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欧米人の多くは基本自分主体で物事を考えると聞きます

日本人は「他人の目」が気になるので、それがほぼ無信仰に近い日本人にとっては宗教の変わりだよ

と、例えているのをよく耳にします

反対に言えば「欧米人は他人なんてどうでもいいから宗教でマナーや道徳心を守らせるしかないんだよ。」と、いう意味でもあると思います


私も大多数の日本人と同じく無信仰で、他人の目が気になるタイプです


そんな私が他人の目が気にならない欧米人の感覚を理解するには、どのような例えがありますか?

さきほどの「他人の目」はあくまでも道徳やマナーの時の意味だと思います

そうではなくて「神」を意識していない普段の時の感覚です

街で自分のしたい服装で歩いたり、人目をはばからず笑ったり、そういった感覚です

犬や猫が回りにいるのと同じ感じなのでしょうか?


どなたか分かり易い例えを持っている方、よろしくおねがいします

A 回答 (7件)

私はアスペルガーです。

謂わば、他人からの目に関心が低く自分ルールで生きる人という医学的お墨付きを受けた人種です。しかし、一方で道徳心が強くマナーやルールに徹底して従うという「症状」も指摘されるのがアスペルガーです。この両立は、あなたの質問文にある欧米人の在り方と似ているかも知れません。
私の場合は、主張されない他方の意識は受け取る必要がない、としています。アスペルガーは日本では空気が読めないともされているので、主張がない限り受け取り不能でもあります。
また、主張も無しに、意識して下さいと、暗に求める態度を嫌悪してもいます。マナーがなっていないと考えてしまうんですね。関係を越えて一方的に甘えを押し付けられたと感じてしまいます。
環境の中にいる不特定多数をどう見ているかと言われれば、人に見えます。要望があれば、可能な限り応じましょう、という態度を準備して、常からは自己欲求を優先させています。
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この回答へのお礼

なるほど、主張が無い、というコトに対しては興味がもてないとか無い、といったいみなのですね

分かりやすかったです

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/06/03 13:15

西洋人の個人主義と日本人というか本来東洋人の社会主義と宗教は無関係です。

むしろ人々の主義に合わせて宗教が発展したというべきでしょうね。

欧州にとってマナーは=身分であり、自己防衛手段です。
ご存知でしょうか、レディーファーストは暗殺防止のためにあるという説を。要するにまず女性を先に入れて自分のみを守るということです。例えば部屋に入るとき刺客がいたら自分が先に入ったら殺されちゃいますけど、女を先に入れれば殺されるのは女、或いは刺客を見つけて騒ぐ。
日本では男が先に入ります。出生率が低い民族では女に対して慎重になります。それがいつしか形骸化して「男が偉いから」と誤解されたのです。
そして西欧貴族においては身分を得たらそれに見合ったマナーを身につけなければなりません。例えばお辞儀一つをとってもやり方を間違えることは自分の身分を貶めることにもなります。
これは日本でもありました。浅野内匠頭が吉良に騙されて、裃に下座で出迎えという格下のマナーを教えられたのがいい例でしょう。
平清盛は贅沢をしたのではありません。貧乏武士だった彼が身分相応の知識と技芸を身につけるために必至だったのです。またそれが出来なければ真の貴族とは見られなかったのです。その風潮だけが今に残り、周囲を気にするだけの国民性を作ってしまっているんです。

個人主義はむしろチェスと将棋の違いに由来すると考えます。
日本では国が敗れても民衆は殿様が変わるだけでした。信長以前は百姓=兵士ですから温存して当然。戦国末期になるとその土地の作柄を保つためには土地のヒトの協力がなければ成り立ちませんでしたから。
そして江戸時代になると藩取り潰しのために隠密が日本中にいました。彼らを見つける簡単な手段が方言と風習。
中国では三国志で判るように民衆もかなり殺されるのが当然でした。だから信じられるのは一族のみだとしたのでしょう。それが土楼(円形住宅・四角もあります)です。
欧州に至っては親族すら信用できない、徒党を組んで狩猟するものの、飢餓に陥れば兄弟出さえ殺して生き延びるという苛酷な環境だったのかもしれません。

