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1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・
人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。

2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。
と言われる得がある。

3. ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたた
き台の考え方を述べます。


 A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。

4. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》
と呼ぶようである。

5. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて
《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。

6. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミタ
ーユス(阿弥陀仏)やらマハーワイローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世
界を超えたところのナゾであることに変わりない。

7. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。

8. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いとも
われわれは知り得ない。ゆえにである。

9. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓のと
ころで触れられているかにも思われる。

10. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは
《無い神》と捉えて(想定して)開いている。

11. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの《心の明けもしくは伸び》と
して考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》と
いうことが肝心であろうと思われる。

12. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題
ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人
は判断し決めることになっている。実際にはこのようにして 信仰が成り立つ。

13. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する
動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか
それともその逆かの場合である。

14. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたか
もカミとしてのごとくただあこがれ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であっ
たりする。そのような曖昧な信仰(?)という形式の場合が考えられるのみである。


 B 信仰は真理を知ることができると言うのはどういうことか? そこにどんな得があるか?

15. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つま
り《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとして
のように持つ。きよらかなおそれにつつまれて来る。

16. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえ
いる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観として
のヒラメキもある。

17. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。

18. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われ
ることである。むろん主観である。

19. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて
――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味
で《現世利益》である。

20. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその
内容をどこまで普遍的な思想として明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。

21. ということは そのためには 対話ないし交通(マジハリ)が肝要である。特に主観
の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。

22. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということで
はないだろうか?

23. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが
そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存
在からであろう。おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。

24. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話
が必要不可欠となるであろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感にお
いて保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。

さていかがでしょう。

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    《生意気》に BAを。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/12/27 11:25

A 回答 (12件中1~10件)

功徳の徳でなく、そっちの「とく」か?


功徳の得くを説くーー
一部の宗教にみられると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

25. 《功徳》や因果応報説は 糞くらえという立ち場です。

26. 一部のシュウキョウに見られるではなく シュウキョウとは無縁です。

27. 読み取ってね。

お礼日時:2015/12/21 11:49

私は最終的に「死後」を整理するのが信仰(宗教)だと思っています。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

28. それは 無理です。お茶を濁すだけです。

29. 死んだあとは そうとすれば どうでもよいでしょう。

30. という見方に立ちます。

お礼日時:2015/12/21 11:51

なかなか時間が取れないことが多くて、申し訳ありません。


信仰論について、未消化の部分を申し上げたいと思います。

1.私は、「仏」=「生命」というものを信じています。何故
信じるに至ったかにつては、長くなりますのでここでは割愛
させていただきますが、「分かっているのか?」と問われれ
ば、「あやしい」と正直に言います。しかし、分かりたいで
すし、いつの日か分かるであろうと思い、求めてゆくことが
「信仰」であると考えます。
また、哲学としても、あくまで解明に挑んでゆくのが哲学者
の姿勢であると思います、たとえ無限に続こうともです。

2.従って、「不可知論」を知った時に私はとても大きな違和
感を感じました。
トマス・ヘンリー・ハウスリーという人が言い出したという
ことのようで、どういうつもりで提唱したのかは私は知りま
せんが、要するに「今まで考えて分かりそうもないから、永
久に分からないことにしようじゃないか」ということになり
ませんか?
それでは、将来人類が哲学的発見をなすことを想定していな
いことにもなり、また、それが定説となれば、発見できるも
のも発見できなくなる、ということになりかねないのではな
いでしょうか?

「非知」とする場合、理論は違うのでしょうが、「分からな
いもの」と決めてしまうということにおいては同じだと思い
ます。

3.「分からないもの」と決めてしまえば、仏の悟りは、内容
はどうあれ「無いもの」となりませんでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

31. ★ いつの日か分かるであろうと思い、求めてゆくことが「信仰」であると考え
ます。
☆ 日蓮ではなくてすまないのですが 空海に言わせれば 《即身成仏》であり 親鸞に
あっては 《即得往生》です。いづれかの時の一瞬があるのだと思います。

32. つまり信仰は 《賭け》だとも言えるという見方を紹介しておきます。

33. つけ加えるに 《自未得度 先度他》という思想さらにあるいは《無住処涅槃》
がありますし 《煩悩即菩提 生死即涅槃》などなどいくらもありますね。

34. アウグスティヌスなら 《永遠の現在》という信仰論ですね。

35、 ハクスリーの《不可知論 agnosticism 》は 生物学か何かの視点から出て来て
いるのでは?

