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どの宗教の信者の方でも、無神論者の方でもよいのですが、
私は以前から神(仏)はどこにいるんだろう?と疑問に思っていました。

誰もそれを教えてくれないのは、それがわからないからなのではないか?とも思います。

知ってる方がいらっしゃいましたら教えてください。

宜しくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

[私は以前から神(仏)はどこにいるんだろう?と疑問に思っていました。

誰もそれを教えてくれないのは、それがわからないからなのではないか?とも思います。]
そうですね。目には見えない霊的世界にいますからね。でもいますよ。仏陀、イエス様、モーゼ様 みんないと高い霊界にいますね。一般人でもまれに霊的に見えることもあるのですね。ずいぶん前にはなりますが見たままを、象徴的にいえば釈尊仏陀は霊界では奈良の大仏を何倍も大きくしたようですね。イエスさまは雲の上で天蓋の下で弟子を従えて下界を見下ろしてましたよ。遠くからでしたから羽がついていたかどうかは見えませんでしたがね。実際は巨大な羽をつけてるようですね。モーゼ様は、イスラエルの民があんな調子だから、険しい顔をして高いところを飛び回ってましたね。神の心子知らずでよね、見えないということは怖いことだね。みんな雲の上の仏神の長だから見上げるような高いところにいましたよ。それから巨大な黄金に輝く直径数十キロはあろうと思われる円盤状の零体がありましたね。見上げるだけで我を忘れましたが、おそらく全知全能の神の本体でしょうね。ということで聖書や仏典にあるような全知全能の神、仏・神・天使・精霊といった人々がみんないる世界は確かにありますね。なぜそういう世界が見えたかわかりませんが、おそらく質問者さんのような方々に回答するために見せてくれたんでしょうね。見てないと答えられないものね。
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この回答へのお礼

大昔の人が言った事を鵜呑みにする感覚は私にはわかりません。
昔の人が言ったことでも、例えば、ニュートン、マックスウェル、アインシュタインが発見したことで、何度実験しても確かに成り立つことは、私は信じますが、
お釈迦様、イエス様、モーゼ様、それらの方々が言ったことが本当なのか?(その方々は空想・幻覚なので感じたかもしれない可能性だってあります。本人達は、自分の感じたことを正直に言ったのかもしれませんが。。。)

実際、一部の宗教の教えで実験事実と異なることも多いのは確かです。

「目に見えないもの」でも電磁波・素粒子など科学的に確かなものは数多くありますが、霊界はどういうふうな説明ができるのか、どこにあるのかも疑問です。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/25 00:42

 仏教者ですので仏教について私が感じていることをお話します。


 『仏』という言葉は『ブッダ』というインドの言葉を中国語で音訳したもの、『仏陀』の頭文字です。仏陀とは「真理を見出した者」という意味を持つ言葉で、中国語では意味の方をとって『覚者』とも訳されています。
 一般に私たちが「仏様を拝む」という場合、私たちには「誰か実在する人物に尊敬と感謝の気持ちをあらわす」といった気持ちがあると思います。とすると、上の意味からは「真理を見出してくれた人」を指すことになる。一般にはお釈迦さんが最初に真理を見つけた人です。が、後にお釈迦さんの教えを受けて真理を見つけた人はたくさんいます。少なくとも一人ではありません。
 ところで、実のところ私の場合、覚者に対して尊敬と感謝の気持ちを持つのはもちろんですが、むしろこういう覚者教えを通して『真理』そのものに限りない信頼の念を抱いているといった方が、気持ちとしてはピッタリするのです。としますと、『真理』はどこか遠くにではなく、「いまここに充満している」ということになりませんか。
 私にとって「仏様」はそういう存在です。
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この回答へのお礼

>むしろこういう覚者教えを通して
>『真理』そのものに限りない信頼の念を抱いている
>といった方が、気持ちとしてはピッタリするのです。
>としますと、『真理』はどこか遠くにではなく、
>「いまここに充満している」ということになりませんか

