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 明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。

 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~
 1: さて、アダムは妻エバを知った。
  彼女は身ごもってカインを産み、

   「わたしは主によって男子を得た」

  と言った。

 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
  アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
  主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。

 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
     お前はそれを支配せねばならない。」

 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
   カインは弟アベルを襲って殺した。

 9: 主はカインに言われた。

     「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

    カインは答えた。

     「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 10: 主は言われた。

     「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。

 11:  今、お前は呪われる者となった。
     お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも
     なお、呪われる。

 12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す
     ことはない。
      お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 13: カインは主に言った。

      「わたしの罪は重すぎて負いきれません。

 14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし
      が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって
      しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す
      でしょう。」

 15: 主はカインに言われた。

       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の
      復讐を受けるであろう。」

    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに
   しるしを付けられた。

 16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?

 ▲ (同上) ~~~~
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

 農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?

 よろしくお願いいたします。

gooドクター

A 回答 (37件中1~10件)

弟を殺したことがやましかったのでは? 



信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。
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この回答へのお礼

 やり方をおしえてさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。
 ☆ 文脈をも交えて引いてみます。

 ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~
 1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあと エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。

 ここで なお分からないのは こうです。
 ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。
 ☆ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かります。ですけれども 
 ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ
 ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって 
 ▲ (創世記4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。
 ☆ ということなのでしょうか?


 つまりまづ
 ★ 弟を殺したことがやましかったのでは? 
 ☆ という理由は ちがいますよね? なぜって やましかったあと ころすまでに到ったのですから。


 整理しつつ考えてまいりますが:

 (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。

   ▲(創世記4章) ~~~~
   3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として
    持って来た。

   4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
    主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

   5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
   ~~~~~~~~~~~~~
  
 (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか?

 (3) あるいは――いまのつてで言えば―― その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか?

 (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということであるらしい。そういうことなのか?
 つまりは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか?

 (5) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか?
 つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか?

 (6) もしそうだとすれば カインは 

  ▲(創世記4:5) ~~~~
  カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
  ~~~~~~~~~~~~~

 というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか? 

 (7) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか?

 (8) すなわち カインとアベルとそして神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方が決めるということなのだろうか?


 (9) そうしますと むしろこうなりますまいか?
 すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それにはかかわることなく 信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか?

 (10) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか?
 なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ませんか?

 (11) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをする人間であった。となりましょうか? 

 (12) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。生き続けるということにつながりましょうか? 

 (13) こういう物語なのでしょうか?



 (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか?

 (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?


 (16) もしそうだとしたら

   ▲(創世記4:8) ~~~~~
    カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
    カインは弟アベルを襲って殺した。
   ~~~~~~~~~~~~~~

 というようなかたちで いま現代において 襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。


 ヘブル書の記事をおそわり 一気に考えてまいりました。
 このようでよろしいでしょうか? どこか間違えましたでしょうか?

お礼日時:2012/02/16 16:36

宮田玲『旧約聖書における「パニーム(顔)」』 


これは面白い。もう少しじっくり考えたい内容ですね。
とても面白いものを紹介して頂き、ありがとうございました。

難しい問題になりますね。
記述と解釈を結ぶ約束事から読解に取り組むと、
物語のキャラクターを塑像し、物語内容に浴する、といった読み方ではなくなりますね。

ともあれ、記述というのは不思議な作業には違いありません。
中世以前は、名詞ひとつに際してもレフェランスが多様ですね。
イメージ層の厚さ、背景や地平の広さに、われわれの目が拓かれる契機にもなると思います。
記述の行為の本質には、霊的であり暗示的であり示唆的である性質が備わっていると思っています。
ロゴス化を引き受ける特権的な書き手の仕事というのは、
はたして書くべきことが先ずあってそれを書き綴っているのだろうかと、疑いたくなります。

顔の点も含め、聖書のタームの奥行きに気付くことがありましたら、
今後もじっくりと時間をかけて掘り進んでください。
ご精進楽しみにしています。
わたしは、この春から子供が幼稚園にあがりますが、おかげで赤ちゃんの頃とは比べ物にならないほど時間を取られており、自分の息の長い仕事にはとても手がつけられなくなりました。
それが幸せなのだというほどは胆をくくれていない自分が心のどこかにいるようです。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ★ ~~~
 記述と解釈を結ぶ約束事から読解に取り組むと、
 物語のキャラクターを塑像し、物語内容に浴する、といった読み方ではなくなりますね。
 ~~~~~
 ☆ という問題についてです。おっしゃるようにむつかしい問題です。

 ただしここでは 聖書にかんする読み これに限定することとします。表現論の一般としては――表現論プロパーとしては―― まだこれからです。

    *

 聖書にかんしてなら どうもわたしには 単純な《表現の問題》があります。

 いつも言っているのですが 《わたしは ねたむ神である》という・人間の言葉によって表わされた神語の解釈についてです。
 《狭いながらもたのしい我が家》というふつうになじみのある生活世界を語った表現においても そこで《たのしい》のは ほんとうには《我が家》がではなく そこにつどう家族や人びとがです。
 それと同じように 《ねたむ》のは 《神》がではなく そうではなくその神のもとにあつまる人びとが であるのではないでしょうか?

 この事例 これは 次の肝心なことを別とすれば 読み取りにかんする第一の決まりだと考えます。


   *

 肝心なことと言えば 泣いても笑ってもどう考えても 神と人との――そしてさらに具体的には 神と我れとの――関係という中軸のことです。それがいかにあるか?

 たとえば これについても聖書の一節からヒントが得られるのではないかと思います。たとえばパウロによる説明。

 ▲ (パウロ:コリント前書 13:3-13) ~~~
   § 愛が中核である。

 3: 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 4: 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

 5: 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 6: 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

 7: すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 8: 愛は決して滅びない。

   § 愛が中核であることは どこまでもつづく。ほかのものはすたれる。

             預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

 9: わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

 10: 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

 11: 幼な子だったとき、わたしは幼な子のように話し、幼な子のように思い、幼な子のように考えていた。成人した今、幼な子のことを棄てた。

 12: わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 13: それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 ~~~~~~~~~~~~~

      *

 肝心なこと。われと神とのあいだがら。
 たとえば いま現在 次のような状態にあると考えられる。
 ▲ 13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 ☆ 言いかえると こうです。

  ○ 《わたしは ねたむ神である》という表現の文字通りの意味も そして《じつは ねたむのは神のもとにあつまる人びとである》という表現の意味するところも これらはまだ
 ▲ わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 ☆ と言われるその状態であり情況なのだと考えます。

 なぜなら いまはまだわたしたちは
 ▲ 〔* 真理をあるいは神を〕 顔と顔とを合わせて見
 ☆ ていないからです。いまは
 ▲ 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つ
 ☆ をもって生きます。ここでパウロは 
 ▲ この三つは、いつまでも残る。
 ☆ と書いていますが わたしの感覚では 《そのとき・すなわち 真理がすべてにおいてすべてであると見えたときには 信仰は要らない》と見ます。すでに見ているのですから わざわざ《信じる》こともないゆえです。そのつてで 希望も要らなくなります。

 すなわちつまりは
 ▲ その中で最も大いなるものは、愛である。
 ☆ というごとく けっきょく聖書の文章が 記者たる人間としてすでに意図してかどうかを別としてしまいますが 捉えようとし描こうとしたこと これは いまの《おぼろに見えている現実に 愛をどう捉えるか》 この課題であると思われます。

 そういうかたちでの《われと神とのあいだがら》は如何に? だと捉えます。とうぜん 構造的であり言ってみれば重層的であるとさえ考えられます。《ねたみ》も《いかり》も おおきな《愛》の構造世界にふくまれるのであるからにはです。

 ちなみにわたしは この問いをもうけるにあたって カインの場合のこの《神との関係》について 分かっていなかった。ヘブル書の記事をわすれていた(回答No.1お礼欄)。

    *

 ▲ 13:12 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 ☆ このように《今は一部しか知らない》状態において 《すでにあたかも真理をはっきりと見たというかのように・その意味で構造的にとらえる》 また《そのように読者をして見させる》。こういう意図が聖書記者にはあるでしょうね。結果的にとしてでも。

 文字はころし 霊は生かすというのなら 人間としての聖書記者の意図をも超えてはたらく何ものかの問題になるのかも知れません。そこのところは ぼかして・まさにおぼろのままに 触れておくだけにしたほうがよいかと思います。

 かんたんなかたちで言えば 《愛》というひと言で表わすその世界を 文字どおりの表現の意味するところから広げてさらに膨らませて どこまで捉えることが出来るか? 

