
たたき台を述べます。その当否を問うています。
《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。
それは 《非経験の場》である。
すなわち 図示しますが:
○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~
経験事象
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと知った)
非経験の場
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~
非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)
_______________________
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
________________________
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。
オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。
けれども 神は 非知なるナゾである。
人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。
同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。
神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。
ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。
これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
非経験の場である神に、神に触れた感覚、あるいは予感と言った経験が、信仰という動態において可能であるという言い回しに矛盾を感じます。
また、命の源なる神と、謎である神が、論の中で何時、同一であるとされたのかが不明瞭であり、善や慈悲などの属性が神に付与される行程が説得性を帯びません。
謎である神、というものを登場させるならば、人間的な心理と絡められる絶対者や、諸々の善性を備えた神の像は出てこないのではないだろうか。
謎というのはカオスとも言え、不可思議である故に一切から解き放たれていて自由であるとか、あくまでイメージとしては言えても、厳密には自由であるとか、絶対であるとか、純粋であるとかは言えず、神はやはり人の抱く理想の観念集合物であるというのが、私の抱く客観的見解です。主観的にはまた別でありますが。
また、祈りや修行などで神に接近するという方は少なくないとは思いますが、その姿は信仰と言うに相応しいのではないかと思います。其々が何を信仰しているかは別にして。
あ_ほなさん ご回答をありがとうございます。
お応えしてまいります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
非経験の場である神に、神に触れた感覚、あるいは予感と言った経験が、信仰という動態において可能であるという言い回しに矛盾を感じます。
また、命の源なる神と、謎である神が、論の中で何時、同一であるとされたのかが不明瞭であり、善や慈悲などの属性が神に付与される行程が説得性を帯びません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この二点について 少し回り道をしますが 次のような説明になります。
1. 《非知・非経験の場》を神としたとき それは 概念として説明しようとすれば 《絶対・無限》が もっとも分かりやすいでしょう。
2. もしこの初めの想定とそこからの概念説明としての規定が受け容れられるならば 神はたとえば《絶対者⇒創造主》だというような名づけまたは描き方がどしどし展開されていきます。
3. これらは 絶対の世界が この相対性なる経験世界に対して その因果関係や有無の関係あるいは善悪などの倫理の関係などのすべてを超えているというところから論理的に帰結されるものです。神は有ると言っても無いと言っても かまわないという実際です。
4. そうしますと 人間の想像はさらに羽ばたきます。初めの想定や前提に触れないかぎりで それらは持たれて行きます。たとえば 経験世界を超えるということは 経験世界を覆い包むのだという見方です。
5. 絶対なる世界は ニュートリノのごとくこの経験世界を突き抜けているとか 全体を覆っている・つまりあらゆるところに存在するとかの派生物語です。
6. 後者は 神の遍在という言い方で捉えられています。ここから あたかも――あたかも――ひとがその主観において 神に触れたかの感覚をおぼえるかも知れない。とまで 話がすすんだ。こういうわけです。
7. ひとつの矛盾であると同時に ひとりの人の主観内にあっては ありうるかも知れない。あり得ないかも知れない。いづれとも人間には分からない。ゆえに 或る人が みづからの主観内面において感じた・予感したということを発言するところまでは ゆるされている。こうなります。
8. 《いのち》は 生まれてきたときに始まるものは 経験事象としてのイノチです。すべての時空間に即したイノチをさらに覆い包むイノチがもし想定されるとすれば それは 非知・非経験の場・すなわち神である。
9. 神の属性は ほんとうを言えば 善と言うよりは 善悪の彼岸としてのナゾであり 愛と言うよりは 愛憎を超えたナゾなる愛でしょう。
10.
★ 謎である神、というものを登場させるならば、人間的な心理と絡められる絶対者や、諸々の善性を備えた神の像は出てこないのではないだろうか。
☆ 《ナゾ》から その概念化や属性の把握について想像しその推理を派生させ展開するということは そのような二次的な物語であるという前提で あり得ると考えます。特に神の分身としてなら かなり自由に 昔の人はこの物語を編んだようです。
11. 問題は この分身なる神の――たとえばお稲荷さんや金毘羅さんの――単独分立は よくないということにあるでしょうね。つまり 一神教化が問題であり あるいはそれらの概念を(つまり 狐や鰐を) あたまの中ですでに観念としたりお題目としたりして 固定化することが 問題でしょう。
12.
