プロが教えるわが家の防犯対策術!

 明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。

 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~
 1: さて、アダムは妻エバを知った。
  彼女は身ごもってカインを産み、

   「わたしは主によって男子を得た」

  と言った。

 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
  アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
  主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。

 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
     お前はそれを支配せねばならない。」

 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
   カインは弟アベルを襲って殺した。

 9: 主はカインに言われた。

     「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

    カインは答えた。

     「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 10: 主は言われた。

     「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。

 11:  今、お前は呪われる者となった。
     お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも
     なお、呪われる。

 12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す
     ことはない。
      お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 13: カインは主に言った。

      「わたしの罪は重すぎて負いきれません。

 14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし
      が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって
      しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す
      でしょう。」

 15: 主はカインに言われた。

       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の
      復讐を受けるであろう。」

    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに
   しるしを付けられた。

 16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?

 ▲ (同上) ~~~~
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

 農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?

 よろしくお願いいたします。

A 回答 (37件中11~20件)

 「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。

お前はそれを支配せねばならない。」
 これは、カインの“弟殺し”を「主」が予言したものであると、ようやく解かりました。

 また14:のカインの言葉からは「主」に見放されてしまえば生きていけない、と訴えていて、だからこそ15:で「主」は、カインを見放してはいないという意味を込めて、「カインを殺す者は七倍の復習をうける」と言ったんですね?

 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。

 わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。
 ・・・・・と、言っているようにも思います。


       独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)
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この回答へのお礼

 わいわいえいとさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。
 ☆ カインが聞いたら 涙を流してよろこぶ? かも知れません。

 ★ ~~~~
 わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。
 ・・・・・と、言っているようにも思います。
 ~~~~~
 ☆ そうですか。そうですね。つよい信仰をお持ちなのですね。
 こういう表現についてうんぬんするのは 苦手です。なぜでしょうかねぇ。信仰が強いとか弱いとかにかかわるからでしょうか。個人的になるからですかねぇ。



 ★ 独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)
 ☆ のですが 考えてみれば じんるいのすべての人びとが 子どもなのですよ? その内《出来の悪い子》は どれほどいましょうか? 一割? 二割?
 もし信仰をお持ちなら その神の意志と心に合わせて あなたも同じように出来の悪い子がかわいいというかたちになるということですが だいじょうぶですか? わたしは 何人も何人もは むつかしいと思ってしまいます。

お礼日時:2012/02/17 16:22

批判は結構ですよ。

しかし、神と信仰について、ご自分の定義を持ち出して反例となさるのは、客観的な議論ではありません。あなたは書いてらっしゃらないが、あなたの原点は以下の文章ではありませんか。

>人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。

アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。
しかし嫉妬に狂うとは、アウグスティヌスはカインにも神への愛があったことを認めているということにはなります。彼の愛が報われなかったのはなぜなのか。これはすでに示したように、新約聖書では、「信仰」と呼べるものではなかったからだ、という解釈になっています。この見方を整理すると、嫉妬に狂う類の愛情と、信仰は別物だというわけです。信仰とは恋人を愛するようなやり方とは異なるというわけです。エロスとアガペーの差だと言えば、あまりに当たり前すぎて、今更、綿密に議論する必要もないでしょう。

こうした点は既にNo1のお礼欄でふれてらっしゃるようですね。カインの信仰は歪んでいた、と指摘しているのですから。「カインが生き抜く物語か?」と聞いていますが、そういうお話しでしょう。信仰の持ち様がダメなカインが生きて行けるように取り計らったのですから。
しかしそれではあまりにキリスト教的な解釈で、批判精神がないではありませんか。「学問として」であるのなら、新約聖書の記述をあれこれと批判検討し、客観的な視野を獲得するようにしなければ、おもしろくありません。そうした一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。

反例は、最初に書いたように、ご自分の定義を持ち出していると感じられたので、私としては応答しようがありません。強いて言えば、上記に記したように、あまりにアウグスティヌス的な見解である、と感じました。そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。
それからSaddiqとdikaiosについては、私は納得できませんでした。というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。したがって、接点があっても全然不思議ではありませんし、反例になりません。反例を挙げるのなら、ギリシア語に「義」を示す語がいくつあり、Saddiqに該当する語がない、だから便宜上、似た意味をもつdikaiosを用いたのだ、と検証してみせなければなりません。あなたの反例はそこまでに達していらっしゃいませんね。そういうわけで、論理的に納得できません。

モンテスキューについてですが、私はたとえば、以下のような記述であれば、納得したと思いますよ。
http://dictionnaire-montesquieu.ens-lyon.fr/inde …
どうです、モンテスキューの他の文献から詳細に引用してきているでしょう? これと比べても、ご自分は立派な記述をしたと思いますか。私が要求している論述の水準と、あなたが十分と思う論述の水準には隔たりがあって、いくらあなたが言葉を費やしても、私には届かなかったのです。次第に私は煩わしくなり始めた。他の方との議論に割り込んでこられて迷惑だと感じた。あなたの言葉で言えば、「うるさい」と感じた。――それだけのことです。あなたにしてみたら、ごく首尾一貫したことを理路整然と語っていたおつもりでしょうが、私は何とも雲をつかむ話をしているな、としか感じなかったのでした。
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この回答へのお礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。―― どうも進展のほどが うまく行きませんねぇ。なぜでしょうかねぇ。


 だいたいあなたは 議論を途中まで引っ張って行って 放り投げる。
 あるいは 城の堀のまわりに兵隊さんを幾重にも張り巡らし 議論が始まるかと思いきや あとは お結びでも食べて 昼寝している。

 こちらが 信仰の定義を書いて ちょうど城の中の図面まで見せた格好になったら 攻めやすしと見るのではなく 《反例》だとおっしゃる。反例なら 原案がなくてはおかしい。

 わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したのでそれを読んだら もう腰が引けたのだろうか。
 だが 文面はいまだに食ってかかって来ている。

 



 ★ それから Saddiq と dikaios については、私は納得できませんでした。
 ☆ じゅうぶんに納得の行く議論だとなおうったえます。

 ★ というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。
 ☆ なら どうして 次のような新しい考え方が起きて来たというのか?
 ★★(回答No.9) どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。
 




 ★ ~~~~~~
 あなたの原点は以下の文章ではありませんか。

 >人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。

 アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。
 ~~~~~~~~
 ☆ この図式はおかしいですね。あまりにもたとえばマニケーイズムだと見られます。つまりは グノーシス主義とほぼ同じです 善悪の二元論としては。
 ただし アウグスティヌスの場合は むろんさんざマニケイストたちと議論を闘わせて来ているのであって 二元論ではありえない。悪は善の欠如というかたちで 善(むしろ 存在ないし生命)の一元論です。