私は物理学科出身なので、『真理』を科学的に考えてしまうたちなのですが、
ある相対性理論の教授の著書に「相対性理論はお釈迦様でもわからなかったことです。それをあなた方は理解できるのだから素晴らしいことではありませんか?」というようなことを書かれていました。
相対性理論は、お釈迦様でもキリストでも見出せなかった真理です。
しかし、現代科学でもブラックホール・暗黒物質・宇宙の果てなどなど、解明されていない真理がたくさんあります。
つまり、この地球上に真理をすべて見出している人はいないでしょう。

>『真理』はどこか遠くにではなく、「いまここに充満している」
これは賛成です。真理は宇宙空間全部にあるわけですから、「いまここにもある」わけです。
ただ、ここにあっても、それを見出してる人はまだいないのではないかと思います。

神と真理が全く同等なものだと考えると、おっしゃるとおりなのですが、
様々な宗教が言っている神仏と、科学者の追及している真理とは大きなズレがあるようにも思います。

大変参考になりました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/11/25 00:20

自分の心の中にいませんか?宗派があるように、自分の考え方で違ってくるのです。

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この回答へのお礼

「感じる」「思う」「想像する」
そういったことで出てくるものは、この世に「存在する」とは言えないと思います。
そういったものは、「空想上のもの」「架空のもの」であって
「存在」ではないと思います。

お礼日時:2006/11/25 00:28

それぞれの宗教が言う全知全能 なんでもできてしまうマジシャン的なものを、私は神などとは全く思いません。


マジシャンの王様みたいな概念を神だと言う人は、私はペテン師だと思っています。

ということで、そんなのが神だと言う人たちから見れば、私は完璧な無神論者です。


その私から言うのもなんなんですが、、、、

ヘブライ語は抽象概念が不在の言語だと言う人がいます。
(私はヘブライ語がわかりませんので、「そうだ」 とも 「いいや違う」ともいえませんが)

そのヘブライ語では
男は45、女は19、そして神は26の数字になるそうです。(ゲマトリア)
男45-女19=26
従って神は男と女の間にいることになります。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD% …
ティファレト。
生命の樹の中心に座します。 調和。
神名はエロハとなっています。

http://www.wdic.org/w/CUL/%E3%82%A8%E3%83%AD%E3% …
【"運動の中の静止、音響の中の静寂" と説明される過去と未来の融合点。】
つまり 「私はある」ってことですよね。
過去にありて未来にありし者であるってこと。
古代ヘブライ語には現在というものが無かったと思います。
ここが神の座????

ただ、エローア(エロハ)って女性形だったと思います。
女性というより創造の主ってことで、生み出す原動みたいなものでしょうか。
現在が全てを生み出す。
なんとなーく古代の人が言っていることはわかるのですが。。。
難しいですね。
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No.4です。



ティファレトのリンク先 間違えました。

http://www.wdic.org/w/CUL/%E3%83%86%E3%82%A3%E3% …

ここでした。
神の座はやっぱりティファレトかな。
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仏はちょっとニュアンスが違うので、神としますが…。


私達が見聞きしている神は人間が描いたもので、神のほんの一部、あるいは人間の扱いやすいように描かれていますから、これを基準にして考えても答えなど出ません。

神は居るのではなく、在るのです。
神がどこかに居るのではなく、私達が神の中に居るのです。
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この回答へのお礼

>私達が見聞きしている神は人間が描いたもので、
>神のほんの一部、あるいは人間の扱いやすいように
>描かれていますから、
>これを基準にして考えても答えなど出ません。

これは納得。

>神がどこかに居るのではなく、私達が神の中に居るのです。

これはよくわかりません。
もし、神が人間の(無神論者でない人の)心の中にあるとすれば
私達が神の中に居るというのは、つじつまが合わないと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:21