 表現論一般は まだです。
 聖書の方法 すなわち 《人の自己表現は すべておおきな愛の関数である》なる方法が どこまで経験科学にとって有効なのか? こういう問いになりましょうか。

補足日時:2012/02/28 17:10
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 ロゴス化を引き受ける特権的な書き手の仕事というのは、
 はたして書くべきことが先ずあってそれを書き綴っているのだろうかと、疑いたくなります。
 ~~~~~~
 ☆ これは 大きな主題です。

 むかし小説家の言辞として 世の中には物書きに二種類あると言っていたのを思い出しました。
 それは ものを書くときに 初めからすでに物語の筋が分かっていて とりわけこれこれのように終わるのだということがその書き手の中で決まっているというタイプが ひとつ。

 そしてもうひとつに 何も分からないで書く。むしろ何の構想もなく 主題やら主人公やらがぼんやりと思い浮かんでいる。けれどまだ 果たしてどうなるか それはいっさい分からない。分からないから書き始める。その言わば成り行きにしたがって進めるのだというタイプ。これらです。

 あるいは 最初の書き出しの一文は 言わば神から与えられるのだとも言われていたように記憶していますが 昨今の情況は どうなんでしょう。(知っていて 問いを投げかけているのではなく もう――昔も読むのはきわめてわづかだったのですから―― 読んでいませんので 分かりません)。

 取り急ぎ したためました。補足欄というありがたい場がありますので そちらで――さらにじっくり考えてから――ご返答をいたしたいと思います。

 ただ ご回答を読んだあとさらに最新のご投稿を読む機会があって その情況については唖然としました。
 ひとに向かってフェアなチェアマンであれと 欠席裁判を主宰する者が言っているようなのですから。
 まさに ヒキコモリではなく オシコモリではないかと。

 お時間をください。


 * 虚構作品と たとえば論文とは その生まれる事情についてそれほど変わることもなかろうと タカをくくっているかも知れません。との事割り書きは 添えておかねばならないかも知れません。

お礼日時:2012/02/28 10:01

ご盛況ですね。

ざっと眺めた感触では、同じ主旨の投稿はないようでしたので、例によって雑で短めではありますが綴ってみます。

〈カインは激しく怒って顔を伏せた〉

ここにわたしは非常に強く意味を読みとっているのですが、今日ですとわたしたちは、本心をさとられぬように、表情の隠蔽のため、顔を伏せると簡単に考えますし、また書きもします。
しかし、聖書で【顔】というタームは、正面性-存在-世界の現前-肯定 を表しているであろうと思われ、
その対義として、背後-非在-得体の知れないもの-否定 が地平を形成しているように思われます。
【顔】を伏せたことは、明るみから身を隠すに等しい意味合いだろうと考えます。

神話や聖書は、物語表象に、お作法のごとき独特の意味や示唆があり、リアリスムの記述とはまったく異なった、掛け値のうえで書かれるものではないでしょうか。

出来事を追って起承転結に意味の開示があって織物のように物語が進行する、というよりも、象意をなぞりかえしなぞりかえし掘っている印象がときどきありまして、この場合にも、
顔を伏せた、と書かれたとき既にその暗部に堕ちた姿が描かれ、
罪と遭遇すること、そして、嘘をつくこと、と続けてなぞられ、
誰にも抹消されえない人間暗部の存在そのものとして、またなぞられる。

何がいけなかったたのか、というドラマツルギーのあるような問題ではなくて、
顔を伏せる役目、人間の暗部を引き受ける役目、という設定の中にカインが置かれていると思うのですね。
このように言って分かりにくくないことを望みますが。。。 
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この回答へのお礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回の
 ★ ご盛況
 ☆ は これまでのわたしの質疑応答とは少し違って ひとえに――つまりこの質問でわたしはたたき台を出すことも成し得ずにいたことから始まって―― 回答者のみなさんが知恵をしぼって考えてくださった賜物と思います。掛け値なしです。(わたしも 自分ながらつけ添えるならば それに応えようとがんばったみたいです)。

 さて ご結論は 確かに独特な内容であるようにお見受けします。
 ★ ~~~~
 何がいけなかったのか、というドラマツルギーのあるような問題ではなくて、
 顔を伏せる役目、人間の暗部を引き受ける役目、
 という設定の中にカインが置かれていると思うのですね。
 ~~~~~~
 ☆ だとしますと アダムとエワからの血筋の系譜をたどる物語は あまり意味がない。まづこういう設定を捉えるべきだとなりましょうか?

 ★ 人間の暗部〔とそれ〕を引き受ける役目
 ☆ が先にあって この主題を たとえば アダムらの長子としてのカインなる存在に設定した。のだと。

 じつは わたくしもこの見方に片方の足を突っ込んでいまして それは たとえばこうです。

 ○ 自由意志を持つ存在としてのヒト をアダムらに設定する。

 と見るようにです。
 もう少し詳しくは:

 ○ (自由意志がそなわったヒトなる存在としてのアダムとエワ) ~~~
  1. 人は 身と心から成る自然本性がそなわっている。
  2. 心ないし精神は 記憶・知解および意志から成る。
  3. そのうち中軸となる意志は 自由な選択をゆるす自由意志である。
  4. この場合の自由とは おのれの心に逆らってモノゴトを欲することもあるということ。
  5. したがってこの自由は そのとき同時に答責性(説明責任)をも帯びるということ。(それによって 自然本性が 言わば善である。自己秩序が成り立つかたちである)。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ですから その次の世代の長子であるカインには すでにこの段階で 別の主題が設定される。それは 人が自由意志によって為す行為のうち わが心に逆らった判断および行動としてのそれの極端な場合を取り上げておくということだと。
 すなわち自由意志が自然本性としてそこにこそそなわっているところの存在 この人なる存在そのものを抹殺するという意志行為であろうと。

 したがって ですから このカインの自由意志の中身に対して さらにその対極は アベルの精神であろうと考えられて来ます。自然本性が存在として言うなれば善であり・また自然本性を活かして存在を生き切ることも善であるかぎり この善の一筋に生きるという精神。

 

 そしてただし片足を入れているだけだというそのわけは こうです。
 やはり
 ★ 人間の暗部〔とそれ〕を引き受ける役目
 ☆ という主題は 
 ★ 人間の暗部
 ☆ が実際にあってそのあと それがひとつの主題となる。と考えるからです。人間の生きる現象 共存して生きる社会があるなら その現実から話を始めるよりほかに議論も出来ないと。
 現代にでもなれば そのような現実についての了解は出来ていますから いきなり議論を始めてもよいのでしょうが 聖書記者たちは そうはしなかった。と――反面では―― 思われます。

 その記者たちの好みだと言ってしまえば 中身のうすい話になってしまいますが 
 ★ ドラマツルギーのあるような問題
 ☆ として著わしたかった。のではないでしょうか?

    * これは わたしの考えでは まづ一にも二にも 神への信仰という
     ことが始まったアブラハムの物語が いちばん先にあったと考えます。
      そのあと かれから世代をさかのぼって けっきょくじんるいの始
     祖にまで行き着いた。そこから 物語をあらためて・つまりアブラハ
     ムのときから見てその前史を 捉えておこうとしたのだと。

 ドラマツルギーがあるなら 確かに一方では 一つひとつの主題を織り込んでその議論のようなものをもおこなうと同時に 他方では ドラマもある。登場人物たちをめぐる生活の生きた歴史もある。

 ということは 同じく同時に このカインを取り上げるのなら その考えや行動の
 ★ 何がいけなかったのか
 ☆ という問題をもふくんでいる。書いてないけれども 記者たちは 視野にはおさめている。と思われて来ます。
 必ずしも まだ分からないのですけれどね。つまり何がいけなかったのかというドラマの視点よりも 確かにけっきょく意志行為のうちの最悪としての人殺しという主題を設定することのほうに重点が置かれているのかも分かりません。

 あるいは ぐれいぞおんさんが取り上げておられた《人間の自由意志に対してさえ行使されうる神の絶対主権》という問題もかかわっているかと考えられます。そうは お応えしえていなかったかも分かりませんが このけっきょく人にとっては《恩恵》でもあるところの《神の絶対主権》を否定は出来ませんし また無視することも出来ないと思われるからにはです。


 ここまでが ご回答を受けて質問者が反応したそのままの応答です。







 ★ 顔を伏せた、と書かれたとき既にその暗部に堕ちた姿が描かれ
 ☆ このご見解は 《神の絶対主権》のことを暗示していると読めるように思うのですが どうでしょう?
 人の自由意志を凌駕する――絶対的に凌駕する――神の意志 これを カインはそのとき即座に受け留め 受け容れざるを得なかったというその瞬間のことでもあると見ます。
 おのれの心にさからった判断と行動 その種の自由意志による意志行為には 神の意志がはたらき そのことの間違いのない認識をきみはおこなえとカインに迫る。さばきと言うよりも これも めぐみであるように思われます。

