プロが教えるわが家の防犯対策術!

 1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。

 2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。

 ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。

 A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。

 3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。
 4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。
 5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。
 6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。

 7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。
 8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。

 9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。
 10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。

 11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。
 12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。
 13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。

 B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?

 14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。
 15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。
 16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。
 17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。
 18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。

 19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。
 20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。
 21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?

 22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。
 23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。

 さていかがでしょう

A 回答 (16件中1~10件)

#8です。


 非思考は誤解してました。brageloneさんの非思考とは 思考中のヒラメキ、直感のようです。これは、私の理解では ビジネス社会などで独創的商品の開発が行われたり、あるいは 科学者が独創的アイデアで問題を解決していきますが  この場合の独創的発想と同じ ヒラメキ、直感ではないかと思うのです。確かにかに今までないものを 発想したことは間違いないと思いますが 色々思考している脳活動の途上で 何かがトリガーとなって 結論が先に出る場合に相当しているように思うのです。結論のあとで なぜ その結論になったか あるいは 結論の応用を考えるのです。難しい数学の問題で答えが先にでるようなものです。なぜ そのようなことが起きるのか 他種多様の多くの記憶を使った連想の一つと思います。結論に至る経緯がみえないので 不思議な出来事として理解され あるいは飛躍した突飛な発想と思われる と思います。思考中の飛躍思考と思います。しかし、記憶のベースが全くないところに独創的発想は生まれないとおもいます。この理解で合ってますでしょうか。
 そして そのような発想の中に神を見い出した人もいるのです。しかし 最初の見い出された その神の存在は あやふやなものと思います。あやふや神では 明細がみえなく そのことで他人との会話がしにくいのではと思うのです。もちろん したくない場合は いいのですが。そこで少し考えれば 堂々めぐり思考機能不全の思考になり 定義からの論理構成の準備も出来他人との話もできると思います。
 これとは別に 神の存在に疑いをもち 考えに考えたのちに神に至る場合もあります。あるいは 文字通りの私が示した非思考から 神に至る場合もある と思うのです。
 いずれのルートを経ようが 神の存在につて考えれば堂々めぐり思考機能不全の思考になるとおもうのです。

 そして 絶対的神の信奉者でない限り 誰とでも 話ができるとおもいます。このことは相互理解の上で重要です。が、それと同じく 個々人の神メリットはあるように思うのです(あまり個の主張はするべきものではないかもしれませんが) 。私の場合は 家族に関わる小さい神がいて 死者が 何かと指導してくれることです。
 以上 失礼しました。
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この回答へのお礼

 あぁ 《非思考》が分かっていただいてよかったです。――こんばんは ご回答をありがとうございます。――そしてわたしのほうは
 ★ 思考機能不全〔の思考〕
 ☆ について勘違いをしていました。つまりけっきょく《非思考の庭》のことだったんですね。これは失礼しました。

 ★ 私の場合は 家族に関わる小さい神がいて 死者が 何かと指導してくれることです。
 ☆ という具体的な形態を類型的に《非思考の庭〔が成る。そしてその持続〕》というふうに言っていました。
 わたしの場合は もろに聖書のキリストの神と名づけられたカミです。世界観をかたちづくるのにその神学から出発しますから。

 あぁ よかった。よかった。
 ですから このように信仰を《わが心における非思考の庭》という類型で捉えておくならば どの神や無い神が来ても すべて同じ人間についての存在論の中におさめられます。きわめて万能のスグレモノかと思っております。ここを原点もしくは出発点にして哲学談義も始まるのではないか。こういう問い求めになっております。

 ★☆ ヒラメキ・直感・直観
 ☆ について次のようにまとめたものがあります。さらに精緻なものにしてまいりたいと考えます。

 ☆☆(No.4補足欄) ~~~~~~~~~~

 ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ
  _______________________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ☆ 《霊感》と言うと語弊が生じますが インスピレーションですね。これを 《ただの勘》としての直感と そしてすでにかなり答えが見えているかたちの直観とのふたつのヒラメキに分けています。
 直感は イメージにかかわり まだその行方ははっきりしません。直観は すでに何らかの中身を持った見透しであるとしてみました。
 これらのヒラメキは あたかもコギト(われ考える)の思考ないし理性ないし論理に先行すると見ています。時間的にでなくとも 理論の見え方などの考え方において。
 カミとは インスピレーションをつうじて 心の窓に明けまたは伸びを見出してのごとくその何ものかのナゾを受け止め受け容れるというクレド( credo = I believe )におさまります。これが 非思考の庭の成立です。

 そうしてこの《非思考の庭》を持ち出すことのメリットは すでに言っていただきました。
 ★ そこで少し考えれば 堂々めぐり思考機能不全の思考になり 定義からの論理構成の準備も出来他人との話もできると思います。
 ☆ すなわち 《対話》の成立であり それへの促しであり その促進剤にもなると考えられます。つまり
 ☆☆(趣旨説明)~~~~
 19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。
 20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ただそのカミについての理論と互いの議論のことを言っているのみですが(つまり けっきょくどんな名前のカミでも すべて互いに同じひとつのカミであるとの合意に達することを目指すものですが) そうではなくさらに ふつうの対話ないし会話においても 促進剤になろうかと思われます。

 ☆☆(同じく) ~~~~~
 22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? 〔それが 原点であり出発点になっているからではないか?〕 おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。
 23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 平和のミサイルになれれば・・・。

お礼日時:2011/03/19 22:06

簡単ですが、宗教、信仰が本人にとって心の癒し、慰めなどになるならば、それで良いのかなと思います。

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この回答へのお礼

 えるどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 たぶんおっしゃるようなことだとわたしも考えます。その中身が そういうことなのだと思います。

 《癒やされる》ことを わたしは《やわらがしめられる》というふうに言いかえたりしていますが そういう心の中身の問題なのだと思います。

 さらに もし細かいことをつけ加えるとすれば:
 たぶんですが たぶん わたしたちのそれぞれの《わたし》は 或る日すでに癒やされた我れを見出し そのやわらがしめられた心の状態のゆえに 信仰が成っていると気づくのではないでしょうか? そういう場合もあると考えられますが どうでしょう?
 つまり 信仰を得て魚が網に掬われるように心が癒やされるというよりは すでに或る時ふと癒やされたと気づいたとき わたしは心に信仰すなわち非思考の庭が成ったと分かり それゆえ感謝の祈りをささげる。
 つまり救われたいと思って その進みにおいて信仰を得るというのでは必ずしもなく 或る日どこからかそよ風が吹いてそれによってのようにわが心のやすらかさが得られていた。そこで これは信仰なのではないかとさとる。感謝をささげる。
 こういふうにも思ったりします。どうでしょう。

