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 1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。

 2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。

 ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。

 A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。

 3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。
 4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。
 5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。
 6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。

 7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。
 8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。

 9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。
 10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。

 11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。
 12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。
 13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。

 B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?

 14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。
 15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。
 16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。
 17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。
 18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。

 19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。
 20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。
 21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?

 22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。
 23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。

 さていかがでしょう

A 回答 (16件中11~16件)

実際に仏に会って聞いた、という高僧がたくさん居るのだからヒラメキではない。


それは夢ではなかったのか、と問いただしたいが既に死んでいて聞けない。
現代も千日回峰を達成した僧がたくさん居るが、未だ仏に会えたとは聞かない。
それは修業がまだまだ足りないだけ。
私より心身達者な代表者に一万日回峰でもしてもらって、ぜひ仏の教えをききたいものです。
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この回答へのお礼

 なるほど。これは――おっと おた58さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。―― 直前のご回答でのやり取りに出て来た《無限》の話にかかわっているように思えます。

 人間の無限は 可能無限という呼ばれるそれであり カミの無限はそれに対しては真無限と呼んで区別するという話です。
 是非そのうろんりさんとのやり取りを読んでいただきたいのですが――あっ それに千日回峰行と言えば このあいだそれの質問が出ていました。わたしも投稿を寄せましたので よかったらその回答をも読んでください。
 【Q:千日回峰行、身体が丈夫なら偉いのか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6551355.html
 その回答No.28&32&35です。―― それは
 ★ それは修業がまだまだ足りないだけ。
 ☆ という判断をしめしておられるところに注目したのです。

 どういうことかと言えば 《まだまだ》ということは その上があるという意味です 一般に。いまある限界を確かに超えることがあるという意味になります。
 ただですね。人間にとっての《まだまだ》や《限界とその乗り越え》という主題は つねに限界があると言わねばならないと思うからです。
 いや その限界をさらに超えるのだと反論されるとは思うのですが それは行けども行けども さらにあらたな限界があるということではないでしょうか? もうこれでおしまいというところにはたどり着けないでしょう?
 仮りにその世界の果て・宇宙の果てに人間が――肉体には限界がたしかにあるとして そうではなく思考としてだけでも――辿り着けたとしましょう。だとしたら その果ての向こうはどうなってるの? という問いがつねに出されるでしょうし。そうでなくとも けっきょくこの《おしまい・果て》をも超えているのが カミであるからです。もともととっくにカミは 超えているということだからです。
 回峰を千日 一万日 一億日・・・と限りなく続けたとしてもそれをも つねに・どこであっても 超えているのが カミだからです。


 ★ ぜひ仏の教えをききたいものです。
 ☆ とわたしたちは ニ千数百年 言い続けて来たのではないですか? 《教え》は けっきょく《思考》の問題です。ですから 仮りに聞いても それだけでは ちょっと頭がよくなるだけです。おそらく たぶん わたしたちは その《思考》や人間の能力を超えたところへと 心をめぐらせることがよいのではないでしょうか?
 そんなことは出来ないのですが しかもどういうわけか人類は それぞれの言語において《かみ》という言葉を持ち合わせて来ています。そして《考える》ではなく そうではなく・それだけではなく 《信じる》というコトをもおこなって来ています。
 たぶん おそらく このカミと向き合った心の庭を持てば 千日回峰行の成果をも超えて世界が見えて来るのではないでしょうか? カミがその人間の無限や《まだまだ》を超えているからです。そのカミにあやかれば わたしたち自身においてもそれぞれ見通しが違ってくるでしょう。
 もしそうだとしたら お得ですよね。

お礼日時:2011/03/17 11:19

【人類には限界がある】と思うのが【君の限界】だ



それを嫌って【神は限界が無い】なんて定義すれば
すなわち【それを語る当人が真っ先に不要】であり
違うならおよそ【ならもっと強いヤツ仰ぐ】で詰む

なんかもう現段階で【得かどうかの問が不要】だぞ

【ゴッドさん】の絵みつけたケド貼るの面倒だから
【最強のポケモン考えた】検索してアドレス貼るよ

意見の構造としては大差ないから参考になると思う

参考URL:http://barukanlog.blog31.fc2.com/blog-entry-1061 …
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この回答へのお礼

 うろんりさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 まづ前回の次のご文章について わたしからの応答をおぎないます。
 ★★(回答No.3) ~~~
 神について語れるんだから
 神は人の思考を超えないし
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 《カミ(神ないし無い神)について語れる》というコトに関して その意味内容を確認します。
 カミは わが心における非思考の庭でわづかに――想定じょう――受け止め受け容れているのみなのですから その正体はじつはわれわれ人間には分かりません。ですから ナゾです。どこまでも言っても いついかなるときにも ナゾです。
 ただし人類は どういうわけか この《かみ》という言葉をどの言語においても持ち合わせています。カミを信じるとかそんなものあるもんか まやかしだとか言っています。ふつうにおこなわれている言語習慣のなかに カミは登場します。
 つまり《カミについて語れている》というのは 《かみ》という言葉 その言葉としてのしるしにおいてのみだということです。そのカミの中身は何にも知らないのです。だから《考える》ではなく《信じる》と言うのですが つまり非思考なのですが この非思考――思考に非ず――と言う割りには 人びとは大いに《思考》するようなかたちで語っています。
 つまりは 仮りに語るとすればということなのです。すべては 言葉というシルシ(記号)で仮りに語る。つまりは すべては代理表現ということになります。

 したがって カミは思考によって分かるような有るでもなければ無いでもない。分からない。けれども先ほどの言語習慣としては 有るか無いかどちらかに決めて 信じるというおこないを人びとはしています。つまりは そのナゾをカミと名づけたはよいが それが存在するともしないとも分からない。だから 仮りにおれは存在すると決めた(言わばそれに賭けたというようなかたちでもあります) いえいえわたしは存在しないと受けとめた。というふうにどちらかに分かれます。どちらも互いに信じるということではひとしい。
 というのが 人における心の明けもしくは伸びであり これを称して非思考の庭と呼びます。


 ポケモンは それを考えた人がここの会員でした。いまは退会していますが 何度もわたしはやり取りしています。いまは ときわたりのセレビィだと言っています。
 それとして分かりますが――分かるところもあるのですが―― もし哲学として《かみ》ないしその信仰をできるだけ理論として明らかにしたいとすれば ひととおり整理しなおす必要があるとも〔いつも上から目線ですまんことですが〕思います。

 ★ 【神は限界が無い】
 ☆ ではなく――げんみつに言えば そうではなく―― カミには限界があるかどうかも人間には分からないと定義します。
 ぢゃあ人間にも限界など無いのだと言い返すかも知れません。でもそれは こういうことです。いま何らかの限界を知ったから・つまり限界があるから 無いのだと言ってさらに探究して行くわけです。そしてその限界を突き抜けたなら おそらくさらに新たな限界が見えて来るでしょう。ひとりの人間には寿命という限界があるから しかもその劣勢をも世代交替をつうじて克服して永遠に探究を受け継ぎつづけあらたな限界をそのつど突き破って行くとしましょう。そうすると どうでしょう?
 こういうことが考えられます。

   1,2,3、・・・∞

 このようにたとえば進むと言えます。けれども人間にとってのこの無限大は まだまだ限界のある数なのです。なぜなら

   1,2,3、・・・∞、∞+1

 というふうに そこになお 1 を足すことができるからです。
 もしカミを《無限》という言葉で仮りに表わすとしたら このカミの無限は 人間の思考において分かるかたちの無限大をも超えているという意味になります 定義じょう。∞+∞+・・・+∞ といった数をもむろんカミは超えています。(可能無限とそしてそれに対する実無限という用語があるようです)。
 ★ 【ならもっと強いヤツ仰ぐ】で詰む
 ☆ ことはないのです。人間とその思考に拠る限りで。どこまで行っても。いついかなるときにおいても。

 ですから ほんとうの無限であるカミというのは 心にいだくと案外 お得なのです。そしてよくも悪くも ただ(無料)です。《最強》でしょう? おそらくポケモンをも ときわたりをも カミは飲み込むことでしょう。でもカミはそうは言わない。そこがいいところ。どこまでもへりくだって あなたの生活のためにちからを与えてくれたりします。つまりかんたんに言ってしまえば 最強のポケモンのうしろに カミがいるってことだと理解しています。
 お買い時ですよ。

