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○ 信仰類型論:《非知なるナゾ と 人たるわれ との関係(非関係?)》としての信仰は そのかたちとして 《ブラフマン(梵天なる神) と アートマン(霊我) との霊的な一体》すなわち梵我一如なる形態を 類型としている。
 
 ☆ これを問います。検証してみてください。

 (あ) この梵我一如なるかたちは ただし わが心なる《非思考の庭》として成っているという想定ですから むろん仮りに説明したら このようになるのではないかというものです。

 (い) まづ 非思考の庭についての説明です。:

 ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~

  信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観
  ---------------------- 
  考える:《思考の緑野》:理性←→オシヘとしての宗教
  感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ


 ☆ (う) この《非思考の庭》における内実が 次のように捉えられる。:

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ


 ☆(え) 無神論( B や一般の無神論)と有神論(前項以外)とは いづれも信仰なのであって 自由に人がえらべばよく 互いに対等かつ同等である。
 
 (お) 樅の木に喩えられる信仰に 差はいっさいない。カザリをつけたクリスマスツリーとしての・つまりうオシへとしての宗教には 互いに差がある。というよりは オシへは 信仰という蝉の抜け殻として成り立ったものである。《信じる⇒ヒラメキ→思考によるオシへ・神学→宗教》。
 この考えるの対象となったオシへを 信じなさいと言うなら そこには百害あって一利なしである。ひとの自由意志を踏みにじるおそれさえある。

 (か) 有神論にあって神の名が互いに違っていても やはり問題にはならない。信仰類型が完全に同じである。
 それは 自然本性としての人間の条件(天与)として 半ば証明抜きでみとめられるのではないか? 言いかえると 普遍神の問題である。それとわれとの関係には 差は出て来ない。

 盛りだくさんですが 自由なご批判をたまわりたく。・・・
 この信仰論をとおして ひとつの道として世界の人びとのあいだの和をめざします。

A 回答 (12件中11~12件)

お礼ありがとうございます。


二律背反については、以下の説明を付け加えます。
二律背反とは、理性により相反する命題が合理的と判断される状態を意味し、理性によってどちらかを選ぶ事は出来ない。
→理性により、どちらかを選ぶ事は出来ない→理性を超越している命題である→理性は役に立たない
なお、参考として、このような二律背反に該当する命題として、カントは以下が存在すると述べている。
1.時間と空間に関する宇宙の限界
2.全ては分割不可能な原子から構成されている(それに対して、実際にはそのようなものは存在しない)という理論
3.普遍的な因果性に関する自由の問題
4.必然的な存在者の実在
上記の理由から、二律背反のどちらかを選ぶ方法は、理性以外である。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 二律背反についての説明をありがとうございます。

 そうですね。ヘーゲルはまだしも カントに馴染んでいないわたしとしては なおまだむつかしいようにも思ったりしますが よく読んでみると そういうことだとも思います。因果性の問題で特にそういうふうに感じます。


 前身の質問は 何気なくかかげてみたら 思いもかけず参加者ないし回答件数が多くなりました。
 今回 へんな言い方ですが 復習のような恰好で――確認しつつすすみたいと思って――設問してみましたが 今度は閑古鳥が鳴いています。いろいろですね。

 でも いづれにしましても いちおうこの線で伸ばして行きたいとは思っています。どうなりますやら。

お礼日時:2015/08/20 21:26

やはり、いくつかの公準(要請)を決めておいた方が良いと思います。


命題は、「非知に対する信仰は、梵如一如の構造を有する」として、非知、信仰、梵如一如の公準を定めた方が良いでしょう。
公準(要請)
1.非知とは理性に対する二律背反である。
2.信仰とは、対象を信ずる事である。
3.梵如一如とは、梵と如が同一もしくは同等と知る事である。
4.信仰の構造とは、信仰の対象と信仰する者との関係性のみを意味し、その他の要素に関しては論じない。
補助公準
A.梵とは信仰の対象であり、如とは信仰する者である。(これはウパニシャッド哲学などの限定された用語として使用しない)
B.非経験とは、感性が外部の現象を認知しない状態を意味する。
C.思考とは理性が対象を判断する機能である。
D.非知の二律背反の一方を選んだ場合を選択と呼ぶ。
E.非知に対しては、選択もしくは、思考の停止の2通りの状態しか存在しない。
F.思考の停止とは、選択又は認識出来ない状態を意味する。
G.認識は、対象が不可知な部分を持っていても成立する。(すべての対象の実在性と実体は不可知でも、対象を認識する事は可能である)
その他、必要な公準があれば、補足してください。
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この回答へのお礼

るぱん344さん お早うございます。ご回答をいつもありがとうございます。

 つぎのように理解し受け取りました。

 公準(要請)は おおむねそのように受け留め 説明にいただきます。

 補助公準A は (あ)におぎないたいと思います。
 同じくB そしてC は (い)に。
 ――つまり 補助公準としての全体のまとめとは別にということになるかと思います。
 補助公準D およびE +F は (え)をおぎないます。信仰形態の(B)と(C)とがその例になると添えます。
 同じくG は  その不可知を 可知(既知および未知)と合わせて 非知と対比させるという意味で (い)をおぎなうかたちでしょうか。

 以下 アットランダムにです:
 (き) 梵我一如は ブラフマ二ズムにおける固有の信仰形態である。と同時に ここでは抽象的に捉え 《マクロコスモス(神) ∽ ミクロコスモス(われ)》といった一般概念として 信仰の類型として用いる。 
 (く) 《二律背反》は 一般にむつかしくないですか? 説明を添えたほうがよいかとも思ったりします。
 (け) 公準2に 《信仰の対象である非知なるナゾは 理性による認識と判断を超えているので 言うならば非対象である》と添える。
 (こ) 補助公準E で 《有る神か無い神か》の選択のほかに取り上げた《思考停止》(つまり補助公準F)というのは 有るか無いかをえらぶ準備段階にあって モラトリアム状態だと捉えられる。
 (さ) 公準4の《信仰の対象と信仰する者との関係性》とは 人間たるわれにとって《最もわたくしなるわれ》における《わが固有の時》だと捉えられる。
 (し) 補助公準B: 非経験としての《感性が外部の現象を認知しない状態》とは ものごとについてふつうに知覚される《有る無し》を超えているということ。また したがっての如く ものごと〔自体をも知覚していないのであるが〕の原因と結果の関係からも自由な場ないしチカラを 想定したかたちである。
 (す) 有無を超えている《非経験の場 = 非知なるナゾ》ゆえ 経験世界の言葉では 神が有る・または無いという表現で受け留めるかたちになる。
 (せ) 因果関係から自由な場(チカラ)としての非知なるナゾを 経験世界の言葉に翻訳すると 極端な例として《神がこの世界を創造した》であったりする。

お礼日時:2015/08/20 06:40

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