★ 謎というのはカオスとも言え、
☆ これには げんみつに言えば 反対です。カオスはすでに混沌という概念があって その混沌という何らかのイメージの中にナゾがあるというふうに あやまって受け取られるおそれが出て来ます。ナゾは あくまでナゾです。
13.
★ 不可思議である故に一切から解き放たれていて自由であるとか、
☆ 不可思議は ナゾのことですが 《一切から解き放たれていて自由である》という規定は やや勇み足だと見ます。
つまり 《解き放たれている》かどうかは どうでもよいというナゾであったほうがよいと見るからです。
14.
★ あくまでイメージとしては言えても、厳密には自由であるとか、絶対であるとか、純粋であるとかは言えず、神はやはり人の抱く理想の観念集合物であるというのが、私の抱く客観的見解です。主観的にはまた別でありますが。
☆ ええっとですね。概念化は あくまで説明のための便宜です。
ですから 《絶対》は 相対を超えていると言っていて しかもその相対なる世界にあたかも侵入して来ると見ることも自由になります。
《純粋》という概念は わたしは遣いません。あまりにも あいまいです。何にでも遣えそうであるからです。
《理想の観念集合物》は ナゾから遠く離れました。《理想》は 人間の描く思いや考えとつながっているからです。
《観念》は 概念が 経験的な知覚から離れたところで捉えられたものだと思いますが それを概念として あくまで神の説明のために用いることはあります。
次のへだたりを重くみたいと思っています。
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
15.
★ また、祈りや修行などで神に接近するという方は少なくないとは思いますが、その姿は信仰と言うに相応しいのではないかと思います。其々が何を信仰しているかは別にして。
☆ これは どうでもよいと見ます。たとえば 神はこのいま・ここなるワタシにも遍在するというのなら――神のほうから すでにやって来ているのなら―― いちいち人間の側から《神に近づく》ということは どうでもよいはずです。
それは 信仰からも どうでもよいわざだと見ます。つまり そのどうでもよさが 非思考の庭の――つまり 信仰の――《自由》をあらわしていると考えます。人間の考えや義からいっさい自由になってください。
そしてそのときは ちょっとした神体験としての感覚をおぼえることもあるのではないでしょうか。もしそれが ほんとうの神の感覚ではないとすれば――たぶん ないでしょうから―― 《予感》と言ってみるわけです。あくまでも主観の内側において。
No.12
- 回答日時:
再生しないために修行しているとして
するとやっぱり解脱知見がないとおかしいと思った。
つまり自分がいつ死んでもいいという確信。
それがわからないならそれこそ一生修行になってしまう。
せっかく苦労して修行しているのに不安だろう。
かといって解脱知見とはなんですか、といっても
わからないとなると、解脱というのも
分かるか分からないかが分からないナゾなんですかね。
しかし修行しないよりは、修行したほうがいいというのは
散々批判されてるパスカルの賭け
神を信じないよりは信じたほうがいいとかいうのと
同じようなことを解脱の宗教も言っていることになる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9% …
親鸞[編集]
浄土真宗の開祖親鸞は、「(実は念仏が間違った信仰で)念仏をしたために地獄に落ちるという可能性が恐くないのか?」という問いに対して、「念仏が成仏の原因となるか地獄に堕ちる原因となるかは、私の考えが及ぶ所ではない」と答えた上で、「自分が念仏以外の修行によって成仏できるなら念仏を選んだことを後悔するだろうが、自分は念仏以外のいかなる修行を以てしても成仏できず、地獄に堕ちる事が確実な凡夫である。ゆえに、念仏で地獄に落ちても後悔しないだろう」と述べている。(「歎異抄」第二条)
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~
かといって解脱知見とはなんですか、といっても
わからないとなると、解脱というのも
分かるか分からないかが分からないナゾなんですかね。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 《解脱》あるいは《さとり》あるいは《すくい》 これらは 経験行為として捉えられるのだと見ます。
説明しがたいというだけではないでしょうか。
すくいは 真理を知り(つまり 真理があなたを覆い包み まさに真理の断片を知らせてくれて) 世の中のものごとが見えるようになり いつも適切な振る舞いが出来ることが ひとつの目安ではないか。次の段階では キリスト信仰にあっては 身と心との復活が来ます。霊としての身と心として 復活するというかたちです。
