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哲学カテにおいては、「神」という主題が多く語られてきましたが、私の目にした
限りでは、観念から観念に流れてしまい、心にとどまるものがなかった印象があり
ます。

太古の昔から人間は、森羅万象の事実の姿を見、その姿の中に法則性を想像し、そ
の法則の一つとして「神」というものを捉えようとしてきたと言えると思います。

自然信仰、アニミズム、全知全能の神、天皇という神、等々を経ながら、現代にお
いても、科学とかAIなどに「神」見ようとしているのではないでしょうか?

「神は死んだ」と言われて久しいわけですが、それは、全知全能の絶対神の死であっ
て、今だに人類は理論物理学・天文学などの分野で、神を「暴露」しようとしていま
すし、一般大衆の中には、どこか神を求める心が残っているようにも感じます。

そのように、人の心の中におそらく永遠に消えないであろう「神」「神性」という
イメージの源となっているものは何なのでしょうか?

この壮大なテーマについて様々なご意見をいただき、私の中で演繹的にまとめてゆき
たいと考えています。

質問者からの補足コメント


  • BGM

      補足日時:2020/04/07 14:36
  • だから、人間こそ最高の権威であると認めるような社会に変革したいと
    願うわけです。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/04/10 04:07

A 回答 (47件中1~10件)

「ヒト」は集団て生きる事を選んだ「生物種」です。


故に「ヒト」は「集団に帰属」しようとするのです。
集団の中で居場所があると感じられた時に「ヒト」は安心するのです。
だからこそ「ヒト」は集団の中で「居場所」を見つけようとするのです。
「集団の中で居場所」があると実感する為に「ヒト」は「集団の中で自身の役割」を欲するのです
「集団の中での役割」を与えられた時「ヒト」は「集団の中での自身の居場所」があると実感出来るので「安心」するのです。
だからこそ「ヒト」は「自身に与えらた役割」を果たそうするのです。
「自身に与えられた役割」を果たし「仲間」から認められる事で「ヒト」は喜ぶのです
それを積み重ねていく事で「ヒト」は「幸福感」を得るのです。
上記を踏まえて言えば質問者さんが仰っている「集団の性質と言うもが、個人の幸福に大きく関わってくるはず」はそのとおりだと思います。
上記の私の説明に「重大な欠落」があります。
それは「与えられた役割」を意識しているが「自身が属している集団」がどこに向かおうとしているのか?それを意識していな事です
それは「集団の性質」も含まれます。
その点を踏まえるならば質問者さんが仰っている「自身が属している現代社会の性質」を「客観的」に判断しなければならない」はまさにそのとおりだと思います。
そうするために何が必要か?
それは「集団に依存しない」事です。
「集団に依存しない」為には「精神的に自立」しなければならないのです。
「個人主義」とは本来「精神的に自立」することで「自身が属している集団に依存」しなと言う事だと思います。 
ところが少なくも「現代の日本」における「個人主義」とは「個人の権利」や「個性の尊重」となっていて最も重要な「精神的な自立」が欠落しています。
そのためには「真に精神的に自立」していない人達が「自身が属している国家や組織に依存」しているのです
それが「コロナショック」による「集団心理」による「思考停止」やそれに伴う「全体主義」または「国家主義」化している原因だと私は思います。
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この回答へのお礼

返信が遅くなり、質問が締め切りになってしまい、大変失礼しました。

集団に依存せずに精神的に自立することが重要であるとは、全くその通りですね。
集団の中で「何かしてもらう」ことばかり望むのではなく、集団に「参加する」
主体性を持つべきであると、言いかえることができるでしょう。

古代ローマが滅んだのは、人々が依存的になったからだと論ずる人がいますが、現
代社会は明白にこの状態ですね。つまり、「滅びへの状態」と言えると思います。

お礼日時:2020/05/03 16:32

「存在性理論」の提唱者さんは提唱者さんが考え出したその考えに依存していて、その考え方を他人に認められることによって提唱者さん人身が提唱者自身を認められると強迫的に思われているのです