お礼日時:2011/03/17 10:55

愚考かもしれませんが・・・


ヒラメキには、閉じたヒラメキと閉じていないヒラメキがあるのかもしれません。
普段の感覚と思考による生存意識は、閉じていないヒラメキの連続態と思われているようでも、実は閉じている状態かもしれないのです。
そう知らされてしまうのが、閉じていないヒラメキの働きです。
この場合における思考や認識の働きは、その後に来る要素としてしか機能せず、先に立つ働きとしては機能する事は無いように思われます。
いわゆる直感の働きの優先というものかもしれません。
また、その瞬間における生存意識そのものについては、自己意識を無視されたもののようにも感じられるようです。
自己が無い、という点においては、その直感を閉じていないヒラメキと表しても良いように思われます。
そして、この状態は個人的な精神が能動的に求めて得るものではなく、受動的に訪れてしまうもののようでもあります。
自己意識を無視されたもののようでありながら、許容できる範囲で訪れるという見方ができなくもないようですが
やはり許容の範囲というものは、自己意識の防衛のようでもあり、自ら巡らす思考の範囲だとも思えなくもないのです。
閉じていないヒラメキとは、自己を通した自己以上のものの顕れのような感じがいたします。
それを推し量り、規定する事は困難であり、また同時に否定する事も困難であるように思われます。
直感というものが、瞬時に自己意識を崩壊する体験を得る時、自己とはただの一物であるがの如く感じられる・・・のかもしれません。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。じつはヒラメキにかんしては すでに【Q:われらが審美眼は 劣化したか】のやり取りの中でおおよそ位置づけし得たと考えています。まづそれをご披露します。

 ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):カミ
  _______________________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ ヒラメキには、閉じたヒラメキと閉じていないヒラメキがあるのかもしれません。
 ☆ 上の定義によれば ふたつのヒラメキに《閉じた・閉じていない・開いた・開いていない》の区別はないと基本的に考えられます。《あいまい》でも閉じてはいないからです。でも 別の定義がありましょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 普段の感覚と思考による生存意識は、閉じていないヒラメキの連続態と思われているようでも、実は閉じている状態かもしれないのです。
 そう知らされてしまうのが、閉じていないヒラメキの働きです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ むつかしい。もしくは ややこしいですね。でも どっちみち《閉じていないヒラメキ》が現われるのでしょう? 問題は
 ★ 普段の感覚と思考による生存意識
 ☆ とそのあとに出て来るところの
 ★ 自己意識
 ☆ との関係具合いが問題なのでしょうか?

 その前にまづ
 ★ この場合における思考や認識の働きは、その後に来る要素としてしか機能せず、先に立つ働きとしては機能する事は無いように思われます。 / いわゆる直感の働きの優先というものかもしれません。
 ☆ これは 見解が一致しています。上の図式を見てください。ふたつのヒラメキは コギト=思考に先行しています。そういう意味です クレド(信仰)に近いところに置いたのは。
 ちなみに クレドは 非思考の庭ですから この非思考の領域とそしてヒラメキやコギトの経験思考の世界とは区別されます。 

 ★ ~~~~~~~~~~
 また、その瞬間における生存意識そのものについては、自己意識を無視されたもののようにも感じられるようです。
 自己が無い、という点においては、その直感を閉じていないヒラメキと表しても良いように思われます。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ これはおそらく《その中身がいまだ混沌としている直感ヒラメキ》は 《自己意識》さえないか乏しいものと思われます。ただし《無視された》というよりは その一瞬のヒラメキにおいて むしろそのあとただちに《我れに還る》ということではないでしょうか? そういうハタラキを持つと思うのですが? (つねにというわけには行かないかも知れません)。
 そうしますと
 ★ 生存意識
 ☆ とは何か? ですが おそらくわたしの定義によれば このヒラメキの瞬間にはこの生存意識もないと言ったほうがよいかも知れません。ただし瞬きのあいだのことだとは思います。それともこの《生存意識》には 特別の謂われがありましょうか?