 ★ 暗部に堕ちた 
 ☆ と表現されていますが じっさいこの《顔を伏せる》くだりは 直訳によれば《カインの顔が落ちた》というような表現だそうです。

 ▲ (創世記4:6) ~~~~~~
  ・(新共同訳) ・・・どうして顔を伏せるのか。
  ・(KingJamesVersion) ・・・why is thy countenance fallen?
  ・ 原語のヘブル語のナファルは 次のように《to fall, lie, be cast down, fail》という意味だそうです。
    http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 そうして 《顔》については こう読んでおられるようですね。
 ★ ~~~~
 聖書で【顔】というタームは、正面性-存在-世界の現前-肯定 を表しているであろうと思われ、
その対義として、背後-非在-得体の知れないもの-否定 が地平を形成しているように思われます。
 【顔】を伏せたことは、明るみから身を隠すに等しい意味合いだろうと考えます。
 ~~~~~
 ☆ 今頃ですが ちょっと調べてみました。

 ◆ 宮田 玲:旧約聖書における「パニーム(顔)」 Panim (Face) in the Old Testament
  http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?b … 
 
 これが検索で出ました。そこでは この《パニーム(顔)》という語は:
 ◆ (1) 固有名詞と強く結びついた個別性、(2) 内部の奥行きへの暗示といった特徴が明らかとな
った。
 ☆ と言います。さらに この語は 《顔 あるいは 前面》といった意味であるにもかかわらず 複数形(《-イーム》という語尾がそれ)でほとんどつねに用いられる。このことは:
 ◆ ~~~~
 複数を強く保持するこの語の意味領域を確定しようとすれば、face(s)(顔/表面)ではなく phase(s)(相/局面)とでも訳すほうが適切な場面があるのではないか。
 内部へ向かって限りなく遡行し得る、ダイナミズムを伴った「内奥」に対する示唆が、複数という形式の一機能として認められて然るべきであろう。
 ~~~~~
 ☆ とも説明しています。《(2) 内部の奥行きへの暗示》と言えば オモテだけではなく内側をも内包していて けっきょく《心》をも表わし得るかと考えられます。その《カインの内面が落ちた》と。《局面が変わってしまった》と。



 まだ盛り付けが出来ていませんが すでにテーブルにお出しすることにします。

お礼日時:2012/02/24 09:17

ぶらじゅろぬさん、こんにちわ。


ご返事ありがとう。


何となく
◇エサウとヤコブの話
◇ヨセフとそのお兄さんたちの話
◇放蕩息子とそのお兄さんの話

なんかを思い浮かべてました。

「わるい」って言葉は
ちょっと違うんぢゃないかな。
怒るのも妬むのも当たり前だし。



気になったのは
「カインは いのらなかった」ってことです。
(コリント第二4:17前後・
 ルカ11:10あたり・
 マルコ11:24あたり)

他の回答者様と重複するかもですが、
アダムの時代に人間は不完全になった、
という設定なのですが、
それを認めなかったってことかしらん。


ついでに
ウリヤを殺したダビデの話も
何となく思い浮かべてました。

で、気になったのは
「カインは 悔い改めなかった」ってことです。



ヤコブがエサウの「かかとをつかんでいた」
という記述が気になってるんですが、
よくわからんです、関係ないかもです。


例によって思いついたことを
パツパツっと書きました。
読んでくれてありがとう。
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この回答へのお礼

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 気になったのは
 「カインは いのらなかった」ってことです。
 (コリント第二4:17前後・
  ルカ11:10あたり・
  マルコ11:24あたり)
 ~~~~~~
 ☆ よく引用される箇所ですが 基本的なことのようですので 載せておきます。

 ▲ (ルカによる福音書 11:9-13) ~~~
 9: そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 10: だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 11: あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

 12: また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

 13: このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 ▲ (マルコによる福音書 11:22-25) ~~~~
 22: そこで、イエスは言われた。
    「神を信じなさい。
 23:  はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち
    上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の
    言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
 24:  だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得ら
    れたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
 25:  また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思う
    ことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたが
    たの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ なるほど。カインは 自分の思いを持っており 言い分をも持っている。だが なぜそれを祈り求めなかったか? と。



 ★ ~~~~
 ◇エサウとヤコブの話
 ◇ヨセフとそのお兄さんたちの話
 ◇放蕩息子とそのお兄さんの話
 ~~~~~~
 ☆ アベルが 通俗的な考え方から行けば 何とも割りに合わない人生だったと思われる限りで 放蕩息子の兄に似たところがあるかも分かりません。どちらも 真面目であります。
 ヨセフは いぢわるをされるほうですから どうなのでしょう? そうしてその逆境を乗り越えて行く。
 ヤコブは いまのヨセフと同じように――ヨセフよりは やんちゃな感じですが―― ヤコブ・イスラエルとなるべく定められているというように思われますので カインともアベルともあまり似ていないように思われますが どうでしょう。


 ★ ~~~
 アダムの時代に人間は不完全になった、
 という設定なのですが、
 それを認めなかったってことかしらん。
 ~~~~~~
 ☆ これは いきなりですが わたしは そのように自由意志によって わが心に逆らってでもその意志の発動をおこなうようになったという状態――つまり 楽園を追われて 不完全になった状態――が 神から《よし》とされた状態に入っていると思っています。


 ★ ~~~
 で、気になったのは
 「カインは 悔い改めなかった」ってことです。
 ~~~~~
 ☆ そのようでもあります。

 こんなところでしょうか。

お礼日時:2012/02/23 22:13

#33です。



>往々にして このヘビの生け捕りやヘビ使いになることに 悲観的である。きわめて悲観的な顔を見せている。ここに 人びとは辟易しているのではないでしょうか? それよりは 仏性だというわけです。

まあ、そういった側面もあるのかもしれませんね。

色々ありがとうございました。
  
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 たしかに。
 何ごともあかるいのが いちばんです。



 


 ひょっとして まだまだご持論がお有りなのかも知れません。

お礼日時:2012/02/23 21:17

#32です。



> (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 端的に言えば、神というのは(作者がいかに書こうとも)単なるマッチポンプなんじゃないでしょうか。
 ☆ という見方を どんぴしゃりとして わたしはしています。

「解決済みである=マッチポンプ」というわけですか。わかりました。
であれば、くどくなるかもしれませんが、カインの貢物が無視されたのが仮に「信仰の問題」であるとしても、「神を信仰すべき」という聖書作者の意図に基づいて物語が作られているわけですから、それは当たり前のことではないか、と言っています。
つまり、悪役として登場するものはすべて「信仰に問題があったから」でないはずがないでしょう。
聖書の物語的構図を解明しようとするのは自由でしょうが、聖書執筆者の意図という視点を忘れると新興宗教に堕してしまうように思ったわけです。
聖書は小説として読むべきでしょう。

なぜベストセラーになっているのか、といえば、(殆んど読んだことがないのでたぶんですが)そこに真実が書かれているからです。
ただし、この場合の真実というのは、私流に表現すれば、神は超自我の、蛇や悪魔は本能の、そしてその他大勢は自我の象徴として登場しているという意味での真実です。
しかも、そのように上手に役割分担が為されているはずで、人々は聖書が自らの心の動きを象徴的に再現しているかのように感じるからこそ信じることができるのでしょう。
つまり、信じているのは神ではなく、実は自らの本態的な心の動きだと捉えるのが妥当です。
「信仰」という表現は、この点から目を逸らし、あたかも自らが何か他の力によって動かされているのだ、という錯覚を生ぜしめることが目的でしょう。
ですから、(少なくとも「信仰」に関して)「考える」を放棄しないと信仰はできない、とおそらく思われます。
少なくとも信仰しているとは認められないような気がします。
信仰のもっとも危険な点は、存在しない意志、あるいは意図が存在すると錯覚する、あるいはさせることではないでしょうか。


> 民俗としてその通念として ヘビ=アクマ説が横行している。よって まづはその通念のとおりに世の中のことを(つまり 人びとの心の特にうわべの心理共同=クウキを)受け止めて そこから話を始める。

これは全く違いますが、まあ、水掛け論をしてもしかたないので、
なぜそういった通念が発生したのか、という根本を無視しておられます。
とだけ述べておきましょう。
ヘビ=リビドー説にしても、これは単なる想像力、そして連想の問題にすぎません。
蛇でなくともリビドーの存在することに変わりはないわけで、それだけのことです。

