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わたしは信仰に席をあたえるために知識を廃棄しなくてはならなかった。

ご存知の大哲学者の有名な言葉ですが、不滅の霊魂のような自然科学の対象で無い世界の可能性を否定する輩のその根拠はなんでしょうか?

A 回答 (10件)

>不滅の霊魂のような自然科学の対象で無い世界の可能性を否定する輩



不滅の霊魂が存在するとするその創造主は人間ですよね。

人間は自然科学の部類に入りますが、人間が作ったものは、自然科学ではない。

人はいろいろなものを作ります。
椅子、車、音楽、宗教、○○ファンクラブ 等。


全部自然科学ではない、が、それを存在していると認めているから、そこに座り、乗り、聞き、集まる。

人為的に作られたもの存在は否定していないが、人為的に作られたものの価値は、人は否定をする。


例えば、キリスト教は初期の状態において、他の説を採る同じキリスト教を迫害しました。


今でもカトリックとプロテスタントはいがみ合っており、お互いの利益が一致したときのみ仲良くする。


警察に「俺じゃない 幽霊が殺したんだ。俺は幽霊が殺すのを見ただけで、俺が殺したのではない」と言った場合、警察は素直に幽霊の存在を認め、供述の通り幽霊が殺したと認めるでしょうか?


キリスト教は魔女が存在すると認めた、つまり 魔女は自然科学だと認めた。
そして沢山の人を魔女だ、魔法使いだと決定して、殺す人をその前に拷問して、そして十字架にはりつけ焼き殺した。


カトリックは今でも悪魔は存在するとして、エクソシストを行って組織で悪魔祓いを行っている。


せーラムの魔女狩の一部始終をみると、演技により魔女がいるとして女に操られ、本当にいると思って恐怖に煽られ、無実の人を魔女だ、悪魔だと決定して殺してしまった。


つまり、霊魂や魔女や悪魔など、自然科学の対象ではない部類の存在を神じ、存在を認めたため殺してきた。



このように自然科学の対象ではないもので 人にとって良い作用をするもの、存在しても構わないものと、存在するととても人にとって危険なものがある。

車など便利で、これにより流るのにかかる時間が短くなり、より多くのことが人間はできるようになりますが、使い方を誤ると人を悲劇を産む。


従って、自然科学の対象ではない人が作ったものに対して、それが悪い結果をもたらしたとき、人々は警告をするのであって、存在自体を「存在しない。 無い」とは否定してはいない、と私は思うんですね。


あなたがおっしゃりたいことはわかりますよ。
例えば「幽霊はいるに決まっているではないか。それを科学者は否定する。 いるに決まっているものを否定する輩の否定の根拠はなんだろうか」みたいなものですよね。


娯楽として人々が心地よい気持ちになり、鬱で困っていた状態だったのに、人為的な思想により心地よい気持ちになり、また生活を今まで通り営めるのであれば、その人為的なものは価値があるものとして、その存在価値を科学者は認めています。


ですが、狂信的になり、以前あったようですが、キリスト教は全人類が全滅しなければ神の救いは完了しないから皆殺しだ と虐殺に傾いた場合、科学者は黙っておらず、そもそも 神が存在すると信者は立証できるのか 立証できてもいないのに、どうして殺すのか と虐殺に対して抗議の活動を始めるわけです。


その科学者の抗議の根拠を知らないと、「科学者はなにがなんでも霊魂の存在、幽霊の存在を絶対的に否定している」となってしまう。
今回のあなたの質問の発生の原因は、ここじゃないでしょうか。
科学者はどうして立ち上がったのか、その根拠を知らないから。
で、今説明したわけです。



もうちょっと説明すると、、、、

例えば、宗教では救済だとかいって、多額の寄付をしないと救われないかのようにしか受け取れない説明をするところもありますよね。
かなり多いと思います。 この集金方法を採用している団体。

「この世の財を積んでも無駄だ、それを捨てるべきだ。教団に寄付しなさい。 我々が人々のために使ってやるから。さもないと地獄におちますよ。」など。


それでそれを信じた人が何千万円と寄付したが、後に団体が豪邸を建てて、建物の所有者は教団だが、実際は教祖の家族以外その建物を使用できない、教祖の住居として使われている、教祖の避暑地として教祖の家族や 愛人との密会場所として使われていた と明るみに出ると、金を返せと裁判を起こしたりする。

