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1. 分からない。神から人間へのハタラキカケは どのようになっているか。
分からない。

2. 推測するに 《風は 気ままに吹く》という命題が当てはまる。か?

3. あるいは 《母レベッカの胎内にあるときから 双子の兄のエサウを神
は憎み 弟のヤコブを愛した》というごとく 明らかに依怙贔屓によるか?

4. いかに?

5. あるいは 一切衆生 悉有仏性というごとく すでに初めに――エサウ
なる赤子を憎んだというけれど その根っ子では――汲めども尽きぬ泉の水は
誰にでも湧き起こっているか? 聖火は ともされているか?

質問者からの補足コメント

  • №12つづき1

    ☆ むむ? 《即時性があって それゆえ》だと思うんですが? 目
    の前の相手や事情や情況 それらに付きっ切りになって 長い視野ま
    たは全体観では 見ることが出来ていない場合として。

    ★ アウグスティヌスは神を信じていたであろうから、その即時性に
    ついての言及が少し必要と思います。既に成っていると言うその完全
    性について、影を生じない光、雲の粒子一つ一つさえ輝いているのだ
    と言うその真実について、神を目指す人は知りたいと思うと思います。
    人間(私)が即時性を知るとは、解けたと言うことなのです。何が解
    けたかと言うと、結びついて像をなしていたものが、解けたという事
    です。
    ☆ あぁ。きさらぎさんの即時性は あたかも空海の言う《即身成仏》
    のことだったんですか。たぶん そうらしい。一瞬にしてさとりを得
    るという信仰の方程式ですかね。

    つづく

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/30 14:17
  • №12つづき2

    前項でのわたしの思い違いをそのままにして 考えますが どうなり
    ますか。

    たぶん その理念としての方程式が 現実の具体的な場面においても
    あたかもチカラを発揮する。ものごとを解決する。といった図解にな
    るでしょうか。

    つまり そのようなかたちで《身体の外にある罪にして 容易にゆる
    される》。ううーん。この図解は すでに一件落着となったあとに言
    えることですね。惜しむらくは!



    ★ 生活と仕事、戒律
    社会のルールを律と言い、自らに備わった行動法則を戒と言います。
    武道で言えば、一本とか、技ありとか、減点とか、そう言ったものを
    決めるのが律で、身体の正しい使い方や、武道の目的とか、そういう
    ものが戒にあたります。
    ☆ ふむ。そうだと 戒は 主体的・実践的ですね。

    つづく

      補足日時:2020/09/30 14:18
  • №12つづき3

    ★ 戒を備えた人は、道場だけでなく、日常の場でもその動作の整っ
    た様を現じることになります。
    ☆ そうなるでしょうね。

    ★ 社会で見られる必要悪といった様なものを為すことは困難である
    と思います。つまり社会は自由ではなく、戒を備えた人の方が自由で
    あるとなるのですね。
    この戒は自発的なもので、誰かのおしきせではないから、縛りにはな
    らないのです。自発と言うのは、先程の自燃にも通じる意味かなと思
    います。
    ☆ ここ 微妙ですね。

    あえて極論で検討しますと アウグスティヌスの試練となる悪は い
    まの必要悪のことであり得ますね。その場合 《戒》をも外します。
    戒を侵します。

    と――もし――すれば どうなりますか? 注文(補足要求)の多い
    レストランですみません。


    やっぱり へんですか?

      補足日時:2020/09/30 14:21
  • №13つづき1

    § ・即時性の具体的場面における描写

    ★ 時の中に合うということ、それが即時性の発露であり、それは縁に
    基づくと考えられます。例えば、同じ時と場所に居て対面して話してい
    ても、会えない人はお互いに縁がないと考え、時や場所が離れており、
    対面もしていないけれど、時と場を(道において)共有し、出会ってい
    る人は、縁があるのだということです。
    これは、ポルポさんの話された声につながる話の背景です。中空に聴こ
    えた声の主と私は縁があるのです。
    ☆ ずばり私見を言いますと 絶対性なる真理としての神は 霊性のチ
    カラとして 縁の有無を超えてはたらくんです。親鸞は 即得往生と言
    いました。絶対他力です。


    ★ 霊がより透明で静的な解釈だとすれば、縁は風のように掴みがたく、
    だが訪れる。それを察知するのは容易な事です。
    ☆ 霊は 程度問題――相対性――を超えています。

    つづく

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/09/30 17:21
  • №13つづき2

    ★ もちろん、しっかりと生身で出会う縁も存在するでしょう。しかし
    その場合も縁を主催するのは、道であり空であり、霊の世界の動態と言
    うことになるでしょう。
    ☆ その自由自在性は 霊性ですね。《わたしは 真理であり 道であ
    り 生命です》とイエスは 言っちゃいました。


    § ・必要悪と戒について

    ★ 必要悪と戒が対立した場合、おそらく必要悪の方が正されると思い
    ます。
    ☆ はい。理念において理論としてはなんです。

    ★ 修行の途中で逃げ出し邪道に入った門下と、完全に武道を修めた達
    人が対峙した時、邪道の方は自分の否を認めざるを得なくなる。戒を修
    めた人が居れば、悪の方がそちらに引っ張られると思います。
    ☆ あえて悪鬼になりますと 悪人は 《自分の非をみとめた上でなお
    悪の道を突っ走ります》。