ですから提唱者さんは「存在性理論」を他人に認められたくて必死になってるのです 
それはそれで仕方無いとは思いますがそうしてる為に提唱者さんは「存在性」の本質を掴みきれていないんじゃないかと思います
多分「存在性」は理解することでは無くて感覚的受け止める事じゃないかと私は思います
ですので私は「存在性」を説明しようとせずに言い切った方いいと思っています
そもそも「存在性」は科学で扱える事柄ではないですから
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この回答へのお礼

哲学的な話と、科学的な話が錯綜としているということが、ややこしいと
言えるのではないかと思います。

お礼日時:2020/04/26 06:31

余談です


「コロナ騒動」を客観的に捉えてみると「コロナショック」で「思考停止」し「集団進化」していると思います。加えて「全体主義」または「国家主義」化しつつあるように思えます
その点を踏まえるならば質問者さんが仰っている「科学というものを基盤とした社会(システム)を神として、そのシステムにし帰属するという信仰をしているのではないか?」についてはそのとおりでしょう。
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この回答へのお礼

人間の「集団帰属心」というものは強いというか、なくならないものなのでしょう。
とすると、その集団の性質というものが、個人の幸福に大きく関わってくるはずです
ね。
ならば、現代社会の性質というものを「客観的」に判断しなければならないと思いま
す。

客観的というか、哲学的と言ったほうがいいでしょうか?

お礼日時:2020/04/26 06:28

どっこいしょー、ドッコイ ショー❣️

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この回答へのお礼

へえ。

お礼日時:2020/04/25 13:19

科学を信仰するその理由は


科学技術の恩恵を受けていることで科学技術に対する「信頼感」が生まれ加えて数多に実証された科学理論=数式を用いれば誰でも正し答えが出せる事実によって科学に対して正当だと感じる感覚が生まれました。 
更に科学は答えを出す学問であるが故に科学に対する安心感が生まれたのです
科学に対して信頼感・正当だと感じる感覚・安心感によって「科学は間違いない」とする考え方が生まれたのです
ですが多くの人達は「科学」に対して「難しい」とのイメージを抱いていてるので科学を理解しているとは言い難いのです
「科学は間違いない」と言うにはそうであるか否かを確認しなければなりませんが科学を理解していない人達にはそれが出来ません。
「科学は間違いない」と確認できないのにそう考えるにはその考え方を盲信するしかありません。
その盲信が信仰になったのです
このことは知っている人達はあらゆる事柄においてそれを「正しい」と思わせる為に「科学的な裏付け」を添えるのです。
その「科学的な裏付け」が科学的に正しいか否かが問われて当然ですが科学を理解していない多くの人達はその問すら出来ません。
よって科学を信仰している人達は正誤問わずに「科学的な裏付け」を盲信するのです
科学的には正しくない事でもいかに正しいように見せるだけで科学を盲信している人達はそれを盲信するのです
これが似非科学を生み出す要因で似非科学が広まる事で科学に対する誤った認識が生まれるのです
科学が健全に発展してく上で科学に対する誤った認識が障害となり得るのです
身近な例で言えば「存在性理論」の提唱者がそうです
科学的な裏付けを用いて「存在性理論」の正当性をアピールしています。
「存在性理論」の提唱者さんは「存在性理論」の正当性をアピールする事が目的でそれに都合がいい科学知識を都合がいいように曲解しています。それによって科学に対する誤った認識か広まる恐れがあるのですがそんなことはお構いなしなのです
例えばエントロピーです
「存在性理論」の提唱者さんは「エントロピーが増大すると秩序失われる」的な発言されてますがそれは間違いです
そもそも物質には「安定しようとする性質」があり安定した状態となったら外的要因が加わらない限りがその状態を維持しようとするのです(これを恒常性(ホメオスタシス)といいます) 
その他にも間違った認識をされていています
その他にも間違いだらけです
それが問題です
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この回答へのお礼

