10秒目をつむったら…

 明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。

 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~
 1: さて、アダムは妻エバを知った。
  彼女は身ごもってカインを産み、

   「わたしは主によって男子を得た」

  と言った。

 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
  アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
  主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。

 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
     お前はそれを支配せねばならない。」

 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
   カインは弟アベルを襲って殺した。

 9: 主はカインに言われた。

     「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

    カインは答えた。

     「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 10: 主は言われた。

     「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。

 11:  今、お前は呪われる者となった。
     お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも
     なお、呪われる。

 12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す
     ことはない。
      お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 13: カインは主に言った。

      「わたしの罪は重すぎて負いきれません。

 14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし
      が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって
      しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す
      でしょう。」

 15: 主はカインに言われた。

       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の
      復讐を受けるであろう。」

    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに
   しるしを付けられた。

 16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?

 ▲ (同上) ~~~~
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

 農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?

 よろしくお願いいたします。

A 回答 (37件中31~37件)

 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。

の、次の文「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。

 ブラジュロンヌさんはどう解釈してますか。

 カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。
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この回答へのお礼

 わいわいえいとさん つづけてのご回答をありがとうございます。
 
 ★ 「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。
 ☆ これは のちのことになりますが けっきょく弟のアベルをころしたあとにも 《それでも 生きて行け》と言っているのだと見ます。前回 つぎのように ちらっと触れました。

 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~
 信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでも ≫それの自治≪ を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《悪行を犯したあとの それでも 自己経営つまり自身の自治をつらぬけ》という意味ではないかと。

 ★ カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。
 ☆ これは ご愛嬌だと思います。わたしが振っておいて何ですが よくは分かりません。
 たとえば カインのこの《前科》を知ってそういう非行について思いを馳せる そうして言わば反面教師として 人びとは自省する よってカインをころすことはなくなる。といったことかとも思いますが まぁ 愛嬌としての問いであるかも知れません。


 今回は 意外と多くのご見解に接することが出来て よろこんでいます。うれしいです。

お礼日時:2012/02/17 00:15

神学や聖書の解釈について、ほとんど何も知りませんが、素人理解でもかまわないのでしたら、、、


 
1)創世記第1章では、神が作ったものすべては、はなはだ良かったとのことですから、林檎の樹も蛇も神の思い通りのいいものだったのです。
 
2)その後、創世記第2、3章では、神は林檎を食べるなと人(アダム)に指示して、その後でイブを作ります。さらに蛇にイブをそそのかせ、イブにアダムをそそのかせて、アダムが林檎を食べてから、叱責しています。
☆ 神は人(アダム)を神に似せて作り、はなはだ良かったとしながらも、アダムの思考や行動を試して、出来損ないだったことを確認して、作り直すのではなくて、追放し、新たな追加責任を課しました。

3)創世記4章のときには、神に何をささげるべきであるかの律法は、アダム、エバ、カイン、アベルには、まだ示されていません。レビ記やヘブル人への手紙は気にしなくてもかまわないと思います。
4)カインとアベルがそれぞれ捧げものを持ってきたとき、神はカインの捧げものを軽く扱います。それで、カインは激しく怒って顔を伏せました。
 
5)神は、カインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」と言います。
神学ではどう解釈するのか知りませんが、カインの捧げてきた土の実りは、良い捧げなのか/or/良いとは言えない捧なのか、の識別をカインが自分で考えるように求めているように思います。忸怩たるところがあるから、顔を伏せたのだろうというロジックでしょう。犠牲や捧物についての律法を神はカインなどにまだ示してはいないので、捧もの神が無視した事に対するカインの反応で、カインの神に対する姿勢、誠意を試したのでしょう。 神がどういう行為をしたにせよ、人が何かに対して(神に対してでも、アベルに対してでも、その他のことにしてでも)激しく怒ったり、相手の顔を見ていられないような状態になるのは、カインは、神が作るつもりのパーフェクトな人間ではなかったことが、これで判明します。(カインの直接の両親がアダムとイブでも、それを作ったのが神で、アダムとイブが創世記第3章の神の指示でカインを生んだ)(この状況は、林檎、蛇、エバを使って、アダムの出来具合を確認し、失敗作だったのがわかったのと同じです)
 