36. 要するに 科学として 《この問題は知り得ないという証明がなされた》場合
を言っているのでは? つまり それはあくまで――非知でなく―― 経験事象につい
て言っているのだとは思うのです。

37. ★ 3.「分からないもの」と決めてしまえば、仏の悟りは、内容はどうあれ
「無いもの」となりませんでしょうか?
☆ この場合は 行き着くところは決まっていますよ。《さとり》とはこれこれである
と説明すればよいわけです。

38. 《非知》は 分かる場合を包み込んでいます。ただしそれは あくまで一人の
ひとの主観の内面においてまでだという捉え方です。

39. したがって その成果として たとえば《黙って坐ればピタリと当たる》とい
った心の境地の実現が さとりの一環であるという見方があり得ます。

40. どこでおのれのヤマシサ反応を掻い潜って そのいまの心の状態になったんだ
というような精神の軌跡を いっぺんに当ててしまう。

41. というよりも そのさとった人が当てるのではなく その前に坐ったひとが自
分で心の歴史を振り返る心の目が与えられ その問題の過去の出来事を省みることが出
来るようになる。

42. それで 少なくも《抜苦》は出来るわけです。《与楽》はそのあとに来るかも
分かりません。

43. ただし人それぞれであって 《同じ主観(その過去からの経歴)》というのは
二人と無いということにもなりますので 《さとり》の一般的な定義は むつかしい。

44. うんぬん。うんぬんです。

お礼日時:2015/12/21 16:39

信仰は自由の方向付けをする機能を持つ、


と言ってもいいかもしれません。

その際信仰する対象の普遍性が問題になります。
信仰する対象を拠り所と言った場合
その拠り所が普遍的でなければ
他者さらには人間にとっての社会に対して
有害な方向に牙をむく確率が高くなります。

普遍的な拠り所への信仰は
個々の人生やその総体である社会に対して
より良い方向への前傾のバイアスをかける存在になるんだ
と思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

45. ★ 信仰は自由の方向付けをする機能を持つ、[・・・]その際信仰する対象
の普遍性が問題になります。
☆ むつかしいことを捉えようとしておられる。

46. 信仰の対象が普遍性を持つものであることは 絶対性を持つものであるなら
そのとおりなのだとは思います。つまり 信仰の対象は 普遍神であるしかない。

47. 《自由の方向付け》ですか。たしかに 《心の明け もしくは 伸び》とい
うのは 普遍神への志向性のもとに《自由》を大前提としている。と言えるでしょう
か。

48. 真理はきみたちを自由にするともすでに言っていますし。

49. ★ 信仰する対象を拠り所と言った場合 その拠り所が普遍的でなければ
☆ あらためて確かにそういうことでしょう。ただしこれは その《拠りどころ》
というのが じつは 《絶対》であるなら むしろ《無根拠〔という根拠〕》では
ないかとも考えます。

50. もし人間がその能力で《拠りどころの拠りどころたる所以》を知り得たと
すれば その拠り所は すでに思考や認識の対象であるしかなくなります。よって 
信仰の拠りどころとする場は 無根拠というものであると。

51. ★ ~~~~~~~~~~~
普遍的な拠り所への信仰は
個々の人生やその総体である社会に対して
より良い方向への前傾のバイアスをかける存在になるんだ
と思います。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ええ。おそらく 心の明けなる生活態度は つねに今度は別の良くない方向へ
のバイアスがかかっても〔つねに〕これを軌道修正するゆとりとチカラがある。の
ではないかとも考えました。
普遍性というものは それとしてかたちあるものにおいては捉えがたいようだとは
思われました。

お礼日時:2015/12/21 21:30

お礼ありがとうございます。



4.一点訂正させていただきます。
「いつの日か分かるであろうと、生涯求めてゆくことが
信仰の一つの姿勢である」と。
この点から言えば、B信仰論は、「考えない」「特に求めない」
ということになると思いますが、よろしいのでしょうか?