 それは たとえば次のような文章にもとめるべきです。
 ◆ (アウグスティヌス:神の国と地上の国) ~~~
 この天の国は地上を寄留している間に あらゆる民族からその市民を召し出し あらゆる言語の寄留者の社会をつくる。そして 地の国の平和をもたらして保存している習慣や法律や制度の相違においては何ら意を用いず それらのうちの何ものも廃止したり 破壊したりせず むしろそれらは異なる民族においてさまざまではあっても 地上の平和という一つの同じ目的をめざしている限り もしも唯一の最高の真なる神が崇拝されるべきだと教える宗教が阻止されないならば これを保持したり追求したりするのである。

 それゆえに天の国すら地上において寄留している間は地上の平和の用い 死すべき人間の本性に属する事物に関しては 敬虔と宗教とを妨害せぬ限り 人間の意志の結合を保護しかつ欲求し 地上の平和を天上の平和にもたらす。
 天上の平和こそは真の平和であって 厳密にはこれのみが理性的被造物の平和 つまり神を享受し神において相互を享受するもっとも秩序があり もっとも和合した社会であって またそう呼ばれてしかるべきものである。
  (『神の国』 第19巻 17章 松田禎二・岡野昌雄・泉治典訳  1983)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりづらいと思うので 解説をも引いておきます。
 ■ (R.A.マーカス( Markus ):Saeculum ) ~~~~
 世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民にとっては まさにこの世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。

 人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 世界( saeculum )というものを 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )とのあいだの 中間地帯( no man's land )として》ではなく 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見通しえた時のみであるという そのような現実の中に位置する或る時間帯( temporal life )として》見るというかれの理解から 発しているものである。
 (§ 3 私訳 1970)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 言いかえると カインのその後に建てた地上の町も その秩序においては アベルの・神の国と同じ基礎に立ちその基盤じたいを共有している。





 ★ 一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。
 ☆ No.10補足欄を参照のこと。


 ★ そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。
 ☆ 許容する姿勢を見せているようですが けっきょく相手にあなたは許容しないのですね? と尋ねておけば 許容しなくても済むとでも思っているとしか見えない。
 


 ★ 友情論
 ☆ については ふたつつけ添えておきます。

 わたしは モンテスキューは知りません。

 もうひとつ。友情もけっきょく じんるいの次元で捉えないと つねに破綻に瀕していると言わざるを得ない。同胞が どれだけ 志を持つ青年らを失望させたか。ゆえに 実行や実現の現実性がなくても なおおのれの心の中では――閉じないで――開かれているというその境地に〔友情は〕還元されていくものと思われるということ。雲をつかむ話をしているのです。

お礼日時:2012/02/17 17:22

#6です。



> カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。

どのように信仰するか、ということなのですね。
なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。

>   読者よ 問題は 信仰なのだ。
   あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。

 と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。

なるほど。
信仰と論理が相容れないものであることが、改めてわかりました。
にも拘わらず信仰が定着しているという場合は、無意識によるものであることが明白でしょうから、その意味でやはり興味深いと思います。
    
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ○ ムイシキとヒラメキとの違い。

 ☆ これは ムイシキがあくまで 人間存在の中に属する。つまりは 身と心のどこかにあると想定されている。しかし そこから起こってやがて意識されうる動きとしてあるものとしてしか分からない。

 ヒラメキは 人間やこの経験世界の中からは――いま 信仰の問題にかぎるならば―― 出てくるものではない。どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。要するに 神からの声です。

 ムイシキは このじんるいの経験世界とその全歴史の蓄積とかかわっているのでしょう。むろん 個人としての意志行為の蓄積つまりその意味での歴史がおもなものでしょうが。

 ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。

 ヒラメキは これを超えます。トラウマを突き抜けるようにヒラメキます。生きることへとつなぎます。
 
 ヒラメキのあり方はやがて脳の動きが探究され 解明されましょうが ムイシキにかんしては そのような将来の解明の気遣いはありえません。
 ほんとうはムイシキなどはなく 潜在意識しかないと言っていいでしょう。あとは 身と心とにあたかも備わった欲動などが起きるというだけのことだと考えます。





