです)
他者は、信仰者がいると認識するだけです。
信仰者が、他が理解できる言語に翻訳(これを比喩と考えます)した場合に部分的に認識されるだけです。
哲学者によっては、宗教の持つ知解性自体も幻想であると考える場合があります。
宗教の内部構造としての知解性は保証されず、信者は個として信仰しているにすぎないという考えです。
ここで理性が受け入れられる共通言語は、信仰者は、信仰対象を信じると言う事だけです。
信仰者にとっての信仰→信仰対象を信じる→信じる事を選択した要因→多様性を持ち理性の言語では表現出来ない。
命題:比喩としての、信仰要因が理性の理解できる言語として類型を持つ
上記が成り立つ条件を考察しなければなりません。
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この回答へのお礼

ちょっと違った捉え方をしてみます。――まづはご回答をありがとうございます。

 ★ ここで理性が受け入れられる共通言語は、信仰者は、信仰対象を信じると言う事だけです。
 ☆ この命題で《信じる》という概念は まだ明確ではありません。

 つまり わたしはそこで 《信じる》とは 《神またはその一定の名を心に受け容れること》だと定義します。
 そのとき《こばむ》という意志行為もあって 《非知ないし絶対》に対しては 《無い神を受け容れたこと》になると捉えます。

 これだけで 信仰は 経験科学の扱い得る対象になると考えます。
 

 あるいは 人は或る日或る時 どの言語にも《神》という言葉があるからには これをどう扱うかについて自分で決めるときが来るのではないか。
 しかも この判断ないし意志決定は おのれに固有のものである。神とわれとの――しかも非経験と経験との――関係であって ほかの人間の入り込む余地のない《時》に属する。
 相手(対象)である神は 《神ないしその一定の名》が シルシとして代理するかたちを採る。経験物が 非経験の場を代理する。

 というかたちにまで 判断ないし選択のお膳立てが出来たならば 人間は すべからく《信じる動物》と成る。


 信じるという事態については 部分や要素の問題ではなく シルシの問題だと捉えます。その上で
 ★ これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
 ☆ となると考えますが シルシ・比喩あるいは補助線は 仮りの代理物でありつつ 神なら神のやはり全体を指し示すかたちを採っているかと思います。

 要するに この世の中に 《非経験の場》は 経験的にはあり得ないことですが それを《非知なるナゾ》と言ってシルシづけたものは われわれ人間との関係を一人ひとりに迫っている。もともと 関係は出来ている。

 けれども その関係は われわれ人間が気づき意識にのぼらせ なるほど受け容れざるを得ないと観念することになる。わづかに その《受け容れ・つまり信じる》には 拒絶するという選択もあると知る。
 こういったことに すでに生まれたときからその自然本性にとっての条件として 成っているものと思われます。

 この樅の木としての《信じる動物》にオシへなどのカザリをつけて余分なお祭り騒ぎをするのは シュウキョウです。

お礼日時:2015/08/23 01:03

お礼ありがとうございます。


信仰の構造を解体する前提として、信仰者の信仰は完成している事を前提と考えます。(完成とは、あくまで信仰が生まれたと言う事のみと考えて下さい)
要は、信仰が強知性を持つ以上、信仰が生まれた事は問題にしないと言う事です。(信仰に関しては、公準に委ねて、それ自体を問わないと言う意味です)
信仰→信仰対象と信仰者の関係性への解体が必要になりますが、それが理性(理論)により認識できるかが問いになります。
スタートとしては、それが部分的に伝達出来るかを考えます。(これは、あくまで理性(理論)に対する伝達であり、宗教的な伝達とは異なります)
信仰が非知な部分にのみ存在するならば、この伝達は不可能との結論に至る事になります。
考え方としては、構造(梵如一如)が全て非知ならば、この伝達は不可能、非知が部分であれば、一部は伝達可能となります。
信仰の全体=非知→構造の認識が不可能(部分も非知である)
信仰の全体≠非知→構造が非知でない場合がある→構造が認識可能
という図式が想定されます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 要は、信仰が強知性を持つ以上、信仰が生まれた事は問題にしないと言う事です。
 ☆ 《信仰が強知性を持つ以上》という条件は 非常につよいものです。ただし 逆に《神とわれとの関係》を意識にのぼらせこれを受け容れたという経験的な意志行為が絡んでいるとすれば この経験行為については余計に哲学は取り扱わなければならないと感じます。