>  なぜそんなことをねらって自己表現するのか?
 局地的な驟雨としての心理問題は その象徴が何であるかの仮説を含めて 人間存在にとっては 要らない。ゆえです。
 そのためには――大局観に立つには―― 非思考の庭がわが心に成るという信仰の動態として生きるのが いちばんだと思うからです。哲学を活かせる。心理の世界を引き潮とともに去らせ得る。からです。

根拠は無いということらしいですが、「要らない」というひとつのご見解であることはわかりました。
そういうお考えがあっても良いと思います。
>大局観に立つためには

という前提をまず立てるのではなく、大局観が自然に得られる道を探るのが妥当ではないかという気がします。
心理は(脳科学なども含めてですが)
>局地的な驟雨

ではなく、真理に通じる鍵であり、真理に近づくことは安心・安定をもたらすはずで、それがむしろ大局的見地に立てる近道であるかもしれません。
    
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この回答へのお礼

 はこぶるさん ここまでともにやって来れて うれしいかぎりです。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 というのも すでに信仰としての――有神論か無神論かを問わず信仰としての――《非思考の庭がわが心に成る》という絡繰りについては 共有してもらったと思うからです。
 あとは 或る晴れた日に 心の窓をノックする音がおとづれるということ これのみだと思います。

 つまりは ぎゃくにはこぶるさんは わたくしが 聖書における心理学ないし精神分析学の明らかにするカラクリを 注意深く捉えて その説くところを拳拳服膺するようにということ あとはこれのみだとおっしゃることが出来るからです。

 ★ ~~~
 ただし、この〔* 聖書が人気を博しているというその〕場合の真実というのは、私流に表現すれば、神は超自我の、蛇や悪魔は本能の、そしてその他大勢は自我の象徴として登場しているという意味での真実です。
 しかも、そのように上手に役割分担が為されているはずで、人々は聖書が自らの心の動きを象徴的に再現しているかのように感じるからこそ信じることができるのでしょう。
 ~~~~~ 
 ☆ ということであって そういうわけなのだとおっしゃるものと思います。


 そうですね。
 いたちの最後っ屁などは 大したことないわけですが ぎゃくにその大したことのないことを ひとこと 添えることにします。
 ★ 神は超自我
 ☆ これについては ふたつの見方から捉えねばなりません。人間の言葉で表わされた物語として見るかぎりでは おそらくそのご指摘のカラクリは 当てはまるところがあると考えます。
 もうひとつの見方としては 非経験の場すなわち神のことを 仮りの・代理の表現として表わしていると見た場合です。 

 これについては いつも《神は ねたむ神である》という一文についての議論を例に出します。《神はねたむ神である》というとき それは 表現の妙であって たとえば《雪の降る夜はたのしいペチカ》という表現で実際にたのしいのは ペチカがではなく その家の人びとがであると見られるように ちょうどそれと同じように 《ねたむ》のは 実際には神がではなく 神のもとにある人びとがであるということ。この例を持ち出して 言わば大局観は 別にあるといったことを言い張ろうとします。

 なぜなら もし《超自我》が神であるなら・また神が超自我であるなら それは人間の能力のひとつなのですから あくまで人間が駆使することのできるものだとなります。つまり 神や信じるという言葉は要らないということになります。それの当否については 広く大方の意見が出されて 話し合いと哲学的探究をとおして判定することだと思います。


 そして もし大局観というのなら 
 ★ 神は超自我の、蛇や悪魔は本能の、そしてその他大勢は自我の象徴として登場しているという意味での真実
 ☆ といった全体を見ることになるでしょうから それは《自我》ひとりの問題ではなく また《超自我》や《本能》それぞれの単独の問題でもないということが 明らかになるかと考えます。
 これは 対話によってたどり着けた大きな成果のひとつではないでしょうか?
 つまり 問題は・主題は 人という存在であり 人格全体としての《わたし》であるということ。この命題は とうといと感じます。
 自我は 調整機能というのであるから そのような全体観は 織り込み済みだと言われるかも知れませんが では その自我と《わたし》との関係はどうかという問いについて 必ずしも明確な答えが出ていなかったのではないでしょうか? それが明らかになったと思うからです。

 ● 人間の中にヘビが潜む。
 ☆ としても このヘビを《わたし》は ふくみ持っているのですから ヘビを生け捕りにして 何ならヘビ使いになればよい。こう考えられます。
 つまり ムイシキ理論ないし精神分析学は ――もう今では はこぶるさんは そうではないと明言されましたが――往々にして このヘビの生け捕りやヘビ使いになることに 悲観的である。きわめて悲観的な顔を見せている。ここに 人びとは辟易しているのではないでしょうか? それよりは 仏性だというわけです。


 
 たぶん世の中の変化につれて あるいは 研究のすすむにつれて これからも新しい視点などを受け取ったときそれらをめぐって 互いの対話は続けられていくことでしょう。と思います。
 お疲れさまでした。ありがとうございました。

 このあと ただちに新知見などをもって・あるいは そうでなくともまとめとして ご投稿を寄せてくださってもむろん かまいません。ので よろしくお願いいたします。

お礼日時:2012/02/23 16:37

#31です。



聖書についての単純な興味でお手を煩わせてしまっていますのでなるべく簡潔に問いたいと思います。

>神はむろん答えを知っていて問うている。そういうことであり そういうふうに相手の思考形式を全部自分の心の内に摂り込むというかたちで 話をするわけになります。
 ▲ (創世記4章)~~~
 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     ・・・
 ~~~~~~
 ☆ 相手の心をつつんでいる。そういう意味です。

2つ質問させてください。
まず、ということは、アベルの貢物を選んだ時点でカインが怒るということはわかっていたということですよね。
怒って殺してしまう、という予測まではできなかった、ということになるでしょうか。
また、「もしお前が正しいなら~」と言ったということは、カインは(カインも)正しいということだと思いますが、正しいけどもアベルの貢物のほうをよりに正しい、と判断した、ということでしょうか。
つまり、正しいのであれば、なぜ「目を留める」という簡単な行為すら神はしなかったのでしょうか。
意図的だとすれば、あくまでカインを正しくない者として設定するためのお膳立てが予め用意されていたと解釈するのが自然だと思うのですが。
つまり、カインがなぜ間違っていたのか、と問う意味はないわけで、それは単にカインが間違いを犯すべき人物として物語の中で設定されていたからにすぎないのではありませんか?
端的に言えば、神というのは(作者がいかに書こうとも)単なるマッチポンプなんじゃないでしょうか。
まさか、聖書に書かれていることが史実というわけではないですよね。
  
>非思考の庭なる信仰は 未知でもなく 言うならば非知ですが もともと《人が知り得るか知り得ないか それが知り得ないこと》としての非経験の場を〔のみ〕あつかっています。ゆえに《経験思考》とは矛盾することはないのです。住み分けています。

では改めてお尋ねします。
なぜ
>住み分ける

必要があるのですか?
「非知」という概念を否定しているわけではありませんよ。
なぜ、それが信仰の専売特許となる必要性があるのか、ということを尋ねています。
「非知」という領域もある。
それだけのことでしょう。

> このように 言うなれば 表面での局地的・一時的なできごとにかんしては それとして成り立つ場合があります。というよりは その一定の時空間では まさにその事実認識が ただしいというわけです。
 あたかもそのように たとえばコンプレックスに悩まされるという事態が起き得ます。そしてその事実認識は 間違っていません。しかも問題は 《人間存在ないしその人格ないし人生》の全体がどうかという主題にもなっています。同時にそのような広い視点も成り立っています。

これは奇異なご見解です。
>もともと《人が知り得るか知り得ないか それが知り得ないこと》としての非経験の場

にたちながら、
>その一定の時空間では まさにその事実認識が ただしい

という認識に至る、というのであれば、今流行のスピリチュアルという子供だましとどこが違うのでしょう。

> つまりは 目の前の嵐があまりにもひどいので 《へび》ならヘビの所為にする。生殖行為は――アウグスティヌスの命題としては 《情欲のない生殖》という境地を言っていますが―― 一般に言わばふたりが密室で致す行為ですので 何かと秘密やらそれにまつわって隠したい身体の部位もあると感じるようになるのでしょう。そういう一定の時空間の範囲とそこで起こる心理作用また集団としての共同心理といった情況が出て来ます。
 ただそれだけのことです。
 その局所的・一時的な事態について言えば ムイシキ説やコンプレックス理論も 当てはまり事実認識として合っていると思われる恰好になる。こういうことだと見ます。
 けれども 全体から見れば それらは 要らないことです。過ぎ去って行く事柄です。