社会主義は大勢の名の元に個人を冷酷に殺します。社会の利益は個人の意義を抹殺するのです。実は私達社会主義の環境の者が個人主義を評する場合も社会主義の立場でしか考えていません。しかし個人主義は個人の集合としての社会だから、他の個人や社会も認める体質にあるはずです。これを破壊したのがキリスト教による排他的信仰です。悪政ではあってもローマとユダヤは共存していました。しかしキリスト教は完全排他主義で欧州の民俗信仰を悪魔崇拝だと断じました。
そして今、欧米は災難に遭うと利を捨てて手を差し伸べあいますが日本では災難を利用して利を追い求めます。
欧米では財団などが多くありますが、日本では寄付からですら税金を搾取する。

大屋政子は欧州で一声かければ欧州中の真のセレブが手を差し伸べてくれます。彼女や皇室では高級品を持ちますが、それを手直ししたり、アレンジすることで更なる評価を得ます。もちろんそこまで出来る高等な知識のセンスも要求されるのです。しかし一般人では金持ちというだけでセレブ顔できます。
日本で上流社交界に正式にデビューしているセレブはほんの一握りです。あとは単なる「セレブもどき(成金)」だということを理解しましょう。

自己を大切にするから自分以外の自己も大切にする。これが個人主義の基本だと考えてください。
形式ではなく心を学べば、俗物ではなく本物を見る目を養えば、真の個人主義にたどり着くことが出来るでしょう。
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こんにちは。


僕の勝手な推測ですが、欧米を中心とするいわゆる西側の社会には、「正直」を美徳とする文化が根本的に根付いていない気がします。

日本も最近では欧米化し、一歩家から出れば人目を気にするような社会になっていますが、おそらく欧米においてはそんなことはとうの昔から当たり前、たぶん家の中でも自分は自分である、という「演技」をしなければならない状況になっていると思います。(人間不信のなれの果てですね)

基本的に正直者というのは損をしますが、周りから見ればこれほど扱いやすく、楽な人はいないです。正直者が多い国家というのは偉大な国家だと思います。

…読み返してみたら、あまり答えになっていませんね、すみません。
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>どなたか分かり易い例えを持っている方、よろしくおねがいします.



○そうですね。羊の群れと羊飼いの例えが良いようですね。
羊は群れをなし、牧場で草を食んでいますが、その群れを羊飼いは管理しているわけですね。羊たちは管理されているとは感じていないのですが、狼が怖いので群れをなしているわけですね。群れをなすということは全て同じようにすることですから、日本人の集団依存行動と合致しますね。
羊飼いは日柄一日遊んで、夕方になると羊を連れて帰るわけですが、特段に優秀というわけではありませんね。でも付き合っているのは羊ですから何らの気兼ねもなく自由ですね。この自由さが欧米人の感覚に合致しますね。
まあ、羊か、羊飼いかの違いということですね。どちらを選ぶかはあなた次第ということなんですが、自由は孤独と差別がありますね。そんなのに耐えられない人は、羊の特徴を選ぶということですね。羊の特徴というのは、平等ですね。社会主義思想は羊の群れ思想ですからね。自由にはむかないということになりますね。
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自分を変えたいと思うなら、受動的に動くのではなく能動的に動くことです。



自分で調べて、自分で考えて、それを実行してみる。
上手くいかなかったらフィードバックして、再チャレンジする。
それを繰り返してやっていたら、あなたの言う欧米人のようになれると思います。

能動的な対応を自らやっていけば、本来の自分に徐々に近づいていきます。

「それはそうですが・・・」と受動的でやれそうなことを選ぼうとすると難しいですね。
チャレンジできない理由でさえ、自ら調べて考えて実行して解決することが必要です。

根本的な姿勢・対応を変えていく決心を持った人だけが変わります。
決心がにぶるなら、決心がつくまで考え抜くことです。

どうにも今の自分が我慢ならない!!!
と、その時が来たらチャンス到来です。
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 こんにちは、少しばかりお邪魔します。


>欧米人の多くは基本自分主体で物事を考えると聞きます。(従って)日本人は「他人の目」が気になるので、それがほぼ無信仰に近い日本人にとっては宗教の変わり(違い?)だよと、例えているのをよく耳にします
反対に言えば「欧米人は他人なんてどうでもいいから宗教でマナーや道徳心を守らせるしかないんだよ。」と、いう意味でもあると思います