    つづく

      補足日時:2020/09/30 17:23
  • №13つづき3

    キリストのよい香りは そのような悪人には 一たん〔その旧き人間の
    部分を〕滅びに到らせるとも言います。

    闇なる旧き人を光のほうへ すでに《即時性》において引っ張る光があ
    れよかし。


    ★ 追伸
    昨今はお礼をちゃんと書いて頂くことも少なくなり、ブラジェさんのよ
    うにもりもり書いてもらえると回答しがいがあります。ちゃんと読んで
    回答を理解しようとしてくれているのだと。全部には答えられないかも
    知れないけれど、時間と体力(目)の範囲で、こんな感じで答えられた
    らと思います。
    ☆ ひさしぶりにものを考えたなぁと思います。



    ☆ ご回答を 二回か三回に分けて書いてもらえるとありがたいです。

      補足日時:2020/09/30 17:26
  • №20補遺です。


    ★ 文学の娘 / 文学なる少女
    ☆ この《女性性》は 《無限の地続き》と聞いて 母親がその子をどこまでも守り抜くというその愛を連想したところから来ています。

    ○ 文学少年 と 哲学ボーイ
    ☆ とでも名づけたほうがよいかも知れません。少年は 少女をふくみます。哲学ギャルは まれだという現象だけから名づけたものです。

    ○ 母なる文学 父なる哲学
    ☆ というと あまりにもまとめ過ぎているでしょうね。

    文学の視点からする《無限の地続き》は 哲学が《絶対の隔たり》を見たあとその《絶対(無限)》とわれとのあいだに――無限者の側からの働きかけとして――成り立つという恰好をいまは見ています。
    そのハタラキカケに人はあまえ得ます。聖なる甘え。


    なお:
    ◆ 宇宙の孤児(みなしご)と言った人
    ☆ は neutraling (または neutral )という方です。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/10/09 09:26

A 回答 (20件中1~10件)

お礼ありがとうございます^^


一者についての理解は凡そお礼にいただいた通りでよいと思います。
そして、
>★ 自他の隔ての無さ、内外の分け隔てなさ
☆ について 一つの思いつきは そのために《全一体》にあやかる
ということです。

と言う思いつきは、良い思いつきだと思います。私も凡そ似た考えを持っています。

さて、最終キャンプ設営に際し、私は二つ、言葉を導くことが出来ました。この提起を乗り越えられるかどうかで頂上アタックできるかできないかが決まるかなと思います。

・「私」は、世界の一人子である。
・無限の地続き

先ず前者について。
私はここしばらくの間、世界にとっての私とは何者であろうか?と考えておりました。無数の人々が世には存在しています。すべての人にこの「私」自身は存在するでしょう。そして、この「私」に立脚した時に、世界に置かれている自分自身は、”世界の一人子である”、という観想を得たのです。世界と私の関わりとはそのようなものであると思われました。このように言うと、我は神の子であると宣言したキリストが思い出されるかも知れませんが、私は既存の目線で汚されたキリスト像をとやかく言うつもりではありません。ただ、人々それぞれが持っている「私」の特別性と、世界の普遍性が、真っすぐに交わって決しているように思われました。そしてこれは、この質問で問われている神と「私」の関係性を語るものであろうと思ったのです。

後者について
私は前者をどのように説明すべきかをさらに考えていました。そして、もう一つのキーワードを導出するに至りました。それは、”無限の地続き”という言葉です。確かに私の考えでは、神と、私は地続きです。しかしその地続きとは、無限の地続きであるのです。果ては無限であり経験することは出来ませんが、今ここと地続きであります。


以上のように考え、ブラジェさんの問うている神からの働きかけについて、また広くは人が生きると言う事について、とりつくことが出来るのではないかと思った次第です。

追伸
次の回答は月曜日以降になります。よろしくお願いします。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

PC故障にて遅くなりました。ゆるされたし。ご回答をありがとうございます。


人は身近な家族を通じて世の中を知る。

世の中に出たとき 幼い時からの家族とのマジハリを思い起こし 人と人と
のカカハリというものを あらためて形作る。やがて社会に出る。生計を立
てて生きることをまなぶ。このとき 何ごとも大きな問題もなく仕事をこな
し職場以外の人びととも無理なく意思疎通ができるようになった。

ところが どこかなお居心地のしっくり来ないものがある。なぜか ちがう
という感覚がついてまわる。
わたしはひとりだという感覚が しっくり来ない。かえってわたしは家族や
同僚や果ては世の中の人に対して何か詫びたい気持ちになる。寂しさを〔持
つことを〕むしろ人びとに詫びたい。さびしいと言えばさびしい。詫びたい
気持ちが昂じてさびしさは 錆びついてしまった。心が凍った。

ここに極北の詩人が生まれる。
北極星。みなから眺められる。誰とも多少の波風を超えて仲良くやっている。
けれどもさむい。詩を書くわけでもないが 宇宙のかなたにわれはあるとい
う詩人である。

 心なき身にもあはれは知られけり
 鴫立つ沢に秋の夕暮れ

《心なき身》が わび・さびなのだ。漱石の草枕の書き出しを想い起こすま
でもなく・またそれとは異なって ここで 文学がうまれ 哲学が顔を出す。

哲学の息子が口を出したがり 文学の娘が姿を現わした。

世界の一人子。〔あるいは 宇宙の孤児(みなしご)と言った人がいる〕。

独りなる幼き詩人は 哲学・文学に関係なくともに《無限》を思い浮かべる。
無限なるものとの親和性をおぼえる。

文学なる少女は 無限との地続きなるわが心を思う。哲学なる少年は 無限
とわれとの絶対のへだたりを知る。(少年・少女は ぎゃくか?)