 すなわち《信仰が生まれた》ときのこと これを分析し理論づけることはあり得ると思います。

 ★ 信仰→信仰対象と信仰者の関係性への解体が必要になりますが、それが理性(理論)により認識できるかが問いになります。
 ☆ そのとおりだと考えます。そこで ただし 《信仰対象》は 主観の内なる意識〔という何とも検証しがたいコトながら それでもその意識〕として捉えそしてこれを受け容れたという枠組みあるいは回路のようなものは 人びとに共通の現象(意志行為)として取り出せるのではないか。

 じっさいには 《神の名》を・または《かみ》という言葉を受け容れるということになるはずです。
 そんなことでよいのかと問う向きには その《かみ》という言葉をめぐって おさない頃からの慣れ親しんだ経験(あるいは よそよそしかった経験)とともに何らかの《気持ち 特には おそれ(畏れ)》を持っているかと思われ これが《わが心に受け容れるか》という意志行為の問題を形成して来ているかと思われるのです。

 ★ 考え方としては、構造(梵如一如)が全て非知ならば、この伝達は不可能、非知が部分であれば、一部は伝達可能となります。
 ☆ この点では別の考え方をします。すなわち いま上で言ったように 受け容れるのは《かみ またはその名》という言葉なのです。この言葉が 全体として《非知》のシルシになる。切符を受け取ったみたいなものです。自分でその切符に鋏を入れます。これが 非思考の庭が成ったことであり そこから信仰が動態として始まります。

 あとは 神は何でないか? あるいは信仰とは経験行為とつながりがあるとすればどういうコトをなさないことか? これを思考としては考えて行くのではないか。
 
 《神の名を受け容れた》というその一瞬の事件は そのわたしが何を考えないことか 神をどういうものだとは見ないか これらについて考え続けて行くものと思います。

お礼日時:2015/08/22 22:44

お礼ありがとうございます。


強知性とは、他者の批判を許さないと言う事です。(理性によって、その内容を問う事が不可能だと言う事です)
これもまた、非知と言えます。
内的に完結しているものは、強知性を持ちます。
個の信仰は、内的要因で完結している場合は、強知性を持つ事が、公準より導かれます。
ただ、この事は、信仰が非知なる対象から生まれている事から非知になる事を述べているので、トートロジーに陥る可能性があります。(非知=非知と言う事を述べているので、自明な事を繰り返している事になります)
個の信仰の強知性は、公準により保証されますが、それを他者に認識させる方法が、強知性を持つゆえにありません。(理性による反証が不可能だと言う事です)
宗教の場合は、ここが問題点になります。
宗教は、信仰を伝達する必要があるからです。
宗教哲学の場合は、伝達の機能を問題にする必要があります。(宗教も宗教の範疇では、強知性を持ちますが、信者に対する伝達の機能を持ちます)
今回の質問の場合は、宗教に立ち入らないので、あくまで信仰は個だけを対象に解体していく事になるでしょう。
解体された、信仰の構造がどのような形態を取るかが、問われる事になります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 個の信仰は、内的要因で完結している場合は、強知性を持つ事が、公準より導かれます。 / ただ、この事は、信仰が非知なる対象から生まれている事から非知になる事を述べているので、トートロジーに陥る可能性があります。
 ☆ たぶんここは 信仰とは 非思考の庭であるゆえに――思考による規定を受けないゆえに――むしろ《開かれている》のだと見ることも出来るかと思いました。

 前回 心の窓といったタトヘを用いましたが 心に必ずしも窓があるわけではない。あっても 内と外というように分かれているとは思われない。
 問題は 閉ざすかどうかにあるかと考えます。
 
 ということは 思考の緑野に囲いをつけるかどうかを別として 非思考の庭は 閉じられていない。閉じられ得ない。つまり 《心の明け》ということを 基礎としているのだと思います。別様にたとえれば 《大道無門》。もっと茶化せば 《能天気》。

 たぶんトートロジーに落ち入りがちだとするとその《強知性》を 心の明けが活かすのではないかと思いました。

 ★ 個の信仰の強知性は、公準により保証されますが、それを他者に認識させる方法が、強知性を持つゆえにありません。
 ☆ すなわちこの時 ひとは――信仰の徒は――《受け身》の姿勢でいることと思います。積極的な受け身として心のアンテナを張っているかと思います。信仰が生きた動態である所以です。