こんにちは。



#1~#3 の回答のレスを読んで思いました。

>「相対性理論はお釈迦様でもわからなかったことです。それをあなた方は理解できるのだから素晴らしいことではありませんか?」

相対性理論は、単に空間に対する存在の物理法則の話ではないでしょうか。アインシュタインは、スピノザ哲学を支持し、すべての存在に対して神の力を見出そうとしていたわけですが、古代インド哲学は、それは、単に機械的な元素の循環としてしか見出さず、神の摂理などを見出していないのです。古代インドや初期仏教の時代の思想は、量子力学の考え方のほうが近いと思います。だから、幾人からの有名な物理学者が、古代インド哲学を支持しているそうです。当然、仏教も、本来、無神論、無霊魂主義です。

例えば、インフレーション宇宙のことを一部では、インドのシバの宇宙の創造と破壊を模して、「シバのコズミックダンス」といいます。今では、それを科学と呼びますが、古代では、それは宗教的世界にしか過ぎません。ここには、絶対的な存在を認めているわけではないのです。単に、波とか揺らぎとかしかないはずです。いつ始まって、いつ終わるというような期間は持たないし、それが終わったとしても、別のどこかで始まる、それは永遠に近いダンスなのかもしれません。

物理学は、理論物理学だけでは足りませんから、どんな話でも、観測や実験の上から理論が実証されるわけで、その時代に基礎的な理論が確立していなかったから、どんなに力説しようが、それは空想の話になってしまいます。それは現代でも同じことだと思います。

膨張していく宇宙の果てが、虚無に帰るのだとしても、そこに、阿弥陀如来の救いを想像しようが、暗黒の宇宙を想像しようが、我々の現代の人間にとっては、しょせん、2000年前と現代とは変わらないように思うのです。人の死は、一定(いちじょう)です。人間は、古代と同じように、苦しみ、同じように悲しみ、未だ、私たちの世界では、消えたわけではありません。

>お釈迦様、イエス様、モーゼ様、それらの方々が言ったことが本当なのか?(その方々は空想・幻覚なので感じたかもしれない可能性だってあります。本人達は、自分の感じたことを正直に言ったのかもしれませんが。。。)

二世紀ごろの仏教詩人・アシュヴァゴーシャは、こう言っています。
「万物の一体性が認識されないと、無明と分別が生じ、……、すべての現象は心の迷妄のあらわれにすぎず、それ自体には、いかなるリアリティもない」

ゴータマ仏陀の場合は、非常に論理的な考え方で、当時の空想話に終止符を打とうとして、彼は一派を立てたのだと思うのです。

ですから、それと対立した、六師外道(哲学者)の思想の中には、この世界を機械的唯物論で説明して、そこに意思らしきものを見出さなかったわけです。意思なく流転していくだけの世界で、常に変わるものだ、と教えているわけです。古代からインドでは、多くの唯物論者がいますが、輪廻思想の裏返しなのです。輪廻によって流転する魂を肯定することによって、苦悩が生まれるが、それを否定した唯物論のみが、苦悩を回避させる方法だとするものがあります。この世のすべて「地・水・火・風」の四大元素に還元するので、霊魂などは存在しないという考え方もあったわけです。

お釈迦様というよりは、ゴータマ仏陀は、ただ、その探求を続けていく選択肢を取らなかったということだと思います。

仏陀は、それを否定したわけではなかったのですが、そんなことを言っていたら、実証もない終わりなき理屈に終わってしまうので、困った人などを救うことは出来ない、と論争を避けたというそうです。[無記説]

仏教は、人間の存在の苦悩の原点を何かと説いているわけです。それは、単に、執着と欲望から起きているとし、そこからの離脱の論理があるわけです。つまり、八正道というわけです。

当初の、仏教は、現実論を説いただけだったと思うのです。そして、古代仏教では、一種の社会活動を推し進めたということです。(仏教学者・友松円諦氏より) 例えば、中国から帰国後の空海の足跡をみると、日本の各地で灌漑事業などを率先して行っています。「抜苦与楽」とは仏教精神ではあるけれども、現実的な問題に即していかなくては、一体、何のための教えが分からないと思うのです。いくら、「新大乗運動」と称したところで、実質的な行動が伴わなければ、テレビで無責任な霊感占いや、テレビ伝道師のビリー・グラハムのようなハデなパフォーマンスの一時間番組をされたら、免疫のない人は感化されてしまいます。