6)神は、カインに「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言います。
神学ではどう解釈するのか知りませんが、神は、それでもまた新たなためしをします。 カインがアベルを憎むようなことやアベルに対する害意を抱かないように、カインが自分をセルフコントロールすることを求めているようです。仮に、アベルに対する嫉妬のような気持ちが湧いたにしても、そのような低次元の心理や感情を自分で抑制せよと、カインに言ったようです。
 
7)カインは、アベルに言葉をかけ、野原でアベルを襲って殺す。(ここでまた、神の作ったカインは神の期待を破ります。神の人間作りは欠陥だらけで、大失敗作であったことが確認されます) 6)の神のためしは、ものの見事に、人間が失敗作だったことを示します。仮にカインはアベルを殺さないで、恨んで暴力を振るっただけなら、今度は神はアベルを対象に何かのためしを仕掛けて、アベルも出来損ないであることを神に示し、神はがっかりするストーリーになっているのでしょう。
聖書は、人間は神に似せられて作られたが、失敗作であることを繰り返して記載してると思います。
 
 ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽
 6: 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら カインの心中にやましく動きがあったのかと推察されますが、それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?
 
 ☆★  ★☆
※ ストーリーの流れから、カインにやましさがない(神に対し誠実で、最高の捧ものをしたと昂然といていられる)ことはないでしょう。 ストーリーは、いかに人間は出来損ないであるかを、一貫して述べています。
※ 何がカインのやましさであるかであるかは、どうでもいいのだと思います。だから、そこは省略されていると思います。読むものが、自分に引き戻して、やましいことを考えてもかまわないでしょう。それであたりではなくて、自分の反省に使えればかまわないでしょう。
例えば、農産物は大量にできたので、一番いい部分は自家消費用に残して2級品を持っていたとか、あまりを捧ものにしたとか、、、。 捧ものそれ自体の良否ではなくて、神から自分が軽く扱われたことに対する悔しさ屈辱感かもしれません。どれであるにしても、神から見れば、神に似せて作った人間としては失敗作だったことを示す反応です。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来たとの表現から、一番を選んで捧ものにしたとのイメージで、カインは土の実りを持って来たとの表現ですから、二番目かあまりモノか最高のモノかはわかりません。カインは神に無視されたことで嫉妬か恥ずかしさか何かの反応をしただけです。
創世記3章では、神は、人をエデンから追い出して、人が土を耕すようにしたことが明記されているので、羊を飼うのでも、農耕するのでも、どちらも、神の指示に従ったことで、どれを仕事にしたのかで、やましさが生まれるとは思いません。
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この回答へのお礼

 そうですね。――まづは もとこうこうせいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――できるだけ経験合理性によって判断しうる論理と感覚において 応答してまいりたいと考えます。《信仰》のことを避けてとおるわけには行かないでしょうが。


 ★ 聖書は、人間は神に似せられて作られたが、失敗作であることを繰り返して記載してると思います。
 ☆ これが基本的な見方だとおっしゃっている。こう受け取りました。

 この命題について考えてまいります。
 個々のご指摘については 質問者ながら 〔ほかにも同種のご回答を寄せてもらっていますが 特には〕回答No.1およびNo.2を基軸としてわたくしなりの答えを得ましたので 〔個々のご指摘については〕いま上の命題についてお応えすれば おおむねお応えできるかに思えるほどですから。

 問題は
 ★ 神に似せて
 ☆ という表現をどういう内容として解釈するか。だと思います。
 《似ている》のなら その神のごとく もっとしっかりしていなさい 人間よと言うのか。それとも 《似てはいるが 片や経験存在であり 片や非経験の領域なる存在であるのだから その隔たりは はなはだしい。有限と無限との違いがある》と捉えるのか。

 とうぜんこの選択では 後者になるのですが それでも問いはつづくようです。
 ★ 1)創世記第1章では、神が作ったものすべては、はなはだ良かった
 ☆ ならば 隔たりの絶対性にもめげずに 人間はそれなりの
 ★ 神が作るつもりのパーフェクトな人間
 ☆ であってよいし そうであるはずではなかったのか? それなのに
 ★ 神は人(アダム)を神に似せて作り、はなはだ良かったとしながらも、アダムの思考や行動を試して、出来損ないだったことを確認して、
 ☆ といったことがどうして起きるのか? こういった問いに行き着きましょうか。


 そうですね。――と余裕をこいて お応えしますが―― どうなんでしょう? たとえば アダムは エワにさそわれて禁じられた善悪を知る木から採って食べたあと 風のそよぐ或る夕べ 神から

   アダムよ きみはどこにいるのか?