たぶん大きな勘違いをなさっておられると思います。まず、
>要らない

という根拠が曖昧です。
そして、本当に
>過ぎ去って行く事柄

足り得ますか?
イブだって、自分の性欲の象徴として蛇だと言ったに相違ないとわたしは思います。
そういった象徴も思い浮かばないほどの精神状態で、なぜ知恵の実を食べてしまったのか、とひたすら悩み続けていればおそらく神経症となってしまったはずです。
その意味で、無意識を想定し、納得することは、要らないこととは言えないと思われます。
真理を知ることによって納得が得られ、(一時的には辛く感じる場合もあるにせよ)それが精神の安定につながることは明白な事実ではないでしょうか。

> ★ ただ、わたしの最も言いたいのは、記述されたことの意味を問うというよりは、なぜそのような記述をしたのか、その目的論的に捉えるほうが適切ではないかということです。
 ☆ これは 大賛成です。この質問でのやり取りでもわたしはそのような仕方で解釈をして来ています。

そうですかねえ・・・。
たとえば、悪役レスラーに対して、あいつは悪人だと言っても始まらない、ということをわたしは言っているわけなのですが。
悪役レスラーが登場するのは、その要素を観客自身が持ってることを興行主が良く知っているからにすぎません。
この場合、どんな理由であんな反則を相手にするのだろうか、と考えても意味はないでしょう。
それは、興行を成功させるためですし、聖書の場合は、神を信仰させるためです。
信仰と対極にある本能発露の最たるものとしての性欲否定のために失楽園は演出された、ということなんですが、案外正解のように勝手に思っています。
素人相手は疲れるでしょうから、今回はこのへんで。
 
  

この回答への補足

 ひとつの事項を お礼欄の文章におぎないます。


 ○ 《心理の動きや集団としての心理共同 このような一時的なうわべの出来事は 要らない》というのは 言ってみれば ブディズムの《空》観と呼応すると考えます。

 ○ 現象は目の前で事実として起こっている。しかもそれらは 仮りに集まった要素や要因が互いに織り成すそのときそのときの出来事である。存在たらんとする人間つまり《わたし》はそのような移ろいゆくものごとは 移ろいゆくものごとだと見るからには そのような現象の中には身をゆだねることを成し得ない。
 非経験の場へと わが心を開こうと。

 こういった心の伸びもしくは明けであり 経験的な事態としては 志向性として捉えられる視点を 打ち出そうとしている。


 けれども 証明し得ていないではないか? とおっしゃるでしょう。

 証明し得ていないけれども そのような志向性を持ってあゆむのでないなら 世界のものごとはすべて 千年も万年も 同じ心理ゲームの繰り返しでしかあり得ないと見たことになる。ゆえです。この心理ゲーム人生を回避したい。ゆめです。

補足日時:2012/02/23 00:17
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この回答へのお礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。

 細かいことは省いて わたしから見た核心をのべます。

 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~
 ・・・
 (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか?

 (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 端的に言えば、神というのは(作者がいかに書こうとも)単なるマッチポンプなんじゃないでしょうか。
 ☆ という見方を どんぴしゃりとして わたしはしています。

 ○ アダムとエワが原罪――ウソ・イツワリと取っていいと思います――を侵した。その《前科》は 人間が人間の能力と努力とではつぐない切れず そこから癒されることも自分の力ではかなわない。
 ゆえに 神は 第二のアダムとして その独り子であり自身も神であるキリストを イエスという人間という存在に肉化して送った。みごと十字架上の死とその後の復活によって アダムらの原罪はあがなわれた。めでたし めでたしというマッチポンプの物語です。

 カインにしても 神は かれが自分に背き あろうことか弟のアベルをころすというまでのことをすると予知していました。そのままそうさせて そのあと それとして赦し 余生を過ごさせた。マッチポンプと言えば そのとおりなのです。


 

 問題は まさにはこぶるさんは 先頭を切ってのごとく ヘビ=リビドー説に立って解釈なさるというそのことにあると思います。
 民俗としてその通念として ヘビ=アクマ説が横行している。よって まづはその通念のとおりに世の中のことを(つまり 人びとの心の特にうわべの心理共同=クウキを)受け止めて そこから話を始める。そのあと これらの心理の世界は 大海の局地における一時的な嵐のような出来事である。よって やがて過ぎ行くものなのだと その物語の筋に沿って 明らかにして行く。
 こういうマッチポンプ方式による物語です。
 
 その局地には ヘビ=リビドー説に当てはまる事態は たしかに起こっていると言わざるを得ないからです。

 という大局観を述べているだけだと言えます。それ以上のことは 人間の言葉では表わしがたいと思われます。あとは そのように論理的に表現しえない領域にかんして
 ★ 聖書の場合は、神を信仰させるためです。
 ☆ という事態が(つまり 上の大局観のほかに そういう事態も) 聖書記者は添えているものと思われます。

 なぜそんなことをねらって自己表現するのか?
 局地的な驟雨としての心理問題は その象徴が何であるかの仮説を含めて 人間存在にとっては 要らない。ゆえです。
 そのためには――大局観に立つには―― 非思考の庭がわが心に成るという信仰の動態として生きるのが いちばんだと思うからです。哲学を活かせる。心理の世界を引き潮とともに去らせ得る。からです。


 たぶん このお応えに対して いまいちどお考えを述べていただけるでしょう。

お礼日時:2012/02/23 00:03

#28です。



>    考える:経験世界における経験事物についてである。
    信じる:非経験の場を想定して これを心に受け容れる。

 ふたつはまったく次元の違うと言っていいほど異なる行為です。両立します。

しかし、「信じる」について考えることはできないのでしょうから、両立とは言えないでしょう。
明らかに「信じる」が上位に想定されていることになる。
また、#26お礼欄
>非経験の場〔なるナゾの何ものか〕

という表現に関してもですが、
非思考が経験世界ではないことはわかりますが、未来(未だ来たらず)であり未知(非知でも同じことでしょう)のことですから、思考の有無とは無関係であり、それが非思考であるのは当然でしょう。
なぜ「ナゾ」になるのか全く理解できません。
単に記憶の前段階とでも言えば済むことです。
と申し上げるだけに留めます。

> ★ 抑圧という操作をせざるを得ない(と感じる)ほどの環境からの刺激であったからこそ暗い部分が残るわけですから、そのために考える必要性が生じるだけです。
 ☆ これが 思い込みであり幻想であると言い続けています。いやな思い出もたのしい思い出も その過去の記憶が意識によみがえったなら そのように想起があった。これだけのことです。
 その想起に際して たのしい気持ちになったり いやな気持になったりする。ただそれだけのことです。

「これだけのこと」で済まない場合に関する視点の問題として無意識は論じる意味があるわけですから、「これだけのこと」で押し通されては全く会話になりません。

> それと同じように いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 これは むろんあるのは実際ですが これがただし どれだけの特別視されなければならないものかについては 大いに疑問としています。

そのようなご見解だということはわかりました。ただ、補足させていただくと、
>いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 

で、実際に思い出せない記憶もある、ということです。
そして、それを無意識と呼ぶだけであって、これも
>むろんあるのは実際です

ということです。
「特別視」という感覚がよくわからないのですが、それらに関して論じてはいけないわけではありませんよね。
その際、
「いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 そして、良いも悪いも含めて実際に思い出せない記憶が格納されている状態」の代名詞として無意識という表現があっても何ら差し支えはないでしょう。
特別視された結果現われるものが気に入らない、というだけにしか見えません。
坊主と袈裟はわけて考えるべきです。
キリがないので、無意識に関して定義的な側面から述べるのはこのへんで切り上げ、あたらしい課題にお誘いいただいたのでそちらに移りたいと思います。
その前にもうひとつだけ。

> ☆ だとしたら この《抑圧――自分自身にさとられないように隠すこと でしたね――で自我防衛機能》であるということを わたしは知っている。となります。それだけのことだ ここで 言えます。

これはある意味で真理です。
「わたしは知っている」のです。
ただ、「知っているのに知らない風を(それこそ無意識にですが)装うこと」が原因で様々な問題が発生する場合があるわけです。
「知っている」ことに気づかせるのが分析だろうという認識です。
むろん、なんの問題も発生していなければ、知らない振りをしていようが関係ありません。幸せな恋人の例も同じです。「>うわっつらを見ている」のではなく、必要のない(現状に何ら不満のない)、または望まない相手に無闇に分析を行う必要はない、ということです。