さて これらの間でそれぞれの自己表現は ちがってくるか? どう違うか?

お礼日時:2020/10/07 17:38

全一体とは神のことです。


全一体と、自他の隔ての無さ、内外の分け隔てなさについての見解をお訊ねしたのは、この質問の核心に迫るための、いわば前衛基地(最終キャンプ)を設営するためです^_^

我々の会話は大きく理論と実践の双面を語っているわけですが、登頂と言うからには、最終の答えは実(じつ)のあるものであって欲しいと思っています。

この基地も、地にしっかりと立ち、また骨組みも強靭であるのが望ましいです。
つまり、理と実体の双方を備えたものを立てたいと思っています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 全一体とは神のことです。
☆ 知りませんでした。むかし 《一者》という表現がありました。

★ 全一体と、自他の隔ての無さ、内外の分け隔てなさについての見
解をお訊ねしたのは、この質問の核心に迫るための、いわば前衛基地
(最終キャンプ)を設営するためです^_^
☆ ううーん。まだちょっとピンと来ていないですね。


★ 我々の会話は大きく理論と実践の双面を語っているわけですが、
登頂と言うからには、最終の答えは実(じつ)のあるものであって欲
しいと思っています。
☆ 異議ありません。基礎理論が どこまで応用できるか。実践の際
の重要なことは なになにか?


★ この基地も、地にしっかりと立ち、また骨組みも強靭であるのが
望ましいです。
☆ もちろんですね。

★ つまり、理と実体の双方を備えたものを立てたいと思っています。
☆ そうですね。

ひとつ思いついたことは:
★ 全一体
☆ ということにかんしてそれは 《独り満ち足りているもの》とい
う規定ですね。ほかの何ものにも依存しない独立存在。すべての領域
にわたり しかもその全体としてひとつなるもの。


★ 自他の隔ての無さ、内外の分け隔てなさ
☆ について 一つの思いつきは そのために《全一体》にあやかる
ということです。

あっ そうです。これまでの《縁》 この縁にめぐまれて自他や内外
の隔てが あたかも取り除かれるかも知れない。

ううーん。でも 経験事象としては むしろ相対存在どうしであるわ
れとなれとかれとは 区別が――つまりそれぞれが自由意志の主体で
あるからには――つくかたちのほうが 好ましい・・・かも知れない。

いや 分かりません。

好ましいとすれば われはわれ なれはなれ かれはかれとして そ
の個性の違いもあって いわゆる多様性の中にあるほうが ゆたかで
あるかも知れません。


それにしても 一視同仁 和光同塵といった理念は持たれて来ていま
す。

どうなんでしょう。

多様性は ある。分け隔ては ない。――となるんでしょうか。

(いえ まだこの主題については あまり考えたことがないですね)。
(一人ひとりその相手と 自由にとことん話し合うということを目指
してきたように思います)。

お礼日時:2020/10/01 11:04

ふむ。

なるほど。

ブラジェさん的には今回の対話は、頂上はまだ遠い感じに思われますか?

ブラジェさんが謎なる神を唱えるその真意について、私は、それは無執著のことでは無いか?と思ったのですが、今のお話を聞く限りでは、ブラジェさん自身にはその意は無いかも知れません。

私とブラジェさんには、自力を主眼にアプローチするか他力を主眼にアプローチするかの違いがあり、しかもお互いそれを分かっているので、かえってすんなり(no.15以外も)合数を進められる理由にもなってるかなと、感じております。

あまり振り返らずに歩を進めたいところですが、どうでしょう、次はどちらに進むのがよろしいでしょうか。全てのルートを一度には踏破出来ません。しかし、選ぶルートによっては、今回初登頂も叶うかも知れないと思っております。

そうですね、私からも提案と言う形で一つ質問があります。
ブラジェさんは、全一体と、自他の隔ての無さ、内外の分け隔てなさについて、どういった見解を持たれていますか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ふむ。なるほど。
☆ ええ。たぶん わたしの見解でも 辻褄を合わせることが出来ると
は 思われたことでしょう。

★ ブラジェさん的には今回の対話は、頂上はまだ遠い感じに思われま
すか?
☆ この【神から人へのハタラキカケ】なる質問は――応答としてはえ
らそうにコメントしていますが――趣旨説明欄に書いているとおり ほ
んとうに分からないのです。最終のこたえとして。

神論として 【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮
説 または 宗教への絶対批判】【Q:神とは何か?】といった基礎理論
は いまではずいぶん自信が おかげで 深まって来ています。

いまほかに【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは ど
うしてか?】を問うていますがこれも 答えについて流動的な部分があ
るのではないかと感じています。