騙されたほうが自業自得でもありますが、恐怖心を操作されたとして、裁判所は返還するよう命令が下る。


その裁判を開くため、どれだけの税金が使われたか。
その人がもうちょっと理性を持ってくれさえすれば、無駄に税金がその人の財産の回復のために使われることはなかった。


前世療法についても同じです。
自然科学ではないものが人によい効果をもたらしているとされているが、実際調べたらよくなった人は一人もおらず、記憶が塗り替えられた可能性があり、思い出した記憶は偽りである可能性があり、その偽りの記憶でありもいなかったことに苦しんでいる可能性が高い、と科学者(医者)が裁判所で客観的意見を述べだしたことから、やっと長年続いていた社会パニックが下火になった。
(実際20年ほど前にアメリカで起きたことだそうです。日本はアメリカに文化の面で20年遅れているので、今が日本はブームになりだしている。)


有効に作用していれば、科学者は立ち上らない。 必要がないから。
悪に自然科学ではないものが傾き人々の混乱させ苦しませたとき、科学者は立り、この自然科学ではないものを信奉し、これを利用して人々から搾取し不幸になろうと知ったことじゃない 自分が権力を得られたら、自分が人々から財産を奪って自分が幸せになりさえすれば、という自然科学ではないものによって人を不幸にする輩に対して、静かに意見を述べだす。


自然科学ではないものを使って人々を実際は不幸にしている人たちから、奪ったものを持ち主に戻してやるため。 あるいはこれ以上他人を不幸にするのを止めるため、あるいは回復させるためにしていたりするわけです。

この回答への補足

こういった表現や思考法は全て意味がないということでよろしいでしょうか?
http://sakuchan.fc2web.com/sub06.htm

補足日時:2007/06/29 15:27
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この回答へのお礼

それとカントは宗教に席をあたえるためにとは言っていません。
信仰と宗教は意味が違いますのでお気をつけください。

お礼日時:2007/06/30 17:07

No.3&5です。



No.5で補足されたカントの《月の住人》の例は 残念ながら 適切ではないと存じます。

つまり これは 時空間における経験にかかわり 自然科学の対象に入ります。

いまは分からないが いづれ経験科学の力で分かるようになるだろう(つまり ならなくても そのように区分して認識しうるし しておく)という領域に属しています。

経験合理性によっては 分かるが分からないかが分からない領域が想定され これについてのみ――想定をたとえ知らなくとも―― 信じるという人間の経験行為が 起こります。

ちなみに 《仏教を信じる あるいは キリスト教を信じる》というのは 明らかに矛盾です。教義なり理念なり人間の言葉で表現された内容は はっきりとした経験思考の対象です。《信じる》のではなく 《考える》と言います。

単なる表現のあやだと反論してくるとすれば それらの言明は 《教義を正しいと思っている》と強く言っているということです。そこに 信仰があるかないかは それだけでは 明らかになっていません。

思考内容に表わされた理想や理念にかんする強い思いという意味での信念・信条は あるかも知れません。

この回答への補足

>No.5で補足されたカントの《月の住人》の例は 残念ながら 適切ではないと存じます。
つまり これは 時空間における経験にかかわり 自然科学の対象に入ります。

可能的進行と言っているではありませんか。
もう少し勉強されたら如何ですか?

補足日時:2007/07/03 01:04
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この回答へのお礼

正直言ってガックリです。

お礼日時:2007/07/03 01:17

あなたには主張があるんだね。


主張を隠すから、こういう質問のいいまわしになるんじゃなくて?

隠された主張から、他者が誤謬をとりのぞいてみせるという労力は少なくないので、
そんな言葉の曲げ方、問い方、にじり寄り方は、あまり人に優しくないですね。

信仰の問題が扱いうる現象と、自然科学の範疇外となる現象を
等価にしたいという願いが窺える。

問いはその願いから発し、答えもまた、その願いに回収されることになるでしょう。

問いと答えは、同じ願いに根を持つもの。
それが、根拠というものの恒常的な成り立ちです。
発語する魂の、信による域を出ることがない。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2007/07/03 01:21

確信は信仰とは違う。

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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2007/07/03 01:21