現代において人々が科学信仰に陥っている由来についての説は、納得できるものです。

このことについて近頃思うことは、単に、科学というものが神になっているということ
ではなくて、科学というものを基盤とした社会(システム)を神とし、そのシステムに帰
属するという信仰をしているのではないかと思うようになりました。
今回のコロナ騒動に対する人々の反応を見て猶更に。

「存在性理論」の提唱者については、もう付き合いも長くなりましたが、それが理由で
はなく、結論が面白いということで私は評価しているのです。

超学問的、超理論的です。彼がしっかりとした論文を書けるようになると大したことに
なるのではないかと思っているのですが、どうもそのことにはあまり興味がないように
見えます。

お礼日時:2020/04/25 13:19

合いの手打ちましょ❗️ヨイサヨイサ‼️



ヨサコイ‼️全部意味があるんじゃ無いでしょうかね。宗教にもお金にも愛にも

さぁ、もっと先に参りましょうか❣️
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この回答へのお礼

はあ。

お礼日時:2020/04/24 01:05

政教分離


確かにですね

王侯社会から
市民の参政権を勝ち取って

民主主義しゃかいに
人の権利を
考える社会になって
まだまだ

間もないですもんね

政教分離の危うさから
政治と宗教を
分離したけど!

人の中にある
神様まで
分離してしまったのかも?
特に日本なんかは
( ̄~ ̄;)

高率や利益を追求した結果でしょうか?
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この回答へのお礼

民主主義と言っても、仰る通りまだ歴史が浅く、封建時代の君主の残像が
政治家の中にまだまだ残っている感じです。
民衆が主権者という自覚には遠いと思う。

神離れと言っても、宗教的神を捨て、科学的神と言うか、人工的システム
の神を代わりに立てたに過ぎないと言えると思います。

お礼日時:2020/04/24 01:05

神離れ


( ̄~ ̄;)

信仰から宗教になり
宗教から科学

まとまってますね
(ノ゜ο゜)ノ~おお~

宗教からの科学のあいだに
お金とか経済なんてな
下世話な概念なんかも!
入りそうな気がするのは
ワシだけでしょうか?
中世のヨーロッパなんかだと
教皇や教会の、免罪符の販売とかなんかは有名ですもんね

あと

信仰から宗教のあいだにも
法令主義なんかも

日本も
神道国家の天皇制から
大宝律令を導入して
法治国家を目指したけど
法による治世の限界から、仏教による治世を求めたりしたので

信仰から立法
立法から宗教とかとか

宗教から貨幣制度
貨幣制度から科学

あくまでも、個人的な妄想なんですけど
ついつい
熱い話に、触発してしまいましたよ
m(._.)m
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この回答へのお礼

仰っていること一つは、聖職者の堕落の問題ですね。
キリスト教においてもイスラム教においても仏教においても、本来は民衆の
ための教えであったわけですが、聖職者を「神の使い」的に、民衆があまり
にも特別扱いしたので「偉くなってしまった」ために、ちょっとくらい金儲
けしてもいいじゃねえか、となったということでしょう。

もう一つは政教一致の問題。つまり、政治的統治に民衆の宗教心を利用した
ということ。
これは、世界的に禁止され、これが昔に戻るということは考えにくいと思っ
ています。

尚、政教一致とは国家権力が特定の宗教を庇護したりすることであり、宗教
者が政治活動をしてはならないということではありません。
もしそうであるなら、信教の自由と参政権の侵害となるでしょう。