 ★ ~~~~~
  > カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人 間として登場しています。
 :
 どのように信仰するか、ということなのですね。
 なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。
 ~~~~~~
 ☆ けっきょく
 ★ なぜ信仰するか
 ☆ あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。
 これを否定する場合には この世界が 経験合理性によって分かるその経験世界からのみ成っているという或る種の信仰をいだく場合です。言いかえると 非経験の世界は すべて 経験存在である人間のムイシキという場にあたかもおさまっていると主張する思想でありましょう。

 おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。
 ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。
 どうでしょう。

お礼日時:2012/02/17 17:51

なぜ議論が進まないのか。

まず、ここは基本的には議論をする場ではありません。少しなら補足質問ということで応答できます。だが、矢継ぎ早に大量に書かれても応答しきれないのです。ましてや、指摘する箇所があまりに多い場合には、手間を惜しんでしまいます。ところで、

>わたしは モンテスキューは知りません。

それを確認して安心しました。というのも、それなら、落ち込んでも仕方ないではありませんか。知らないことについてテキトーなことを書いてしまった結果、相手にされなかった。それだけのことです。しかし、似た事態は、今度も繰り返されております。たとえば、

>わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したので

それは無理ですよ。聖霊が書いたものでしょう? 「聖書記者の心つもりにまで分け入る」ことがおできになるというのなら、あなたは自ら、自分が聖人だと言っているようなものです。普通の感覚からすれば、「なんか嘘ついてら」と思ってしまうでしょう。要するに、私があなたの「お城」とやらに入ってまで攻める労をとらない理由は、こういう議論の基盤を作る手続きが手抜きだなと感じるからなのです。

カインのお話しについて、私としては、いろいろ指摘もしてあげられますが、あとはご自分でお勉強できると思います。言語については、あなたの説明がやはりテキトーだと思うが、私は説明する手間を惜しんでいます。あなたが気になるのなら、キッテルを読んでもらうことにしましょう。
アウグスティヌスの解釈については、一元論という説をあなたがお持ちであることは理解しました。しかし、アウグスティヌスが自分で二元論としか言いようがないことを書いてしまっています。なぜなんでしょうね。あとはあなたが、自分で検証してみてください。
No10の補足欄は読みましたが、面白いと思った箇所は、ご自分で進展させてください。私が書くべきことは既に書き終えていると感じました。結局、どこまでも、無限に、あなたの問い求めに応じるわけにはいきません。ではこれにて。
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この回答へのお礼

 なるほど。

 マッチ‐ピンポンダッシュ 方式ですな。


 議論を経て対話が実りのあるものになる。


 
 押し売りはしないと言っておいた。


 こういう手合いだとは ちと気づくのがおそかった。





 順番をわざと変えた。こんなところで アディユー。

お礼日時:2012/02/17 21:30

 なぜ苦手なのか。


 それはブラジュロンネさんが理性の人だから。

 聖書は心の世界。
 そしてその主は神。
 神とは=信仰。
 信仰は理性に非ず。
 信仰は感情。

 聖書は感情を持って読むべし。


 ・・・・・なんてことを思ってしまいました。

 カインに対する神の情を感じます。

 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 信仰は感情。
 ☆ ここは違う。

 ここも 信仰は理性に非ず また 感情に非ず。ですよ。

 非思考の庭がわが心に成る。これが しかも動態として 信仰というコトです。どうでしょう。

お礼日時:2012/02/17 21:32

 物質と精神



 物質は、大きさ、重さ、温度、形状、など。
 精神は、喜、怒、哀、楽、これらは情。そして記憶、意識、などの働き。

 なぜ物質としての(空間をも含んで)宇宙が存在するのか。
 その中に現れた、人間はなぜ「精神」を意識するのか。

 こんな不思議なことはない!

 “カイン”は精神の中の人。

 神は精神。
 だから“カイン”には“神”が存在する。

 だから“神”は万人に存在する。

 ・・・・・なんてことも、考えてみました。

 
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ だから“神”は万人に存在する。
 ☆ ここは いいんぢゃないですか。

 ただし
 ★ 神は精神
 ☆ これは 多くの人が落ち入る勘違い。

 ○ 【Q:神は 何でないか?】 ~~~~~~
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7295152.html

 (趣旨説明欄)

  15. まとめて 神は何でないか?

  A. 神は 人間の精神ではない。

  ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

  B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。

  ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ
   っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと
   ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。
    つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ こんなことを考えて来ています。

お礼日時:2012/02/17 21:36

#13です。



>(ヒラメキは)どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。

「受け留める」という述語の対象と、「現われる」の主語がよくわからないのでなんとも言えませんが、どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。
取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。
すでに脳にインプットされている点では同じことだと思います。
雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。

> ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。

受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。
なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。
にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。
イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。
思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。

>あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。

闇雲にいわしの頭でも信じたくなることは誰にでもある、といった意味となんら変わるところがないような気がしますが。

> おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。
 ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。

たしかに面白いご見解ですね。
無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。
(いわゆる救い足り得る要素を兼ね備えていることを否定するわけではないので)その心理作用自体を否定するつもりはないのですが、やはり、そこからなんらかの誤謬が発生してくるのは理の当然であるような気がします。
つまり、わたしに言わせれば、信仰とは救い号という汽車の乗車券であると同時に、誤謬という名の駅を通過、あるいは終点とする運命にあるわけです。
なぜかといって、乗客は、乗車すること自体に価値を見出すよう勧められ、且つ行き先は告げられないままに切符を買わされるからです。
運転士を信じてさえいれば良いのだ、という説明書を右手に。
そこにあるのは現状を脱するために、ただこの汽車に乗って「どこかに」旅立たなければならない、という、ある種の強迫観念であろうと思われます。(くどいようですが、そのこと自体を否定しようとするものではありません)

無意識の想定も同様に無根拠である、ということですね。
たしかに、それを見た人はいませんし、摑んだ人もいません。
ただ、人は意志の動物ですが、意志というだけでは説明の付かない自分というものを自覚することもまた可能でしょう。
無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが、神となるともはや他律的としか言いようがなく、それが本質的な相違点になるのかもしれません。
    
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ムイシキは 経験世界を超えたところ・つまり非経験の領域を想定しているのですか?
 していないはずです。
 あくまで 人間の存在あるいはつまり身と心の場に限られるはずです。

 つまりは それに対して 非経験の場と接触するという想定において ヒラメキが得られるという捉え方です。(ここでは 経験的なモノゴトとして 勘がはたらいたといったようなヒラメキは 別としています)。

 ムイシキとヒラメキとは その源泉となる場所が違います。ですから
 ★ どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。
 ☆ とはなりません。

 ヒラメキは そのまたたきをする一瞬の出来事です。それで消えます。
 ★ 取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。
 ☆ 別に取り込むことはありません。ヒラメキが起こったという記憶は残りましょうが。ヒラメキとして得られた一般に情報を活かしたなら もうその一つのヒラメキは おしまいです。お役御免となります。


 ★ 雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。
 ☆ この表現はおかしいですよ。最初には比喩で雷を出しておいて 次には実際に雷に打たれたと言っているように受け取られます。
 それと 眠っていた記憶は ただ意識していなかったというだけのことです。潜在意識としてあったとも言えます。別に
 ★ ムイシキ領域
 ☆ があるとは証明されていません。ただあると想定しているだけのことです。
 それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。わざわざ ムイシキを持ち出すこともありません。

 それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。それゆえ 想定として 非経験の場と言いますし それをわが心で受け留めたその場は 仮りにでも非思考の庭と言います。それは 心の伸びあるいは明けないし志向性のことです。
 だからと言って 伸びならどこまで伸びるのかとか 明けならその言わば窓を明ければ何があるのかとか そういう問題ではないわけです。比喩であって 肝心なところは わが心が閉じられていないということです。これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。


 ムイシキは あくまで勝手にそれがあると想定しているだけのものです。勝手にとか だけのものとか いうのは それが 経験世界のことだというゆえです。経験世界の中にあるのなら きちんと特定して見せなければウソです。
 


 ★ ~~~~~~
  > ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。
 :
 受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか?

 ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。
 ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか?
 トラウマはあり得ます。ただし それが どこやらで蓄積されたというそのムイシキの所為だとは思わない。記憶として過去が活きている。ただそれだけのことです。



 ★ ~~~~~~
 にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。
 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。
 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。
 ~~~~~~~~
 ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで? 
 思い込みがあると勝手に 要らぬ説明をつけ加えているだけではありませんか? 
 ★ その根はムイシキ領域に張っています。
 ☆ ですって? そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。
 どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。