【Q:知恵のヒラメキ】は ジグソーパズルのようではありますが 意外
と自信を持っています。

――すなわち 頂上が見えている〔と思っている〕テーマとそうではな
いものとです。


★ ブラジェさんが謎なる神を唱えるその真意について、私は、それは
無執著のことでは無いか?と思ったのですが、・・・
☆ 茶化すつもりはないですが 《無執着にも無執着》なんです。

《はからひ無きを自然といふ》は 《はからひの無いようにはからふこ
とからも自由でいる》となります。


★ 私とブラジェさんには、自力を主眼にアプローチするか他力を主眼
にアプローチするかの違いがあり、しかもお互いそれを分かっているの
で、かえってすんなり(no.15以外も)合数を進められる理由にもなっ
てるかなと、感じております。
☆ あぁ。結果として案外まとまったコメントを成すことが出来たかと。


★ あまり振り返らずに歩を進めたいところですが、どうでしょう、次
はどちらに進むのがよろしいでしょうか。・・・選ぶルートによっては、
今回初登頂も叶うかも知れないと思っております。
☆ 初登頂を言わせてしまって 申し訳ないです。

主題は いま関心のあるものとして 次ですか?

★ 全一体と、自他の隔ての無さ、内外の分け隔てなさについて
☆ わぁ むつかしい。が第一声です。あとのふたつは 《縁》の問題
として処理できるかも。全一体は 人格の問題ですか?

お礼日時:2020/10/01 03:34

結構すんなり行きましたね^_^


理解が早くて助かります。
唯一、そして重要な点で私が理解してないのは、ブラジェさんが超経験の場を設けてそれを神の座と想定したことの意味でしょうか。何か特別に、そのように想定しなければならない理由があるのですか?
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この回答へのお礼

☆☆★ 結構すんなり行きましたね^_^

☆ №15の主題に限ってです。


★ 唯一、そして重要な点で私が理解してないのは、ブラジェさんが
超経験の場を設けてそれを神の座と想定したことの意味でしょうか。
何か特別に、そのように想定しなければならない理由があるのですか?
☆ ううーん。というのは きさらぎさんも――そして神を前提とし
ておられるほかの人たちも―― 神ないし霊性については そのまま
話の前提になっています。

そのことを 定義としては 《超自然・超経験》が共通の要素である
と捉えて何とか理論立てようとした ということです。


概念の意味内容としては 絶対性ないし無限です。

そして 《無限は その半分も三分の一も やはり無限である》とい
う規定であるからには・それは 現実に経験事象としては見られない
からには 《想定》と言わざるを得ない。

つまり 定義としては 仮説法(アブダクション)による想定だと言
わざるを得ない。

とは言え 《神の座》は アートマン(霊我)やブッダタ―(仏性)
として 人間たるわたしの内にやどると捉えています。



哲学としての定義という手続きは 踏まねばならないと思うのですが。

お礼日時:2020/09/30 23:52

・悪について



間違ったことを百個言っても、一つの正しい言によって全て否定されます。
自分の否を認めてなおそれが直せないことはよくあるでしょう。悪人でなくとも、人にはよくあることです。悪癖であったり、我執があったりするからです。突き放すように聴こえるかもしれないけれど、それを正すかどうかはその人次第と言う事になるでしょう。それもある種の尊重と尊厳にまつわる態度であると思います。

・香りについて

仏教においても薫習が語られることがあり、大乗経典にも記載があります。香りをかいだだけで功徳を積ませる仏と仏国土があると言うのですね。
さて、現実の香りと言うのは、徳の香りと言う事になるでしょう。それは風に逆らって香ると言われます。(ここで言う風とは風評とか、因習、広くは欲望の流れなどを指すと思われます)

・即時性と引っ張る力
即時性はそれを知るか知らないかの全く隔たれた二種の境涯に分けられます。つまり、透明が見える人と見えていない人の二種です。透明なので引力はありません。悪人を引っ張るのは自分自身の曲がった心であり、それを克服するのも彼自身が瞬時に抱いた志の如何によります。ここら辺の見解は、甘くはないかもしれません。

久しぶりに書いた気がします^^
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

§ ・悪について

★ 間違ったことを百個言っても、一つの正しい言によって全て否定
されます。
☆ ええ。間違いは正され得ます。

★ 自分の否を認めてなおそれが直せないことはよくあるでしょう。
・・・突き放すように聴こえるかもしれないけれど、それを正すかど
うかはその人次第と言う事になるでしょう。・・・
☆ ん?