お礼日時:2011/03/24 17:58

『いまの限りで無意識を持ってくることは 余分なのです。



と云うお言葉を頂きましたが、事実人間は『意識の根底で』二つの意識が、どちらの出番かを相談して決めています。

意識する、無意識がする、と云う少し前、二つの意識が出会う場合があります。此処現象を『自分自身を知る』と言います。この事実が判らない場合『未だ救われていない』と解釈できます。
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この回答へのお礼

 困ったものですね。

 (1) 《わが心に非思考の庭が成る》という命題を――むろん《信仰》の内実として――問うています。
 つまりそこでは所謂る人間が《救われる》という主題もとうぜんのごとく含まれますが 少し考えてみてください その焦点は微妙に違っていましょう?
 極端なことを言えば 救われていなくても いま定義した信仰が成るなら それでよいという見方からこの問いは立てています。
 つまりもっと内緒の話をすれば この《非思考の庭が内面に確立する》ということが腑に落ちたなら そこで人は心がやわらがしめられ お望みなら救われている。こう考える見方をいまは推し出しています。
 どうしても《救われる》という観点で勝負したいというのであれば きちんとあらためて本格的に この質問でもよいので 投稿してください。つまりは 上に述べたわたしの見方では駄目だという話をしっかりとしてください。

 (2) ですから 非思考の庭の成るにあたっては 意識とか無意識とかはどうでもよろしい。
 どうでもよくないとする観点を推し出したいということであれば 無意識論としての本格的な議論が必要なのではないですか?
 けれども それでもひと言で斬ろうと思えば こうです。
 無意識はいっさい必要がない。なぜなら 仮りにそれがあるとしても その仮想・無意識から意識にのぼってきたときその意識内容を捉え問題にすればよい。ゆえです。無意識があるか無いかはどうでもよろしい。
 しかもここでは・つまり今の特殊な見方においても ヒラメキという現象を取り上げています。これなどは 意識していなかったところにふと どこからか 知覚がおとづれる。これを認識し意識する。こういう現象についても取り上げています。

 (3) ★ 意識する、無意識がする、と云う少し前、二つの意識が出会う場合があります。
 ☆ 無意識も意識ですか? おかしかないですか? おかしくないとすれば 《無意識はない》とおっしゃっています。《意識の内のひとつ》だということなのですから。

 (4) ★ 事実人間は『意識の根底で』二つの意識が、どちらの出番かを相談して決めています。
 ☆ 意識の根底は 意識です。意識にのぼったものごとを言います。無意識ではありません。あるいは《意識していなかった》ということはありますが ごくふつうに有りますが それを無意識の領域と呼ぶかどうかは 議論の余地があります。《意識していないものごととその記憶の領野》をただ《無意識の領域》と言いかえるのなら なんともありません。特別の無意識の領域が別個にあるというのは おかしかないですか?

 (5) ★ 此処現象を『自分自身を知る』と言います。
 ☆ 意識とその中身を知ったからって われがわれに還るかどうかは さだかではありません。自己到来したと言えるかどうかは 決まりません。《わたしがわたしである》という自己還帰として《自分自身を知る》のは それこそ意識の問題に限るわけには行きません。ヒラメキのほうが大事だという話をしています。
 ヒラメキがあればよいので それが無意識から来たとか来なかったとかということは 問題ではありません。

 よってこの質問の構制に関する限り 無意識論は要りません。

 ですから つまりとうさんの為すべき次の仕事は
 (あ) この質問のような構制では 救いに関してらちが明かないというのであれば その論陣を張ることでしょう。
 (い) それと関連して・そして一般には関連させずとも 無意識論がいかに大事かを説得するお話をしっかりとするという仕事。

 ではないでしょうか?

お礼日時:2011/03/22 09:31

おそらく宗教にしろ、信仰にしろ、それらの言葉に対しては、誰もが漠然たる気持ちしか抱かないかも知れませんが、本来、それらは我々にある基本的というか、根幹となるもの、つまり、人間として絶対に知っておくべき重要な点を教えようとしているのですが、それは誰もがその自身の内にすばらしい特性を持っていて、それを発揮させることによって、あらゆる所願は満足し、あるいはいかなる困難をも克服していくことが出来るというもので、つまりは、早い話が我々にとって『鬼に金棒』たるべし宝の存在を教えようとするものなのです。



そして、この自身の宝とも言うべき特性に自ら気付き体現したのが釈尊であり、そのことを他の人々にも知らしめようと始めたのが仏教であり、その真理が説かれているものが『法華経』なのですが、今から2800年程前の当時の人々にとって、いきなり核心的な『法華経』を説かれても理解し難く、信じ難いため、法華経の部分部分を様々な比喩や方便等を用いて、当時の人々にその説法が受け入れやすいように噛んで含ませるように種々に説いて行ったのです。これはちょうど、子供にいきなり大学講義の内容を説いてもチンプンカンプンであり、やはり、堅苦しくないおとぎ話や童話等から始めれば難なく受け入れてもらえるようなものかと思われます。そして、そのように解りやすいものから説いて行き、少しづつ人々の理解度、受け入れる能力を高めるようにして行ったのです。それが法華経を説くまでに方便として説かれた一般的によく知るところの阿弥陀経であり、大日経、般若心経等々なのです。結局、法華経以外はすべて法華経へと至らせるために一時的に説いた仮の教えに過ぎず、いくらそれらを拠り所としても自らの特性を開き活用することなど出来ないのです。

たとえば何らかの機器を使いこなそう、また、その特性を発揮させようとする場合、当然そのためのマニュアルを用いますが、もし、その中に書かれてある言い回しや専門用語等が分からなければ、そのマニュアルを理解するための解説書等が更に必要になるかと思われますが、それと似たようなものかと思われます。つまり、法華経のための部分部分の解説書でしかない諸経をいくら崇め奉ろうが、自らの持つすばらしい宝をその人生に活用することは決して出来ないのです。