復活にまで来ると 中身が分からなくなりますが そのコトは 経験事象です。人間のおこなう行為ないし成る状態ですから。
つまり 《未知》という分類だと見ます。
▼ (ヰキぺ:パスカルの賭け) パスカルは、神の本質は「限りなく不可知である」として、神の実在/非実在は人間の理性では証明不能だという前提を出発点とした。
☆ ですから 《不可知》というのは 《知ることが出来ないと知った》ことを意味します。その正体がやはり確かにナゾではあっても そのナゾとして知解能力の中におさまります。
(非知は 違います。人間の能力の中におさまることはないわけです。もっと言えば 人間の理性や感性に分かるように その非知なるナゾは われわれに語りかけているかも知れない。そういう可能性を残した知りがたさですから)。
★ 親鸞
☆ の言っていることは 《念仏は 非行非善なり》だと思います。
あるいは 因果応報説は採らないという考えだと見ます。
善行をおこなって 往生することが出来るのならば それは 自力ですし 神(ブッダ)は むしろ人間の考える世界の中におさまっていることになります。人間がその能力であやつることも出来るということになるはずです。
No.11
- 回答日時:
ヴェーダまで来たのだし、
アヴェスターとか古典ギリシャ語とかと比較できれば
面白いのだろうけど。
それより、
生を肯定するとか書いたわけですが
人間は死ぬのになに言ってんのみたいな反応を禅僧にされた。
そいつはたんに私の反対のことを言いたいだけだろうし、
道元の太鼓持ちにいちいちかまう必要もないんだけど
大体私は道元にまったく興味が無い。
曹洞宗の護教しかしないからうんざり。
だから道元の思想なんて
ゼノンのパラドックスじゃないのとか言うわけで。
ともかく。
死は肉体という物質が破壊されただけに過ぎないから
意志は存続している。だから自殺は意志の肯定に過ぎない。
たんに破壊が自分に及んだだけ。
解放されるには意志を否定するしかないから
禁欲主義者になるしかなくなる。
意志なんて魂の焼き直し、無我だから魂なんか無いとかいっても
でもサンスカーラを滅するとかいうわけで。
生の肯定は、意志の肯定である。
個体を超えた生命力の話である。
個人が死のうが生きようがあまり関係ない。
煩悩といえば話が早いのか?
煩悩といっても、個人の煩悩ではなくて全生命の衝動が個人へと具現化したものであるが。
ご回答をありがとうございます。
次は ちがうと考えます。
★ 自殺は意志の肯定に過ぎない。 / たんに破壊が自分に及んだだけ。
☆ 意志は 生きることの中軸を成すはずです。
生きないことで その意志が肯定されることは――論理的にそうだとしても――ないはずです。
★ 禁欲主義者
☆ 禁欲という欲望を持ってしまったがために その欲望を是が非でも満たそうとしている人間。といちどお応えしました。
★ 生の肯定は、意志の肯定である。
☆ たぶん違うでしょうね。表現の仕方として。そしてそこから 意味内容としても。
生きるとは 《わたしがわたしである》のでなければ成りません。
つまり 《生》と《意志》とは 同一です。どちらも 《わたし》なる動態としての存在のことにほかなりません。
★ 個体を超えた生命力の話である。
☆ それなら 《意志》という言い方は・そしてやはり《経験存在として生きる》という言い方も そぐわないと言うべきでしょうね。
★ 個人が死のうが生きようがあまり関係ない。
☆ それは その《生命力》にとっては 《関係あるか無いか》が 人間には分からないと言うべきでしょうね。
つまり 《あまり関係ない》と人間が断定してよいとはならないでしょうね。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
煩悩といえば話が早いのか?
煩悩といっても、個人の煩悩ではなくて全生命の衝動が個人へと具現化したものであるが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ それは ちょっと《生命力》つまり神について 自分の思いや志向性を投影させ過ぎている見方になるでしょうね。
つまり《煩悩》という術語は 概念として意味内容をともなっていますから。必ずしも一般性として用いられがたい。用いても 一般性をもつものとして 受け取られがたい。と思います。
No.10
- 回答日時:
「お礼」への書き込みをありがとうございました。
以下、ところどころ、「>と⇒のマーク」をつけて引用・反応いたします。
> ☆ わたしの分類ですと 《宇宙の果て》は 《未知》に入ると思っているのですが どうでしょう。《非知》になりますか?