いや なるほど。つまり:
★ その人次第
☆ ということが 縁の問題であり その縁を縁として――神のチカ
ラがはたらいて縁として――《悪なる間違いを正す》ということ。

または 《その悪を包むかのように或る人間が引き受け 互いのマジ
ハリをつうじて じわりじわりと悪を解凍し自然本性なる善を回復さ
せる》。

★ 突き放すように
☆ しても 成るように成るという方程式。



§ ・香りについて

★ 仏教においても薫習が語られることがあり、・・・香りをかいだ
だけで功徳を積ませる仏と仏国土がある。
☆ ええ。ずいぶん複雑に分類されているようです。

わたくしなどは 自性清浄心とひと言言えばいいものをと思ってしま
います。

★ さて、現実の香りと言うのは、徳の香りと言う事・・・。
それは風(風評・因習・欲望の流れ)に逆らって香ると。
☆ なるほど。《戒》が活きている場合でしょうか。

ただですね 先ほどの薫習などでは 無明(煩悩)が移り香として染
みつく場合も説かれていますね。

つまり 悪が 香りのごとく移る(風邪のようにうつる)場合もあり
これなどは 積極的に捉えるなら 悪を引き受けるという場合になる
かも知れません。《戒を破ってでも》です。

といった展開も無きにしもあらずのように思われます。



§ ・即時性と引っ張る力
★ ・・・悪人を引っ張るのは自分自身の曲がった心であり、それを
克服するのも彼自身が瞬時に抱いた志の如何によります。ここら辺の
見解は、甘くはないかもしれません。
☆ なるほど。(そのやはり戒のきびしさという点について)。

ただしですね この場面でも 《縁》の問題が作用していると考えら
れますまいか。

そして 《志》をいだくその前に 悪癖を悪癖としてみとめそれが滅
ぶという局面が展開するかも知れません。



★ 久しぶりに書いた気がします^^
☆ 展開の可能性が開けているようですよ。

お礼日時:2020/09/30 23:28

・絶対他力について



絶対他力と言うのはブラジェさんの言う理論の範疇だと思いますが、それが実に具現した場合にはどのような形をとるかと言うのが、前回の即時性の話でした。つまり、経験としての特殊絶対性を超えた、他者の存在する普遍世界たる現実において、それはどう顕れるかということです。それが縁なのですね。

・イエスについて

現代を生きる人は皆、生身のイエスには出会ったことは無いけれど、イエスと縁のある人は、その言葉を通じて彼と会うことになるでしょう。ただ私が言いたいのは、イエスのようなある種特殊な人物ではなく、ごく普通の出会いの中に、縁が存在している場合がむしろほとんどであろうと言う事です。例えば、立派な人が立派なことを言うと、多くの人は流石だなぁと思う事でしょう。しかし、大したことのない普通の人物が、立派なことを言った時には、聴く耳のある人しかその恩恵にあずかれません。縁もこのようなもので、普通の人がある時、特別になると言ったような経験の事です。
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この回答へのお礼

§ ・絶対他力について

★ 絶対他力と言うのはブラジェさんの言う理論の範疇だと思います
が、それが実に具現した場合にはどのような形をとるかと言うのが、
前回の即時性の話でした。つまり、経験としての特殊絶対性を超えた、
他者の存在する普遍世界たる現実において、それはどう顕れるかとい
うことです。それが縁なのですね。
☆ あぁ 分かりました。二段構成のようです。

① 絶対他力からのハタラキカケ:経験世界に霊力として遍在してい
る。
② その霊力の具体的なハタラキ:神は けっこう気ままであって現
実具体的にどうはたらくかと言えば 得も言われぬかたちで 《縁》
をまさに機縁とする。



§ ・イエスについて

★ 現代を生きる人は皆、生身のイエスには出会ったことは無いけれ
ど、イエスと縁のある人は、その言葉を通じて彼と会うことになるで
しょう。
☆ 前項の第一段階①では 《具体的な事情や情況に関係なく 縁の
有無を超えて 聖霊の遍在として 人は誰もが イエスとすでにつね
に接している》。

そのことは 人間にとって自明でもなければいつも感受しているとい
うわけではない。したがって 第二段階②として 《縁の有る無しで
そのイエスとの接触の自覚が生じるか否かが決まる》。


★ ただ私が言いたいのは、イエスのようなある種特殊な人物ではな
く、ごく普通の出会いの中に、縁が存在している場合がむしろほとん
どであろうと言う事です。
☆ 《運》という言葉があるように・あるいは偶然と必然とが言われ
るように おっしゃるとおりのことが現象していると思われます。


★ 例えば、立派な人が立派なことを言うと、多くの人は流石だなぁ
と思う事でしょう。しかし、大したことのない普通の人物が、立派な
ことを言った時には、聴く耳のある人しかその恩恵にあずかれません。
縁もこのようなもので、普通の人がある時、特別になると言ったよう
な経験の事です。
☆ 目で見ても見えていない。耳で聞いても聞こえていない。といっ
た場合があるということですね。

その分かれ目というのは 不思議なことです。


☆ 今回のテーマは 意外とすんなり行ったと思いますが どうでし
ょう。

お礼日時:2020/09/30 22:51

回答を話題ごとに分けますね。



・連続性か隔絶かについて

太陽と地球が宇宙でつながっていることが分かったのは中世ごろでしょうか。これは譬えですので、いや、太陽だって燃え尽きるのだとか、地球の中は熱いのだとか、そういう事実の話をしていたのではないのですね。ですので、別にその光源が世界の外にあるとしてもかまわないんです。言いたいことは、そのような構造であると言う事ですね。地続きではないが、空でつながっているとはそういう意味です。これはブラジェさんは超経験の場が云々と言う話をしたくなる箇所でしょう^^
世界の外(=無限)とは何処の事だろうか?それは内側を極めたところに、出口があるのです。
ブラジェさんのロジックはソリッドでなので、こういう思考は難しいと思います。
キーワードは透過です。
※画像参照