ですから、詰まる所、本来、信仰とは、自らが持つすばらしい宝の存在を覚知して、それを発揮させて自在に活用するためにあるのであって、単なる精神修養とか気休め、あるいは盆、正月のためのものではなく、もちろん葬儀等も何ら仏教とは関係なく、それは単なる僧侶たちの生活の糧でしかなく、仏教をおとしめる本義を逸脱した行為であり、本来なら僧侶たるものは在家よりは仏教に明るいはずなので、人々の内に秘めたる宝の存在を教え示して、その開発の方途を説くべきことに専念すべきかと思われます。またもし、上記の点について知らない僧侶等がいたとすれば、勉強不足も甚だしく直ちに僧侶の肩書きを返上すべきかと思われます。

ちなみに、仏とはサンスクリット語の『ブッダ』から来ていて、その意味は『目覚めた者、覚者』ということであり、つまり、法華経は釈尊と同様に人々に自らの持つすばらしい特性に目覚めさせるためにある経典ということです。仏と云うと何か特別な、かけ離れた存在のように思っている人も多いかとは思われますが、本来、万人誰もが仏になる可能性を秘めていて、法華経を以ってして、その点に目覚めさえすれば誰もが仏なのです。

つまり、信仰とは『宝の持ち腐れ』状態の自身の宝を活用できるようになるという点においては、多分にメリットはあるかと思われます。

この回答への補足

 おぎないます。

 ここでは《宗教(組織宗教)》はいっさい取り上げてはいません。扱ってもよいのですが 信仰の自殺行為であると規定しています。次のようです。
 ☆☆(No.9お礼欄)~~~~~~
 なお《宗教》は この個人の信仰から得られた神学ないしその経験思想としての哲学の内容を いわゆる教義として 複数の人間が集まり 組織をつくり その組織としての決まりをも持ち しかも一人ひとりの《信仰》の度合いによって何事も取り決めて行くといういとなみです。これは 信仰とは似ても似つかない生き方です。信仰の自殺行為です。
 組織の運営――特にそこにおける役職としての権限関係――ひとつを取っても すでに人間の思考によっており それは 個人の信仰が非思考として成り立つことと真っ向から対立します。組織に従えば おのれの心における非思考の庭の自殺行為になります。
 〔それが たとえば勉強会としてなどの集まりであったら かまわないでしょう。権限関係が 自己の非思考の庭の自由を侵すこともないなら。あるいは事業を 福祉だとかもしくは逆に営利事業だとか別の仕事に設定すれば かまわないでしょう。信仰の度合いによって人びとが仕分けされ支配されることもないでしょうから〕。
 宗教はせいぜいが 権限を行使するというところにおいて自己の支配欲を満たすかそれとも たださみしいから群れるか そういう中身であり特徴を持つと考えます。あぁ あとは金儲けというねらいもありましたね。
 ですから ここでは宗教はいっさい取り上げていません。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ あしからず。もちろん反論は歓迎です。

補足日時:2011/03/20 20:18
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この回答へのお礼

 いろはさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 法華経
 ☆ をゴータマ・ブッダが説いたというのは知りませんが 《仏性(ないし如来蔵。さらにあるいは 本覚思想)》は 明らかにブッダ以後の思想です。ブッダは 仏性とはひと言も言っていません。
 ま ただしそんなことは措いておいて すでにつまりとうさんとのやり取りでNo.13お礼欄で 仏性も いま主題としている《非思考の庭》に一枚噛んでいるとは書きました。

 そこで 法華経ですが 法華経を《信仰》の成立のもんだいとして持ち出すことについてですが 結論から言えば そのようにおっしゃるのなら おそらく法華経の文字は《思考》にかかわっていますから けっきょくその背後の《無い神》を信仰の対象(非対象)にしておられる。こう見ます。

 ★ つまり、信仰とは『宝の持ち腐れ』状態の自身の宝を活用できるようになるという点においては、多分にメリットはあるかと思われます。
 ★ 誰もがその自身の内にすばらしい特性を持っていて、それを発揮させることによって、あらゆる所願は満足し、あるいはいかなる困難をも克服していくことが出来るというもので、つまりは、早い話が我々にとって『鬼に金棒』たるべし宝の存在を教えようとするものなのです。
 ☆ こういったところでしょうか。すなわち 《宝》を ナゾのほうにではなく むしろわれわれ人間のほうに焦点を当てて捉えておられますが それはけっきょく焦点の当て方の違いであって 基本的に言って ナゾと我れとの・わが心の庭における向かい合いと言ってもよいのでしょう。
 そうして そのナゾを 何らかのカミとして名づけもしないし捉えることもしない。ただカミではないけれど あたかもカミのはたらきとけっきょく同じだと思われる《仏性》を説明に用いる。こういうことではないでしょうか?
 上に触れたNo.13お礼欄で述べたこととして ブッダはブラフマニズムに反対していたので そうは言わないのですが けっきょく梵(ブラフマン)我(アートマン)一如というときのその一如の有り方を《仏性・もしくは ブッダであること》と言っていると取って 類型的には間違いないとわたくしは思っております。それが 枠組みとしては・もしくは構造としては 心における非思考の庭が成ったというコトだと考えるからです。
 《さとり》の説明の仕方は違うけれども 中身は同じなのだと考えます。

 ★ 仏と云うと何か特別な、かけ離れた存在のように思っている人も多いかとは思われますが、本来、万人誰もが仏になる可能性を秘めていて、法華経を以ってして、その点に目覚めさえすれば誰もが仏なのです。
 ☆ すなわち《われは目覚めた(つまり さとった)》というのは 我が存在の原点として《非思考の庭が成った》。ゆえに《わたしはわたしである》のだと言っている。持てる宝を大いにまた自由に用いることができるのだと。


 ですから もしこのあと対話をつづけるとすれば
 ○ 信仰の成り立つための道として――それは いろんな名前の神やあるいは無い神をめぐるいくつかの信仰形態が有り得るし有り得ているけれども―― 《法華経》もその内のひとつである。と見なしてよいかどうか?

 ☆ ではないでしょうか? ほかの経文は従属的なものだと仮りにしても ほかにも信仰の形態は――結局 類型的に同じ《非思考の庭》として――いくつかあり得るということ。これをお認めになるかどうか? ではないでしょうか?

 奥歯にも前歯にも衣着せぬ表現を用いました。そこまでの《宝の活用術》に到っておられるようですから 最後のお尋ねも 率直に申し述べました。さてどうでしょう?