 ★ 自己が無い、という点においては、その直感を閉じていないヒラメキと表しても良いように思われます。 / そして、この状態は個人的な精神が能動的に求めて得るものではなく、受動的に訪れてしまうもののようでもあります。
 ☆ そのとおりでしょうね。一瞬我れを忘れていると言ってよいと思います。そうして けっきょくカミのほうから わが心の窓をノックするというふうに表わしてもよいのでは?

 ★ 自己意識を無視されたもののようでありながら、許容できる範囲で訪れるという見方ができなくもないようですが / やはり許容の範囲というものは、自己意識の防衛のようでもあり、自ら巡らす思考の範囲だとも思えなくもないのです。
 ☆ これはそのあとで《我れに還る》のですから その自己到来を得たあとから見ればみな自己意識の伸びて行き得る範囲に我れはあったとは言えると思いますよ。またそれだけのことだと見ます。《防衛》という意識はほとんどないとも思いますが。
 ★ 自ら巡らす思考の範囲
 ☆ ではなくて ないけれどもその範囲内だと見なすのは あとで我れに還ったその自己意識なり思考によるものとしてなりだと思われます。

補足日時:2011/03/16 22:52
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この回答へのお礼

 あるいは言いかえると 直観ヒラメキのほうですね。このヒラメキは そのままモノゴトの本質を見抜くまでの中身を持つものと捉えます。そういうインスピレーションはあり得ると考えます。
 ですから 《自ら巡らす思考の範囲》だと見るのは さらにそのあとコギトなる思考において 論理的な整理をしたときだと見ればよいのでは? いわばヒラメキの成果としてです。

 ★ 閉じていないヒラメキとは、自己を通した自己以上のものの顕れのような感じがいたします。
 ☆ ですから ひとつにはその瞬間を持てたことによって我れに還る。自己還帰という事件が起こったのだと見ます。
 ひとつには 同じくそのあと我れは 言ってみればひと回り大きくなったと感じることがあるでしょうね。《自己を通した自己以上のものの顕れ》なのだと同じく見ます。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 それを推し量り、規定する事は困難であり、また同時に否定する事も困難であるように思われます。
 直感というものが、瞬時に自己意識を崩壊する体験を得る時、自己とはただの一物であるがの如く感じられる・・・のかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですからわたしたちは けっきょく同じ内容の体験を語っていたようです。
 わづかにこちらとしては 初めっからこの体験を《否定する事も困難だ》と思うことはまるでなく そうではなく 全面的に肯定しつついま質問において問うています。
 その意味は――表現だけの違いかどうか どうでしょう?――
 ★ 瞬時に自己意識を崩壊する
 ☆ とは見ない。確かに我れを忘れる瞬間をとおることになるけれどもそれは 特に自己意識を崩壊するとも思えません。自己意識を崩壊させてあらたな自己に到来するというよりは そうではなく もともと自然本性として《わたしがわたしである》その我れに還るのみだと見るものです。

 《わたし》: 1
 《わたしがわたしである》: 1=1
 《〈わたしがわたしである〉わたしがわたしする》: 1x1=1
 その繰り返しと積み重ね: 1x1x1x・・・x1=1 (1^n=1)

 ☆ 我れに還るのは 自己の自乗であるのだと。生きる動態において わたしはその自己の連乗積(べき)をかたちづくっていくのだと。つねにわたしにとどまってある。
 《自己以上の自己》というのは けっきょくわたしは変わらないが(もしくは 確かにあたらしい我れを着ることになるが) 変わったのは世界の見え方と見方だということではないでしょうか?
 このわたしが
 ★ 自己とはただの一物であるがの如く感じられる・・・のかもしれません。
 ☆ というへりくだりの姿勢に立つというのは それは ナゾのカミに向き合うときでしょう。
 つねにそうだと言えると思いますが ただし普段は 人間を相手にして話し合いを持ちますから 《わたしがわたしである》このわたしがわたししていてよいのだと思います。その誇りを互いに持ちつつ 対話をつづけていくのがこの世界であると考えます。いかがでしょう?
 自分としての飾りをみな取り除いてしまって《一》になっていれば その《一》以下に なおも卑下するかのように 自分を見せる必要はないように思います。