 と問いかけられます。つまりその声を――たとえば良心の声を――聞くだけの耳は持っていたのでした。そうして ただし 女がすすめるから食べたと理由にならない言い訳をもしています。エワも同じように言い訳をします。
 おそらく これでよいと神は見たのだと思います。よい答弁ではないのですが 勝手に木から採って食べたというその自由意志について まちがったかたちだとは言え 答責性を持って答えようとはしている。
 この説明責任をともなった自由な選択としての自己表現 この形式でよいと見たのだと考えます。

 言いかえると 神であるなら 自由意志による選択は すでにその同じ時点で責任もともなわれています。責任を含んだ行為がぜんぶ実行され そのままぜんぶ自由な意志行為が成ります。ということは この神に似せてつくられた人間の場合には この《選択における自由》と《自由にともなわれる責任》とは 時間的なずれをともなって おそらくけっきょくにおいては 一体となって成ると考えられるというわけです。
 後半の議論は 希望において《一体である》かたちですが――つまりほんとうに一体であるかどうかは分からないのですが―― それでも 神においては 意志行為がその結果や責任についても 最初の行動の時点ですべて完成されている。ところが 人間の場合は もし完成されうるとしても それは 時間的なずれをともなってである。こういう《類似点》と《似ても似つかない点》とがある。と考えられます。

 つまりひと言で言って 人間は この自由と責任といった主題について《出来損ない》であって それで《よし》なのだと受け取っています わたしの場合。




 すなわち アダムらがエデンの園を追われても それがふつうだという意味です。
 カインは――わたしはこれまで考えつかなかったのですが―― 神への信仰において それを曲げたりゆがめたりすることがあった。これでも よし なのだと見ます。
 弟をころすこと この点については おそらくこの世において人びとは殺し合うことがあるといった経験事実を捉えて その言わば起源をどうにかして捉えようそして描いておこうとしたのだと受け取ります。
 アダムらの子どものあいだに歴史事実としてそういう悲惨な出来事があったかどうか それには関係なく 聖書記者は すでにこの第二世代においてそういう事態を取り上げ取り扱った。こう捉えます。

 どうでしょう?





 個々の事例について見てみます。
 ★ 4)カインとアベルがそれぞれ捧げものを持ってきたとき、神はカインの捧げものを軽く扱います。それで、カインは激しく怒って顔を伏せました。
 ☆ ですから この表現には 隠し玉があってそれは 《信仰》のあり方なのだと暗に言っていると見るわけです。表面の文字や表現には気を遣っていない。

 ★ 6)神は、カインに「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言います。
 ☆ これは ただひとつのこと すなわち のちのこと(つまりアベル殺し)をもすでに含めて 《それでも 生きて行け》という意味だと見ます。
 
 ★ ~~~~
 ※ 何がカインのやましさであるかであるかは、どうでもいいのだと思います。だから、そこは省略されていると思います。読むものが、自分に引き戻して、やましいことを考えてもかまわないでしょう。それであたりではなくて、自分の反省に使えればかまわないでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ ここは重なるところもあるようです。いづれにしましても やましさは それがあっても《信仰のゆがみ》にかんするそれのみが問題になっていると取るわけです。