お礼日時:2011/03/20 20:10

細かい事を言い始めた場合には、収まりが付かなくなると感じましたので、『非思考つまり 思考に非ず 』の一点だけを述べてみます。



是は脳の機能の問題と思います。左脳に自我意識が有りますが、右脳の意識は『無意識』に封印されています。意識は『無意識』になった事を意識出来ません、この事が精神疾患の治療を難しくしています。

無意識の意識を『仏性や神』と言っています。人間は毎日『意識の根底で』二つの意識は何事によらず相談しながら、どちらの出番かを決めています。

言葉にできる事は主に自我意識の機能から、意識が出るようになっています。割切れる問題に関してです。従って自我意識の専門は『有限の世界』のみの限定があります。割切れない問題に関しては『手も足も出ない』機能を持っているからです。

右脳の無意識に封印された意識は、世の中の事実だけを左脳に伝えるシステムとなっています。意識が『見ていない所でも、その場の空気や雰囲気や殺気として』脳梁を通して、言葉に拠らない情報として送っています。

人間は意識している時の自分と、無意識でしている時の自分と、二人存在しています。無意識の時の自分は言葉では考えていません。『言葉以外で考えています』この事を『非思考つまり 思考に非ず 』と仏典では書いてあります。

言葉以外の考え方です。禅などでは、必要以外には口を開かないと云う原則がありますが、言葉以外の思考方法を掴ませる事を眼目としているためです。

貴方が信じようが信じまいが、脳梁を切断した場合、左右の脳には二つの全く違う意識が存在しています。確認をしたいと思うなら、ウイキペデアからロジャー、スペリーと云う項目を参照してみて下さい。

『、、、、、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。』との記述に出会うはずです。
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この回答へのお礼

 ご説明をありがとうございます。

 前回のやり取りを踏まえて 率直にお応えしてまいります。
 ★ 無意識の意識を『仏性や神』と言っています。
 ☆ (1) これは《何々の意識》というとき たとえば《ナゾの》であるとか《非経験の領域の》であるとかといえば 質問者の提示する趣旨説明と同じ内容になります。
 ですが――もし趣旨説明から出発していただく限りでは―― その何々のところに《無意識》を持ってくるわけには行きません。なぜなら 《意識していないことがらやその領域》のことにしろ《無の意識》にしろ それは 基本的に非経験のことではなく 経験世界における事柄を言っているからです。
 《意識している・していない》あるいは《無あるいは有のそれぞれ意識》というふうに それらは経験的・相対的なことがらであるゆえに 反対概念を持ちます。反対概念を持つということは ナゾではないのです。無意識は 意識にのぼるなら 意識しうることがらです。無意識という領域が ちょうどアーラヤ識のごとくに有るというのであれば それは それも 経験存在としての人間の身かつ心に有ると設定されるというに過ぎません。だからどうなのか? という問題になります。

 (2) 仏性は後回しにしますが カミの場合 《何々の意識》は ナゾを心に受け容れたあとに意識することです。心に受け容れるときには いわゆる直観ないし直感の状態です。むろんそれをも知覚し認識し けっきょく意識にも上げるわけですが 直接に意識の問題になるのではありません。言わば概念に成る前の感覚について それを非思考において 受け止め受け容れるということです。賭けのごとくに。
 ですから《ナゾの意識》と言ってしまえば ほぼそのとおりなのですが ナゾを直感において捉えこれを 何の概念的な把握も無しに――だから賭けのごとくに――認める。受け容れる。これを 非思考の庭が成ると言い 信仰の中身とするという定義です。
 そのあと その非思考であるにもかかわらず 受けとめたということはそこに何らかの対象がある。つまりそれを カミと言います。しかも それは そもそもナゾなのですから 具体的には 有る神か無い神か ふたつにひとつ。ということになります。これが 信仰です。
 無意識は――確かに 無ということで ナゾと重なるかの部分を持つかも知れませんが 基本的には―― 関係ありません。またただちに意識という状態になるのでもありません。大事なところです。

 (3) 仏性は 簡単に言えば そのナゾを受け止め受け容れるわが心の判断とその実行に潜むと見られる力のことを ブディズムで言っている。そういう全体の中の位置づけです。つまりそれは 霊であり聖霊だと言っても同じことです。しかもブディズムが反対するブラフマニズムにおける梵我一如の原動力(そのようなやはり心の面向き)と同じことです。

 ですから この趣旨説明にかんするかぎりで《脳》の問題に持っていくのは 焦点がはずれます。
 ★ 脳の機能の問題と思います。左脳に自我意識が有りますが、右脳の意識は『無意識』に・・・
 ☆ むろん脳がはたらいていますが――非思考のナゾを知覚したときからは はたらいていますが―― はたらくからどう はたらかないからこう という問題にはなりません。わたしとその人格の全体で 判断し実行するおこないです 信仰の成立は。

 左脳・右脳 意識・無意識といった要素分析とは まったくかかわりがありません。すべて《わたし》ひとりの思惟および行為です。わざわざ分けて分析することは この場合――非思考の庭の成立のばあい――何の関係もありません。

 むろんそうではないぞというご見解のばあい 大いにその情報を伝えていただきたいのですが その道は たとえば次の表現を受け取るかぎり 望みを持ち得ません。
 ★ 『言葉以外で考えています』この事を『非思考つまり 思考に非ず 』と仏典では書いてあります。
 ☆ そういう行き方はそれはそれだということですが ここでの非思考とは 非経験だとはっきり言っています。非経験は《思考に非ず》つまり《言葉以外でも考えてはいない》のです。そういう定義をしているのですから まづそのことに留意して回答を寄せるのがふつうなのではないですか?
 つまり それ以上に《考える(コギト)》は この信仰とは何の関係もないということです。
 言葉以外で考えるということは たしかにヒラメキがあるでしょう。ただしそれは そのヒラメキという知覚のあとに 概念化あるいは言葉化を持って その言葉を頼りに考えるということです。つまりこういう基礎的な手順のことをないがしろにした議論である。ですから 話はかみ合いません。
 いまの限りで無意識を持ってくることは 余分なのです。

お礼日時:2011/03/20 15:09

想像でしか有りませんが、書いてみたいと思います。

信仰に於ける効果や得失は、求めている間は手に出来ない性質が有ると感じます。

迷える子羊とは『救いを求めている人の事です』その救われたい事の内容はとても手に入る物でな無い事が多いと思います。

手に出来ない事を求める事を『救いを求める』と言います。手に出来る事は求めなくとも手に出来ることが判っているからです。

心における分別作用がそういう気持ちにさせています。受入れられないと感じる事を、受入れなくともすむようにと願う気持ちです。この気持ちが高じた場合を恐怖症といいます。目の前には恐怖の対象が何も無い場合です。検査をしても何処にも異常が見つからない場合を言います。