> ☆ ところが 《へび》――それは特に今度は 夢判断やふるい民俗としての事態ですが――の主題で カインの問題とつながるかも分かりません。

聖書を知らないど素人なので漠然とした感覚になってしまいますが、これは、聖書を書いた人の意図という視点で考えるのが妥当だと思います。

ウィキには、
「善悪の知識を得たアダムとイブは、裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠した。」
とあります。
この箇所は「裸の姿を恥ずかしいと思うようになった」のではなく、「人間は裸の姿を恥ずかしいと思うべきである」ということを言いたいのだ、と捉えるのが良いのではないでしょうか。
「性欲は抑制されるべきものである」という作者の意図がまず先にあるということです。
イブは蛇にそそのかされたわけですが、蛇はイブ自身の性欲の象徴です。
抑制されるべきものであることを印象的に示すために、作者は蛇を悪者として登場させたわけでしょう。
よく知りませんが、キリスト教で禁欲はかなり大きな構成要素になっていると思います。
なぜ蛇であったのか、に関しては、その作者の無意識が蛇と男根を結びつけイブ誘惑に適した生き物だと判断したからだと思います。

カインに関しても、作者がカインに与えた役割は何かという視点で考えると聖書に詳しいブラジュさんならすぐわかるのではないでしょうか。
>16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

の後の経過がわからないので、わたしには推測しようもありませんが。
>11:  今、お前は呪われる者となった。

という記述からすると、
殺人を犯す人間すらも神は許容する、という意図だろうかというぐらいです。
ただし、つまらないものとはいえ、貢物を忘れさえしなければ。
つまらないというのは、アベルは生け贄を以って貢物としたわけで、他の生命の犠牲を厭わなかったという意味で、その分、神への忠誠心は上だと判断されたからでしょう。
神の度量の広さと、神を敬わないことへの罰を一度に示そうとした箇所のような気はします。
弟殺しは、一種のエディプスコンプレックスの派生とみることが可能でしょう。
男児には、父親への尊敬と反抗が同時に存在するわけですが、その尊敬が拒否されたことによってアベルへの嫉妬が生じた。
蛇が(常にとは言いませんが)性欲の象徴であることと同じく、人間心理に合致した構図になっているために物語として無理なく受け入れられるのだと思われます。
ただ、わたしの最も言いたいのは、記述されたことの意味を問うというよりは、なぜそのような記述をしたのか、その目的論的に捉えるほうが適切ではないかということです。
いかに説得力を持つかという点で、作者の意図はたぶん成功していると言えそうな気がします。
読み物としては面白そうです。
めちゃくちゃでしょうか。  
  
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。さっそくでしたね。第二弾(日本におけるヘビの事例)は まだきょうの午後に書き終わったくらいですから。


 そうですね。
 まづ カインのその後にかんする記事を 載せておきます。それとつづく記事で アダムとエワの三人目の子であるセトが生まれています。そこまで引きます。
 ▲ (創世記4・17-26) ~~~
 17: カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

 18: エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。

 19: レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。

 20: アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。
   
 21: その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。

 22: ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

 23: さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

 24: カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 25: 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 26: セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。
 ~~~~~~~~~~~



 問題はですね。大人と子どもとであれば 子どもの論理を 大人はそれをそのまま認めるわけではないけれども 自分の思考範囲内やあるいは度量の内につつみこむことになる。ということだと考えます。
 たとえば次の箇所は 神がひどく頓馬な質問をしていると言われていましたね。でも――これは ほかの回答者とのやり取りで言ったことですが―― 神はむろん答えを知っていて問うている。そういうことであり そういうふうに相手の思考形式を全部自分の心の内に摂り込むというかたちで 話をするわけになります。
 ▲ (創世記4章)~~~
 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     ・・・
 ~~~~~~
 ☆ 相手の心をつつんでいる。そういう意味です。
 
 で 非思考の庭なる信仰は 未知でもなく 言うならば非知ですが もともと《人が知り得るか知り得ないか それが知り得ないこと》としての非経験の場を〔のみ〕あつかっています。ゆえに《経験思考》とは矛盾することはないのです。住み分けています。
 そうして この多少とも非思考の庭から世界を見ている場合には 経験的な事柄にかんする思惟やおこないが すべてと言っていいほど分かる。ことがあります。
 たとえば 大海のオモテで局地的に暴風雨が襲っていても 大海なる心は やがてその前線が移動してゆくであろうと知っています。
 このように 言うなれば 表面での局地的・一時的なできごとにかんしては それとして成り立つ場合があります。というよりは その一定の時空間では まさにその事実認識が ただしいというわけです。
 あたかもそのように たとえばコンプレックスに悩まされるという事態が起き得ます。そしてその事実認識は 間違っていません。しかも問題は 《人間存在ないしその人格ないし人生》の全体がどうかという主題にもなっています。同時にそのような広い視点も成り立っています。

 ★ ~~~~~~
 「特別視」という感覚がよくわからないのですが、それらに関して論じてはいけないわけではありませんよね。
 その際、
 「いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 そして、良いも悪いも含めて実際に思い出せない記憶が格納されている状態」の代名詞として無意識という表現があっても何ら差し支えはないでしょう。
 特別視された結果現われるものが気に入らない、というだけにしか見えません。
 坊主と袈裟はわけて考えるべきです。
 ~~~~~~~~
 ☆ ということをすべて認めなければならないとしましょう。そのとき 信仰に立って経験事象を捉えようとする視点は 人間という存在とその生きることは それだけではないでしょうと言っているわけです。
 
 これまでは確かに 個々のモノゴトについて論理的に破綻をきたしているのではないかといった批判をして来たかも知れません。たとえば 
 ★ 良いも悪いも含めて実際に思い出せない記憶が格納されている状態
 ☆ と言った場合には 《思い出せない》と知っているなら その中身を知っているということです。
 あとで思い出したときに 《あぁ これは思い出せなかった記憶だ》と分かったというのなら それは《思い出せない》のではなく やはり《いやな思い出・思い出したくない過去の記憶》として実際は知っていたということです。
 というように論理的に批判していたかと考えます。

 でもいづれにしても 記憶とその想起がある。これだけです。と言ってよいはずです。
 それ以上に飾りをつけるのは ためにする詮索だと考えます。多少ゆづるなら 史上まれにみる台風と津波が起こったというような嫌な思い出も確かにあるかも知れません。でもそれも 主観的な見方によるとも思われるのです。
 この基本を超えて 記憶とその想起について飾りをつけるのは 《特別視》になります。
 
 つまりは 目の前の嵐があまりにもひどいので 《へび》ならヘビの所為にする。生殖行為は――アウグスティヌスの命題としては 《情欲のない生殖》という境地を言っていますが―― 一般に言わばふたりが密室で致す行為ですので 何かと秘密やらそれにまつわって隠したい身体の部位もあると感じるようになるのでしょう。そういう一定の時空間の範囲とそこで起こる心理作用また集団としての共同心理といった情況が出て来ます。
 ただそれだけのことです。
 その局所的・一時的な事態について言えば ムイシキ説やコンプレックス理論も 当てはまり事実認識として合っていると思われる恰好になる。こういうことだと見ます。
 けれども 全体から見れば それらは 要らないことです。過ぎ去って行く事柄です。


 ★ キリスト教で禁欲はかなり大きな構成要素になっていると思います。
 ☆ キリスト教というように集団ないし組織の宗教は すでに教義を守るべき原理原則としていますので・つまりは 思考の対象となる人間の言語で表現された内容を 言わば観念の神のごとくに扱っていますので それは 非思考の信仰ではなくなっています。
 よって その教義を守る中には いわゆる道徳や倫理規範としての性愛論も出て来て そこから《禁欲》というおこないも説かれて来ます。これは すでに個人の信仰から離れてしまったただの思惟の体系でありその実行(出来もしない実践)の問題となってしまっています。そういう問題です。
 宗教にかんするジョウシキというものは それがただしいかどうかを問うなら そのただしさがまるっきり哲学の検証に耐え得ないしろものです。

 ★ ただ、わたしの最も言いたいのは、記述されたことの意味を問うというよりは、なぜそのような記述をしたのか、その目的論的に捉えるほうが適切ではないかということです。
 ☆ これは 大賛成です。この質問でのやり取りでもわたしはそのような仕方で解釈をして来ています。
 ただし 
 ★ ~~~~
 いかに説得力を持つかという点で、作者の意図はたぶん成功していると言えそうな気がします。
 読み物としては面白そうです。
 めちゃくちゃでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ と言われるとき それは そういう局面の一時的なお話として捉えれば そのように見えるかも知れない。とお応えするしかないと思います。どうでしょう?  

お礼日時:2012/02/22 21:24

ぶらじゅろんぬさん、こんばんは。


宙ぶらりんです。やっとかめです。


なぜどこが!と筋の通った話はできませんが、
カインはアダムのコピーみたいだなあ・・・
と思っていました、いろいろなところが。


地面を耕す者となった。
(創世記3:23、4:2)


罪を犯した。
(創世記3:6、4:8)


隠した。
(創世記3:10、4:9)


追放された。
(創世記3:23、4:16)


けれど、毒麦を抜かれるように
即座に抹殺されることなく
ある恵み(?)により子孫を残した。
(創世記4:1、4:17)

___________

次に、気になったこといろいろ。


イエスがよく「羊飼い」に例えられますが、
その起源はアベルだったんぢゃないかな。


カインの捧げものは、
「信仰による行動(ヘブライ11章あたり)」
ではなく、例えば欲など、
別の動機が入っていたんぢゃないかな。
(↑伝道の書8:13あたり)


>心の深い闇のような悩みがあったのかと・・・
:それよりも、こっちも欲の問題ぢゃないかな。
(ヤコブの手紙1:14、1:15あたり)

___________


最近、
「業のない信仰は死んだものである。」
(ヤコブの手紙2:26、他)
とは実際のところどういうことなのか、
あれこれ考えています。

というのも、
「業のない信仰は死んだものである。」
→だから聴聞と宣教奉仕に励むべし、
というクリスチャンをよく見かけまして、
なんだか不思議に感じるからです。

業が先で信仰が後なんでしょうか。
信仰が先で業が後なんでしょうか。

信仰の原語は何で業の原語は何ぢゃ?
よう分からんです。

___________

順番もめちゃくちゃなまま、
思いついたとおりに書きました。
読んでくれてありがとう。ほぢゃ。


               
                 
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この回答へのお礼

 こんにちは にゅうとらるさん。たしかにしばらく振りですね。ご回答をありがとうございます。

 今回は いろんなハプニングに遭っています。うれしいものがほとんどです。

 カインについてのヘブル書の記事のことを忘れていた・つまりそれを気づかせてくれたしょうみーはうさんのご回答No.1から始まって 次のてふてふさんのNo.2でも 《信仰》のあり方について あたまがぐらっとするような一撃を受けましたし。
 あとでは ぐれいぞおんさんのご回答が きわめておだやかな見解を示してくださったのですし はこぶるさんは例によって ムイシキ理論ないし精神分析の問題で互いに丁々発止とやり取りをしていますし しかもそのムイシキ理論のうちのリビドー論が あらためて――という意味は 息子のカインをつうじてということですが―― 母エワや父アダムの取った行動についての議論を考えさせるに到りました。《へび》論です。

 中には 悪ふざけの投稿もあったと言っておきます。それ以上は触れません。

 

 アダムとカイン 父と息子とのあいだに 類似するところがあるというご指摘。たしかにそうですね。
 特に次の点は おもしろいし 見逃せないというように思いました。
 ★ ~~~~
 ◇
 けれど、毒麦を抜かれるように
 即座に抹殺されることなく
 ある恵み(?)により子孫を残した。
 (創世記4:1、4:17)
 ~~~~~~
 ☆ 存続するということは 善が持ちこたえることであるように思われます。それだけで とうとい。というように見ます。
 まぁ ただしほかのご議論によると その《毒麦》であるところが取り上げられ やり玉に挙がっているようではあります。