 シュウキョウは 能動的になるだけではなく 思考の対象としてのオシへを推し出し しかもややもすると それを信じよ 無条件で受け容れよと言う場合がある。


 ★ 解体された、信仰の構造がどのような形態を取るかが、問われる事になります。
 ☆ これがもし 個々の人の信仰の動態について具体的な過程を認識し分析することでしたら いまわたしはそこには関心が向いていません。
 そうではなく 神の具体的な名前がどうであるか? だとかあるいはそれをめぐっての・オシへになるか成らないかのところでの信仰の実態がどうなのか? その内容は認識しうるかどうか? でしたら 考えたことは無かったですが おもしろそうに感じはしました。

 それにしても 人びとは やっぱり神のことが分からない のではないでしょうか? 回答が来ないところを見ると。

お礼日時:2015/08/22 18:03

お礼ありがとうございます。


解体(解釈)とは、信仰者を対象として見た場合の信仰の構造を理解する為の方法として記載しました。
これについては、非理性的な信仰を理性で解体できるかどうかは議論の対象となる事は想定されますが、何らかの論理的構造が見いだせるのであれば、構造自体は理性で解釈出来るのではないかと考えられます。
仮に、梵如一如が理性で理解されなくても、梵如一如と言う構造は理性(論理)が認識出来る可能性は有ります。
対比する論理としては、以下が考えられます。
1.任意の自由意思による信仰が、内在する要因により形成されている場合は、他者からの批判を受けない強知性を持つが、同時に他者へその内容を伝達出来ない。
2.任意の自由意思による信仰の要因を問わなければ、その構造自体を伝達する事は可能である。
例えて言えば、解体(解釈)とは、伝達出来ない事を伝達出来る部分に分解する行為と考えられるでしょう。
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この回答へのお礼

《解体(解釈)》。いえ この用語は 知りませんでした。――ご回答をありがとうございます。

 ★ 非理性的な信仰を理性で解体できるかどうかは議論の対象となる事は想定されますが、何らかの論理的構造が見いだせるのであれば、構造自体は理性で解釈出来るのではないかと考えられます。
 ☆ 平たく言えば 枠組みを捉えておくことかと考えられます。つまり 梵我一如のかたちですね。

 ★ 1.任意の自由意思による信仰が、内在する要因により形成されている場合は、他者からの批判を受けない強知性を持つが、同時に他者へその内容を伝達出来ない。
 ☆ 《強知性》は 《批判に耐えうるつよい知性》でよろしいでしょうか。

 ☆☆(前質問【Q:人びとはなぜ神・・・】№40お礼欄) 《人がそれぞれおのれがすでに自然本性として元気づけられていることを心で受け容れるようにそのヒラメキを〔神が〕あたえるといった方法で》
 ☆ と書きましたが ここには いまおっしゃるように《自由意志の動き》が一枚噛んでいます。あたかも或る日或る時 おのが心の窓をノックするかのようなヒラメキのおとづれ これを《心に受け容れる》というのは 人間の側の意志行為です。
 《人為でない非知のナゾ》を前にして人はこれを《拒むという負のかたちをふくめて受け容れる》という人為 これがかかわって来ています。

 そうして 《すでに元気じるしの霊がやどる》という意味での:
 ★ 内在する要因により形成されてい
 ☆ くものと考えます。ですから やはりみーちゃんはーちゃん風に言えば 《きのう神が尋ねて来たよ。何だか声がしたので それに従ってその声を受け容れたよ》とかあるいは《・・・その声をわたしは 突き返してやったよ》とかいう時点が 信仰の成立だと思われます。これを 《わが心なる非思考の庭が成った》というふうにその枠組みを表現して伝える。すなわち:
 ★ 2.任意の自由意思による信仰の要因を問わなければ、その構造自体を伝達する事は可能である。
 ☆ 《要因》は 先ほどのように言わば文学的に物語にして いかほど哲学的であるか分かりませんが つたえる。