この場合には『頭の中には確かに恐怖に値するものが存在しています』ですが、目の前には恐怖の実態は無い事を意味しています。と言う事から推察すると『頭の中で自分で恐怖の対象を作り出して』本当に身体と心が反応している現象です。

この事を妄想といっています。自分で作った地獄で、自分が苦しんでいる現象です。この事を解消する事が『救い』と云う事になります。

眼の前の事実と、頭の中の事実が二つの世界になっている現象ですから。眼の前の事実と、頭の中の世界が一つになると妄想が消える事になります。

それは嫌だと思っている『心そのものを捨てる事』が大事になります。今の自分をそのままに認めることです。それは救われない自分をそのままに認める事を意味しています。救われない自分を認めることを意味します。

他の言い方をするなら、人生には救いなど無かった事を認める事です。はっきり言うなら、『全てを諦める事を意味します。』その諦めが徹底する時『心の内面には、変化が訪れます』

他力本願ならば、『阿弥陀様がすくい取ってくれます。』自力本願ならば、『自身の中の仏が、永遠の理法を告げる』と云う事になります。『嗚呼、この身は、確かに滅びるかも知れないが、既に永遠のもので、このみが成り立っていた事が分かります。

迷いとは、疑う事。疑う事は『意識して生きる事』その疑いが晴れる事が、救われる事になります。信仰とはいっても、自身の心を疑わなくなった時、救いは成就します。

救いが無いと感じている間は、未だ救われていない事を意味します。死を怖がっているうちは、未だ救われていないことを意味しています。

救えわれた後は、もう救いを求めない事を意味しています。『絶対肯定』と云う足場に乗った事を意味します。生きる事も死ぬ事も、どちらも受け入れる事が出来ると云う意味です。そうなって初めて本当の自分の生き方が出来ると感じます、それも『全身全霊』で生き抜くと云う意味になります。
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この回答へのお礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。――次の見方は どうでしょう? どうなのでしょう? 非思考つまり 思考に非ず の信仰という部類に入りましょうか?

 ★ 手に出来ない事を求める事を『救いを求める』と言います。手に出来る事は求めなくとも手に出来ることが判っているからです。
 ☆ すなわち言いかえると 《手に入れることの出来ないことを求めること》と《非思考の庭の成ること》とは 同じかどうか? どう同じで どの部分は違うか?
 《救いを求めること》と《信仰》とは どう同じで どの部分が違うのか?

 おそらく人が人であるかぎり・そして諦めなくてよいと考える限り 信仰に立ち信仰にもとづいて行動しようとするときにも 《救いを求める》でしょうし 《手に入らないと分かっているものごとでもそれらを手に入れたいと思うこともある》でしょう。
 ただし そのことによって非思考の場が成るとは言っていないわけです。

 むしろ違いを際立たせるかたちで述べるとすれば こうです。
 《もはや人間の能力ではどうすることも出来ない。わが力はすべて注ぎ尽くした。そのあと その我が限界を確認するためにのごとく ナゾの何ものかがわが心の庭にやって来た。残念だが これをわれは受け容れた。つまり そのカミを信じたというよりは わが力の限界を思い知らされたし そのことを受け容れざるを得ないと心から思った》 これが 信仰です。
 すなわち この状態においてなお じつは《救いを求める》こともあり得ます。それはたぶん 一たんその限界を認めたあと いやまだまだ限界を超えることが出来るかも知れないと思ったゆえということもあるのでしょう。そしていづれにしても 定義による信仰は 《手に入れられないものごとを それでも欲して そういうかたちで救いを求める》というのとは 違うように捉えますが どうでしょう?

 ★ 受入れられないと感じる事を、受入れなくともすむようにと願う気持ちです。
 ☆ ではなく そうではなく 《受け容れられないと思うことをも とうとう受け容れた》ときの状態 これを信仰と言うと ここでは しています。
 たぶんそうではなく 《受け容れなくとも済むようにと願う気持ち》というのは まだまだ人間としてのおのれの力や知恵が残っていて それに頼る 最後まで自力で切り抜けるのだという心つもりを表わしているのではないでしょうか?
 もっとも その場合にも ここでは――そのままかどうかは 保留しつつですが―― つまりは無神論としてやはり信仰の一種であると見ています。その場合には 
 ★ 心における分別作用がそういう気持ちにさせています。
 ☆ のかも分かりませんが それ以上に・おそらくその心の分別作用のはたらき以上に おのれの心の庭に その非思考の庭に 無い神を立てている。このゆえではないかと思います。そういう信仰であると言う所以です。つまりは そのあとに 判断力などなどの分別知がはたらくのではないか。これです。

 
 申し訳ないですが そのほかの事柄はすべて 余分な考えであると考えます。要りません。
 なぜなら 《かみ》という言葉を どう言いましょうか あくまで自分の脳裡において自分の理屈の中におさまるように こねくり回している。だからです。《非思考》として捉えようとはしないからです。
 ★ 救い・救われる 疑い あきらめ 恐怖 苦しみ
 ☆ これらの言葉も すべて同じ態度でいじくろう・操ろうとしていませんか?

 ★ 眼の前の事実と、頭の中の事実が二つの世界になっている現象ですから。眼の前の事実と、頭の中の世界が一つになると妄想が消える事になります。
 ☆ そうかも知れないし そうでないかも知れない。要は こういう言葉による表現は どうでもよいとまづ見なすことです。まづは 《非思考の庭》とはいったい何だ? と問うてみることです。そのあとです 言葉による表現をいろいろ試みることは。


 ★ 信仰に於ける効果や得失は、求めている間は手に出来ない性質が有ると感じます。
 ☆ ではなくて そうではなく まづ《信仰》とはいったいどういう現実か? これについて考えてみてください。


 

お礼日時:2011/03/20 13:18

またしても神ですか。

私は神ではないと言っているのに。そういった時点でそれ以降のあなたの話は全て崩れますので読んでいません。

究極と書いてあるのに見逃してますね。「法」とも「法則」ともいいます。それが「究極」です。法との同化です。究極同化法とは法則との同化です。最高の法則と共振して自分も最高になるのに神や仏は不要です。

科学の共振に神や宗教は関係ないです。
http://emery.blog61.fc2.com/blog-entry-759.html

ま、これを見ても究極との共振同化作用がわからなければこれまでとします。

最後に信仰には得があるとしてもそれは目先のものだけで究極は無いし徳もありません。
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この回答へのお礼