 これはどうでしょうか?。欧米人もしくは欧米型の発想の根底には確かに「個人主義」があります。がしかし、それは決して自己チューや独善ではありません。一つの問題に対し「自分はこう考える、ではあなたはどう考えますか」として「相手の意見を認めそこで議論する」との考え方です。つまり欧米や古代中国に見られる「多くの意見の中から自分に適したものを選択する」との考え方です。
 「他人の目を気にする」といった、全て均一性を前提とする日本型とは異なり、様々な意識がありそこでの一先ず供用できる部分を踏まえて独自の考え方を陳述するなら、それはそれでアリでしょう。こうした考え方は「公と私の関係」をどう理解するかとの問題に対する発想の違いともいえます。
 信仰をキーワードとするなら、西洋では「神の下の平等」と一方には法と秩序をキーワードとした「現実としての支配と被支配に基づくもう一つの関係」があります。前者のルールならば王も民衆も同じ扱いとなりますが、後者のルールならそれはあっさりと否定されます。
 「個人が尊重される社会」ならば、着ているものが異なっていてもそれは相手の経済状況による違いもあるかもしれません。また個人の趣味や嗜好による違いもあるかもしれません。ペパーミントグリーンのシャツを好む人がいてもサンバーストレッドのTシャツを好む人もいるかもしれません。それを自分の好みとは違うからといって相手を非難することは不可能です。違う表現をするなら、それは「個性」と呼び換えることも可能です。
 けれどもそれぞれの人が生きている「社会」との大括りな枠組みだけは変わりません。そしてその中で互いに気持ちよく暮らすことができれば、それで問題はないでしょう。この「互いに」との部分が近頃マスメディアで話題になっている「公共」との言葉であると僕は理解しています。マイケル・サンデルさんが持ち出した「公共」は別な意味で「公共道徳」もしくは「共有できるベース」ほどの言葉であって、それは信仰の違いよりも根源的な次元の問題であるといえます。
 無論、僕は無神論者ですから、神なんぞという愚かしい答えに逃げ込む輩は最初から相手にしません。人間は意思ある動物であり、同時に社会的動物ですから、キチンと相手の存在を認めねばなりません。相手が生物的な人間である以上、価値観も異なります。がしかし相手を地球外生命体の様に異質な存在として排除する姿勢には断固として反対します。それは裏を返せば、自身の存在も否定することにつながるからです。
 
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>反対に言えば「欧米人は他人なんてどうでもいいから宗教でマナーや道徳心を守らせるしかないんだよ。

」と、いう意味でもあると思います

逆なのです。

宗教が先にあったから、その延長上にマナーや道徳心が形成されていったわけです。

現代欧米人の感覚のルーツが、12世紀以降に復興したキリスト教に端を発しています。

意外に思われるかも知れませんが、欧州でキリスト教が復興する12世紀より前の時代における欧州人の感覚は、日本人の感覚と似通っていたそうです。

キリスト教が復興した以降の欧米人が一番意識するのは、『「神」の目』です。
彼らにとっての「神」は、良い施しを与えてくれるだけでなく、試練も与える存在でもあります。
(日本人にとっての「神」は、良い施しを与える存在でしかありませんので、施しを与える対象物が人間であっても、「神」と崇めてしまいます。)

そして、人と人との間には常に「神」が存在し、そこを媒介して人間関係や道徳・モラルが形成されてます。

一方の日本人は、キリスト教の「神」に匹敵する存在が生まれなかったので、人との間に「神」が存在せず、人同士がキリスト教の「神」的な役割を担う側面が残っていると言えます。

厳密に言えば、大半の日本人も「無信仰」ではなく、「他人の目が気になる信仰を持っている」とも言えます。

欧米人と日本人では、信仰の対象物が違うと言えるでしょう。
(日常的な信仰の対象物が「神」か「人間」か、という意味です。)

なので、欧米人にとって、『「神」を意識していない普段の時の感覚』は無いと言って良いでしょう。

欧米人の日常的な感覚を味わいたいのでしたら、「キリスト教を徹底的に会得する事に尽きる」のではないかと、私は思います。

http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/0020 …
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/12 …
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/p/57/index …
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/p/58/
http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/main53-1.htm
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この回答へのお礼

変な話になりますが神を意識してないときがないとなると、その宗教で禁止されていない場合の一人Hとかはどうなるのでしょうか?

人間に見られてるのとは違う感覚ですから恥ずかしいとは違ってくるかもしれませんが、それにしても神の前で・・・と思うのですが

お礼日時:2013/06/03 20:23

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