仏陀は死ぬ前に、「自らを燈明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、真理を燈明とし、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(自燈明・法燈明)という言葉があるように、仏陀の死後の存在を肯定してはいなかったし、仏陀自体を崇められることを望んでいなかったわけです。それは、鎌倉時代の僧たちも同様です。法(仏陀の教え)が、大事であるから、それをよりどころにしなさい、というわけです。

現代は、30年前ぐらいから比較すると、おどろくほど、現代の風潮は、神秘主義に傾いているように思います。私は、世紀末の風潮だけで終わると思っていたのですが、いよいよ本当になっていくのでしょうか。(小乗仏教経典を元にした)仏教の唯物論も極端すぎますが、かといって、神秘主義の仏教論には、何の根拠もないと思うのです。しょせん、どこかの教祖や霊能者と称する人物の妄想(定説?)にしか過ぎないように思います。
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NO3です。

お礼拝見、有難う御座います。
神、仏は存在するか、しないかではなく、各自個人の心に神、仏を信じる心があるかないか?ではないでしょうか?・・・
いないならいないでしょう。いるならいるでしょう。
私は後者です。~視覚で認識なんて出来ません~
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この回答へのお礼

>各自個人の心に神、仏を信じる心があるかないか?
>ではないでしょうか?・・・
>いないならいないでしょう。いるならいるでしょう。

了解です。

この宇宙空間に神が存在するわけではなく、
神・仏を信じる人と信じない人がいて、信じる信じないは自由ですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:26

神や仏のいる場所・・・ですか?


では悪魔のいる場所はどこですか?
どちらもそれを信じる人の心の中にだけ存在するものだと思います。

私は無神論者なので私の世界には存在しません。但し、人間の感知し得ない世界は間違いなく存在すると思っています。

人間は三次元の世界に生きていますよね? 難しい理論はわかりませんが、三次元の世界以外にも四次元、五次元などの世界が存在し、物理学的にも証明されたりしてきていると聞きます。

通常あり得ない事が起こったり予感されたりした場合、神を信じる人たちは神や仏、あるいは悪魔の仕業だとかお告げだと解釈するのです。私にはとてもそういう風には考えられません。不可思議な事象は三次元の世界と異次元の世界との交錯ではないかと思っています。

http://www.nhk-jn.co.jp/002bangumi/topics/2006/0 …
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この回答へのお礼

>神や仏のいる場所・・・ですか?
>では悪魔のいる場所はどこですか?
>どちらもそれを信じる人の心の中にだけ存在するものだと思います。

神・仏・悪魔
それぞれ人の心の中だけのもの
というのには賛成です。

ただ、「存在」という言葉は紛らわしいので使わないほうがいいと思います。
「存在」というとこの宇宙空間に「存在」するものと解釈できるのですが、単に信じるか信じないかの問題でしたら、心に思うことは
「存在」とはいえないと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:34

クリスチャンからですね。



聖書では信じる人の心の中に神はいると書いてます。
たぶん教えても理解できないと思います。
信仰というのは見えないものを信じるから信仰というのです。

仏教でも心の中にあるんだという教えがあったと思います
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この回答へのお礼

>聖書では信じる人の心の中に神はいると書いてます。
>たぶん教えても理解できないと思います。
>信仰というのは見えないものを信じるから信仰というのです。

「信じる人の心の中に神はいる。」
納得です。

神・仏は宇宙空間に存在するものではなく
信者の心にいるんですね。

無神論者の心の中にはいません。
植物や単細胞動物など心のない生物には神がいません。

ということは、物というのは宇宙空間が生成消滅させるので、
創造主は神ではないということですね。納得。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:43

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