⇒bragelonne 様のおっしゃることはよく分かります。ただ、細かいことにこだわるようですが、「《宇宙の果て》は、《未知》に入るか《非知》に入るかが分からない」というのが、実情ではないかと思います。とすると、「《宇宙の果て》は《未知》に入る」と「《非知》に入る」が互角かもしれませんね。もし、「大は小を兼ねる」の発想でいくと、「《非知》に入る」のほうが51%くらいの割で有利かな~?(Nakay702は、往生際の悪い男なんです!?)
> いまのところ 神は 非知であり 非知なるものは 神である。なおこのように捉えています。
⇒これも9割がた賛成です。と言いながら、またこだわりますが、「神は、非知であり、非知なるもの(の代表)は、神である」としたいところです。
> (あ) 一神教とは もし宗教ではないとすれば――つまり 考えるべきオシエとしての宗教でなく 個人の内面における信仰の問題だとすれば―― 取りも直さず 《非知》としての領域すなわち《非経験の場》としての神は 人間の世界にとって《全体としてひとつ》である。という意味での唯一神信仰のことを言います。
> (い) つまり 多神教にしても 宗教という形態になってしまっている場合は もうお呼びではありません。論外としています。
> (う) すなわち唯一神信仰というのは おおよそ次のような具体的な形態をとって みな互いにひとしいひとつの類型を成すと見るものです。
α ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
β ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
γ ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
δ クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
ε (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
ζ 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
⇒なるほどですね。よく研究・思索なさっているなあ、と思います。「自己の内なる神への帰依」といいますか、ある意味、「神秘主義的」なご慧眼とも感じました。個人としての自己の当為としては最高の観照的見識だと拝察いたしました。
> ★ B(5)「質問者様は多神教に、私は一神教により多く注目しているらしい」
☆ は それとしておもしろいかも知れないのですが 正直に言えば 組織宗教はやはり論外としています。この場合は どちらも宗教だと見ましたが いかがでしょう。
> ★ C (6)270年頃、アウレリウス帝が、皇帝を太陽神の「僚友」に位置づけ、己に崇拝を集めようとして、太陽神を唯一神とする、名目上の一神教を確立した。
☆ は 宗教であり その神は たとえ唯一神であっても 非知としての神ではない。こう断言したいと思います。観念の神です。あたまの中で人間が操作しているような観念だけだと見ます。
> ★ C (8)こうして、ローマは約900年間の多神教時代を経て一神教の国家へと変貌したのであった…。
> ☆ このクリスチアニズムであっても まぎれもなく《思考》において持たれている観念の神であると断定します。
> オシエは 考えるものだからです。よく言って 道徳であり倫理学です。
> (こ) すなわち ローマ教会を初めとする教会は・そして宗教という宗教は みな自己解体すべしとうったえています。
> 結社の自由があると言っても 信教の自由とは関係のない《思考や想像による神》をかかげているからには 信仰という文字はいっさい使ってはいけないと考えられるからです。
⇒自己鍛錬や観照の報告としては実にすばらしく、敬服申しあげます。
ただ、外部へ発表なさるようなことがあれば、その際は若干の注意というか慎重さが必要になるかも知れないと思います。
例えば、「宗教という形態になってしまっている場合は もうお呼びではありません。論外としています」・「宗教という宗教は みな自己解体すべし」・「信教の自由とは関係のない《思考や想像による神》をかかげているからには 信仰という文字はいっさい使ってはいけない」、等の文言は、ご自分の自己研鑽のための心的態度であって、それだけに留めておくべき事柄・内容だと考えます。もちろん、このサイト、特に今回のように意見を求められての開陳なら、大いに歓迎される、結構なことだと思いますが。
人間誰しも、多かれ少なかれ「自己中心的特殊規定」(ラッセル)的な見方をしますので、それはそれなりに尊重したいと思いますし、「我々はみな特定の視座からしか見られないので、管見零測は免れないのだから、せめて、常に他者の見たものと接合する態度が必要である。そうすることによって、我々は“神の視点”に近づくことができる。いや、そうすることによってしかそれに近づくことはできないのである」(オルテガ)。
以上、十分消化し切れずに推測で勝手なことを申しあげたかも知れませんが、私個人としては大変啓発されました。ありがとうございました。
なかい702さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
1.