 ジンセイヲークさん ご説明をありがとうございます。

 ★ 究極と書いてあるのに見逃してますね。「法」とも「法則」ともいいます。それが「究極」です。法との同化です。
 ☆ それでしたら 無神論である可能性がなくなるわけではないですが まづは カミとは別に世界を捉えていると確かに分かりました。

 もっとも梵我一如のブラフマンなる神でも 宇宙の法則でもあると言っていますから さらには有神論というかたちに限りなく近づいていると言えなくもありません。
 そういうことを言っているともうその先は読まないと言われますから 結論としての質問者のお応えを述べます。

 ふたとおりに反応することができます。
 1. そういう《法・法則》であれば 確かにわざわざカミを持ち出さなくても 人はすでにその法と一体化しています。自然本性として この地球の鼓動や宇宙の動きとわれは身も心も一体です。気がついているかどうかを別として。つまり すでに共振しています。まぎれもない事実として。

 2. その《法・法則》が 科学的に認識することができるとしたら それはまったくふつうに《経験世界》のことがらです。つまりは《経験思考》の対象であり その思考じたいであるとなります。
 このときにも 上の(1)の内容が実際にわが身にそのまま当てはまると言ってよいと思われますが 問題は 一たん認識を得るという段階があるということのようです。
 さとりと言うのかどうかは知りませんが そういう認識も必要だと言っていると受け取ることができます。
 ★ 最高の法則と共振して自分も最高になる〔のに神や仏は不要です〕。
 ☆ つまり わざとブラフマンに登場してもらうならば 梵としての《法則》と我としての《われ》とが一如つまり同化しさらに共振するということにおいて 《最高の自分になる》もしくは《もともと最高の自分がありそれを取り戻しそれに還る》ということのようですから〔認識が伴なわれている必要があるようです〕。

 さて この状態ないし世界観を 何と言うか? カミとのかかわりはないのか?
 ○ たぶん カミは この《法則》の背後にある(もしくは ない)と想定することになると思われます。なぜなら 法則は 思考や認識の範囲にとどまるからです。
 ○ したがって もし《ナゾ》が世界にはまったくないのだと証明しない限りにおいては このナゾが法則の背後に控えているということになります。
 ○ ということは 有るか無いか分からないけれどもナゾが そういう言葉で呼ばれているということは まだ人類は否定し去っていませんので 想定せざるを得ません。そのナゾに触れないでおくということは そのナゾとしてのカミを 無い神として想定したということになります。よって 無神論の一種である。

 こう帰結されると思われますが どこか間違っていましょうか?

 * つまり 無神論の一種だと見る場合には 途中でわざとブラフマンを登場させましたが そのブラフマンが消えてなくなるという場合に相当します。前回 ブラフマンが透明になった場合のようだとも書きましたが それに当たるようなのです。どうでしょう?
 これもそれも すべては ナゾがあるか無いか。あるなら その取り扱いを誰にも分かるように処理しておかねばならない。こういうことだと考えます。

 なお信仰に得があるという場合にも 組織宗教はいっさい関係ありません。

お礼日時:2011/03/19 13:06

1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。



この最初の前提は崩れますので、それ以降は全て答えませんが、無神論以外で神を信じないものがあります。それは同化法です。究極との同化です。共鳴とか共振作用とかという作用面でいうこともあります。

究極と同じに自分自身をする方法です。多分知らないのでこのような質問をつくttのでしょうけれど、究極同化法を知れば宗教などしなくても心は安定します。
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この回答へのお礼

 人生の歩みさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 結論としては おっしゃっている《究極同化法》は 有神論の一例であるか それとも あいまいな無神論であるかだと考えます。


 ★ 無神論以外で神を信じないものがあります。
 ☆ とおっしゃいますが 《同化》するのなら その相手があります。あるいは有ると想定されています。
 ★ 共鳴とか共振作用とかという作用面でいうこともあります。
 ☆ にしても その相手がまったくなければ おかしい。《共》とか《同》とか言うのは こちらのわたし一人だけの問題ではないと すでにそのまま言っているのですから。

 ではその相手とは どういうものとして想定されているのか?
 これは たしかに分かりません。これだけの文章からは分かりません。
 《同化》が《究極》と言うことから考えるに おそらくカミなのではないでしょうか?
 そしてわざわざ《無い神》とは言っていないようですから 素朴に一般的にカミなのではないでしょうか? その場合にも定義によれば そのカミが有ると想定されているようですから 有神論の一種であると帰結されます。

 あるいはもし その同化の相手になっているものが 必ずしもナゾではなくカミでもない――カミとは言いたくない――ということであれば それはきわめてあいまいな無神論である。こうなります。
 広くうっすらと ですからいくらか乱暴になりますが 大雑把に捉えれば広い意味の《アイドル》が相手であって それに同化するといった或る種の信仰である。こう思われます。

 これらは むろん推測です。ただしそれ以外には いまのところ考えられません。

 昔は 宇宙がコスモス しかもマクロコスモスで われはミクロコスモスであると捉えて その融合であるとか合一であるとかと言った主張も聞かれました。
 これは そもそもおそらく例の梵我一如の思想によるものと考えられます。つまりは ブラフマン(梵)という名のカミであり 神です。有る神です。

 たぶんそれだと思いますが 相手を特定しないとすれば それは あいまいな無神論に入るのかも知れません。つまり上のブラフマンを透明にしたかたちなのでしょうか?

 ★ 究極同化法を知れば宗教などしなくても心は安定します。
 ☆ よって やはり同じく《非思考の庭》があなたの心の中に成っている。そういう信仰であろうと推し測ります。《心の安定が得られている》ことは よろこばしいこととお伝えします。

 なお《宗教》は この個人の信仰から得られた神学ないしその経験思想としての哲学の内容を いわゆる教義として 複数の人間が集まり 組織をつくり その組織としての決まりをも持ち しかも一人ひとりの《信仰》の度合いによって何事も取り決めて行くといういとなみです。これは 信仰とは似ても似つかない生き方です。信仰の自殺行為です。
 組織の運営――特にそこにおける役職としての権限関係――ひとつを取っても すでに人間の思考によっており それは 個人の信仰が非思考として成り立つことと真っ向から対立します。組織に従えば おのれの心における非思考の庭の自殺行為になります。
 〔それが たとえば勉強会としてなどの集まりであったら かまわないでしょう。権限関係が 自己の非思考の庭の自由を侵すこともないなら。あるいは事業を 福祉だとかもしくは逆に営利事業だとか別の仕事に設定すれば かまわないでしょう。信仰の度合いによって人びとが仕分けされ支配されることもないでしょうから〕。
 宗教はせいぜいが 権限を行使するというところにおいて自己の支配欲を満たすかそれとも たださみしいから群れるか そういう中身であり特徴を持つと考えます。あぁ あとは金儲けというねらいもありましたね。
 ですから ここでは宗教はいっさい取り上げていません。

 さて どうでしょうか?