 ★ ~~~~~
 創世記3章では、神は、人をエデンから追い出して、人が土を耕すようにしたことが明記されているので、羊を飼うのでも、農耕するのでも、どちらも、神の指示に従ったことで、どれを仕事にしたのかで、やましさが生まれるとは思いません。
 ~~~~~~
 ☆ これは 趣旨説明に触れたことと呼応していると思います。

 セルフコントロールですとか ささげ物がどうであるかですとか 述べていただいていますが どうもそういった心理的なことがらや比較としての程度問題などにかんしては 聖書記者は まさにそのように表現しておいて まったく関心がない。どうもこのようであると読みました。
 果たして どうでしょうか。

お礼日時:2012/02/17 00:06

> 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。


 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

男児にとって父親は乗り越えるべき存在であると同時に尊敬したい対象でもあるわけなので、主の言葉はアベルへの嫉妬を掻き立てるに充分であったことでしょう。ゆえに、

>(主が) カインとその献げ物には目を留められなかった。

のなら、
>  カインは激しく怒って顔を伏せた。

のは(カインが神ではなく人間であるならば、という前提でですがーーーとお断りするのは全く知らないからですが)当然のことでしょう。にも拘わらず、

>「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

と主が尋ねたのだとすればいかにも間の抜けた問いではないでしょうか。
むしろ、そのことがアベル殺害の直接的動機となったとしても不思議ではないでしょう。
つまり、全くの独断的解釈によれば、アベルは主の身代わりとして殺されたことになります。
あるいは、弟を殺すことによって父からの愛を渇望していることを知らしめたかった。
代替的にエディブスコンプレックスが実現された、とでも言いましょうか、側面から捉えると極めて明白な展開だろうと思われますが、聖書を読んだことのない素人の戯言と受け止めていただいて構いません。
しかし、いやしくも神であるならば、なぜ贈り物の中身で差別する必要があったのか、そのあたりのほうがむしろ興味があります。
また、嫉妬心を掻き立てることになるという単純な事実にすら気づかなかったのだろうか・・・などについても面白いなという印象を受けました。
あえて試練を与えたのだということであれば、完全な出来レースですから聖書自体が無意味になってしまうでしょうし。

素直な印象としてですが、聖書というのはなかなか面白い読み物のように感じました。
というか、面白く紹介していただいた、と受け止めるべきなのかもしれませんね。
なんか的外れな回答のようで申しわけありません。
聖書に全く興味ない者が回答してはいけませんでしたね。
適当にスルーなさってください。
          
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この回答へのお礼

 これはですね。――はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――これは 回答No.1を受け取ってから そしてそれをべストアンサーだと内心では決めたにもかかわらず まだなお回答を受けつけていた質問者がわるいと言えばわるい。まづこうお断りしなければならないと考えます。

 おおきなあやまちだとは しょうじき 思いませんが――なぜなら 多くの方々のいろんなご見解をうかがうことはよいことだと思うからですが―― 考えるには回答No.1の《ヘブル書の解釈》より以上の見方が現われるとも ちょっと思いつかない。そういう状態ではいるものですから その回答No.1との兼ね合いでは 申し訳ない気持ちもあります。

 なるほど 精神分析の典型的な解釈が成り立つではないか。とおっしゃる。わけですよね。

 ヘブル書の解釈をあらためて――特には回答No.1およびNo.2のそれぞれにおそわりつつ――わたしなりに のべてみます。そこでは 嫉妬という事象や そして語弊のある言い方ですが 弟殺しといった事象を完全に超えているということ。まづ あらかじめながら これが 答えの鍵になると考えます。

      *

 カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。ただし これを曲げた。ゆがめた。どのようにかは なかなか分からないのですが その現象面としては 神へいけにえを捧げるというおこないをめぐって 現われた。
 そして このくだりでは 聖書記者は いっさいこの主題となっている肝心の信仰問題については 触れていない。
 信仰の問題でありつつ 信仰として触れないまま 事態が進展する。むしろ肝心のことは書かずに アベルとの関係やあるいは神との関係において どうしたこうした どうなったこうなったと 淡々と書いてゆく。
 たとえば
 ★ ~~~~~~
  >(主が) カインとその献げ物には目を留められなかった。
 :
 のなら、
 >  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 :
 のは(カインが神ではなく人間であるならば、という前提でですがーーーとお断りするのは全く知らないからですが)当然のことでしょう。にも拘わらず、

 >「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 :
 と主が尋ねたのだとすればいかにも間の抜けた問いではないでしょうか。
 ~~~~~~~~
 ☆ といった頓珍漢な書き方をしている。堂々と 阿呆な書き方をしています。
 つまりは そのとき同時に 