 

 ★ ~~~~ 
 ◇
 イエスがよく「羊飼い」に例えられますが、
 その起源はアベルだったんぢゃないかな。
 ~~~~~~
 ☆ たぶんアベルの信仰のあり方から言って うなづくところでしょう。ただ そこからの展開が俟たれるとも言えるように思います。寝かしておく資料ということでしょうか。

 ★ ~~~~
 ◇
 カインの捧げものは、
 「信仰による行動(ヘブライ11章あたり)」
 ではなく、例えば欲など、
 別の動機が入っていたんぢゃないかな。
  (↑伝道の書8:13あたり)
 ~~~~~~~~~

 ☆ まづ
 ▲ (ヤコブの手紙1:14-15) ~~~
 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ のほうを押さえておこうと思えば。そうですね。いまのところ これは むしろ当たり前だと思ってしまうのですが そこがいけないでしょうか? つまり
 ★ ~~~
 ◇
 >心の深い闇のような悩みがあったのかと・・・
 :それよりも、こっちも欲の問題ぢゃないかな。
 (ヤコブの手紙1:14、1:15あたり)
 ~~~~~
 ☆ こちらのほうの見方についてですが。保留のかたちになります。

 そして
 ▲ (コヘレトの言葉=伝道の書8:12-13) ~~~
  罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が なお、長生きしている。
  にもかかわらず、わたしには分かっている。
  神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり
  悪人は神を畏れないから、長生きできず 影のようなもので、
  決して幸福にはなれない。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ぐれいぞおんさんによる《不正》説ですね。中身は分からないが 不正においてカインは行動しているのだと。
 そうですね。率直な反応としましては わたしは 判定するとすれば そうなるでしょうね。というよりほかないと思うのです。何とも煮えないご返事となります。

 ★ ~~~
 業が先で信仰が後なんでしょうか。
 信仰が先で業が後なんでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ ぐれいぞおんさんの言葉では 《神の絶対的な主権》によれば 何ものにも神が先行するとなるのでしょうね。だとすると 行為ないし人の意志の発動よりは 神によってあたえらえる信仰が先なのでしょう。
 ただし 信仰があいまいでも 行動を人は起こしていますから そのときにも あいまいだということは それとしての信仰のあり方が 一人ひとりに成っていると言えるかと思います。そういう信仰をあたえられているのだと。
 だとすれば おこないとそして心の奥の信仰とは 一般に すでに同時であるかも分かりません。
 どちらも経験世界に足をつけ腰を落ち着けているのなら あとさきはあまり違わないのかも。
 
 ただ どうなんでしょう。わたしが思うにですが 神は絶対的な主権を保ちつつも そのことはいっさい人が忘れてみづから思惟し行動するようにと願っているのではないでしょうか?
 わづかに 心の伸びもしくは明けがあるということ。つまりは 心がこの経験世界のことだけによって閉じているのではないということ。それがあれば――信仰が活きていれば―― あとはあとさきは あまり気にならない。のではないでしょうか?

 原語は どうなんですか?

お礼日時:2012/02/22 15:48

#19です。



 どちらの献げ物に目を留めようと、それは神の自由だ、この話はそういう神の絶対的主権を語っているのだ、ということがよく言われます。信仰的にはそういう考えも、確かに間違っているとは思いませんし、それで納得される方はそれでよいと思います。しかし、もう少し考えるべきことがここにはあるように思うのです。と言いますのは、実はこういう疑問を持つのは我々だけではなくて、すでに聖書の中に、そう思う人々がいるからです。
 例えば、ヘブライ人への手紙11:4を見ますと、

 『信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。』

とありまして、アベルはカインよりも信仰があったように書いてあります。また、ヨハネの手紙一3:12によれば、

 『カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。』

とありまして、アベルはカインよりも行いが善かったように書いてあります。また、マタイ福音書23:35には、

 『こうして、正しい人アベルの血から、』

 とありまして、アベルは「正しい人」とされています。これらはいずれも、聖書を書いた人々が、アベルの献げ物を神が嘉納されたのはどうしてだろうと考え、それは、アベルがカインより、信仰が深かったからだとか、善い行いをしたからだとか、正しかったからだとか、そんなことは創世記には何も書いてありませんのに、そういう理由付けを彼らがいろいろしたことを示しています。ですから、聖書の時代からすでに、皆この問題には頭を悩ませて、考えていたことが分かります。そういう事情を考慮しますと、アベルの献げ物だけを神が嘉納されたのを、神の絶対的主権であるの一言でバッサリと片付けるのは、どうかなと思うのです。

 今日までに試みられてきた幾つかの説明を上げてみますと、まず、カインは単に「土の実り」を献げたのに対し、アベルは献げ物を厳選して、羊の「肥えた」、そして、「初子」を献げた、それで、アベルの方が神への感謝に心を込めていると考えられ、《だから》その点が評価されて、神の目はアベルの献げ物に留められたのだ、という説明があります。
 あるいは、アベルの献げ物は「羊」であり、これは家畜を屠って、その血を祭壇に注いで罪の贖いとする贖罪の信仰に適うことで、《だから》その点が神の嘉納し給うところになったのだ、という説明もあります。
 さらにまた、アベル(Hebel)という名には、「儚い」、「無意味」、「無価値」といった意味がありますから、彼は軽蔑された、弱いものであったろう、《だから》愛なる神は、そういう小さいものであるアベルの献げ物の方に目を留められたのだ、という説明もあります。
 しかし、こういう説明を聞かされても、先に申しました聖書の中に記されている説明にしても、今申しましたような説明にしても、それらはいずれも、アベルはカインよりもなにか御心に適ったところがあって、《だから》その献げ物に神は目を留められたのだ、というそういう前提に立って、その理由を捜しているだけではないか、と思うのです。しかし、そのように理由を見つけては、《だから》神はカインよりアベルを愛されたというのは、あまりにも人間的論理を神の世界にまで持ち込んでいることになるのではないか、そういう印象を拭い切れないのです。

 今までなぜ神はカインの献げ物に目を留められなかったのか、そのわけを知ろうとしていろいろ言ってきましたが、しかし、#19で申しましたように、第三者のそういう一般的な推測、説明、考察、論議の対象に、神との関係はそもそも、なるものではないということです。一般的論議の的になることを許さない、しかし、その本人には切実に問題になる、そういう、《その人自身にとってのその人の事柄》、それが神との関係というものだということです。

 カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。この話を読んでいて、一番教えられたことはこのことです。カイン自身と神には分かっているが、ひとには分からない、そういう神とカインの関係、繰り返しますが、神と本人自身にしか分からない、第三者の知ることのできない、そういう関係、神との関係とは本来そういうものである、ということです。

 ですから、《カインの言い分》なる推論は、《カイン自身にとってのカインの事柄》を第三者が推測、説明、考察、論議の対象にするものと思われます。bragelonneさんが『教えて』と投げかけた問い掛けとはかなり異質なものになってはいないでしょうか。


 尚、《不正》は、

 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」』

の「正しくない」に依っていますので、それが一体何であるのか、それは分かりません。創世記 4:1-16では何も記されていませんので、一般的論議の的にしてはならないのでしょう。「正しくない信仰」と捉えるか、「信仰のゆがみ」と捉えるかは第三者の推測、説明、考察でしかありません。
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この回答へのお礼

 ぐれいぞおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 読ませるご文章ですねぇ。と言うと 上から目線になってしまいますが 自由・対等というふうにお受け取りいただければさいわいです。


 さて かんたんなことひとつを先に取り上げます。
 ★ 「正しくない信仰」と捉えるか、「信仰のゆがみ」と捉えるか
 ☆ 前者にかんしては 聖書記事に就いてそのまま表現しているとおっしゃった。
 後者のわたしの表現はですね 《ゆがみ》はあるけれどそれはまだ《信仰》であると思ったそのわけをしるします。
 単純に言って カインがほろぼされなかった。ゆえです。もうひとつには 《激しく怒って顔を伏せた》りしていますが ともかく神と話をしている。神と話が出来ている。そのひとつの事を思って そう判断したものです。
 そのような事由についてだけ 記しておきます。


 さて ここへの訪問者の方々も このご回答については やさしくやわらかくしっかりと推論をたどるかたちで述べておられますので 復唱して議論の発展へとつなげるかたちを取らなくても いきなり質問者からの応答をしるしてすすめてもよいと思います。
 
 焦点は次です。 
 ★ ~~~~~~~
 ですから、〔* 質問者が提出したところの〕《カインの言い分》なる推論は、《カイン自身にとってのカインの事柄》を第三者が推測、説明、考察、論議の対象にするものと思われます。bragelonneさんが『教えて』と投げかけた問い掛けとはかなり異質なものになってはいないでしょうか。
 ~~~~~~~~