信仰は宗教と違うといいますが、例えばキリスト教においては信仰はその宗教の持つ教義に基づいて信仰がされていくと思うのです。

内部の人間に言わせればそれを信仰というかもしれませんが、外部の人間は一般的にそういう教義に染まっているのを宗教といいます。
主観的はもしくは教義を同じくするもの同士はそれを信仰といい
その宗教に属さない客観的な立場にある人はそれを宗教と呼ぶ。

信仰は思い込みである可能性がある。

>不滅の霊魂のような自然科学の対象で無い世界の可能性
思い込みであるかもしれない信仰による可能性ということでしょうか。
できれば補足説明お願いいたします。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2007/07/03 01:47

No.4です。



あの、、、、

>ということでよろしいでしょうか?

私が言った言葉をオウム返しに書いて、「○○でよろしいでしょうか」を繰り返す質問者がいましたが。。。。。。。

くりかえしだと、前に進んでいないですよね。

哲学は疑うことからスタートする。
今まで常識とされ、それが当然だとされた対象ですら、人は「本当にそうだろうか?」と疑う。

それで、ここに「本当にそうでしょうか。私はそうは思えないのです。 何故なら○○という矛盾をはらんだ上で成り立っているから。 どうして人はこの矛盾を無視し常識だとしてしまったのでしょうか」など質問するわけです。

するといろいろな人が回答するわけです。
「人は常識とされたことに対し無防備になってしまいやすい」とか、「それを漠然と捕らえ、矛盾だと気付けないのではないか」とか、「いや矛盾じゃない 何故なら」とか。


いろいろな回答の中から、あなたが「そうか」と納得のいくものがあれば、例え他の人は「いや それでもおかしい」と思おうが、<あなたが それで理解できた>となれば、このサイトはあなたは黙っていなくて質問してよかったとなるわけです。


多くの個性を持つ人が集まる (religare→Religion)ならではの特徴で、質問者にとっても、回答する側にとっても、閲覧のみの人にとっても糧の多い場です。
そしてこの場は自然科学ではない。



>こういった表現や思考法は全て意味がないということでよろしいでしょうか?

予兆とかですか?
例えばなまずを抑えるける日本画があります。

「なまずがいつになく騒いでいると、その後に地震が起こった」→「なまずは地震を起こす」→「なまずが騒いだらすぐに押さえつけて動けないようにすれば、地震を予防できる」

誤りですよね?


突然森の動物が森からすっとんで出てきた。 動物が大移動をした。
ねずみが一挙にどこからともなく現れて町から出て行った。

何故だかわかりますよね。

<動物は予知能力がある。>
誤りですよね?

人間の知覚が動物よりすごく劣っており、動物が異変を感知でき身の安全を図っているのに、人間はその異変を感知する能力が無いことから、異変が始まったのに気付いていないので、どうして動物が騒ぐか、一斉に移動を始めたのかわからないわけです。
しかし感知できた生き物のその行動(現象)を捕らえ、関連付けを行おうとする。

するとその<動物が集団で逃げ、地震が起こった> とある程度の流れを知ることになる。
原因はわかっていませんが、第一の原因が引き起こした第一の結果に対して、観察した結果、そこにある一定のルールを見出しているわけです。


「ここほれ ここほれポチがなく 正直爺さん掘ったなら」

犬は人間よりずっと臭覚がすぐれているし、人間では認識できない音の波長も捉えることができる。

「ワンワンとシロが鳴いた数分後に、しばらくしてシロを一番かわいがっているパパが帰ってきた。シロは予知能力がある」 じゃあない。


「シロは超能力がある」と「おシロ様は神の使いだ」と奉る人もいれば、「犬は人間以上の能力をもしかして持っているのじゃないか。 もし人間以上の臭覚を犬が持っているとすれば、その人間には無い能力を活用して麻薬をバッグに隠し持っている人を捕まえられるかもしれない」という人もいる。

同じ現象なのに、現象を観察した人によって、捕らえ方が違うわけです。

お犬様と敬う人もいれば、人間にとって未知だった犬の潜在能力を発見する人もいる。

「バカらしい 犬は人間に比べて劣っており、人間以上の能力などない」という人に、実際実験結果を見せてやれば、未知だったものが存在すると認識してもらえるようになるわけです。