・私なる世界と神世界の双方向性について

これはブラジェさんとは大きく考えの異なる点であります。縁のはなしをしたように、私は、これは双方向性、すなわち霊の行き来を持つであろうと思っていますし、そのように見ています。信仰の定義においてもブラジェさんとは異なるようですので、その定義争いはしようとは思いません。私にとってはそのようであると言う事ですね。
「神は いかにしてわれわれ人間それぞれに向」の回答画像14
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

§ ・連続性か隔絶かについて

★ 地続きではないが、空でつながっているとはそういう意味です。
これはブラジェさんは超経験の場が云々と言う話をしたくなる箇所
でしょう^^
☆ ここで使ったわたしの《地続き》というのは 《隔たりがあっ
てもそれを超えてつながっている》という意味です。同じ趣旨のよ
うですよ。

絶対性と相対世界とは 絶対の隔たりがあります。絶対性は 経験
事物の有る無しを超えていますし 経験事象の因果関係から自由で
す。

その上で・それでも 絶対性は 相対世界とつながりを持ち得ます。
つまり神の側から経験世界にハタラキカケを成し 人間に知恵のヒ
ラメキをあたえます。


★ 世界の外(=無限)とは何処の事だろうか?それは内側を極め
たところに、出口があるのです。
ブラジェさんのロジックはソリッドでなので、こういう思考は難し
いと思います。
キーワードは透過です。
☆ 《透過》 分かりますよ。
① 神は 人と絶対の隔たりを持つ。
② その神は 人を覆い包む。
③ 神は その霊性がニュートリノのごとく人をつらぬいて飛び交
っている。
④ ミケランジェロの絵のごとく 神の指がアダムの指と まさに
触れなんとしている。
⑤ 霊性は 遍在する。
・・・
☆ なお 《超えている》は 内と外とではないんです。その境界
は人知がおよぶでしょうし その外も何らかのかたちで知られると
すら考えられます。

超経験と経験とは その境界が どこにあるか・あるか無いかが分
からない。



§ ・私なる世界と神世界の双方向性について

★ これはブラジェさんとは大きく考えの異なる点であります。
☆ 《〈双〉方向》の点ですね。

★ 縁のはなしをしたように、私は、これは双方向性、すなわち霊
の行き来を持つであろうと思っています・・・。
☆ あっ それはひと言で説明できます。

[人が受け取る]:神からのメールは完全に神のほうから――或る
意味で一方的に――来ます。
[人が発信する]:人が発信したものを神が 自由自在に受け取る。
人が配達するわけではない。

☆ 《行き来》はあるが どちらも神の側におけるハタラキによっ
て成り立っている。


★ 信仰の定義においてもブラジェさんとは異なるようですので、
・・・
☆ 大きな保留ということで。

お礼日時:2020/09/30 22:34

お礼と補足ありがとうございます。

今、二種の光と、悪の受容についてで、三つの話が並走していますので、錯綜してしまうかも知れませんが、話してみます。

・早く在り遅くに在る火について

これは自然の火ではなく、内的世界の光についてです。

・神と私の連続性、霊性と信仰について

私は詩人タイプでロジックを極める事はしないのですが、喩えば。
光源である太陽は、地上からは大変遠い距離にあり、だからこそ地表の如何に関わらず光を照らし続けることが出来ています。地続きでは無いけれど、空(宇宙)においてつながっています。神と私の連続性も、その様なものだと考えられると、近いと思います。
そして、その空の世界が、霊性の舞う世界だと考えると良いと思います。信仰とは見つけること。その様な世界を見ることが信仰になると思います。

・命の炎について

命の炎は、外の命、すなわちマクロコスモスと鋭く対峙する命の輝きだと思います。燃焼するとは、新しく生まれること。その生命力によって、永遠について克服を果たすのだと思います。

・即時性の具体的場面における描写

時の中に合うということ、それが即時性の発露であり、それは縁に基づくと考えられます。例えば、同じ時と場所に居て対面して話していても、会えない人はお互いに縁がないと考え、時や場所が離れており、対面もしていないけれど、時と場を(道において)共有し、出会っている人は、縁があるのだということです。これは、ポルポさんの話された声につながる話の背景です。中空に聴こえた声の主と私は縁があるのです。
霊がより透明で静的な解釈だとすれば、縁は風のように掴みがたく、だが訪れる。それを察知するのは容易な事です。
もちろん、しっかりと生身で出会う縁も存在するでしょう。しかしその場合も縁を主催するのは、道であり空であり、霊の世界の動態と言うことになるでしょう。

・必要悪と戒について
必要悪と戒が対立した場合、おそらく必要悪の方が正されると思います。修行の途中で逃げ出し邪道に入った門下と、完全に武道を修めた達人が対峙した時、邪道の方は自分の否を認めざるを得なくなる。戒を修めた人が居れば、悪の方がそちらに引っ張られると思います。

追伸
昨今はお礼をちゃんと書いて頂くことも少なくなり、ブラジェさんのようにもりもり書いてもらえると回答しがいがあります。ちゃんと読んで回答を理解しようとしてくれているのだと。全部には答えられないかも知れないけれど、時間と体力(目)の範囲で、こんな感じで答えられたらと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