 ☆ そうですね。まづ確かに ぐれいぞおんさんは 次のように戒めるかたちでおっしゃっていますね。
 ★★(回答No.19)~~~ 
 ところでカインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか、これは何度も言いますが分かりません。それは、カインと神だけが知っている問題です。このことは、しっかり押さえておかねばなりません。第三者であるわたしたちは、そのことに対して推測は控えねばなりません。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ それにさからってわたしは《カインの言い分》をしたためました。

 いま考えるにですが ふたつ言えるかと思います。
 ひとつは この《カインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか》について けっきょくむしろ虚構としての文学の観点から カインの言い分を推し測ってみたものだということではないか。
 言いかえると 哲学としての命題になるかどうかは微妙だと思われることです。

 もうひとつは この《言い分》は けっきょくカインの心の中の懸案であるかどうかを超えて 一般に持たれる・聖書にかんする哲学的な課題であるのではないか。これです。それは エワにささやいたというヘビの問題です。ヘビとは 何であるか?

 ただしそれでも《カインの》とするのは わづかにですが かれがアベルをころしているということがあり そのアベルに対するカイン自身の思いとしてもそれなりに推し測っているということ。これによって 微妙なかたちで なおまだカイン問題に引っかかっているのではないか。と自分に甘く判断してもみるのですが どうでしょう?

 もしその甘い判断を強引におしすすめるなら さらにそのあと 次のようにも 《カインの言い分》をわたしはおぎなっています。《カインの思い》をもつけ添えました。そして アベルとの関係についても触れています。
 こういった問いを わたしの中で持つのですが 果たして いかがお考えになりましょうか?

 ☆☆(No.24お礼欄) ~~~~~~~~~
  《カインの言い分》についてですが:
  ● ~~~~~~~~~~~
 ・・・そして、知恵はさらに神と同じように善悪を私に教えた。だから、私は主が私の摘み物に対して喜ばれなかったので恥ずかしく思った。それが、アベルへの妬みになり殺害した。罪=欲は主が与えたものだということですね。
  ~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 違います。
 (1) 善悪を知る木から採って食べると その名のとおりなら ひとはそこで善悪を知る。そして確かにこの木を知恵の木とも言っています。
 この事件は ただし そこで《へび》が介在している。それはなぜか? という問いです。

 (2) 善悪を知る木の実というのなら けっきょく人にとっては おのれの心に尋ねて よしとするか あるいは それはちょっとおかしいとか やばいとか――なぜなら 顔を赤らめたり胸の動悸がはげしくなったりする―― これらふたつの選択があることに対応しているのではないか? 良心に従う――ということは 上に触れたように けっきょく元は感性におけるモノゴトの仕分けとしての選択において決まっていると思われるその中身において 言い方としては 良心にしたがう――ことのほうを 善とよぶ。これにさからうほうを 負の善 という意味で悪と呼ぶ。
 このとき エワは そしてあとでアダムも 善にさからうほうをえらぼうとした。つまり 神の言いつけにさからうというかたちで 記されているそのことをおこなおうとした。
 けれどもそれが なんで へびが間に入って エワをそそのかすというようなコトになっているのか? この問いです。

 (3) カインは神にささげ物を持って行ったとき 目を留められなかったので激しく怒って顔を伏せた。
  ▲ ~~~~~~~~~~~
  6: 主はカインに言われた。

    「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
  ~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ カインは こう思っていた。
  ○ (カインの思い) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  主よ あなたにささげ物をささげることは 善であると思います。したがいます。きょうささげた物も決して優れていないわけではありません。
 問題は このようにおのれの心にしたがってよしとするコトをえらびおこなうその善が どうして 主よ あなたを経由して成り立っているのですか?
 つまり 問題となるのは 同じ趣旨だと思いますが 少し違います。いま述べた善にさからうとき・つまり悪をえらびそれをおこなうとき それは 人がその意志によって――心に逆らってですが おのれの判断と意志によって――おこなうということではないのでしょうか? なぜそこに へびが介入しているのでしょうか? 
 へびは要らないと思います。
 わたしが 人間として 悪を侵すのです。へびの仲介はないと思います。
 なぜ へびなのですか?


 (のちのカインの述懐として:)
  弟のアベルは このわたしの疑問に何ら反応を示さなかった。まるで善一筋。悪は知らぬという顔。われは へびではないと言ったきり。
 あとは かあーっとなって よく覚えていないほどです。でも それも へびの介在なしに わたしが 人殺しという悪を思いつき わたしの意志でおかした行為です。そのつぐないを一生かけて あるいはこの命を差し出して おこなおうと思います。

 でも ひょっとして 主よ あなたは 人が人をころすというその負の善なる意志行為 これを見越してわれら人間をお造りになったのではありませんか? 
 それはそれとして そのように負の善に向かう意志とそのコトの実行は 人間が負うべき間違いです。そのときなぜ ヘビが現われるのですか? 
 わたしは へびにそそのかされて 悪行をおこなったのではなく 自分の意志でおこなったのです。だから つぐないをします。
 へび これは何なのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 このあと そのてふてふさんへのお応えを書き込むつもりです。今晩は もう遅くなってしまいましたが 明日にでもまとめたいと思っています。もしよろしかったら どうぞご覧になってください。

お礼日時:2012/02/21 23:48
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