★ 《宇宙の果て》は、《未知》に入るか《非知》に入るかが分からない」というのが、実情ではないかと思います。
☆ そうですね。もし《非知》だとすると 《非経験》ですよ。
つまり いまこの地球からたどって行って 経験世界からいつしか《宇宙の果て》なるところで非経験の場に移るということになります。これは たぶんないと思うんですけれど。・・・
と言うよりも 宇宙の果ては どうなっているかが分からないのでは?
もし《果て》が分かったとすれば その境界が分かって その境界の向こうは どうなっているのか?
やはり《未知》としての経験世界のつづき(延長領域)なのではないか?
それとも そこはもう分かり得ないと人間にも分かったという《不可知》の経験世界であるのか?
と考えるなら 宇宙の果ての向こうは とつぜん《絶対》なる非知の世界に移行するということは ないのではないか? と考えるんですけれど。・・・
2.
★ 「神は、非知であり、非知なるもの(の代表)は、神である」としたいところです。
☆ 神のほかに《非知》があるか その例示をすれば よいわけです。《宇宙の果て》は いまのところ可能性がうすいと思うんですが。・・・
3.
★ 「自己の内なる神への帰依」といいますか、ある意味、「神秘主義的」なご慧眼とも感じました。
☆ 《神秘》というのは 《なぞ》ですから そうなるかと思います。
せっかくお褒めにあずかりながら いぢの悪い子どもになりますが おそらく《神》は 《自己の内なる》でしかないと思うんです。しかも じつは《精神》でもないかも知れません。
わが心なる《非思考の庭》と言っているのですが・つまりこれは 《信仰》のありかだと見ているのですが これは 便宜的なものだと言いますか あるいは神を受け容れたその結果として《心 つまり 精神》なのであって 神と接するときは《自己の内なる・自己を超えたところ》であるかも分かりません。
通念として《神の霊がやどる あるいは ブッダター(仏性)がやどる》というのは 果たして――受け容れた結果としては まさしく心ないし精神ですが その前の接点としては―― どこなんでしょう?
人格の全体においてでしょうか? 《わたし》なる存在の全体としてでしょうか? あるいは ニュートリノのごとく神の霊は ワタシを突き抜けているのでしょうか?
4.
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
例えば、
(あ) 「宗教という形態になってしまっている場合は もうお呼びではありません。論外としています」・
(い) 「宗教という宗教は みな自己解体すべし」・
(う) 「信教の自由とは関係のない《思考や想像による神》をかかげているからには 信仰という文字はいっさい使ってはいけない」、等の文言
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ そうですね。ずばり言うのが《ホンショウ》ですが いささか解説しますと:
(あ) 信仰は わが心なる非思考の庭という動態だと見ます。神は 非経験の場ですから 非対象ですが これを雲をつかむかのようにしてわが心に受け容れるのは 人間の経験行為としての意志行為です。
そのように(つまり 神を受け容れましたという受領証を発行したかたちにて)非思考の庭が成ると 時に応じてヒラメキがやって来ます。この直感を 経験合理性にとって意味のある内容としてコトバに表現する。中身のはっきりとした直観となります。
これは たとえば《わが長子なるイサクを 初穂として神にささげるべきか》という選択でまよったアブラハムの得たヒラメキとしては 《ひとは 自分をも他人をも ころさないものだ》だったと考えられます。直観あるいは観想(テオーリア)です。
この信仰の成果としての命題は やがて倫理規範として・つまり集団にとっての交通法規なるオシエとして持たれるようになります。それが モーセの《なんぢ ころすなかれ》です。つまり このとき信仰〔の成果としての個人の主観内面における命題〕は 〔個人にとっては外なる人びとの集団にとっての倫理規範たるオシエを至上命令としてのごとく戴く〕宗教となった。
このシュウキョウは要りません。信仰のという蝉の抜け殻でしかありません。もしくは いわゆる人定法(実定法)として取り決めたものであればよいわけです。けれども そのときにも宗教というものは もうどこにもお呼びではない。こう帰結されませんか?