お礼日時:2011/03/16 23:21

【無信仰】と【無神論】は別



有無に関わらず頼らないと
答えただけ→学校の授業は
強調する程には役立たない
てえのと同じ理屈だってば

まったく役に立たないより
役に立つとか限定効果なら
神に限ったことじゃないし

神について語れるんだから
神は人の思考を超えないし

なれないならば作ればいい

単なる自己の限界を人類に
代入しちゃダメじゃないかッ
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 単なる自己の限界を人類に / 代入しちゃダメじゃないかッ
 ☆ もしそうなら 確かにそうです。
 ですから わたくし個人の《自己の限界》を人類に当てはめるというのは 人間はその能力に限界があると言っているだけなんですが?

 ★ ~~~~~~
 神について語れるんだから
 神は人の思考を超えないし

 なれないならば作ればいい
 ~~~~~~~~
 ☆ というわけには行かないです。なぜなら《人の思考を超えた神を作った》らどうなるかと言えば その神は人間の能力の範囲内におさまるからです。つまり《人の思考を超えた》と分かっているその中身は 《人の思考》であるからです。どこまで行っても この思考の範囲内かそれとも範囲外かに分かれます。
 言いかえると 信仰としての《非思考の庭》は どこまで行っても・いついかなるときにも 人間の思考を超えているという・そういう《場》の想定になります。そこに・そしてそこにのみ カミ(神もしくは無い神)がかかわるかたちになります。

 このカミに《有る神》も《無い神》もどちらも思い抱かないとすれば それはけっきょくのところ《〈有る神〉を思い抱かない》ということで《〈無い神〉を抱く》つまりは《無神論》となります。
 一般に無信仰もしくは無宗教と言っている場合は 無神論に入るでしょう。

 まぁ 大雑把に言えば 有神論と無神論のどちらからも良い所取りをするという場合もあるかも知れませんが それはあまり意味を成しません。どちらかが 思考の範囲内に降りて来ているからです。
 たいていは 有神論としての神が 具体的なアイドルであったりあるいはお金であったりするということではないかと思われ それはどちらも思考の範囲内ですから ほんとうにはカミではないわけです。カミでないものをナゾの神として錯覚しているものと思われます。
 ときには 無私の精神だとか 慈悲なり愛なりという理念だとか そういう観念が ナゾの神としてあがめられることもあるかに見えます。でもそういう場合は いざとなったら ほとんどその観念の神は どこかへ退いて行ってしまうでしょう。
 そうでないとすれば それはまったく頭の中だけで行動するというかたちになるだけでしょう。こちこちの頭で固まってしまう場合でしょう。(これは 昔は議論の場などでときどき見受けられました。いまは 少ないでしょう)。
 
 ですから このお金あるいはアイドルを《神につくる》としたら どうなるか?
 それは思考の範囲内のものごとですから ナゾのカミには成り得ないということになります。いつまでも・どこまでも あいまいなままでいたいという一種の甘えだと考えられます。

 ★ 有無に関わらず頼らないと / 答えただけ
 ☆ ですから これは 無神論になります。無い神を思い抱いている信仰であるはずです。
 有神論と互いに同等の立ち場ですから それですっきりすると思いますよ。どうですか?

お礼日時:2011/03/16 21:05

科学信仰とかも範囲なら~きっと


【楽したい】が過半理由て気がする

そうでないなら私輩は無信仰ゆえ
【損をしにくいだけで得はしない】
としかいえない~ただの他力本願

【俺の真似でなく独力で神になれ】

と~むしろ神ならそう主張すべき
「信仰は どんな得があるか?」の回答画像2
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この回答へのお礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。――いくつかの考え方が混ざっているように〔上から目線ですが〕思います。

 ★ 科学信仰とかも範囲なら
 ☆ 《科学》は われわれ人間の《思考》にもとづきます。思考の対象であり モノゴトの事実についてということですが その思考というコトじたいです。(事実を写す思考なのでしょうが)。そうしますと 《人間の能力を超えたところのナゾ》は 思考ないし科学の範囲をも超えているということになります。