 まだまだ課題は――理論はかなり出来ているかとさえ思うのですが――多いようです。いま扱っている《信仰》とそして《宗教》との区別 これが大変です。前途洋洋です。

お礼日時:2015/08/22 15:31

いろいろ回答も集まってきたようですが、質問の本質につながる回答がなかなか集まらないようですね。


質問の主旨としては、信仰の構造を理解する事にあると思いますが、なかなかそこら辺が理解されないようです。
いくつかの公準を提案いたしましたが、公準自体を制限と捉えられている場合があるようです。
公準が意味するのは、共通の認識から、質問の回答を誘導する為のものです。
そういう意味では、質問の本質に近づく為に余分な要素をはぶいただけで、別に制限しているわけではないです。
簡単に言えば、対象に対する信仰=対象を信ずる事が、理性の働かない領域=質問文では[非思考の庭]と表現される場で行われているとしたら、対象に対する信仰がどのような構造を持つかと言う事でしょう。
信仰する対象に対しては、公準によって非知たる存在という制限はついています。(これは既知を対象とする信仰については語らないと言う意味です)
公準自体は、あくまで質問の本質を単純化する為に設定されています。
前回の質問では、神=非知たる存在を理解できない事を解体する事が質問の主旨だったと思いますが、かなり回答が錯綜していましたね。
今回は、信仰が非思考の庭に存在している事は、公準から自然に導入されるとして、そこから信仰する対象と信仰者との関わりを解体する事が目的かと思います。
仮設としては、それが梵如一如の形態に集約されるのではないかと言う事でしょう。
信仰の発生については、理性によらない選択である事は、公準から導入されますが、その後の信仰自体に理性が作用出来ないかは、難しい問題です。
スコラ哲学などでは、信仰が成り立つには、神の啓示が必要であるとしているので、信仰が成立した後の理性の関与は認められないと考えて良いでしょう。
カントは、人間が道徳的に発展していく存在として保証されるならば、非知たる存在と魂の永遠性が要請されると考えました。
ヴィトゲンシュタインは、求道者(救済する者)としての信仰から、救済される者としての信仰への転換を行ったと思われます。
上記の例では、すべて信仰の対象は非知として扱われています。
この構造をどう解体(解釈)するかが難しいですね。
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この回答へのお礼

★ 簡単に言えば、対象に対する信仰=対象を信ずる事が、理性の働かない領域=質問文では[非思考の庭]と表現される場で行われているとしたら、対象に対する信仰がどのような構造を持つかと言う事でしょう。
 ☆ ずばりここですね。

 りゅぱん344さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 前回の質問では、神=非知たる存在を理解できない事を解体する事が質問の主旨だったと思いますが、かなり回答が錯綜していましたね。
 ☆ これも ずばり。簡単に言えば 《神とは何でないか?》からの出発でした。

 そのあと すでに神とは何か? の問題にも入って行きました。今回は その確認になると思います。

 ★ 今回は、信仰が非思考の庭に存在している事は、公準から自然に導入されるとして、そこから信仰する対象と信仰者との関わりを解体する事が目的かと思います。
仮設としては、それが梵如一如の形態に集約されるのではないかと言う事でしょう。
 ☆ ええっと。そうなんですが 《解体する》ですか?
 あぁ 思考によって神とわれとがつながっているなんてことはないのだから それを解体する・・・でしょうか?

 ★ 信仰の発生については、理性によらない選択である事は、公準から導入されますが、その後の信仰自体に理性が作用出来ないかは、難しい問題です。
 ☆ なるほど。あっ でもこの問題は 《非思考の庭―→ヒラメキ―→理性思考》を考えています。

 あっ それにすでに次の図解を得ています。

 ○ 《自然本性+α 》におけるヒラメキの位置 ~~~~ 
  ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非思考の庭∽神)
          ↓        ↓
  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】____
          ↓        ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感)       

  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観
       :象徴(シンボル)? 概念?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考の緑野
       :経験合理性にもとづく論理思考

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/08/22 12:30

親鸞に対するブラジュロンヌさんの姿勢、納得できました。


ありがとうございました。

本題に付いては、引き下がります。(幼稚園児?だから!)
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この回答へのお礼

あ それは ありがたいですね。

 親鸞うんぬんでは うたがいの眼もあったかとも思われましたから。


 こちらからは いろいろ口のわるいところが出たことと思います。

《謝罪はしません》が 反省の姿勢は継承してまいります。なあんて。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2015/08/21 20:11

ブラジュロンヌさんの神に対する考えは総て"想定"で出来上がっています。


「非思考の庭」自体が"想定"のシンボルです。

ですが、唯一実感を述べている事柄が有ります。
それは『親鸞』への想い。

真っ正直な親鸞は、自身に対しても偽ろうと云う気持ちは全く持ちませんでした。

『親鸞』
ブラジュロンヌさんが浸透する由縁です。
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この回答へのお礼

