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※信心深い方は、お読みにならないでください。



人間はなぜ、神や悪魔のようなものを創り出したのですか?



科学がまだ未熟だった(というか、皆無に近かった)大昔から、
人間はどこの国のどんな人種でも、
神々や悪魔、鬼、
場合によっては一神教の神様などを必要としてきたのでしょうか?


暗闇や天変地異、病気や死、恨みつらみなど等、
色々なものに恐れを抱き、苦しめられてきたのは、今も昔も同じ。

今は様々な分野の研究が進み、医学も日進月歩、
月だけでなく、常時、宇宙空間に人間が常駐している時代、
太陽系だけでない、広い宇宙のことも、徐々に分かってきている。

そんな時代でも、信仰心は忘れたくないものですが。


たぶん、ほとんどの人が、神や神々が大地や空、月や太陽、
星々を創った、なんて信じていないと思います。

アマテラスオオミカミも神話の世界だけで、
ギリシャの神々も神話の世界の住人です。
キリスト教も、神話という形をとっていませんが、
旧約聖書の創世記は完全に神話です。


必ずと言って良いほど、どこの地域のどの民族も、
何かしらの神を「創造」し、祀ってきました。

神が人間や世界を「創造」したというより、
人間が「神々」や「神」を「創造」したのでしょう。


宇宙には何か計り知れないものがありますし、
私も無神論というよりは、不可知論者なので、
自分なりに色々考えてきましたし、
何か偉大なものへの畏怖の念や信仰心のようなものもあります。


ご意見、ご回答をいただけますと嬉しいです。

A 回答 (20件中1~10件)

ピアノソナタさん こんばんは。



これだけ回答が出そろっているのでいるので、私のような哲学の未熟者が投稿する余地がありませんが、ちょっと脱線した回答かもしれませんが視点の違う回答をしようと思います。

誰が書いた何という本だったかは忘れてしまい、受け売りの考えで申し訳ないのですが、質問者様が昔の人たち恐れを抱いたと考えられる暗闇にこそ、哲学の時間があったのではと、ある哲学者が説いてました。

昼間は視覚により関心が自分の外面に向かっていますが、視界が狭まる暗闇の世界は自分の内面に関心が向き自分と向き合う時間であるとのこと。

暗闇の中で美しい星空が広がり、その運行の秩序などを考えたりすると、物語であるにろ、世界の秩序を形造ってる神がいて、昔の人は、そのことについて創作しようというという環境であったのではないか?

その点で現代人はどうか?

都会暮らしの私は、夜空を眺めても深夜に2等星くらいがいいところで、天の川はプラレタリウムでしか見たことがありません。

エジソンが電球を発明したことにより、医学的にも現代病といわれるもののリスクを高める結果になったという説があるということをテレビでやってましたが、哲学的にも自分(又は神)と向かい合う時間が昔の人たちより減った、あるいはそのような環境ではなくなり、現代人の感受性が鈍ったのでは?

なぜ、人は神を創り出したのかという質問に対し、なぜ、人は神を考えなくなったのかという回答になってしまいました。申し訳ありません。

メガスターでも買おうかな?
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私も無神論というよりは、不可知論者(質問文から)ですが、だからこそ精進勉強の生活を拙く歩んでいます、40数年前から。


自己と社会、人。宇宙とは。ということを思索するプロセスでの出会いを契機として。
自己と社会、人。宇宙とは。は究極を見つめていくと所詮はどこまでも遠のいてあなたはいつまでも未知で、あるいは不可知かもしれません。知性の思弁で対象化しているならば。
まぁ一つの考えとしてヒンドゥ的Yoga思想に出会ったのです。
そういうことで、まぁ自己性を把持しようとするプロセスの結果であるといえます。
具体的内容についてはここで披歴するのは、質問から離れることになるかもしれませんので敷衍は避けます。
Self-Realization Fellowshipというキリスト教に習合したヒンドゥ思想です。
ネット検索すると出てきます。
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 おそらく文明が発達する以前の人類にとって「神」とか「神秘的なもの」ってのはあくまで説明できないものを超越的力によって説明するために創造したというのが妥当なところかと思います。

近代以降の世の中では、少なくとも「科学技術」が全体に存在して、その片隅に「宗教」として存在するかも知れませんが、「科学技術」というものがそれほど普遍的な世の中の原理、摂理を説明しうるという認識がなかった以上、常識的に説明できないものはすべてそのようなものに帰着したのだと思います。

 現代社会において、宗教とか信仰の役割というのは「説明できないものを説明する」のとは違う意味合いがあると思われます。たとえば幽霊という一見すると起こりえないような現象であったり、逆にバタフライ効果というようなまったく無関係の二つの事象がさまざまなものによってつながりうるといったどんなに複雑な現象であっても、それを説明するための科学的な基本原理、すなわち物理や化学、あるいは生命体としての基本原理を逸脱することは基本的に「あり得ない」とされます。むろん、その原理が存在しうるということにたいする意味づけとしては解釈の余地があるのですが、だからと言って基本的原理が無視されることはたとえ明日地球が滅びるとしてもあり得ないのです。その「世の中の普遍的、統一原理としての科学や科学技術」に気付いたことによって「神なるものに複雑な事象(原因と結果の関係が分からないもの)や、コントロールできない運命(天気とか)を祈るということを積極的にはしなくなったというわけでしょう。