   読者よ 問題は 信仰なのだ。
   あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。

 と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。


 ささげ物などは 極端に言えば どうでもよい。どちらがすぐれているのか これもどうでもよい。弟に嫉妬したかどうかなども どうでもよい。神が 間抜けだと思われても それもどうでもよい。

      *


 こういったところだと考えます。
 わたしが趣旨説明に《心の葛藤なり悩みなり》を出してしまったために はこぶるさんのような解釈に発展したかも分かりません。とにもかくにも いまの状態においては いま述べた見方を持つに到っています。


 そうして こうなりますと さらにほかの多くの方々のご見解を聞いてみたほうがよいとも考えられます。聞いてみなければならなくなったように思います。
 というお応えにて けっきょく分析された内容について触れずじまいでしたが あらためてそこらへんについても ご主張がありましたら お寄せくださいますようお願いしておきたいと思います。

 

  

お礼日時:2012/02/16 22:45

土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。


生かす事が自らが生きる事につながる。
この耕す知恵は猿からは生まれない知恵でして、神様が人に教えてくれたものです。
英知は全てそうです。
カインの故事は、神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。
私がその物語の作者なら「お前は私のために生きる事を怠った」そんな一文を添えます。

この回答への補足

 お礼欄のおぎないです。

 ★ 神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。
 ☆ ひょっとしてこの《あやまち》は カインがおかしたのではなく そうではなく 神に隷従していたアベルが その《隷従するのみで神を理解することを怠った》ということなのでしょうか?


 ひとつの見方をかたちづくるようにも思いますし その反面では 《神を理解する》というコトについて そのままではやはり飲み込めないものがあります。
 そもそも《神を人間が その理性によって経験合理性に合った妥当性のある内容として 理解する》ことが出来るとは 思わないからです。
 仮りの説明をして 神を指し示そうとする努力はおこなわれますが 《理解しえた》という認識はないと考えます。つまり 神は 基本的に《理解する》対象であるとは思わない。

 そういう難点もあるかと思うのですが。

補足日時:2012/02/16 22:26
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この回答へのお礼

 ふられおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 むつかしいですね。むつかしくお考えなのですね。

 ★ ~~~~
 土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。
 生かす事が自らが生きる事につながる。
 ~~~~~~
 ☆ ここの《他者》とは 麦なら麦 米なら米というその栽培植物のことですか? それとも ほかの人のことでしょうか? 家族のことでしょうか? となり人でしょうか?
 でもほかの人びととの共生は 狩猟・採集・漁労の生活においても 課題であったと思われはします。

 ★ ~~~~
 この耕す知恵は猿からは生まれない知恵でして、神様が人に教えてくれたものです。
 英知は全てそうです。
 ~~~~~~
 ☆ たしかに――わたしも思うにですが―― 知恵は知識を活かすコツのようなものだと考えます。それは ヒラメキ(ないしインスピレーション)において得られるというように思います。そのような意味で 神とかかわっていると捉えます。