 仮りにいま言ったことが当たっていなくても けっきょくムイシキ領域に根を張ったトラウマが 人びとを死への旅路にいざなうという段取りになっています。ただちには死なないから その死までのあいだ 患者として医療事業の顧客として自分たちをうるおすという仕組みです。

 


 ★ 無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。
 ☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。
 ★ その心理作用
 ☆ ではありません。あり得ません。非思考なのですから 知覚もおよびません。心理とは何ら関係ありません。《志向性》と言ってしまえば すでに思考において捉えた概念になっています。その最初のほんの一瞬における心の明け これが ヒラメキとして信仰の現われになりましょう。心理以前のことです。
 汽車にも船にも乗るわけではありません。
 船に乗って言わば巡礼の旅路をあゆむといった比喩の表現があり得ますが つまり一般に人生は 信仰においても試練であるといった内容ですが これは 一人ひとりの主観の問題です。



 ★ 無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが
 ☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。

お礼日時:2012/02/17 23:54

#17です。



> それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。

そうですね。
その眠っているという状態を無意識と呼んでいるだけだと思うのですが。
単に名称の違いですから
>特定して見せなければウソ

とこだわる必要もないでしょう。

> それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。
>これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。

ヒラメキというのはそういったものでしょうね。
悟りや啓示なんかもおそらく同じでしょう。

> ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか?

様々でしょうから一概に断定はできないでしょうが、緩和されることはあると思います。
「思い込み」と述べたのは、トラウマのメカニズムに関しての私見です。
つまり、トラウマは「起こり得ないことにも拘わらず、未来的に起こるかもしれない」という怖れが源泉だと思います。

> ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。
 ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか?

「感懐」や「つらい思い」はトラウマとはたぶん呼ばないはずです。
上でも触れましたが、起こりえない過去のそれと同じことが再び起こるのではないか、という怖れが現在の生活を脅かすほどの影響力を持つ場合にトラウマという言葉が使われるのではないかと思います。
「感懐」や「つらい思い」が引き起こされたとしても、そのこと自体は「現時点での生に対して影響を及ぼした」とまでは表現しない。
広義に解釈すれば、なんでもトラウマになるでしょうが、この言葉はわたしとしてはあくまで狭義に使用したいと思っているだけです。
「過去のそれと同じことが再び起こるはずはないのだから、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能」
こういうことになると思います。

> ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで? 

体験を記憶する際には、一般に解釈が付随するものだからではないかと思います。

>そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。
 どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。

精神分析に興味はありますが、全くの一素人なので治療として有効か否かは知りません。
認知行動療法と組み合わせると面白いのではないか、という漠然とした印象は持っていますが。
ただ、トラウマという用語がなくともトラウマという現象は発生するわけですから、それに対してどうかということになっていくと思います。

>☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。

そのようですね。
非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという、そういった営為がなぜ行われるのかを考えていくと信仰の意味がわかるのかもしれません。

>☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。

ちょっと検索してみましたが、たしかに、治療としての評判は良くないようですね。
ただ、多様なようですから、精神分析とひと括りに非難しても不毛でしょう。
表面的な知識しか持っていないので詳細をお示しするのは難しいですが、自分の状況を納得いく形で把握するためのひとつのツールとして有効な側面は色々あるように思われます。

ご質問の意図とはちょっとずれた回答に終始してしまったようで申し訳ありません。
丁寧に応じていただきありがとうございます。
今回はとりあえずこんなところで失礼します。
  
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この回答へのお礼

 口角泡を飛ばしてご批判に――前回は――反論しました。

 まづはご回答をありがとうございます。

 ムイシキとそして信仰にかかわるヒラメキ この二点で 応答しておきます。



 トラウマにかんしては まだ荒削りの内容しか出て来ていないかも知れません。(わたしが専門的なことを知っているが小出しにしているとか もったいぶっているとかという意味ではなく ほんとうは詳しくないという意味ですが)。