すなわち (い)です。主観内面にあっては 信仰の問題としてあります。(かんたんには 良心の問題です)。主観の外にある交通法規の問題としてなら 宗教抜きの法律として成り立ちそれとして機能します。
宗教組織の必要などは どこにもありません。鬼っ子として まだなお存続しているに過ぎない。こう見ます。
(う)。つまり万が一 たとえば聖書研究会としてだとか ブディズム研鑽の会であるとかとして 仮りに宗教団体が活動しているとすれば それは《信仰》ということは 組織の会員がまもるべきことがらとしては いっさいありえないし あってはいけない。こう言えると考えます。
人と人とのあいだで 信仰にかんして話をしてもいいわけですが 信仰を押しつけてはダメであるばかりでなく 信仰としての守るべき規則などをかかげてもいけない。こうなると考えます。
もしそのような交通(まじわり)における規則として《信仰》を持ち出すとしたら それは《観念の神にかんする人間の考え》であるしかない。決して信仰ではない。つまり 人と人とのあいだに・つまり外に わが心なる非思考の庭があるなどということはあり得ません。外に信仰を問い求めることなどは あり得ません。信仰は あくまで内面のもんだいです。
人と人とのあいだという《外》には 倫理や法律条文がかかわっているのであって それのみであって 宗教が主張しているようには 信仰が関係することはあり得ません。
よって ローマ教会をはじめとする宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべし。こうなります。
きょうなども 聖職者による児童虐待のもんだいが世界のニュースとして にぎわっていました。
No.9
- 回答日時:
ご説明ありがとうございます。
概ね意味を了解しました。追って何か書くことがあるかも知れませんが、しばらくはROMしておこうと思います。No.7
- 回答日時:
The Rigveda
Metrically Restored Text
Karen Thomson and Jonathan Slocum
http://www.utexas.edu/cola/centers/lrc/RV/
Rigveda Samhita
http://www.sanskritweb.net/rigveda/index.html
細かいことはさておき、
リグ・ヴェーダまで遡ったら
全部、後から出来たんだなと思った。
輪廻も解脱も涅槃も神々も法則も後からできた。
リタは廃れダルマが登場した。
ヴェーダの宗教以外にも土着の宗教があったとか言われても
どんなのか調べようがないし。
疲れたら太古に遡ろう。
なんのために坐禅するんだろうね。
禁欲主義者になるのなら坐禅である必要もないだろう。
なんらかの宗教体験を求めるのなら
やっぱりなんらかの宗教体験を求めているんですか、と。
自殺は意志の肯定であり、
意志を否定するなら、とことん禁欲主義者になるしかない。
しかし禁欲主義者がどれほど生を憎悪したとしても、
生を憎むな、生を愛せ。
汝の敵を愛せということになるのかもしれないが。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
細かいことはさておき、
リグ・ヴェーダまで遡ったら
全部、後から出来たんだなと思った。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは そうみたいですよ。
つまりちらっと掠(かす)ったようにそう思ったのは 初発のことば集では 火の儀式とかきわめて単純なことが書かれている。火を焚いて 煙が上がったとか 単純なことの中に 神をとらえたような感じで。
★ 禁欲主義
☆ について こう考えたことがあります。
禁欲生活を送ろうという欲望を満たそうとしているんだなと。
No.6
- 回答日時:
神が判らない。
死後の自分自身は判らない。
この二つはかけ合わさっているのではないかと、久々に始めた私の宿題を考えるうちに、あなたからヒントを得たよ。
明白にまったく別の事とするのは簡単だろうがね。
★ 明白にまったく別の事
☆ ですよ。
片や 《非経験の場》。片や 《経験世界における経験事象の延長》。
言いかえると 自分の死ないし死後は分からないが 他人のそれは 或る程度分かっている。
そのような《既知》の部分と ほかには《未知》の部分とそしてもしそうとすれば《不可知》の部分と。
ご回答をありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
《分かるか分からないかが分からないナゾ》が神だったのか。
それなら、やっぱり、以前から私が指摘している通り、その最大の不可思議である暉彦の母親の臍こそが神ということになるな。それにしても、神は暉彦の母親の臍であると同時に、今、池袋のコンビニでバイトをやっている。そこに行けば、神に触れるだけではない、握手くらいはやってくれるぞ。
で、質問はなんだったけ。
>たたき台を述べます。その当否を問うています。