今まで霊魂は存在するとしてそれを扱う職業だった人は数多くいます。

自分の体に霊を憑依させ、自分の肉体を通して家族と霊を会話させたり など。

すごい能力ですよね。
霊界をおろしてくるのだから。


でも、それをやってきたカリスマ霊媒師が、全部トリックだったとトリック内容を暴露しました。
仲間内の悪事(レイプなど)をばらしてしまった。


「中には能力も無いのに、手品でさも交霊したかのようにする人もいるが、だからといって全員がニセモノだとは限らない」

という主張はオカルトマニアがよく言うことです。

それに真っ向から頭ごなしにその存在を否定すると、「ある」「ない」の無限論争に陥ってしまい、両者にとってその論争は何の解決にもならない。

CSICOP(超常現象の主張に対する科学的調査委員会)という団体があります。

今までは信奉者と懐疑論者が対立して野次の飛びあいだったわけですが、全然解決しないので、人類は新たなステージを作ったわけです。

信奉者の言う超常現象を「本当にそれが事実であるかどうか、注意深く、客観的に立証を求める。

その者たちが客観的に事実であると認めた場合は、それを正しいと認めるというフェアな態度を持って検証に臨んでいる。

彼らがひざまずくのは、あくまで客観的事実の前にであって、自分の思い込みや、感情であってはならない。


例をあげると、「幻の今とは比べ物にならないほと発達した超古代文明アトランティスの実在は、プラトンの書物にも書かれており、かつてあったと証明されている」。

本当にそうか? とCSICOPメンバーは思い調べるわけです。

結論を言うと、プラトンの書物には確かにアトランティスという言葉はでてくるが、本人が直接行ったわけじゃなく おじさんから聞いた話で、しかもおじさんから聞いたというのすら怪しい。
超発達した古代文明大陸をプラトンは指していない。
飛行機械も宇宙銃も出てこない。

幻の大陸レムリアにしてもしかり。
狐猿の生態地域だったものが、いつのまにやら幻の大陸レムリアは花が咲き乱れエデンの園ようなもの、それがかつてあった。とデマが勝手に一人歩きをしてしまった。

このようにCSICOPはオカルトマニアの中では常識とされたものを、一個づつ客観的に検証していっているわけです。

どうしてそんな話になって、それがまことしやかに「ある」となってしまったのかの経緯まで調べ上げて。


オカルトマニアの方は信じるのに忙しくて、肝心の必要な手続きをしていない。
他人が作った作り話を真実だと盲信するのが仕事になってしまっている。

これでは、とうてい可能性を否定する人々を説得できない。
「ある」と主張するからには根拠が必要である。

そのオカルトマニアが出した「ある」とする根拠をCSICOPは本当にそうかと検証して「本人はそんなこと言っていません」と当時の新聞記事にて反証するのです。

「新聞に本人がそう証言したと書いてあるではないか」 という時は直接本人のインタビューを取る。
すると、本人は「そんなこと言っていない、私も新聞を見てびっくりしましたよ。 私が言ったように書いてあるのですから」という真実に行き当たる。


とまあ、オカルト信奉者は、もうちょっと自分が信じるものに対して、短絡的に取り組まず、真剣に取り組まないから、結果 CSICOPなどから、自分の信じるものと違う真実の結果をつきとけられ、短絡的にかっとなってしまうのではないかと思うんですね。
短絡的に信じ 他人によって集められた真実に対して短絡的に怒る。
とても軽いです。




>それとカントは宗教に席をあたえるためにとは言っていません。

大哲学者と書いてあったが、それが誰が言ったことなのか、実は私知らないんですね。
調べましたが出てこなかったので、20世紀の大哲学者と言えば、ハイデッガーだから、「ハイデッガー? 読んだ本には書いてあった記憶が無いが・・ まあ いいや」と思いはしました。

それに質問の内容からして、実際質問している内容は、その言葉とは直接関係がなさそうに思えたので。

従って、「カントは宗教に席をあたえるためにとは言っていません。」といわれても、「はぁ・・・・」です。

「私はバナナが好きなんです!」と突然言われて、「何故ここでバナナが好きだと主張を相手がしたのだろうか 難解だ。」と困惑するしかない。


>信仰と宗教は意味が違いますのでお気をつけください。

これも「はぁ・・・」です。

信仰は「○○ファンクラブ」も信仰の一つだと思えますし、自然界を恐れ敬うのも信仰だと思います。
宗教はそれに超越的な何かを神聖化し崇拝するこを希望した人たちが集まった状態だと理解しています。
そして、時には人間は何かを超越したものという観念に囚われすぎ、現象を捻じ曲げて理論づけて不自然にしてしまうこともある。