§ ・早く在り遅くに在る火について

★ これは自然の火ではなく、内的世界の光についてです。
☆ ですね。しかもじつは 《内的世界の光》には 有限ながら 人間
の知性や知恵もそうであり得ます。病いを癒したいという意志と科学は
ひかりです。

§ ・神と私の連続性、霊性と信仰について

★ 光源である太陽は、地上からは大変遠い距離にあり、・・・地続き
では無いけれど、空(宇宙)においてつながっています。神と私の連続
性も、その様なものだと・・・。
☆ これは 哲学の精確性を満たさないと思います。

太陽と地球〔なる人間〕とは ともに経験世界にあるという意味で《地
続き》なんです。

 超自然・超経験:絶対性・無限:霊性   :神
 ______________________________
 自然 ・経験 :相対性・有限:知性&感性:人あるいは宇宙

☆ ただし きわめて微妙なことに 絶対なる神は 相対なる人にハタ
ラキカケをおこなうと推測・忖度され得る。知恵のヒラメキや心の燈心
をともす火をあたえ得る。

すなわち 神から人へ向けては つながりがあり得る。連続性たりうる。

人から神へは 微妙でしょうね。まして 人から人への 神についての
話は 組織宗教が難なく説いているように容易であるはずがないと確認
できます。



★ そして、その空の世界が、霊性の舞う世界だと考えると良いと思い
ます。
☆ きさらぎさん いかんせん 宇宙は 経験世界なんです。

★ 信仰とは見つけること。その様な世界を見ることが信仰になると思
います。
☆ 《超自然なるナゾを 無条件に無根拠にてわが心に受け容れること》
これが《信じる》です。《見る・感じるや考える》を超えているんです。

§ ・命の炎について

★ 命の炎は、外の命、すなわちマクロコスモスと鋭く対峙する命の輝
きだと思います。燃焼するとは、新しく生まれること。その生命力によ
って、永遠について克服を果たすのだと思います。
☆ ここは 受け留めますが 論理的展開は むつかしいですね。展開
がありましたら おしえてください。


つづく

お礼日時:2020/09/30 17:20

お礼ありがとうございます。



灯火の話
一度灯ればそれは永らく灯ります。
と言うのも、おそらくですが、火の方が、自分の生の始まりよりも早くに在り、終わりよりも遅くに在ると考えられるからです。たとえばこの世界に私が生まれた時、すでに太陽はあったし、私がこの世の生を終えても太陽はあるようなものです。内的世界においても、一度光の存在が確かに確認されたなら、以後、光など無いのだと言う判断は起こらなくなります。それを永らく灯ると言えるのかなと。光の失われることはありません。

一方で、寿命のある私自身の炎、これの永遠性については、また別の話となりそうです。
前者は雲が退くことで得られる明るさですが、後者は自ら燃焼する命の炎です。これはより人間的で、鮮やかなものであると思います。これは揺らぎであり、震えであり、エネルギーの発露です。
内的世界と言う抱擁に対して、これは個体の生き様であり、無二性があるものです。

悪の受容について。
アウグスティヌスの時間的な無知と表現されるところのものが、即時性の無さであるなら、確かに我々の、私の世界には時間が常に流れており、晴れるのにも陰るのにも、時間を経るものですね。それが生きていると言うことでもあります。アウグスティヌスは神を信じていたであろうから、その即時性についての言及が少し必要と思います。既に成っていると言うその完全性について、影を生じない光、雲の粒子一つ一つさえ輝いているのだと言うその真実について、神を目指す人は知りたいと思うと思います。人間(私)が即時性を知るとは、解けたと言うことなのです。何が解けたかと言うと、結びついて像をなしていたものが、解けたという事です。

生活と仕事、戒律
社会のルールを律と言い、自らに備わった行動法則を戒と言います。武道で言えば、一本とか、技ありとか、減点とか、そう言ったものを決めるのが律で、身体の正しい使い方や、武道の目的とか、そういうものが戒にあたります。戒を備えた人は、道場だけでなく、日常の場でもその動作の整った様を現じることになります。社会で見られる必要悪といった様なものを為すことは困難であると思います。つまり社会は自由ではなく、戒を備えた人の方が自由であるとなるのですね。
この戒は自発的なもので、誰かのおしきせではないから、縛りにはならないのです。自発と言うのは、先程の自燃にも通じる意味かなと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 灯火の話
一度灯ればそれは永らく灯ります。
☆ あぁ それでしたら 見解が一致しますね。


★ と言うのも、おそらくですが、火の方が、自分の生の始まりより
も早くに在り、終わりよりも遅くに在ると考えられるからです。
☆ それは 自然の火でなくですか? 経験事象としての火だと 身
と心から成る自然本性にそなわった――ただし 自然の神経細胞であ
ったりそのエネルギーであったりするところの――火になります。


★ たとえばこの世界に私が生まれた時、すでに太陽はあったし、私
がこの世の生を終えても太陽はあるようなものです。
☆ 微妙ですねぇ。あっ 前回の《相対なるわれと絶対なる神とがあ
たかも連続体としてのごとく 地続きである》という仮説がからまっ
ていましょうか?