 科学信仰というのは (13)の曖昧な信仰という形式に属するとなります。

 いやいや 
 ★ つねに自分の限界との勝負ではないのかっ / 自分のワクをこえようと〔する〕
 ☆ の場合には そのナゾにもいどむのだと言う反論が返ってくるかも知れません。
 ですが これは受け容れられません。なぜなら そのような《限界としてのナゾ》は 思考の問題であるからです。つまり思考という能力を超えていないということになります。言いかえるとそれは《未知》というナゾであり 非思考の庭においてわれわれがかかわるカミとしてのナゾとは まったく別だと言わなければならないからです。
 《いまだ知られていないこと。したがっていづれ知られ得るであろうと考えられること》と《人が知り得ないこと。もしくは知り得るか知り得ないかが知り得ないこと》とは 別だと考えられるからです。
 人間の能力には限りがあるので たとえどれだけ知り得ても さらになおまだ知られていないことが出て来ます。その未知のナゾについて いま現在においていづれ知り得るであろうと考えられることは カミと呼び得るナゾではないということになります。思考を超えていない〔と考えた〕からです。

 ★ 無信仰
 ☆ これも(13)のあいまい信仰という部類に入るでしょう。なぜなら 上に見て来たように カミとしてのナゾは 誰にでもあると言わねばならず 誰もがぶつかり向き合うことになるからです。
 そのカミが有るとも無いとも決めずに あいまいにしておくという形態です。
 あるいは おれは有るとも無いともいっさい決めないという信仰の形式で行くのだ。と言って言えないことはないでしょうが もしそれだとしたら けっきょくは《無い神》をいだいたということになるでしょう。有ると言っていないのですから。無信仰ないし無宗教というのは たいていは――何らかのものごとを・あるいは誰かほかの一人のひとをアイドルとして思い抱くというのでなければ―― 無神論というかたちになるでしょう。
 そう自覚したほうがよいと――趣旨説明の理論からしたら――なりますが どうでしょう? なぜなら そうしたほうが 自分の考えや理論について さらに詳しく相手に説明してみようという気が起こるからです。相手にとっても のぞましいことです。

 ★ ただの他力本願
 ☆ これは《他力》という有神論です。神は《他力》として有ると言っています。でしょう?
 ですから 《あいまい》というのは 両義性・多義性のことです。それぞれ部分的に無神論でもあり有神論でもあるというかたちを意味するかも知れません。《男のたたかい》は あまりそういうかたちではないと思われます。そこには《成長》も あったとしても同じくあいまいになるでしょう。

 ★ ~~~~~~
 【俺の真似でなく独力で神になれ】

 と~むしろ神ならそう主張すべき 
 ~~~~~~~~
 ☆ これは ややもすると 重大なあやまちになり得ます。人間は神にしろ無い神にしろ カミではあり得ないからです。
 そうではなくカミに対しておれは畏れをいだいている。ただ主観としてそのカミの代弁をしているだけなのだと言うとしたら? それは文学表現ということになります。
 哲学がこれを捉えるとしたら そうですね ふたつの見方を考えてみます。
 カミは 人間の誰にとってもナゾであり 誰もが向き合っているナゾであるとすれば 普遍性があります。この普遍性に拠るとしたら 《真似》と言いますか 互いに《共通の感覚や見解》はあると見る必要があるでしょうね。
 もうひとつに それでもわれわれ人間は 《ひとり》としてその自由意志も固有のものです。だとすれば《真似》ではいけないということでしょうね。
 ★☆(編集) 〔その能力に限りのある人間が〕カミになる
 ☆ というのは 初めの定義からして無理ですが これも文学表現としては そのくらいのはっきりとした《わが心の非思考の庭》を持とうと言っているのではないでしょうか?

 このように受け取りました。ありがとうございました。
 ご批判もどうぞ。

 

お礼日時:2011/03/16 17:54

難しいことは分かりませんが、考えても原理的に答えが出ないような疑問を持たないで済ませられることができることではないでしょうか。

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この回答へのお礼

 難しいことが分かってからにしてください。

お礼日時:2011/03/16 13:54

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