 問題は 
 ★★ ムイシキ領域
 ☆ というように《領域》を持ち出すときです。

 じつにかんたんなことです。
 それまで意識していなかったことが意識にのぼる。このとき《意識していなかったこと》は 《無意識だったこと》です。(潜在意識にあったというようなことは 措いておきます)。
 言いかえると この意識は 記憶の倉庫から現われたものです。
 つまり この記憶のほかに 《ムイシキ》という領域が独自にあるというのは あまりにも勝手な独断である。こういう問題です。


 しかも問題はそれにとどまらないからです。
 自分の意識や意識していない記憶の中からではなく あるいは ふつうに身体の生理としての欲求からでもなく それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来たという見方が なされてしまう。これです。
 あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
 こんなことは 生まれながらにそなえた人間の自然本性にはありません。そこから逸れて行く動きを 文学などは好んで題材にしたりしますが それは 遊離した状態を扱っているということだと考えられます。想像力を持て余しているのでしょう。とだけ言っておきます。
 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? (たとえば 村上春樹と河合隼雄との連携プレーなどです)。
 こういう物言いです。





 信仰にかんする誤解があります。180度違う見解になる事柄ですので かさねてこちらの見解を明らかにします。

 ★ ~~~~~
  >☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。
 :
 そのようですね。
 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという、そういった営為がなぜ行われるのかを考えていくと信仰の意味がわかるのかもしれません。
 ~~~~~~~
 ☆ ここで わたしから見て完全に異なると思われる点は 次の見方です。
 ★ 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという・・・
 ☆ これは 信仰の中身にはなく またヒラメキともまるで違うことです。
 もし《身をゆだねる》というのであれば 《非経験の場》(つまり 神です)をめぐってそれとの関係がわが心において《非思考の庭》と成るべく それを(つまり 神)を受け容れる。このとき 人は この非経験のナゾの何ものかに身をゆだねている。というふうに捉えます。

 したがって その非思考の庭に或る日或る時 ヒラメキが起きる。その内容を捉え もし単なるイメージであったなら出来るだけ人間の言葉で表わしうるように思い描いたり考えたりしながら 概念として言葉として表現しようとする。ここから元はヒラメキであったそのものを活かすようにして 日常生活における自己表現へとすすむ。
 つまり このヒラメキには《身をゆだねる》ことは いっさい関係ありません。
 という相違点についてでした。


 これからも 対話はつづくもののようです。そういう性質の主題であるのかも分かりません。
 とりあえず 今回はここまでとわたしもします。ありがとうございました。
  

お礼日時:2012/02/18 19:23

 アベルはカインよりもなにか御心に適ったところがあって、《だから》その献げ物に神は目を留められたのだ、というそういう前提に立って、その理由を捜しているだけではないか、と思うのです。

しかし、そのように理由を見つけては、《だから》神はカインよりアベルを愛されたというのは、あまりにも人間的論理を神の世界にまで持ち込んでいることになるのではないか、そういう印象を拭い切れないのです。

 まず注意したいことは、カインとアベルの献げ物に対する神の不公平について、わたしたちは、いろいろその理由を求めて考えているわけですが、肝心のカインとアベルは、二人とも何の説明も神に求めていないことです。二人とも黙っています。アベルが黙っているのはそれはそれで分かりますが、不公平な扱いを受けたカインも何も説明を求めていないのです。彼は後でアベルを殺して、神に追及されるまで、ずっと黙ったままです。何の説明も神の不公平な扱いについて求めていません。しかし、彼は何の説明も求めてはいませんが、決定的な一つのことを、黙ったままでやっているのです。5節の後半に記されていることです。

 『カインは激しく怒って顔を伏せた。』

 そしてこの沈黙のままのカインの態度に対して、神も6-7節で、初めて沈黙を破って語られたのでした。

 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」』

 この5-7節に、いま間題にしています神の不公平の謎を解くカギがある、と考えています。

 カインはまず激しく怒りました。当然です。誰だって怒ります。この神の不公平は黙って済まされる性質のものではありません。しかし、その怒る彼は、顔を伏せたとあります。ということは、神の不公平な扱いに怒りつつも、その時そこで、怒り続けるわけにはいかない、したがって顔を伏せるより仕方のないものが、自分の中にあることに、彼は気付いたということでしょう。

 それは一体何であるのか、それは分かりません。しかし、神がカインの献げ物に目を留められなかったその原因となったものを、カイン自身はその時、分かっていたのです。だから顔が上げられなかったのです。「正しいのなら顔を上げられるはずではないか」と神は言われているのに、上げられないものが自分にあることが分かっていたのです。

 ということは、カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。この話を読んでいて、一番教えられたことはこのことです。カイン自身と神には分かっているが、ひとには分からない、そういう神とカインの関係、繰り返しますが、神と本人自身にしか分からない、第三者の知ることのできない、そういう関係、神との関係とは本来そういうものである、ということです。

 今までなぜ神はカインの献げ物に目を留められなかったのか、そのわけを知ろうとしていろいろ言われてきていますが、しかし、第三者のそういう一般的な推測、説明、考察、論議の対象に、神との関係はそもそも、なるものではないということです。一般的論議の的になることを許さない、しかし、その本人には切実に問題になる、そういう、《その人自身にとってのその人の事柄》、それが神との関係というものだということです。

 もう少し「カインが激しく怒って顔を伏せた」5節の場面を考えてみると、ここには「カインは激しく怒って顔を伏せた」、と一息に書いてあります。しかし、激しく怒っている時と、顔を伏せている時とには、若干の時間のずれがあるのではないでしょうか。なぜなら「お前が正しいのなら顔を上げられるはず」と神が言っておられるように、カインはその怒りが正当なものなら、顔を伏せる必要はないのです。顔を上げたままで怒ればよいのです。その彼が、顔を伏せているのは、自分は正しくない、と気付いているからです。つまり、彼は最初、自分は正しいと思って激しく怒ったものの、そこで神に問われて、実は自分は正しくなかったと気付かされたから、顔を伏せているのです。ですから、激しく怒っている時と、顔を伏せている時とは、時間的に重なることではなくて、そこには若干の微妙な時間のずれがあるはずではないでしょうか。

 こういうことはわたしたちも経験すると思います。相手に非があると思って、それを口にして責めた途端に、実は自分の方にあった非に気付く、そして、振り上げたこぶしの下ろし場所に困って、顔を伏せる、そういうことがあるのではないでしようか。

 言い換えれば、激しく怒っている時は、《彼が神に》、《自分の正しさ》を振りかざして問いかけている時です。それに対して顔を伏せている時は、逆に《神が彼に》、《神の正しさ》をもって問いかけ、彼が自分の正しくないことに気付かされている時です。言い換えれば・怒るカインは、神に間いかけるカイン。しかし、顔を伏せるカインは、神に問われているカインです。そこには微妙な時間的ずれがあります。いずれにしても、ここでカインは神に問いかける者から、神に問われる者に、変わっているのです。注意深く読めばそういうことです。

 ところでカインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか、これは何度も言いますが分かりません。それは、カインと神だけが知っている問題です。このことは、しっかり押さえておかねばなりません。第三者であるわたしたちは、そのことに対して推測は控えねばなりません。