 ★ ~~~~~
 カインの故事は、神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。
 私がその物語の作者なら「お前は私のために生きる事を怠った」そんな一文を添えます。
 ~~~~~~~
 ☆ ううーん。待ってください。このカインとアベルの物語の前の世代は アダムとエワ夫婦の話です。そしてかれらについては 《神の言いつけに隷従することが求められていたところ これに逆らった》という話ですね。そこで 自由意志の存在がたしかめられた。

 そのあと カインの世代において
 ★ 神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ち
 ☆ が出て来るのですか? 
 この場合 言ってみれば 弟のアベルは すぐれたささげ物をそなえて 言わば《隷従》していたわけです。はっきりとは書いてないと思うのですが カインはその内心では《神への隷従を嫌って よく分からないけれど 劣った供え物をささげた》というようにも読めます。
 そう考えると 合点が行かないのですが どこか読み落としていましょうか?
 
 ★ 「お前は私のために生きる事を怠った」
 ☆  これは そのように神が言うということですよね? ううーん。これも 微妙ですね。
 なぜかと言えば 神はそこまでは 服従を強いるものではないのではないか? こう考えるゆえです。

 ちょっと よく飲み込めませんでした。どうでしょう?

お礼日時:2012/02/16 22:09

 今回は無知な私でも何とか読み通せる質問でしたので“仏教目線”ですが答えてみようと思います。



 主題は「信仰心は正しく堅固でなければならない」という事だと思います。

 主が“妻エバ”に男子(カイン)を産ませたということは、その「主題」をカインを通して示したかったから。

 主は、献げ物に引け目を感じるカインの心の弱さを批判し、修行の為にノド(さすらい)の地に住まわせました。

 だから“主の使い”で修行中の身であるカインを、出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだと思います。

 

 
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この回答へのお礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 主題は「信仰心は正しく堅固でなければならない」という事だと思います。
 ☆ やはり 主題は 《信仰》ですか。
 聖書の信仰にかんして わたくしの思うところをひと言つけ添えますが それは《ただしく堅固である》ことも すべて ナゾの何ものかから与えられるという捉え方になるとは思います。

 ★ 主が“妻エバ”に男子(カイン)を産ませたということは、その「主題」をカインを通して示したかったから。
 ☆ 次の新しい世代をとおしても 信仰という主題を示そうとした。わけですね。

 ★ 主は、献げ物に引け目を感じるカインの心の弱さを批判し、修行の為にノド(さすらい)の地に住まわせました。
 ☆ そうしますと カインはすでにささげ物をしたときすでに 自分の心にやましさを感じていたという解釈ですね。

 つまり けっきょく いきなり信仰という主題が入って来ているのですね。回答No.2のてふてふさんに言わせると それゆえにこそ当然触れなかったのだそうです。そこまで言われると そう受け取るしかないように思います。

 弟殺しをおこなうまでに到ったカインであるけれども それでも
 ★ だから“主の使い”
 ☆ として扱われるのですね?

 ★ だから“主の使い”で修行中の身であるカインを、出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだと思います。
 ☆ 生かされているけれども つぐないもしなければならない。あるいは 遠くイエス・キリストの歴史的な登場までその完全な癒しとしてのすくいは またねばならないということを示すものか?

 信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでもそれの自治を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか?


 ところで
 ★ 出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだ
 ☆ このしるしとは 具体的に何だとお考えになりますか? そんなしるしが ありますか? 雰囲気でしょうか? かえって相手には カインは なごみをもたらすのでしょうか? うんぬん。・・・

お礼日時:2012/02/16 21:54

 難しいですよね。

私の解釈です。

・神の「御心」を人が知ることは出来ない。

 信仰を持っていても様々な不幸に人は会いますが、その時必ず「他の誰でもなく、なぜ自分が?」という問いを持つと思います。しかし、結局はそれを受け入れるしかありません。

 結局、信仰とはすべてを神にゆだね、受け入れること・・その比喩ではないかと思っています。
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この回答へのお礼

 ぽおめんさん こんばんは。

 ★ 難しいですよね。
 ☆ この質問の主題はむつかしいです。むつかしかったです。

 まづ
 ★ ・神の「御心」を人が知ることは出来ない。
 ☆ これは おっしゃるとおりだと思います。

 ★ 信仰を持っていても様々な不幸に人は会いますが、その時必ず「他の誰でもなく、なぜ自分が?」という問いを持つと思います。しかし、結局はそれを受け入れるしかありません。
 ☆ これも そのとおりに受け取ります。或る程度 あとでそのわけが分かる――主観において納得が行く――場合もあるかと思います。