ん? どういうこっちゃ? ――まづはご回答をありがとうございます。

 親鸞は いま《理論》として提出している《梵我一如なる信仰の類型 =すなわち当然 仏仏一如なる信仰のかたち》のことを 最後まで文章で示し切ることはできなかったかも知れません。
 
 信仰をめぐる《義無きを以って義とす》というひとつの――親鸞にとって究極の――命題は 神がブラフマン(梵)であってもアミターバ(仏)であっても構わないということであり 人がアートマン(霊我)と呼ばれようがブッダター(仏性)をやどす存在だと説明されようがやはり構わない。これらの名前をめぐる義(解釈例)は 信仰の現実にとっては どうでもよい(義無きを以って義とする)と言おうとしています。

 すなわち 普遍神をめぐる信仰を すでに言ったも同然です。

 ただし 当時の情況では ひとつにお師匠さんの法然〔の理論〕をなるたけ自分より立てねばならず ひとつにやはりそれ以上にゴータマ・ブッダの存在には遠慮を働かせなければならなかった。

 ですから そこのところで非常に――孤軍奮闘のごとく――がんばった。といった事情を説明しつつ紹介しなければならない。

 だから 親鸞について話をするときには 現実感が出るんでしょうか。



 でも 理論としては 聖書記者・パウロそしてアウグスティヌスのほうが 一枚上です。そして いづれも誰もが おのれの真実をうったえています。

 わたしたちは 現代という情況の中で それぞれわが心の――奥の院なる固有の時から繰り出される――真実を自己表現してすすまなければならないでしょう。



 《実感》をすでに感じない文章表現にて 現実味が出せたら そのほうが 世界真実は前へすすみます。

 親鸞をあんまり前に推し出すと どこかお涙ちょうだいの感じになってしまわないかとおそれます。義理人情の世界に落ち入らないでしょうか。

お礼日時:2015/08/21 17:36

哲学素人の限界?


いいですね。いいとこ突いてきますね。
でも、残念ながら素人故に"限界"はないんです。

ブラジュロンヌさんがしょっているがんじがらめの不自由さが、無いから自由奔放なんです。
自由奔放に哲学?してるんです。

ブラジュロンヌさんを尊敬するのは知識(過去の哲学者に付いて)は有るようですが、それを武器にぜずに自身の言葉で探索しているからです。

さて、追求です。
自然本姓は条件抜きで認められるので、その差は無いんです。
証明抜きで認められるんです。

神とは一心同体。
自身の心に好ましい心と好ましくない心が或るのは、神、創造主としての神が人間がこだわる善悪を内在させているからで、それが神と云う全体から放たれて個となった(産出された)人間の心に現れるのです。

なぜ現れるかと云えば、生み出されたこの世は相対の世界だからです。
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この回答へのお礼

うんとさ わいわいえいとさん――まづは ご回答をありがとうございます。――いいですか? 趣旨説明欄に書いてあることは 梵我一如や仏仏一如あるいは霊霊一如というのが このように《非知なるナゾたる神――霊です――》を想定し しかもそれとは絶対的な隔たりのある人間とのあいだに やはり霊として――つまりは想定として―― 一体性がある・・・このように言うだけで すでに
 ☆ 神とは一心同体。
 ★ になれるのです。なれると言ったも同然ですし すでに成ったと言って行くことが出来るのです。

 そうであるとも そうでないとも 人間の能力では証明し得ないから そのように想定してやっただけで 神はわれわれそれぞれの《非思考の庭》にやどりあそばす。

 このほうが つよいのです。破られる心配がまったくありません。証明しえないことがらの世界ゆえです。

 それを 《おれは神を見たんだ》とか《わたしには神の霊がやどっている》とか《昨日も吾輩は 神の前に跪いて神と話をしたんだ》とか物語ってみてごらんなさい。途端に ひとは眉につばをします。

 だってそういう物語をしゃべったなら――それは 経験事象だから――証明しなければならなくなる。昨日できたのなら きょうも出来るはずだ みんなの前で見せてみなさい それが出来なければあんまし見て来たようなウソをつくのは考えものですよ。と言われておしまいになります。