つまり自然を正確に捉えられず(不自然)、それを真理だと思い込んでしまう危険を人間ははらんでいる。


で、「お気をつけください」というのは、使用法においてこの場合 正しくないと思います。

私は前にある方に注意を喚起させていただいたことがあります。
捕らえ方によっては質問ではなく主張になっているとなる文だったからです。
しかも嘲笑を表すシンボルを多用しており、これじゃあ 何か納得をするために質問したのではなく、自分が思うことに賛同して欲しいために書いたかのように見えてしまい、それで「主張は質問じゃないのでここでは削除対象になってしまいますから、それを知った上で、回答者に返信していかないと、質問じゃないと受け取った人に通報され、投稿が削除されるかもしれないので、そうならないように返信内容に 【お気をつけください。】と使いました。
命令ではなく威嚇でもなく、あくまで助言でした。


つまり、このサイトの趣旨を知らないのなら教えてあげて、その方向性で質疑応答を続けて欲しいと思ったから、【お気をつけください。】と情報を提供したわけです。


ですが、朝起きると削除されたという連絡が届き、「間に合わなかったか、、、」と自分の力不足を感じました。


イヤなんですよ。
私が参加したトピが削除されてしまうのが。
イヤなんですよ。
多くの人がいるのに、誰も何もできないってのが。
イヤなんですよ。
絶対的な権威者により、問答無用で他の人が死刑になってしまうのが。
スレスレであるが、周りの誘導により、違反が適用され存在し続けられると判断したから助言した。


人は正確に捉えることは難しい。
ただ、正確に捉えることができない人でも、他の人が手助けすることによって、一緒に走れるようになれば、それが理想の社会だと私は思うんですね。

「正しくないから死刑だ」じゃ、ロボット社会。
あるべき人間社会じゃないし、人間が集まっている必要性をそこに見出せない。


カントについては少し知っていますが、彼の言ったことを不滅の霊魂に関する思想とリンクできそうなことを書いてもいいですが、その前に、あなたの質問の趣旨はなんですか?

私は「不滅の霊魂のような自然科学の対象で無い世界の可能性」という言葉すら、すごく抽象的だと思えました。

もうちょっと具体的に、例えば霊魂の存在について語った人の思想を書いて、それでも存在しないといえるのでしょうか、など質問しなおしてはどうでしょうか?
すると回答がつきやすくなります。 的が絞れるから。



もうちょっと絞っていただけないと、あなたがモヤモヤを消してくれそうな回答が返ってこない気がします。

抽象的なものじゃなく、例えばで結構ですので、もうちょっと対象を絞っていただけると、もしかしたら納得のいくあなたが知らなかった情報を提供してくださり、理解の助けになるかもしれません。


ということで補足要求です。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2007/07/03 01:22

No.3です。



否定するのは 早とちりのほかに さらに いわゆる世間の慣習としての宗教が嫌いだからといった動機があるかと思います。(この宗教を 信仰と同一視した結果ですよね)。

自然科学は その経験科学の眼から見て 論証・実証することができないことがらは その対象としない。対象としないということは 積極的に否定するつもりは持っていないと思うのですが。  

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

可能性を否定できる根拠があるとしても原理的に言ってそれはNO4の回答に在るように憶見にしか過ぎないわけですが、なかなかそれに気付きたがらない方々がいらっしゃるみたいで(笑。
早とちりも根拠ではないのですがそれはともかく、わたしの質問の趣旨は次のカントの次の言葉に集約されております。

{それだから経験の対象は決してそれ自体与えられているのではなく経験においてのみ与えられているのであって経験をほかにしてはまったく実在しないのである。月に住民がいるかも知れないということは、かって人間が一人として彼等を知覚したことがないにしても、確かに承認せられねばならない、しかしこのことは、我々が経験の可能的進行において彼等を見つけ得るかもしれないということを意味するにすぎない。経験的進行に従って知覚と関連している一切のものは、現実的に存在するからである。従って月の住民は、私の現実的意識と経験的に連関を保っていれば現実的に存在すると言ってよい。しかし彼等は、それだからといってそれ自体、即ち経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。}
<純粋理性批判 篠田訳>

