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ないと考えるのですが ご見解をお寄せください。

有神論と同じ条件においてひとしく非思考の場で成り立つものだと考えるから 
無いという現在の結論です。

ちょうど この非思考の領域において 唯心論と唯物論とが けっきょくのと
ころ互いに同等の原理論であるというのと同じことだとも理解しています。

原理論という意味は 先験的に――あるいは 超越論的にというのでしょうか
――そうであるという捉え方をする場合のことです。つまり 非思考の庭のこ
とです。非思考の庭とは 信仰のことです。

もし経験思考の世界においてでしたら 唯心論は 一般に精神世界すなわち心
ないし観念の現象に対応するでしょうし 唯物論は 一般に質料(マタ―・も
の)論としての世界認識に対応するのだと思います。

 ・・・経験世界・・・・・・(経験思考)・・・・・・// 非思考(超経験世界)
 _____________________________________
 モノ:内容(コンテンツ)・質料(マタ―・ヒュレ)・//第一質料=物質(マタ―)
 心 :形式(フォルム)・・形相(フォルム・エイドス)//第一形相=世界精神


☆ つまりは 物質というのと無神と言うのとは 同じことだと考えます。
その唯物論=無神論は けっきょく対極の唯心論ないし観念哲学としての世界観と 
非思考の場において兄弟のようなものだと見ます。どうでしょう?

A 回答 (4件)

表現の違いこそあれ、注目点は同じかと思います。


三位一体。
"鏡の体"それ自体で存在する筈は有りません。

ただ、信仰という表現が不適切ではないのか、と云う思いなのです。

信仰と云う言葉は、人の神への能動的意志を表している言葉だからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 表現の違いこそあれ、注目点は同じかと思います。
☆ そう簡単には読み解けない神秘を語っているようで 簡単に
そうかも知れませんとも まだ言えないですね。

★ "鏡の体"それ自体で存在する筈は有りません。
☆ であるなら なおさらだと思います。



★ 信仰と云う言葉は、人の神への能動的意志を表している言葉
だからです。
☆ この点は 明確にこちらの見解をも説明しようとしました。

○ 信仰は ~~~~~~~~~~~~
神の名を心に受け容れる(――これが 信じること――)能動的
な意志行為である。

ただし その受け容れるというとき 基本的に言って 神(つま
り わけの分からない雲をつかむようなきっかけとして)のほう
からこちらにやって来て 心の窓をノックする。

しかも そのノックを聞いて 迎えいれようという心と意志を起
こすのは じつは(むろん 人間であるわたしがであるが) 神
による恩恵がはたらいていた。と捉えられます。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ このようです。どうでしょうかねぇ。検証のほとんど出来な
い事柄なので 何とも言い難いでしょうが。

お礼日時:2016/09/03 06:24

信仰とは、人の意志の産物。



ブラジュロンヌさんの云う処の「非思考」はそれ以前。
非、思考の世界という表現には、まだ"意志を持つ人"、は現れていない。

非、思考の世界とは云わば世界を映しこむ鏡の体、のようなもの。
体、自体は画用紙のようなもの。
その体に、個としての"性質"が現れ(または存在し)人としての思考が活動する。

この体、が「魂」か?アイデンティティと云うものか?
よく分からない。

神=霊体から分出した(この世に現れた)個としての体(画用紙)が非、思考の"場"である、と云える。
その体固有の活動が物質であり、生命ともなり、そして元の霊体に戻ろうと云う自然的に備わっている意の働き、それを帰趣と云う。

この世とは誕生と消滅の繰り返し。
生命も誕生と消滅の繰り返し。

生命の意の流れ(方向)は完結へと。
その途中を迷いという。
迷いは完結へ、との模索。
完結とは安心。
安心の有るところは母の胸。

帰趣。

これが生命活動の正体。

ブラジュロンヌさんのこの質問に接して、こんな風に考えてみました。
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この回答へのお礼

そんなむつかしいことを言われても わたしゃ分からんですたい。

ご回答をありがとうございます。

失礼ですけど わいわいえいとさんは お分かりになってるんで
すよね?


次の一点については わたしの理解するところをしっかりと述べ
て 互いの見解を突き合わせてみましょう。

★ 信仰とは、人の意志の産物。
☆ すなわち 信仰は すでに生まれたときから≪非思考の庭≫と
して ≪身と心 についてのプラス・アルファ≫としてそなわって
いる。

そして 神という言葉もしくは何らかの神の名を心に受け容れた
とき この信仰は 具体的にほかの誰のでもない≪わたし≫の信仰
として成る。

神の名を心に受け容れるのは 確かに人間の・わたしの意志行為
だと捉えています。

ただし その受け容れるという意志を起こすのは 人間によるだ
けであるか? 

と言うと そうではない。そうではなく ≪非経験の場≫なる神
のほうから 仕掛けている。つまり 恩恵としてである。
――こう捉えています。どうでしょうかね。

お礼日時:2016/09/02 21:22

頭だけで考える人は無神論・・



神は心で受け取るもの・・

あれこれ考える必要はありません・・

神は そんなの気にしないので・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

たとえば
★ 頭だけで考える
☆ ≪だけ≫という意味が分かりませんが(つまり 考えるのは 頭・
精神・理性によるのですから) この場合 ≪考える≫ことを為す・為
さないと ≪信じる≫とは 別ですよ。

言いかえると 信仰を保ちつつ 同時に思考をおこなうことが出来ま
す。信仰と思考とは 両立します。

なぜなら 信じるのは 非思考の行為なのですから。思考に非ずゆえ。
(神もしくは神の名を心に受け容れること これが 信じるです)。


★ 神は心で受け取るもの・・
☆ 心に受け容れるのは 神という言葉をであり ブラフマンならそ
れとしての神の名を ですよ。

つまり 神は愛であるとか至高の善であるとかといったその概念を受
け取るのではありません。

そういう概念の受容であるのなら 単なる人間の精神の作業に属しま
す。

つまり 人間の精神の認識し理解しうるものが 神だということに成
ります。

人間がその能力によって 神の概念を把握し その概念としての理解
において 神を信じるのだ・・・と言ったことに成ります。

あり得ません。それなら 人間が ほとんど神である。と成ります。


このように考えますので ご回答内容には不満です。

お礼日時:2016/09/02 13:51

なにをぐちゃぐちゃ。

無神と考えることは、前提として神の存在があるわけだ。だから、無神論者は神を信じてるんだ。
悪魔教の信者は、神様を信じてるんだ!
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この回答へのお礼

わるいが シリメツレツ。




読んでくれてありがとう。

お礼日時:2016/09/02 10:39

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