 ☆ 素人故に"限界"はない
 ★ のは いいんですが その限界の突破の仕方がやはり いささか幼稚なんだよなぁ。
 おれが こうだと言ってるんだから こうなんだ――という方式なんだよなぁ。これは まぁ お坊ちゃまの論理ですな。

 おとなになりませう。

お礼日時:2015/08/21 16:20

つながりに矛盾がないから、《チカラ》が有ると表現できるのです。



また、夢想(想定した)のではありません。
実体験しての断定、です。
『梵我一如』は想定しての言葉ではなく、実体験を通しての言葉です。
昔の人が『梵我一如』と言えたのは実体験を通している故の断定なんです。想定ではありません。

また、人間の精神と神との間に絶対的な隔たりなんて有りません。
随って区別できません。
宇宙に蔓延する精神。その精神から分娩した物体、そして生物。
梵我一如、です。

理性のみで探究するから"隔たり"なんて表現を使いたくなるのです。
"隔たり"を感じると云う事は、ブラジュロンヌさんの潜在意識に"つながりのある事"を表しています。

ブラジュロンヌさんは絶対的な性善説論者、なので行きつくところは同じ。
でも、哲学の限界を感じます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ☆ つながりに矛盾がないから、《チカラ》が有ると表現できるのです。
 ★ つながりを想定することに問題はないと考えますが それでも 次の見方は 基礎を成します。:
 ★★(№3お礼欄)(く) 人間の精神と それとの絶対的な隔たりのある神(霊です= 何だか分からないナゾです)とを区別して欲しいというのが 質問者の心からの願いです。

 ★ つまり 《ブラフマン と アートマン との一体(つながり)》は 人間には分からないのです。でも《霊》――《非知》――ですから 想定し得ます。

 ☆実体験しての断定、です。
 ★ だれがぢゃああ????? 
 ☆ 昔の人が
 ★ だったら いまの人でもできるはずぢゃああ!!!!! ウソついたらあかんよ!

 ☆ また、人間の精神と神との間に絶対的な隔たりなんて有りません。
 ★ 神をあんたは見たんかいな???

 ただし 《非知なるナゾ》をめぐっては 《主観》の内では何とでも自由に表現してみせることまでは出来ます。確証がないということです。

 哲学素人の限界を感じます。

お礼日時:2015/08/21 15:10

宇宙の本体は精神。


その精神の持つ"力"が現象。
随って、現象は精神。

現象は悉く精神の表れ。
現象は無気質から有機質へ。
これは物としての理的変化。精神的には進化。

有機質にだけ精神の存在を感じるのは、自己を維持しようという活動を見ることに依る。

☆ 精神の意力に由る宇宙だから、昔の人は『梵我一如』と云いました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


 わたしの考えでお応えしてまいります。
 ☆ 宇宙の本体は精神。
 ★ (あ) 《宇宙》というのは 《世界》という意味です。特に天体のことを意味するだけではなかった。

 (い) その《本体》があるかどうか知りませんが それを人間の心としての《精神》という言葉で仮りに表わすということですね。

 ☆ その精神の持つ"力"が現象。 / 随って、現象は精神。
 ★ (う) 《チカラ》も仮りの表現でしょうね。ですから 《現象》とどうつながっているかは ほんとうには分かりません。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~
 現象は悉く精神の表れ。
 現象は無気質から有機質へ。
 これは物としての理的変化。精神的には進化。
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 ★ (え) それは 《生命》なる主題として説明するとよいかも。

 ☆ 有機質にだけ精神の存在を感じるのは、自己を維持しようという活動を見ることに依る。
 ★ (お) 生命の問題にからませればよいのでは?

 ☆ 精神の意力に由る宇宙だから、昔の人は『梵我一如』と云いました。
 ★ (か) ちがうと思うよ。身(身体)と心(精神)なる自然本性をも超えているところに 人間なる存在としては=ミクロコスモスとしては アートマン(霊我= 非思考の庭)を当て 世界なる存在としては=マクロコスモスとしては ブラフマン(梵なる主宰神= これもむろん霊です)を当てた。両者の一体を夢想した(想定した)のでしょうね。

 (き) 《精神の意力》と言えば たしかにヘーゲルの《世界精神》のことを言おうとしているのかも知れませんが。

 (く) 人間の精神と それとの絶対的な隔たりのある神(霊です= 何だか分からないナゾです)とを区別して欲しいというのが 質問者の心からの願いです。

お礼日時:2015/08/21 10:44

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