もうすぐ締め切らさせていただきますので少々お待ちください。

補足日時:2007/07/01 21:57
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人生いろいろ 会社もいろいろ 知識もいろいろだということだそうですから 知識とその合理性に反することでも この世の中にはまかり通っていくことがあるかのようです。



つまり そのような自然科学(経験科学)の対象とする世界においてすら 知識を廃棄しなくてはならない場面があるかに思われます。

信仰は 考えても分からない領域です。経験合理性で分かるか分からないかが 分からない世界にかかわっています。そこで しかもあたかも経験行為として生じる《わたし》の思いとおこないです。(なぜなら わたしは経験存在です)。

つまり 信仰は もともと 考えるという行為とその成果――知識――を超えています。

超えているということは――しかしながら―― 包みこむということであるかも知れず ある程度は 知識で知解し納得することも出来るようになるかも知れないと思われます。(わかりませんが)。

お尋ねの件としては 自然科学は《信仰の世界の可能性を否定する》のではなく 理性の限界を超えているとして 対象としないのだと思うのですが。自然科学者としての態度をゆるめるなら――というよりは ふつうの存在全体であるところの人としてなら―― それぞれの見解を持っているのではないでしょうか。得意顔で否定する人は 早とちりだと思います。

自然科学の営為には なぞがある 謎が残るということだと思うのですが。謎とは 《不明瞭な寓喩》だと言われ 経験領域を超えた世界に対して 直観のようなものにおいて 不明瞭だが 仮りのたとえのようにして わかったと言いたいような(分かったと思えるような)経験を持つことがあるのかも知れません。(なんでもない出来事つまり単なる主観だと思いますが そのことが 生涯にわたって支えになるのなら 大きいことでもあります)。

この回答への補足

私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。
<レヴィ=ストロース>

わたしの全ての表象が科学的思考によってのみ構成されているものばかりではないということですね。

補足日時:2007/06/29 15:40
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この回答へのお礼

それで根拠は「早とちり」だけですか?

お礼日時:2007/06/30 20:33

物事が存在する理由を前提(先行して存在するもの)に求めるときりがありません。

一方物事そのものを前提と考えるとそのものが存在する目的になり、何かを信じるということになります。前提を求めるか求めないかで知識と信じることとは両立しないのではないでしょうか。

この回答への補足

万有引力をしらなくとも物は落っこちるという法則は何方もご存知なわけですね。

補足日時:2007/06/29 19:26
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この回答へのお礼

それで可能性を否定する根拠は何でしょう?

お礼日時:2007/06/30 20:41

19世紀初頭、フランスではナポレオンが世界を制覇した時代


ドイツでは哲学や音楽では世界を制覇しました
その時、カント、フィヒテ、ヘーゲル、と人類思想史上
流星のように輝いたのがドイツの観念哲学でした
カントは純粋理性批判で人間の認識について徹底的に究明しました
その後、実践理性批判で道徳について体系を明らかにしました
この世界は至高善という絶対基準を背景に道徳律を説いたわけですが
これは自然科学とは別領域に成立するものでした
至高善とはカントは神を想定していました
しかも、カントの母親はキリスト教信者だったこともあり
キリスト教の神を、カントは、指していたことはほぼ、間違い
ありません
かくして、信仰に席を与えるためには、自然科学の世界を
土台にしていないのであるから、その別次元で考えなければ
ならない、それ以前、信仰の世界と自然科学の世界が分けられて
いなかった状況にあったが、
カントの世界でははっきりと分かれた事情において
知識を廃棄しなければならない、とは
堂々と皮肉さえこめて断言したのでしょう

キリスト教の神、イエスキリスト、とカントの神が同一
と、私は、言っているわけではありません
あくまでも、カントは、すくなくても、そう考えた
ということでしょうか

この回答への補足

質問の内容は「自然科学の対象で無い世界の可能性を否定する人たちのその根拠」をお伺いしたいということです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

補足日時:2007/06/26 02:14
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