 * 自分の趣味として 宗教関係の修行をおこなうという場合がありましょうか? 個人の自由が守られればかまわないでしょうか?

お礼日時:2011/03/19 10:03

よく分かりません。

以下は 私は こう思う というところです。
脳の思考機能が働いているときは 意味不明の言語出力であろうが運動出力であろうが 出力がどうであれ思考している ということと思います。非思考とは思考機能が機能してない場合であって おそらく条件反射とか 前代未聞のような場面にあった場合でしょう。しかし、 経験者はその記憶は思考回路を通ってないわけでまともには記憶されてなく、その記憶からは正確には何が起きたのか語ることは出来ないとおもうのです。記憶の瞬間ではなくその前後の思考回路が機能して記憶がされたところは語れると思います。例えば プロ野球の選手が バッターとして ボールが止まって見えたというようなものでではないか と思うのです。奥義を会得したというものです。あるいは座禅中に非思考に入るかもしれません。信仰は非思考と深く結びついている とbrageloneさんは 述べられています。信仰は非思考経験が必要条件というわけです。残念ながら私は経験ありません。
   それとは別に 思考回路機能は働いているのですが 堂々巡りを繰り返している場合があります。典型的な例題は定義です。例えば 『クレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』は正しい  か、という命題です。次の展開を考えれば『『クレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』といったクレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』は正しい かという命題です。 さらに続けると『『『クレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』といったクレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』といったクレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』は正しい かとう命題であり 延々と堂々めぐりを繰り返すのです。結局、『『クレタ人はウソをつくとクレタ人は言った』は正しい』 は定義なのです。このような堂々めぐりの思考は思考回路は機能しているのでしょうが 出力は見るべきものとはならないでしょう。思考機能不全というべきものです。ここで『神は存在すると神が証明した』は正しい かという命題を考えます。これも また『『神は存在すると神が証明した』ところの神は存在すると神が証明した』は正しいか という命題になり 延々と続く命題になります。問題はこの神の定義をなんの疑いもなく信じた場合です。これもまた信仰ではないかとおもうのです。
  定義問題でいえば 『神は存在しないをA氏が証明した』は正しい かも定義であり これを信じている場合も 思考機能不全であり 神の存在を信じる 場合と似ている と思います。
  思考機能が 堂々めぐりしていない状態とは 次々と新しい定義を考え出している場合とか  定義は相対的と認識して 定義に従った論理展開をする あるいは非論理展開 している場合と思うのです。ここで科学について一言。科学は論理展開の一つですが ある定義を絶対化して それを信じている場合は思考機能不全になっていると思います。定義は相対的と考えている場合は 対話が成り立ち 相互理解は進むとおもうのです が 絶対として考えている場合は 対話は成り立たないと思います。
私は 思考機能の一部が思考機能不全になる  家族に関わる小さい神がいてもいい と思っています。メリットは死者が指導してくれることです。
  以上 失礼しました。 

この回答への補足

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。――まだまだ舌足らずだったかも分かりません。
 で まづは 次の箇所が焦点になっているように受け取りました。
 ☆☆(趣旨説明) ~~~~~
 11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。≫あたかも賭けのごとくに≪ どちらか一つに人は ≫判断し決める≪ ことになっている。これが 信仰である。
 12. したがって 信仰は ≫非思考の庭がわが心に成る≪ ことを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 ★ 非思考とは思考機能が機能してない場合であって おそらく条件反射とか 前代未聞のような場面にあった場合でしょう。・・・信仰は非思考と深く結びついている とbrageloneさんは 述べられています。信仰は非思考経験が必要条件というわけです。残念ながら私は経験ありません。
 ☆ すなわち 舌足らずだと思ったところは 非思考ないし非経験と言うにもかかわらず
 ○ ≫あたかも賭けのごとくに≪ ・・・ ≫判断し決める≪ 
 ☆ というところです。思考としてかあるいは賭けのごとくにしてか いづれにしても《判断し決める》という経験行為をも伴なっているというところです。

 すなわち 文学的な表現に傾きますが 或る日或る時 ナゾの何ものか(カミと呼ぶことにしますが)が わが心の庭に来て窓をノックする。ここまでは 非経験で非思考の領域です。
 そのときこのノックを たとえマボロシとしてであれ錯覚としてであれ わたしは受け止め受け容れる。あたかも領収証を切ってのように しかと受け取る。
 つまりこの《受け取る》のは 経験行為です。とうぜん 意識があります。あるいはまた ノックがあったという認識のときにも すでに意識はあります。向こうから(カミのほうから)そのおとづれは やって来たという条件があればよいという意味です。

 ですから 厳密にいえば 次の表現では間違いとなります。
 ★ 非思考とは思考機能が機能してない場合であって 
 ☆ 思考の時と非思考のときとが並んでいるというふうには捉えません。非思考は・つまりカミのおとづれは 思考や意識を超えてやってくるそのヒラメキの瞬間を言います。
 極端に言えば 何か別のことを・あるいはお望みならばカミのことを思考している時に それとの何の関連もなくヒラメキがあったというような場合もあり得ます。こういう言い方は不謹慎かも知れませんが 言わば次元が違うのではないかと考えます。結果は 同じ経験世界での出来事になります。《神 もしくは 無い神》という言葉をも持つに到るのですから。

 たとえの問題として さらに触れるならば:
 ★ 例えば プロ野球の選手が バッターとして ボールが止まって見えたというようなものでではないか と思うのです。奥義を会得したというものです。あるいは座禅中に非思考に入るかもしれません。
 ☆ こういう特別の瞬間をことさら言うのではないと考えます。打者が三振した場合にも あるいは禅の修行者が食事中であったり趣味のあそびをしていたりする場合にも《〔もしカミのほうからと表現しないとすれば〕世界のほうからわたしの元にあるいて来る》と直感ないし直観する場合がある。それを言います。

 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~~~

  自然といふは
  《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
  《然》といふは しからしむといふことばなり。
  しからしむといふは行者のはからひにあらず 
  如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
 
    * 爾(に・じ):しかり。そうである。

 ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~

  自己を運びて万法を修証するを迷とす。
  万法進みて自己を修証するは悟りなり。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 残念ながら私は経験ありません。
 ☆ とおっしゃいますが ヒラメキは いわゆるインスピレーションのことですよ。ok9608 さんのように科学者の場合には むしろ余計にこの経験はおありではないですか? ただし確かに理論としてのヒラメキと 非思考の場合とは違うかも知れませんが でも向こうからやって来るということでは 同じではありませんか?