お礼日時:2020/04/20 02:11

「神離れ」について


ヒトには何かに依存しようとする性質があります。世界中の多くの人たちが「宗教」を信仰してるその理由がそれなのです
何かに依存しようとする性質は日本人にも当然有ります。それは変わりません。しかしながら多くの日本人は「神離れ」しているのです。ですから多くの日本人が「宗教」を信仰していないのです
何かに依存しようとする性質があるのに何故多くの日本人が「宗教」を信仰していないのか?それは「宗教」に取って代わるものがあるからです。それは「科学」です
どうやら「科学」を信仰している日本人が相当数いるようです
「科学」を信仰している人達の中には「科学」を絶対視している人達がいます.
不遜な事を言わせて貰えばを「科学」を絶対視している人達にとっては「科学」こそ「神」なのだと思います
その点を踏まえるならば「人の心の中おそらく永遠に消えないだろう「神」・「神性」」については「科学」を「神」として捉えているなら人達にもそれは当てはまるでしょう。
しかしながら「宗教」を信仰されている人達が抱いている「神」と「科学」を絶対視されている人達が抱いている「神」とは全く違うでしょう。
その事を質問者さんはどうお考えになさるのか?です
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この回答へのお礼

さすがですね、キチンとまとまってきました。

人間は、裸でこの世にポンと生まれてくるわけです。それで自分がいったい
何者なのか、将来どうなるのか、いつ死ぬのか、死んだらどうなるのか、全
く分からないわけです。
そのままでは不安でおそらく人間は何もできないでしょう。ですから、基準
となるものを欲する。それを文明に求めるわけです。

古代では、多神教的神。中世では、絶対的創造神、近・現代では科学。

以前お話したように、科学は公理というものを設定して成り立つものであり、
その公理というものが正しいと証明することはできない。
哲学的にも「絶対」というものは論理的に成り立たない、ということだと思い
ます。

だから、人間は誰でも結局何かを信じているということになる。その上に論理
が組み立てられる、と。

「宗教的信仰」をしている人が同じ「神」を心に抱いているかと言えば、違うと
思う。また、科学を絶対視している人の心に、宗教的神がある場合もあると思う。

その、個々の微妙な違いが分かってくると、とても面白いと思う次第であります。

お礼日時:2020/04/19 01:17

「人の感じている神」について


私個人としては私の心に如何なる神も存在していないでしょう。
神に関する感覚すら有りません
と言うのも私はどのようなに状況においても「神」を意識したことがないからです。
と言うのも私は宗教的な教育を受けたことはありませんし、宗教的な経験も殆どないからです。
加えて宗教的な話題を口にすることすら稀です。家族の間であってもそれは変わりません。
「有神論」・「無神論」なる言葉がありますが私の場合はそのいずれに当てはまらなと思います。
私の場合は「神に無関心」だと思います。
日本人に限って言えば私のように「神に無関心」な人達はそれなりにいるでしょう。
とは言えはそのような人達の中には「パワースポット巡り」や「心霊スポット巡り」健康の為に「ヨガ」をする人達がいます
ではそういった方々の「心」に神がいるのか?と言えば甚だ疑問です
日本は戦後から実施された「教育」と「宗教」の分離によって「神離れ」が進んだ国かもしれません
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この回答へのお礼

日本には18万余の宗教法人があるそうです。
経験上で申し上げれば、仏教系、キリスト教系、神道系に限らず、敬虔な人と
いうのはとても少ないと思います。

家がそうであるというケースと、誘われたから入信したものの実はあまり興味
がないというケースとで、8~9割ではなかろうかと思っています。

私自身が、親が入信をしていて自動的に入会はしたものの、面倒くさいとか、
何か抵抗があるとかで、全く敬虔ではありませんでした。五年くらい前からで
すね、敬虔といえる部類に入ってきたのは。
まあ、日本人は一般的に信仰心は薄いと思います。

それでも、初詣に行く人は多いし、神仏に手を合わせるわけです。また、仰る
ように「パワースポット巡り」や「心霊スポット巡り」をするのです。
この両者は全く同じだと思います。

宗教的信仰をする人も、そうした「単発的信仰」をする人も、「何か」を感じて
いるからそうするのだと思います。
いや、そうしない人も感じていると思います。

その「何か」は人それぞれ微妙に違いはあるにせよ、その人の「神」と言ってい
いのではないかと思うのです。

お礼日時:2020/04/19 00:49
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