★ 内的世界においても、一度光の存在が確かに確認されたなら、以
後、光など無いのだと言う判断は起こらなくなります。それを永らく
灯ると言えるのかなと。光の失われることはありません。
☆ そのことを――私見では―― 《感性の感じるではなく 知性の
考えるでもなく 言わば霊性の信じるという動態において永続する》
というわけですが。雲をつかむような話へと持っていくわけです。


★ 一方で、寿命のある私自身の炎、これの永遠性については、また
別の話となりそうです。
☆ ほおう。人の寿命とそして大いなる生命とでしょうか。


★ 前者は雲が退くことで得られる明るさですが、後者は自ら燃焼す
る命の炎です。これはより人間的で、鮮やかなものであると思います。
これは揺らぎであり、震えであり、エネルギーの発露です。
内的世界と言う抱擁に対して、これは個体の生き様であり、無二性が
あるものです。
☆ マクロコスモスとしての生命とそれによってエネルギーを得てい
るミクロコスモスとしての個別なるいのちの彩なす姿でしょうか?

あとは そのマクロとミクロとが 地続きかどうかですかね。けっき
ょく。


★ 悪の受容について。
☆ おお。来ましたね。

★ アウグスティヌスの時間的な無知と表現されるところのものが、
即時性の無さであるなら、確かに我々の、私の世界には時間が常に流
れており、晴れるのにも陰るのにも、時間を経るものですね。それが
生きていると言うことでもあります。

つづく

お礼日時:2020/09/30 14:16

この時間に起きておられるのは珍しいですね^_^



晴れと曇りについて
曖昧というご指摘を受けましたこれについてですが、たとえばくよくよと思いを巡らして堂々巡りしたり、気分が浮き沈みしたりすることを曇りと言います。そして、曇っていることを見て、くよくよした思い(主に頭)を離れて中心(胸)にかえると、晴れになるのです。外界の天気は操作することができませんが、内界の天気は基本的には自分の意志でどうにかなるようです。ただ、雲が流れて少し陰るくらいの事はある感じです。パンパカパーンに晴れて雲ひとつない状態がずっと続いているわけではありません。
表現としては、鬱陶しくない、涼しい、健やか、朗らか、というくらいが妥当だと思います。ブラジェさん的には自燃でも良いのでは?という事ですね、確かに私の世界の話であるから、そのように思っても良いかも知れません。ただ、この主体の感覚は、広い主体であって、おっしゃるようにいじましい小さな我という感じではないです。


声について
これが知恵の閃きの問題であるか、灯心の問題であるか、あえて分別するならば、知恵を得たきっかけで心が晴れて明るくなる。こんな感じかと思います。ですので、まったくの別の問題でも無いと思います。ここで紹介させていただいたのは、ポルポさんが折しも声について話されていたからで、他意はありません。
私の言うことは"感じ"ばかりで言語化したいブラジェさんにはもどかしいところもあるかも知れませんね。
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この回答へのお礼

一度早くに寝て早くに起きました。

ご回答をありがとうございます。

★ 晴れと曇りについて
たとえばくよくよと思いを巡らして堂々巡りしたり、気分が浮き沈み
したりすることを曇りと言います。そして、曇っていることを見て、
くよくよした思い(主に頭)を離れて中心(胸)にかえると、晴れに
なるのです。
☆ そういうことは ありますね。かなり一般的に。

★ 外界の天気は操作することができませんが、内界の天気は基本的
には自分の意志でどうにかなるようです。
☆ そうだとした上で いぢわるをやらかしますと すでに相手の心
模様を受け取っていてあたかも――ミラーニューロン現象として――
相手の心の《天気》に沿っている状態になると その天気をいかよう
にも先へすすむように仕掛けることが出来る場合があります。

《操作》ではないと思うのですが 一例として 相手が前向きである
ならあたらしい道を模索する方向へ助言しますし 相手が愚痴をなら
べるほかに何もしたがらないのであれば突き放します。

でも 天気の神様の降臨いかんは どうしようもない。


★ ただ、雲が流れて少し陰るくらいの事はある感じです。・・・
★ 表現としては、鬱陶しくない、涼しい、・・・
★ ブラジェさん的には自燃でも良いのでは?という事ですね、
★ ・・・ただ、この主体の感覚は、広い主体であって、おっしゃる
ようにいじましい小さな我という感じではないです。
☆ ははあ。ひょっとしたら 《神さんとわれわれ人間とは 地続き
である》という前提(想定)があるんですかね? 《連続体仮説》(?)

これは 主題をあらためてのお話になるでしょう。


★ 声について
これが知恵の閃きの問題であるか、灯心の問題であるか、あえて分別
するならば、知恵を得たきっかけで心が晴れて明るくなる。こんな感
じかと思います。
☆ それは――それも――そうでしょう。そしてわたしの勝手な基準
は 《いちど火がともされたなら 溶鉱炉や聖火ではないですが 永
久に燃えつづける(あるいは 泉のごとく心の水が湧き起こりつづけ
る)》を前提しています。


★ ここで紹介させていただいたのは、ポルポさんが・・・
☆ 承知しております。つづけてお気軽にどうぞ。


☆ 《悪を容認する?》の問いが あなたには 《戒》いかんをめぐ
っての問題にならないですか?

お礼日時:2020/09/30 03:22

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