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1. 信仰は われと神とのカカハリであり 宗教は オシへを問題にする人と人とのマジハリである。

2. 次のごとく タテの関係とヨコの関係とでまったく別だ。


 タ   神      神      神
 テ・・・|      |      |・・・:信仰
 の   |      |      |
 関   |      |      |
 係   |      |      |
     われーーーーーわれーーーーーわれーー:各主観
         ❙      ❙
         ❙      ❙
      ヨコの関係  ヨコの関係    :社会関係における宗教



3. 信仰にあっては 非思考の庭なる非知の神であり(それは 霊性ないし生命性であり) 宗教においては オシへの中に神を観念としておさめておりそうであるからには――ほんとうは――考えるべき思想たる神観(すなわち 知性)の問題なのである。

4. 宗教は――考えるべきものを 無条件に心に受け容れる(つまり 信じる)ようにと説くなら 思考停止(お寝んね)を推奨するところの――寝技であり 屁の河童である。

4-1. 《考えるべきもの》として好意的に見るなら 哲学のように互いに問い求め合ったり思想のように相い闘わせたりすることが そのオシへについて あり得るわけである。

4-2. そのときの探究や議論は むろんのごとく信仰をふくむ主観内面から表現されており主観内面とかかわっているのだが 思想たるオシへをめぐる話のやり取りは 信仰とは 直接には かかわりがない。


5. なんで 仏《教》を信じるだの キリスト《教》を信じないだのと 知性にさからう表現が後を絶たないのか?


☆ ご見解をどうぞ。

A 回答 (4件)

信じなさい、と云えば宗教になり、そう云わなければ宗教ではない、と云う事になりますか?

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この回答へのお礼

★ 信じなさい、と云えば宗教になり、そう云わなければ宗教ではない、と云う事になりますか?
☆ ちょっと入り組んでいると思います。

1. 超自然かつ超経験なる場またはチカラを 誰かが《かみ》と言った。

2. この神とわれとのカカハリが 何らかのかたちで 出来た。これを――そのままわが心に受け容れたなら・それが《信じる》ですから―― 《信仰》です。

3. 信じる人の中から誰かが 次のように言った。《神にしたがうと われは自らを・そして他の人を亡き者にすることはないと思う》と。

4. さらにそこから誰かが 《なんぢ ころすなかれ》という命題を得た。或る種のオシへである。

5. 何らかのオシへを人びとが共有するなら 《宗教》です。――この中立的な成り立ちの宗教を 見過ごしていました。触れずじまいになっていました。

6. そこでこの不殺生戒なるオシへを あたかも神そのものだと見なしこれを思い込み 他人(ひと)にもこのオシへを信じなさいと説く・・・なら あやしき宗教です。

7. オシへは 人間の言葉で表わした哲学思想です。考えるべきものです。このような思考の産物をわざわざ神だとしてそのまま受け容れなさいと説くのは すでに人間の心(知性と感性)を過大評価して踏みにじる精神錯乱であり不法行為だと思います。

8. オシへを神だとして信じなさいと説く宗教は 《偽の神を信じる》ところのカルトです。アウトだと思います。

お礼日時:2022/08/29 20:59

釈尊仏教は、批判する処の“宗教”ですか?

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この回答へのお礼

《仏教》というように オシへ――道徳=倫理規範ないし宇宙論――であってそれを不可変的な法(ダルマ)であり守るべきものだと説くならば それが 宗教です。

人間どうしのヨコの関係を規定しその規定で人びとを縛ろうとしています。

タテの関係についてのであっても オシへとしては哲学思想ですから ヨコの関係に属します。思想統制になります。





ただし 一たん隔絶した上で間接的にそれらの淵源としてかかわっているのは 信仰です。



ゴータマ・ブッダの場合には 無我すなわち《無い(アン)‐霊我(アートマン)》を立てるからには 《無い神》を神とする無神論としての信仰です。

 *
 アン=これは アナーキー(アン‐アルケー=無い根源 / 無い
    政府)やアン‐インストールの アンです。


アートマン(霊我ないし生命性)を神として――すなわち《有る神》として――立てる梵我一如のブラフマニズムは 有神論としての信仰です。

 *
 ゴータマ・ブッダは バラモン教の身分制を批判して梵我一如
 の説に異をとなえました。


この梵我一如の信仰のかたちに じつは ゴータマの死後のブディストたちは 戻りました。

ただし アートマンという言葉は用いず ブッダター(仏性)またはタターガタ・ガルバ(如来蔵)をあらたに立てました。

ダルマとしての法身仏との一体性として 仏仏一如になります。

《有る神》の名は アミタ―バ・ブッダ(阿弥陀仏)またはマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)と言います。

 *
 マハー=メガ(大)
 ワイロ―チャナ=毘盧遮那(びるしゃな)(⇒奈良の大仏)



ゴータマ・ブッダの説やその後世のブディズムは けっきょくブラフマニズムないし現代のヒンドゥーイズムのやはり梵我一如という信仰のかたちに吸収されますので インドではあまり流行りません。

また 仏典では――すべてを読んだわけではないまま言うのですが――おそらく信仰と宗教とをきちんと区別していないのではないか と思います。



親鸞が 信仰とは何かをきちんと明らかにしています。

▲ 義無きを以て義とす / 自然法爾

☆ オシへなる義を超えるのが 義(ただ)しい阿弥陀信仰だと。

▲ 親鸞は弟子を一人も持たずそうろう

☆ ヨコの関係について人間が規定し管理し統制することはないと。

お礼日時:2022/08/28 19:59

そうですね、信仰と宗教は別々でなければならないと思います。

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この回答へのお礼

ですね。確実に。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2022/08/28 17:23

日本人にとっての“八百万の神”は宗教ですか、信仰ですか?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

次の質問で問い求めました。:
○ 【Q:《神》は 人間の言葉であり 神本体を問い求めるための補助線である。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13110614.html

☆☆ 5-1. 山・川・海などなどの霊性としての神々は それぞれ同じひとつの神の分身である。分身なる神も それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。


☆ すなわち 山祇〔山‐つ(ノ)‐み(霊)〕や海神〔わた(海)‐つ‐み〕などの八百万の神々は その神々またはその名をとおして 普遍神に対する信仰へとみちびくものだと思います。


村社(むらこそ)を建ててそこにつどう村の人たちは 信仰を土台としつつ 実際としては互いに共同体におけるきづなを保とうとするのだと見ます。

組織宗教だとまでは行かないかも。その原初のそぼくなあつまりとしては。


たとえ みなで一緒になって実りの秋に神々〔をとおして普遍神〕にその初穂を供え 感謝をささげ また どんちゃん騒ぎをやったとしても 信仰を土台としつつ まだなお組織宗教のいとなみになったとは言えないように思います。

共同体ですから 人びとに参加をうながす拘束力があるにはありますが。


ただし ムラムラを超えて 国民にその一人ひとりが 現人神なるスメラミコトの赤子であるといったオシへをつくりそれを守るようにと説くならば 宗教でしょう。

共同体における素朴な人それぞれの信仰を 利用しているように捉えます。

お礼日時:2022/08/28 14:04

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