当たっていることにしておいたほうが面白いぞ、暉彦。宮下薫さんの臍の下には毛が生えていたけど、それがどうしてなのか分かるものやら分からんものやら分からんナゾだからこれも神だな。
No.4
- 回答日時:
あなたは聖書に取り組んでいらっしゃるのであなたの全人格ではなくあなたを愛しています。
うなぎ問答、タトエを私が述べるのでしょうか。
影響の与えない意図というものが存在するのでしょうか。理解されない。
知が実を否定するでしょうか。将来備わる知が実を否定するでしょうか。
尋ねて答えを得ても理解されない。尋ねを知りなさい。
いい歳を知りなさい。知があるのなら、ふさわしいことを自己に要求しなさい。
遊んでいては望むものは得れはしない。検証しなさい。
これだけです。おろかにあまり近づきたくありません。
ご回答をありがとうございます。
いいですよ。いろんな落書きでもいいですよ。
まづは 自由な振る舞いが だいじであるという場合もあると思いますから。
いつでもわたしのところに来てください。
今回は あまりしゃれた応答を思いつかなかったのですが。
No.3
- 回答日時:
以下のとおりお答えします。
例によって後半で脱線するかも知れませんが、よろしければご一瞥なさってください。A.《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神
(1)なるほど、一瞬「そのとおり」と思いました。が、よく考えてみると、むしろ逆ではないか、と思えてきました。
(2)つまり、「~が神(である)」ではなく、「神は、分かるか分からないかが分からないナゾである」という語順で言うべきではないか、と思えてきたのです。
(3)なぜなら、「分かるか分からないかが分からないナゾ」はいろいろあって、例えば、「宇宙の果て」などもそのうちの1つでしょう。
(4)それに対し、「神は、分かるか分からないかが分からないナゾである」は常に成立するので、要するに、「命題(2)が真であり、逆必ずしも真ならず」ということではないでしょうか?
以下は余計な付け足しです。
B.多神教と一神教(人間的思惟の所産)
(1)多神教と一神教とを比較すると、ある種の対照性が浮かび上がってきます。
多神教:素朴、即自然、どちらかと言えば「情意的」。多くの場合、神々を一定の組織に構成し、その中心たる主神が想定される。多様性を許容する。
一神教:多神教との相対として見ると、反自然的、即人間的・人為的。歴史上では、多くの場合権力と癒着し、多様性を認めない。分派は異端とみなす。
(2)多神教が一神教化することはあるが、その逆はないように思われる。多神教がより原初的で、一神教がより思惟的であることと関係ありか?
(3)といっても、多神教と一神教のどちらがよいかとか、優れているかとか、そういう「価値比較」の見方をするわけではしない。
(4)前便で、質問者様が、「神を想定することは、最も人間らしい知的営為の1つであり、古今東西の人々の英知であるとも思います」という私の発言について、「この認識が 互いの接点であるのではないか」とおっしゃったのを拝見して、「同感!」と思いました。
(5)さらに続く、「わたしの場合は 思考に非ずのナゾの領域へと片向いており どちらかと言うと なかい702さんは フォイエルバッハのごとく人智のはたらきをつよく見る方向を向いておられる」を拝見して、「質問者様は多神教に、私は一神教により多く注目しているらしい」ことも感じました。
C.ローマ帝政期の一神教化
(1)ローマは共和制末期の頃にはほぼ最大版図に達して、カルタゴ・ギリシャ・エジプトなどの地中海周辺はもちろん、ガリアやメソポタミアまでを掌握していた。
(2)これらの地域は、それぞれ祖先伝来の多神教を奉じていた。例えば、ローマのユピテル・ユノ・ミネルヴァ神、ギリシャのゼウス・アテナ神、ガリアのテセウス・タラニス神、エジプトのイシス・オシリス神…。
(3)ローマ帝政初期、ガリアからメソポタミアへ至る一大地帯の文化が「画一化」される。交易・交戦・道路建設など、支配の効率化指向が等質化を促進する触媒になっただろう。
(4)紀元2世紀半ば、統一的支配体制確立のために、各地の下級の(と支配者が見る)神々の上に「最高神」をかぶせる。
(5)それは、「世界の支配者で太陽に化身する最高存在」とされた。すなわち、それは「太陽神」である。
(6)270年頃、アウレリウス帝が、皇帝を太陽神の「僚友」に位置づけ、己に崇拝を集めようとして、太陽神を唯一神とする、名目上の一神教を確立した。
(7)4世紀初めの頃になると、一神教化傾向はさらに濃厚となり、キリスト教の国教化に道が開かれた。そして311年、コンスタンチヌス帝によって「キリスト教寛容令」が発布され、その2年後にミラノ勅令によってその信仰が公認され、国教化が実現された。
(8)こうして、ローマは約900年間の多神教時代を経て一神教の国家へと変貌したのであった…。
以上、気まぐれ脱線を含むご回答まで。
(最後まで閲覧してくださり、ありがとうございました!)