 で、じゃあ「神とか宗教とかは不毛か?」といいますと、これまた違うでしょう。どんなに万有引力によって世の中ができている仕組みや、人間の社会や生死というもの定義が分かったところで、それが”何をいみするのか”ということと、”何が良くて何が悪いのか?”という価値観への問いに答えてくれるものではありません。良く「人を殺すことはなぜいけないのか?」とか「自殺はなぜだめなのか?」とかの質問にたいしてさまざまな解答(それも沢山)が付きますが、結局他人にとやかく言われて万人が認める「なるほどそうだったのか」なんて都合のいい解釈ができるような万能な答えなど存在しないというのが正直な答えです。哲学としては、そのような視点の一つとしては”ニヒリズム”に代表されるものがあるかもしれませんが、肯定的な場面ででは積極的には議論されませんよね。ゆえに、近代以降の偉人ですら今でも「倫理的に正しいとはとういう意味なのか?あるケースにおいてどういう考え方が最も倫理的に優れているとされるのか?」ということについてもさまざまな論理を提唱しては反論されということが呉れ返されています。ただ、一般社会での個々人の倫理的基盤としてはそこまで複雑な論理性や矛盾を含むことは好まれず、その結果何らかの美徳を崇拝することによってそれをなし得ているとかんがえるのが妥当なところでしょう。(ゆえに子供になんで殺人はいけないのかと聞かれれば、自分が信じる美徳について主張するしかないし、それが正しいのではないかと思います。)

 日本の場合多くの人が「無宗教」とか言っていて、一見すると「神なるものによる美徳の基盤」を持っていないようにも思われますが、それは間違っているでしょう。もちろん世界的な宗教の信仰による基盤は弱くても「礼儀作法」とか「和や武道の心得」などがそれにあたっており、そういうところから日本として共通の倫理基盤を築いていったと考えられます。新渡戸稲造は日本人の「武士道」をその基盤として考えて海外に宗教心が少ない日本人がどのようにして精神的なよりどころを持っているのかを説明しようとしましたし、遠藤周作なんかはクリスチャンですが、日本人にとって宗教とはどうあるべきかということを生涯テーマにして小説を書いています。そういった意味でも、程度や形は違えど、完全な無宗教をもとにした無信仰の人間なんて案外存在しないのかもしれませんね。
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それは志向性を自らに与えるためではないかと思います。

原始の時代、人間は遥かな力を持つ者を神と崇めてきました。例えば熊や鷲などの動物、或いは巨木、活火山など。これらの存在の持つ力を志向したのではないかと私は考えています。
力を志向するということはすなわち強く生きていくことであり、人間の生存本能が導き出したものが、神という存在だったのではないかと思うのです。
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質問者も、回答者も、全員死刑だ。


社会に対する反逆剤だ。
人と人が、獣の様に争う事なく、お互いを理解する知性は神に由来する。
猿が人間に進化し、社会を形成したのは、神がいるからこそだ。
ところが君達はサルにまで後退し。
そんな神に恩返しするどころか、神を所有しようとしている。
君達は、尊ぶべき、人間の祖先を卑しめ、神さえも屈辱する親不孝者だ。
君たちが誰にも助けてもらえずに、現代日本でま珍しい餓死をしても、それは祝福されることだ。
社会が君たちを見捨てれば君達は生きていけなくなる。
その社会が、神のもたらした人間知性により実現したことだ。
君達の場合は、判りません。
そう言え。
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勝手な想像ですが、


きっと縄文弥生などの時代には
協力していく時代で
支配するされるの上下関係はないでしょうが


いつの時代か、
賢い人が支配するために
神と言う名の姿も声を未知の存在を
作り上げたんじゃないでしょうか



太陽神ラーも
定期的に雨の降る時季を思いつき
私には神の声が聞こえると
自らファラオと名乗り
人々の上に立つなど成功をおさめました


暦によったり
地域によったりと
特にヨーロッパでは
キリスト教やそのプロテスタント、
イスラム教など多くの宗教が発展
したんだと自分は考えています



支配しようなど考えなかったら
最初にできた宗教の考えにみんなが
のっとれば
ある一種戦争なんて起きないし
名前は忘れましたが仕事を懸命に
する宗教の考えが全国に広まれば
世界恐慌なんておきなかったんじゃない
かと思っています



ただ幽霊や悪魔の存在も
悪魔はロシアなど宗教的に信じられている
ので話は別ですが
幽霊や日本でいう妖怪は
いると信じている人信じていない人も
宗教的な面ではなく姿声も分からない存在を意外と多くにいたりするんじゃないかと考えています



日本はそこまで栄えていませんが
神の存在を信じる時があります
神頼みする時です
初詣など神社にいって
家内安全や合格祈願など
神の力を借りることは誰もがしたんじゃ
ないかと思います