補足日時:2011/03/18 21:25
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この回答へのお礼

 次の問題は 案外かんたんです。
 ★ 思考機能不全というべきものです。ここで『神は存在すると神が証明した』は正しい かという命題を考えます。
 ☆ カミは人が想定するという定義の仕方をしますが もっと早い話があります。
 ともかくどの言語においても 《かみ》という言葉を持ったということ。それを今でもふつうに使っているという言語習慣があること。ここに注目することができます。

 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~
 ただし人類は どういうわけか この《かみ》という言葉をどの言語においても持ち合わせています。カミを信じるとか・そんなものあるもんか まやかしだとか言っています。ふつうにおこなわれている言語習慣のなかに カミは登場します。
 つまり《カミについて語れている》というのは 《かみ》という言葉 その言葉としてのしるしにおいてのみだということです。そのカミの中身は何にも知らないのです。だから《考える》ではなく《信じる》と言うのですが つまり非思考なのですが この非思考――思考に非ず――と言う割りには 人びとは大いに《思考》するようなかたちで語っています。
 つまりは 仮りに語るとすればということなのです。すべては 言葉というシルシ(記号)で仮りに語る。つまりは すべては代理表現ということになります。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ このカミ(神あるいは無い神)をふつうに用いている言語習慣とは いったいどういうことか? から話をすすめるという手があります。
 そのカミとは何であるか? 果たして存在するかしないか? と問うて考えてみれば いちばん妥当な答えは 非経験もしくは非思考だということに落ち着くのではないでしょうか?
 そして もしその非思考においてカミを捉えたとするならば さらには同じく《信じる》という言葉をやはり人類はそれぞれの言語で持っている。ならば この信じるという人間のおこないは 《わが心に非思考の庭が成る》ことだと帰結されるのではないでしょうか? つまり カミ(神ないし無い神)とわたしとの関係を言うのだと。たとえマボロシであっても この《かみ および 信じる》という言葉とその習慣がある限り 何らかの答えを出す必要がある。と思います。
 
 想定というのは 《かみ》について《ナゾ》もしくは《分かるか分からないかが分からない何ものか》と想定するものです。これと 人は誰でも一度はまともに向き合わなければならないと思います。そのときの答えは やはり非思考の庭が成ることだとなると思います。有神論と無神論とを包含することができる。ここが みそです。
 存在証明は 出来ない。もしくは出来るか出来ないかが分からない。これが 答えです。そういう非思考の庭が 確かに自分で確認しない前から人間にはある。こう思われます。
 存在証明がもし出来たとしたら それは 非思考の庭ではないのですから はっきりしています。
 存在証明ができると思って たとえば 試みると それは堂々巡りになるということのようですが それは 当然のことと思われます。結着がつかないというのが 正解だという意味です。結着がついたら それは いま扱っている《かみ》のことではない。こうはっきり言えるからです。

 ★ 思考機能不全
 ☆ かどうかの問題ではまったくありません。思考に非ず。あるいは 経験思考やその世界をすべて超えていると想定し定義しているのですから。そして その領域は 有るとも無いとも人間の能力では言えないはずです。
 したがって 次のふたつの場合に分かれる。有ると言って 有る神として相い対するか 無いと言って無い神と規定しあとは放っておくか どちらか一つになるはずなのです。
 どちらも 非思考の庭が 成っているという類型としては同じである。
 この認識は 世界の交通(人びとのまじわり)にとって 大きな基礎としての力になると思われます。お得なようです。という問い求めになっています。

お礼日時:2011/03/18 21:53

うまく云えませんが煎じつめれば一種の開放だとおもいます。


自己嫌悪、コンプレックス、取り返しのつかない後悔
そんな苦しみをいっぱい抱えて絶望の淵にいる時、
神の前に懺悔出来る事、さあ立って行きなさいそして二度ともう過ちを犯さないように
これが解放です。イエスが命をかけてこの道へと導かれた。
神は在ってあり続ける神です。自分の力ではなく神の恩恵によって常に生かされている
と思わないと人間は限りなく傲慢になります。
聖書テトスへのてがみ2の3の手紙参照
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この回答へのお礼

 スィ―エクスィーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ここですか?
 ◆(テトスへの手紙2:1-5) ~~~~~~
 1: しかし、あなた(=テトス:著者であるパウロのお伴)は、健全な教えに適うことを語りなさい。
 2: 年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。

 3: 同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。

 4: そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、
 5: 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ うまく云えませんが煎じつめれば一種の開放だとおもいます。
 ☆ イエスが導いたとすれば 《開放》は《解放》でもよいのでしょうね。《我れに還る》のは 心の明けであり伸びであり 翼が生えたように解き放たれ しかも心の中も広がりますね。女・男にかかわらず それで《聖なる務めを果たす》ことができるようになるのでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~
 自己嫌悪、コンプレックス、取り返しのつかない後悔
 そんな苦しみをいっぱい抱えて絶望の淵にいる時、
 神の前に懺悔出来る事、さあ立って行きなさいそして二度ともう過ちを犯さないように
 これが解放です。イエスが命をかけてこの道へと導かれた。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ ええ ここに《解放》が出て来ていました。
 死の淵に引き渡され死を死ぬことにも――キリストとしては――子羊のようにおとなしく従順であった。その我れにまなべと言われているとしたら たしかに刀折れ矢尽き膝を折って手をついたわたしに手を差し伸べて さあ立ってここからあゆみなさいと言われれば 分かりましたとなります。たぶん。くるしみなど つらいものかと成ります。よぉっしゃと成ります。

 ★ ~~~~~~~~
 神は在ってあり続ける神です。自分の力ではなく神の恩恵によって常に生かされている
 と思わないと人間は限りなく傲慢になります。
 ~~~~~~~~~~


 復唱のみとなりましたが ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/17 13:52

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