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。
それぞれの箇所で反応してまいります。
★ A(3)なぜなら、「分かるか分からないかが分からないナゾ」はいろいろあって、例えば、「宇宙の果て」などもそのうちの1つでしょう。
☆ これはですね。わたしの分類ですと 《宇宙の果て》は 《未知》に入ると思っているのですが どうでしょう。《非知》になりますか?
じつは
★ 「分かるか分からないかが分からないナゾ」はいろいろあって
☆ とはならないと考えています。逆も真である事例だと思います。つまり 《非知》ですね。
そしてまた この非知に入らないものが 仮りに神だと言われていたとしたら それは マチガイであると言えると思います。
いまのところ 神は 非知であり 非知なるものは 神である。なおこのように捉えています。
この《神=非知》なる仮説にもとづくならば さらに次のような議論が出来ると考えます。
★ B.多神教と一神教(人間的思惟の所産)
☆ 通常言われているような定義をされていますが わたしの場合は 次のようです。
(あ) 一神教とは もし宗教ではないとすれば――つまり 考えるべきオシエとしての宗教でなく 個人の内面における信仰の問題だとすれば―― 取りも直さず 《非知》としての領域すなわち《非経験の場》としての神は 人間の世界にとって《全体としてひとつ》である。という意味での唯一神信仰のことを言います。
(い) つまり 多神教にしても 宗教という形態になってしまっている場合は もうお呼びではありません。論外としています。
(う) すなわち唯一神信仰というのは おおよそ次のような具体的な形態をとって みな互いにひとしいひとつの類型を成すと見るものです。
α ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
β ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
γ ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
δ クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
ε (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
ζ 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
(え) すなわち多神教は 宗教ではないとすれば けっきょくそれが明らかであるかどうかと別として やはり唯一神を立てて その分身として多神が捉えられている。こういうかたちなのだと見ます。ζ のシントウの場合が それだと見ます。
(お) ちなみに もし自然生成としてのシントウではなく やはり国家神道として広く捉えられるものは シントイズムであり これは 宗教としては 日本教であると見ます。
(か) すなわち 唯一神は アマテラスであっても何であってもよいようで 問題は 多神教という内実を持った一神教だという規定をします。
日本教なる一神教――まぼろしの見えない総本山のもとに各宗派がつどう。
( a ) シントウイズム
( b ) ブディズム
( c ) コンフシアアニズム
( d ) クリスチアニズム
( e ) マルクシズム
( f ) ・・・
* 総本山なるまぼろしは 一般に《クウキ》として現実である。
* むろんこの多神教は じつのところ一神教であって やはり排他的である。
* よそからの宗教は 日本教のひとつの宗派としてのみ《家族》として待遇される。
(き) ですから
★ B(5)「質問者様は多神教に、私は一神教により多く注目しているらしい」ことも感じました。
☆ は それとしておもしろいかも知れないのですが 正直に言えば 組織宗教はやはり論外としています。この場合は どちらも宗教だと見ましたが いかがでしょう。
(く) すなわち
★ C (6)270年頃、アウレリウス帝が、皇帝を太陽神の「僚友」に位置づけ、己に崇拝を集めようとして、太陽神を唯一神とする、名目上の一神教を確立した。
☆ は 宗教であり その神は たとえ唯一神であっても 非知としての神ではない。こう断言したいと思います。観念の神です。あたまの中で人間が操作しているような観念だけだと見ます。
(け) すなわち
★ C (8)こうして、ローマは約900年間の多神教時代を経て一神教の国家へと変貌したのであった…。
☆ このクリスチアニズムであっても まぎれもなく《思考》において持たれている観念の神であると断定します。
オシエは 考えるものだからです。よく言って 道徳であり倫理学です。
(こ) すなわち ローマ教会を初めとする教会は・そして宗教という宗教は みな自己解体すべしとうったえています。
結社の自由があると言っても 信教の自由とは関係のない《思考や想像による神》をかかげているからには 信仰という文字はいっさい使ってはいけないと考えられるからです。
こういったことを考えて来ています。
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