少し話がそれましたが
都合のいいように人を集めさせ
支配させるなら
根拠なんて何もない
声すら聞こえないない神という存在を
使った方が支配しやすいんだと

自然も人間も神が創造した
これは結局雷だったら神がお怒りに
なられてるといえば
誰かの悪事を見つけ出せるし
誰かがなくなった時に
弔いの雨と称せば信者が
弔うなど神の言葉を通して
自分が支配するにはもってこい
だと考えました


分かりにくかったらすいません
でももし支配するにも
こんだけ信じ込ませるのも
聖書書くのも大変ですよね
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古代においては人が理解できない現象が多かったと思います。


もし病気になったら、現代人は細菌やウィルスの感染などを考えます。しかし、古代においては原因はわかっていませんでした。
人間は原因を考えて、それが起きないようとします。そこで悪魔や神の仕業と考えたのではないでしょうか。

また、宗教はそれを社会的に利用したものと思います。
人間はお互いに協力すると社会は発展しますが、騙しあったり、奪い合ったいすると崩壊します。
神のような人間を越えたものを想定することで、騙したり盗んだりすると神の怒りに触れるという具合に考え、人間がお互いに協力するようなシステムを作り上げたのだと思います。

偉大なもののへの畏怖や信仰心は人間の本能だと思います。そうした本能をもつことは人類の生存上有利であるのでそのように進化したのだと思います。信仰心がなく、ウソをついても騙しても平気という人間ばかりになってしまうと社会的にマイナスだからです。
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神話を記録と理解すると、人間の先祖は、他惑星から来たかも知れ無いと思ってしまいます。

余りに具体的ですが、当時の人には理解出来ない文化を持つていたのではないか。今の地球人は、やっと宇宙に出たばかりですが、同じような進化した惑星から来たと考えると神話も記録ではないかと思ってしまいます。
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>人間が神、宗教を創りだした理由



そうゆうケースはあるでしょうが、全ての神仏と宗教が人間の都合で作られたとは思えません。

私は無信仰ですが、それは今までの私の知っている宗教組織が信頼するに値しないからです。

どこかには、欲にまみれていない真実の宗教というものが、どこかにあると思います。

あなたは、神仏宗教が偽物と断定しておきながら、信仰心を失いたくないとはどういうことでしょうか?
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>人間が神、宗教を創りだした理由


>人間はなぜ、神や悪魔のようなものを創り出したのですか?
⇒以下のとおりお答えします。

(1)豊穣を祈願するため
農作物の実り・肉食のための獲物の確保・子孫繁栄などを祈願するために万能の神を想定してこれを祭り、崇め、拝んだ。インドあたりの「樹下美人像」やガンダーラ壁画(男女のからみ)などは、実りや多産の祈りの象徴化でしょう。収穫祭や謝肉祭(Carnivalのcarniは「肉」の意)は、起源的には、そういう祈願成就という神の恩恵に対するお礼の儀式でした。

(2)天変地異への恐怖
人間の力では如何ともしがたいような天変地異を鎮めてもらうためにも、万能の神にすがるしか方法はなかった。しかし、同じような祈願でも、結果が出てからお礼をすればそれでよい場合もあるが、「起こってもらっては困る」ようなことを抑えてもらうためには、「あらかじめ」贈り物をしてご機嫌をとっておかなければならない。それが、供物や生贄などの奉納でした。メキシコのアステカ族は、若い乙女の心臓を生きたまま抉り出し、恭しく神に捧げた。なぜ乙女か。子孫繁栄のために最も大切だから。なぜ心臓か。人間の命にとって最も大切な中枢だから。なぜ「最も大切」なものか。神は所望を語ってくれないから、「我々にとって最も大切なもの」が最もよい捧げ物に違いない…。

(3)判断の一時預かり
いかに科学の進歩した現代でも、分からないことはいっぱいある。つまり、人知を超えた、人知の及ばない領域であるが、この領域を統覚する(と想定される)存在がいわゆる「哲学神」である。ところで、一神教とか多神教とかにかかわらず、神は人間の姿と同じである。キリスト教では、人間のことを「神の似姿」などということがあるが、発想が逆である。「馬が神を造っていたら馬に似せて造っていただろう」と言った人がいた。そのとおりである。これに対して、哲学神は、特定の形をとらない。拝んだり崇めたりもしない。それは「絶対性」というような用語で置き換えてもいいような、単なる概念にすぎないかも知れないが、それでも「神(的存在や象徴)」を想定しておくと便利ではある。
その理由(i):不可知論者は「不可知の雲」の向こうの探求を放棄するが、そうすると未来永劫これに関知しないことになる危険がある。それより、哲学神に「不可知部分の一時預かり」をしておいて貰えばよいことである。(ii):地球生命の生殺与奪権を掌握する現代の人間は、本当は分からないことなのに、拙速な判断をしては地球生命の滅亡の危機を早めている。「本当に」分かるまで、神(的存在)に「判断の一時預かり」をしてもらえばいいのである。

以上、ご回答まで。
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