 しかし、それでもハッキリ分かることがあります。それは、カインが自分の正しくないことを、神に間われて気付きながら、それを素直に認めていない、ということです。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」、そう神に言われている彼に、彼の頑なさを感じます。カインの犯している正しくないことが何なのか、これはサッパリ分かりませんが、それを神に示されながら認めようとしない彼の頑なさ、これはよく分かります。そして、その顔を伏せている頑なな彼に、神は言われました、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。ここでこの話で初めて、罪の問題が出てくるのです。注意したいことは、彼が正しくないことをしていたこと自体は、そして、そのために目を留めていただけないような献げ物をしたこと自体は、罪ではなかったのです。

 人間誰だって正しくないことを、程度の差こそあれ、皆して生きています。これは仕様がないのです。問題はそれが問われた時です。その時、それを認めるか、認めないかです。カインはそれを頑なに認めようとしませんでした。そして、そこに彼を戸口で待ち伏せて、襲いかかろうとしている罪の間題があったのです。

 自分を正当化しないことです。頑なでないことです。カインを素直にさせなかったものは、アベルへの妬みだったでしょう。弟の献げ物に神が目を留められて、自分の献げ物が無視されたことへの怒りであったでしょう。しかし、カインはアベルを妬んだから、その献げ物を無視されたのではありません。献げ物が無視されたのは、先に申しましたように、彼には、何かわたしたちには分からない不正があったからです。そしてその不正は、神に問われるまでは彼にも分からぬことであったのであり、その点は仕方のないことでした。しかし、その不正が問われた時、つまり、彼がそれに気付いた時、カインはそれを素直に認めるよりも、自分を正当化してそれを認めず、アベルヘの妬みに流されてしまったのです。顔を伏せてしまったのです。それが罪でした。ですから、不正と罪とは別問題なのです。

 求められるのは、自分の正しくないことに気付いたら素直に認めること、それだけです。それが「お前はそれを支配せねばならない」と、最後に言われた神の言葉の意味です。自分の正しくないことに気付いておきながら、それを、口実をつけたり、弁解をしたり、ひとに責任を転嫁したり、ひとが気付いていないことをいいことにして認めようとしない、とにかく、自分に甘いこと、素直でないこと、頑ななこと、それが罪なのです。

 神との関係は神とわたしとだけが分かっている事柄で、余人の知らない事柄ですから、不正があっても・それをひとはおそらく知らないでしよう、いや、知りません。誰も知りませんが、誰も知らないからこそ、まず、そこでその正しからざることを自分自身が認めることで、それを支配しなければならないのです。そこに、神からわたしたちに求められる、最初にして最後の課題があるのです。

 正しくないことを認めたからといって、それを実際に正せるかどうか、それは分かりません。しかし、それは別問題です。とにかく、わたしたちは、自分自身の甘さ、頑なさを支配して、自分の非を素直に認めねばなりません。戸口で待ち伏せている罪に対しては、それしかありません。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、と言われたのはそういうことでしょう。

この回答への補足

 お礼欄の末尾にある《カインの言い分》 これを理解するために聖書のくだりを参照していただければと思い 引用しておきます。


 ▲ (創世記 2:7―3:24) ~~~~~~

 2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

 2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

 2:9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

 2:10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。

 2:11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、

 2:12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。

 2:13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。

 2:14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。

 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

 2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

 2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

 2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

 2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

 2:21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

 2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

 2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

 2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

 2:25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 第3章

 3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

 3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

 3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

 3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

 3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

 3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

 3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

 3:12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

 3:13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

 3:14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

 3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 3:16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。

 3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

 3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

 3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

 3:20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

 3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

 3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

 3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2012/02/19 00:29
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この回答へのお礼