 ★ 結局、信仰とはすべてを神にゆだね、受け入れること・・その比喩ではないかと思っています。
 ☆ ここは 表現として 微妙なのではないかと考えます。
 一方で《信仰》は何だと問うならば 《すべてを神にゆだね 受け容れること》と言えると思います。
 他方で その定義のままに思いを持ち行動をおこなっているかと言えば 必ずしもそうではない。

 すぐ上で捉えたように おのれの自由意志で振る舞っていたとき 或る種の不幸に出会う。そうしてその場合に《すべてをゆだね 受け容れる》という姿勢になるとは思います。思いますが つねにそういう態度を採っているかと言えば むしろやはり――心の底においてゆだねているという感覚を持ちつつ―― けっきょくかなり好きなように振る舞っているのではないかとも考えます。

 別に道をゆがめようと思ってではなく ゆだねているという感覚の上でなのだけれども 自由な選択をおこなっていると考えます。

 それは したがって ひとつには確信の問題だと思われます。必ずしも《すべてをゆだね 受け容れている》というその確信ではなく そうではなく ヒラメキを受けたような確信です。
 言いかえると 《すべて みこころのままに》という祈りは すでにすべてをゆだねていますが それによって行動を起こすと考えるのも きつい。ように思うのです。
 その《ゆだね》は 言葉によって成るのではなく やはりあたえられるものだと考えるからです。

 でも微妙なようです。述べ切ってはいないかも知れません。
 ★ その比喩ではないかと思っています。
 ☆ とおっしゃるならば このいまの微妙さをも含めて言っておられるようだとも思いましたが。

お礼日時:2012/02/16 21:40

こんにちは、ブラジェロン子爵。



私は、聖書は読んだことはないのですが。カインとアベルは二人とも信仰の深い人だったと思います。
主は、二人の献げ物を見て、率直にアベルの羊の初子が優れていると思われたのです。そこで、カインは、もっと努力して来年優れた献げ物をするべきでした。しかし、彼の心には、弟に対する妬みの心が生まれてしまったのです。弟殺しにまで至ったカインに対して、主は償いとして、罰を与えられた。彼は、其の信仰心からあまんじてさすらいの地へ住んだのではないでしょうか?当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。この物語は、信仰心が憎しみになることもある、しかし、主はそういう人も生かす者であると言われているのです。カインには、知恵により生きる試練を与えられたのです。
私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。
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この回答へのお礼

 ★( a ) 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。
 ☆ このくだりだけが 見解を異にしました。

 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 なかなか信仰の篤い見方ではないかと思いました。
 ★ 当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。
 ☆ このように《信仰》の問題に帰して捉えるというのは 回答No.1の方のヘブル書での記事についてのご指摘がなければ分からなかった。つまり 忘れてしまっていました。
 このヘブル書で触れられていなかったら どうなっていたか。とも考えます。

 たしかに信仰が一にも二にも主題であったはずなんです。ただアダムとエワから次の世代へ移って 何も明らかにせずに――つまり 献げもののよしあしを言うだけで――信仰の問題を表現していたとは 思いつけなかった。気づかなかった。

 ★ 弟殺しにまで至ったカインに対して、主は償いとして、罰を与えられた。
 ☆ ここまで行くと もう事態ははっきりしている。とは思います。ただし
 ★ しかし、彼の心には、弟に対する妬みの心が生まれてしまったのです。
 ☆ ということが事実だとした場合 それでも《妬み》によって 相手をころすまでに到るか? 信仰の中身が ゆるがせになるほど ねたみ切ったりするだろうか? あるいは そもそも先に信仰のあり方がゆらいでいたのか? それゆえ ねたみが出たのか?

 つまり 信仰は 切り札であると同時に それだけで何もかもを切ってしまうと なかなか納得がすんなりとは行きがたい。ところもあると思ったりします。
 でも 
 ★ 当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。
 ☆ てふてふさんにとっては 《当然》なのですね? 恐れ入りました。完全に イッポン。


 最初の( a )の命題は わかりにくいように思います。それほどはっきりと決まっているとは いまのところ 思えないでいます。いろんな場合があるのではないかという意味です。
 すなわち後半の部分:
 ★ 主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。
 ☆ については もし主観においてそう思われるのであれば そういうことかなと思います。
 前半の部分:
 ★ 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。
 ☆ これは 死ぬという事態が含まれているというコトですよね? だとしたら それほど簡単に言い切ってよいものか 自問しつづけます。答えは出ましょうか? むつかしい。と思います。――宙ぶらりんですが。

お礼日時:2012/02/16 21:25
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