 灰色地帯さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ていねいに説明なさっていて ほとんどそのままを復唱することになるようなご文章ですので その点 お礼としてのお応えが簡単すぎることになるかも知れませんが 前もっておことわりしておきます。

 大きな視点として ふたつ おそわりました。

 ひとつは わたしの見方で《信仰》であり そのあり方が 次のようだと明らかにされています。
 ★ 神との関係は神とわたしとだけが分かっている事柄で、余人の知らない事柄です。
 ★ カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。
 ☆ そして 次のようにも指摘なさるとき つまり
 ★ それは一体何であるのか、それは分かりません。しかし、神がカインの献げ物に目を留められなかったその原因となったものを、カイン自身はその時、分かっていたのです。
 ☆ というとき その《一体何であるのか》と言えば それが 回答No.1の方が指摘されたヘブル書11章にもとづき やはり信仰であり さらに質問者としてですがそれは《信仰のゆがみ》であろうと捉えたものでした。
 あるいはつまり 《不正》と捉えておられます。
 ★ 献げ物が無視されたのは、先に申しましたように、彼(カイン)には、何かわたしたちには分からない不正があったからです。そしてその不正は、神に問われるまでは彼にも分からぬことであったのであり、その点は仕方のないことでした。




 もうひとつは いま取り上げた《信仰のゆがみ》もしくは《不正》と そして《罪》とはちがうということです。
 不正と罪とは別だということ。
 ★ しかし、その不正が問われた時、つまり、彼がそれに気付いた時、カインはそれを素直に認めるよりも、自分を正当化してそれを認めず、アベルヘの妬みに流されてしまったのです。顔を伏せてしまったのです。それが罪でした。ですから、不正と罪とは別問題なのです。
 ★ 「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、と言われたのはそういうことでしょう。


    * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     わいわいえいとさん どうもわたくしの見方はまちがっていた
    ようです。おわびして このように訂正しますので よろしくお願
    いします。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★  正しくないことを認めたからといって、それを実際に正せるかどうか、それは分かりません。しかし、それは別問題です。とにかく、わたしたちは、自分自身の甘さ、頑なさを支配して、自分の非を素直に認めねばなりません。戸口で待ち伏せている罪に対しては、それしかありません。







 このあと 今度はわたしがカインに成り代わって 別様に反論してみましょう。別様にです。批判というのとはちょっと違います。

 ▲ ~~~~~
 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 ~~~~~~~
 ☆ ぐれーぞーんさんも ていねいにきちんとここを読み込んで分析されています。
 すでに簡単に反論のようなかたちで入ることにします。

 カインの言い分として 次のようなことが取り上げられるのではないか? そういう別様のお話です。

 ○ (カインの言い分) ~~~~~~
 ですが 主よ わが母エワとそして父のアダムをそそのかしたあの蛇 あの蛇は どうしていたのですか? どうして親たちを 主の言いつけにさからったことをするようにそそのかしたのでしょう?
 
 なるほど はじめには すべての被造物をご覧になって はなはだ良しと見たというその話は アダムとエワとが 自由意志を持ちそれを発揮するというところまでを含めて 良しとされたのだと考えます。早く言えば ヒトがウソをつくという自由選択をも備えているというところまでを含めて 良しとされたのだと。

 けれども それだとすれば 主よ なぜ蛇が出て来るのでしょう? 
 善悪を知る木から採って食べてはいけないというあなたの言いつけに対して わざわざ蛇という第三者の仲介があったのは どういうことでしょう? つまり言いつけに対して ヒトがそのままおのれの自由意志によって さからい またウソをついて言い訳をするということで よいのではないでしょうか?
 なぜ 蛇がそこにいるのでしょう?

 自分の自由な――ただしへそ曲がりの――選択であったなら それゆえに わたしがやりました わたしがあなたに逆らいましたと素直に受け答えできると考えます。どうして そうはなっていないのでしょう?

 なんで《へび》なのでしょう?


 こんな小細工をする 主よ あなたは わたしは嫌いです。好かんことです。わたしは あなたから 遠ざかりたい。そう思っているだけのことです。

 だから ささげ物が顧みられなかったときわたしは 《激しく怒って顔を伏せた》のです。
 それとも わたしたちヒトは 主よ あなたのあやつり人形なのでしょうか?

 弟のアベルは それに何の抵抗もなかった。主よ 弟はあなたのためには死んでもいいという顔をして わたしに向き合っていた。

 わたしは 蛇を説明しないあなたは 好きません。あなたのいないところへ行きたい。
 《不正》とは 何ですか?
 《信仰のゆがみ》とは何?
 《罪》ですか? つみっていったいなんのことですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

お礼日時:2012/02/18 20:04

#18です。



>《意識していなかったこと》は 《無意識だったこと》です。(潜在意識にあったというようなことは 措いておきます)。
 言いかえると この意識は 記憶の倉庫から現われたものです。
 つまり この記憶のほかに 《ムイシキ》という領域が独自にあるというのは あまりにも勝手な独断である。こういう問題です。

なぜ、倉庫にあるものと倉庫にないものを分けてはいけないのか。
その理由がよくわかりません。
どちらも在庫であるには違いないのであって、呼び名がどうあれ、それほど問題にされるべきことなのでしょうか。
「あまりにも勝手な独断」と言うには大げさすぎるような気がしますね。

> しかも問題はそれにとどまらないからです。
 自分の意識や意識していない記憶の中からではなく あるいは ふつうに身体の生理としての欲求からでもなく それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来たという見方が なされてしまう。

それは全く逆であると思います。
つまり、
>それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来た

わけではないのに、
>それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来た

と思い込んでしまう。
これです。
そもそも、無意識というものを
>別個で独立した

と捉えること自体が誤りでして、「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけではないかと思います。
「自らと無関係の意識」ということではないことでしょう。

> あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。

具に利用されるか否かはあくまで運用面での問題でしょう。
包丁で殺人が為されたから包丁が悪い、という論理と大差ありません。
>記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえ

とおっしゃったことを撤回なさるのですか?
悪魔が命令しようが神が命令しようが、自分のやったことは自分のやったことです。
その原動力が常に、一元的に明確に意識できる意志によるものであるとは限らないというだけの話であって、ごく一般的な事象でしょう。
なにがそんなに不思議なのかよくわかりません。
責任論ということであれば、それはまた別の話になるでしょう。

>これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
> それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? (たとえば 村上春樹と河合隼雄との連携プレーなどです)

両者ともよく知らないのでなんとも言えませんが、どうも、精神分析の尻尾だけを見て毛嫌いなさっているような印象を受けますね。
また、神父の大半が(おそらく)凡人であるのと同様に、精神科医とて大半はおそらく単なる自営業者でしょう。
もしそうであるようならば、あまり期待しすぎても意味はありません。

> したがって その非思考の庭に或る日或る時 ヒラメキが起きる。その内容を捉え もし単なるイメージであったなら出来るだけ人間の言葉で表わしうるように思い描いたり考えたりしながら 概念として言葉として表現しようとする。ここから元はヒラメキであったそのものを活かすようにして 日常生活における自己表現へとすすむ。
 つまり このヒラメキには《身をゆだねる》ことは いっさい関係ありません。

いや、そうではなくて、ヒラメキに対してそこまでの扱いをするということ自体がすでに「身を委ねる」ということだと言っているわけです。
無意識の証明をせよ、とおっしゃる一方で、
>或る日或る時 ヒラメキが起きる

という、唐突な前提を元に論を進める、という神経がわたしには全く理解できません。
つまり、
>記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえ

であるのに、それを無意識と呼ぶことに対してことほどさように拘る割には、という意味ですが。
無意識を想定することの弊害に対する根拠が全く不明である、というのが貴論の難点となっているように思われます。
ちょっと中途半端になりそうだったので、あえて補足させていただきました。
ひとまず今回はこんなところです。
  
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 いえいえ ぎゃくに問いたい。
 ★ なぜ、倉庫にあるものと倉庫にないものを分けてはいけないのか。
 ☆ ということは 記憶の倉庫のほかにムイシキの領域があるのですか? 記憶の倉庫に眠っていたもののほかに ムイシキだったものが意識されるようになったということがありますか?
 つまり 記憶以外に在庫があるのですか?
 なければ・つまりないはずですから 勝手な独断だと見ます。


 ★ ~~~~
 そもそも、無意識というものを
 >別個で独立した
 :
 と捉えること自体が誤りでして、「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけではないかと思います。
 「自らと無関係の意識」ということではないことでしょう。
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 ☆ これも 同じ問いが出されます。
 ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう? つまり
 ★ 「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけ
 ☆ の領域があるのでしょう? 
 わたしが 記憶とは別個にそれ独自の領域と言ったのは むろん 人体の内ないし精神の内のことです。しかもそれが どこを探しても記憶のほかの場所としてはない。だから おかしいと言っています。《自らと関係している》というのは もともと あたりまえです。ヒトの中から起きて来ることだというのでしょうから。


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 > あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。
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 具に利用されるか否かはあくまで運用面での問題でしょう。
 包丁で殺人が為されたから包丁が悪い、という論理と大差ありません。
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 ☆ 包丁は それの道具としての使い道が決まっています。ムイシキ理論は 言わば万能です。それを振りかざした場合それによってつく傷は 包丁によって傷がつく場合よりは はなはだ分かりにくい。
 ☆☆ 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。
 ☆ というのは 総論でして その中にはいくつかの場合があり得ます。いちばんひどい例は こうです。
 誰れかが あなたはマザコンだろう? と言われてそれを否定したなら 相手は そのように否定するのは ムイシキ理論のセオリどおりだ 意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはずなのだ と返して来る。これです。

 こんなばかな話はありません。
 ムイシキについては検証できないと来ているからです。包丁どころの話ではなく 多勢に無勢のときには そのやり玉に挙げられたなら めちゃめちゃにされてしまいます。
 ですから 次の捉え方は 違うのです。
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 悪魔が命令しようが神が命令しようが、自分のやったことは自分のやったことです。
 その原動力が常に、一元的に明確に意識できる意志によるものであるとは限らないというだけの話であって、ごく一般的な事象でしょう。
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 ☆ 悪魔を例に持ち出したのがわるかったようですが 問題は違うのです。
 ゆえに
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 これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか?
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 ★ いや、そうではなくて、ヒラメキに対してそこまでの扱いをするということ自体がすでに「身を委ねる」ということだと言っているわけです。
 ☆ これは 一般論の問題として議論しても始まりません。ひとつの最終として現われた自己表現が 生活の中で有効であったとしたら それでよいという問題です。ヒラメキの効用がそこに見られるという意味です。
 これを 《そこまでの扱いをする》という見方は おかしいでしょう。ごくふつうのことなのですから。ヒラメキにも 言わば当たり外れがあるわけです。というより 信仰にかかわるヒラメキは ぜんぶ当たりだと一応見られますが それでも どう応用すればよいか分からない場合があるということでしょう。ですから 例示したことは 応用が効いたという場合なわけです。別に特別扱いということではありません。身をゆだねるということとは 筋が違いましょう。



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 無意識の証明をせよ、とおっしゃる一方で、
 >或る日或る時 ヒラメキが起きる
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 という、唐突な前提を元に論を進める、という神経がわたしには全く理解できません。
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 ☆ これは異なことをおっしゃる。ヒラメキは むしろ自然科学者のほうが なじみが深いのではないですか。ふつうのことですよ。

 ヒラメキは その直感ないし直観じたいにおいてすでに経験的なものごととして得られたなら――それもふつうのことだと思いますが そしてもはやそれを解釈する必要もないわけですから―― 必ずしも非思考の庭に起きたそれ(ヒラメキ)だとは確かに見ないでしょう。ただし たとえば方向性を示す場合とか 同じようなことですが いまおこなっている道筋を変えてみるようにといった指示だとかなら 信仰にかかわるそれだと見なせましょう。

 ムイシキは そのムイシキの領域じたいをヒトの中に想定しているのですから 仮りにヒラメキのような内容物の意識化が起こったとしても すべて経験事象だと考えられます。単なる仮象だとしても その経験事物としての過去の亡霊にかかわるモノゴトです。それに限られます。
 ただし こんなことは もしそれがあっても 記憶の中から過去の思い出が意識上に浮かんだというだけのことだと一般には見るのだとも言っています。

 しかも ムイシキにかんして問題となるのは あくまでその過去の亡霊のよみがえりが その人に一生付きまとうと見なしているところです。それゆえ 死へのいざないという内実しか 精神分析にはありえないというところです。引導を渡す役割をになっているとも言えましょう。
 そんな役目も要らないし ムイシキから浮かび上がる過去の亡霊などはいっさいないということです。

お礼日時:2012/02/19 00:13

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