5.日蓮の結論については、どのように見ておられますか?

6.信仰の対象となるものは、多々あります。宗教、哲学のみならず
私は、科学、個人の人生哲学なども、対象内であると考えます。殉
じようとする人がいるからです。

何が信仰の対象として、自分の要求に適うかなど分からないから、
だから「賭けであるともいえる」ということでしょうか?

7.「真理」は経験事象ではありえないから、可知、不可知を超えて
非知である、ということなのでしょうが、仏といわれた人たちが、
それを経験していたとしたら、それは「非知」でなく「未知」とい
うことに哲学的にはなるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

52. ★ B信仰論は、「考えない」「特に求めない」ということになると思いますが
☆ これは いいえです。すなわち 《即得往生》です。いづれかの一時点の一瞬におい
て さとりを得たとなるのだと思っています。

53. 簡単に言えば 《すでに心がやわらがしめられ わたしがわたしであるわたしに
立ち還った》と言える状態になっているということになります。

54. 《状態》ですから むろん相対的な内容です。

55. ★ 5.日蓮の結論
☆ その信仰の対象が 普遍神のことであったろうと 希望において思っています。

56. あとは 信仰論というよりは 仏法とともに王法についても 自己表現をおこな
って行った。

57. 《即得往生》に対応するような信仰論はなかったでしょうか?

58. ★ 6.信仰の対象となるものは、多々あります。
☆ それは 思考の緑野にかかわる《信念・信条》のことだと思います。信仰は 非思考
の庭です。普遍神のみです。呼び名は いろいろですが。

59. 信仰が賭けのようだというのは 《思考に非ず》だからです。えいやっと決める
というかたちだからです。

60. 無根拠ですから 賭けに勝ったかどうかも 分からないはずです。それでも 即
得往生だと親鸞は言いました。義無きを以って義とすとも言いました。

61. ですから 理念や理論の裏づけのある信念や信条とは 信仰は別です。

62. 何の支えもないわけです。ただただ普遍神をわが心に受け容れる。これが 信仰
です。

63. ★7 仏といわれた人たちが、それ(=真理)を経験していたとしたら、
☆ この条件じたいが 矛盾しています。真理は 非経験の場のことですから。

64. ただし ダルマ・カーヤ(法身)のブッダというのは 真理そのもののことだと
思います。人間にとっては ブッダターのことであり 神としては ブラフマン神のこと
に けっきょくは成るはずです。

65. つまり 普遍神の言い換えです。

66. 経験世界と非経験の場とは そのあいだに絶対のへだたりがあります。

67. しかも 絶対たる非経験の場は 経験世界を超えているということは 経験世界
の中に入って来ているかも知れないとなります。神は 遍在すると言われます。――こん
なところですかね。

お礼日時:2015/12/21 23:16

どんな得があるかですか



数年前、初詣でお賽銭を多めにいれたら、その年に神々しい女神様と出会いました。
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この回答へのお礼

そりゃあよかったね。

お礼日時:2015/12/22 12:15

お礼ありがとうございます。



8.B信仰論において「悟り」があるということだったのですね?

9.以前、ある時に「ヒラメキ」を得た、とおっしゃっていましたが
それが、先生の「悟り」だったのですね?

10.その「悟り」とは、「普遍神」と自己の中の同様のものが「感応」
した、こういう言い方で間違いはないでしょうか?

11.「非思考の庭」ということが、いまだによく理解できませんが、ただ
ボーっとしていて成るものとは思えません。
何らかの方法があると思うのですが、それはどういうものでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

68.:(N8) えらそうに言えば 《さとり》くらいは 説明がつくでしょう。
そういう理論であると自負します。

69.:(N9) さとりを含むものだと言ってよいと自慢します。基本的には
信仰が与えられたという出来事です。もともと 非思考の庭がそなわっていますが
そこに火入れがおこなわれたということだと見ます。

70.:(N10) 普遍神とアートマン(霊我)とが もともと一如であるわけ
ですが 《感応》したのでしょうし 《温泉が出た》みたいなことです。

71.:(N11) 《方法》はありません。ハカラヒは要りませんし あっては
いけません。
▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~

  自然といふは

  《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
  《然》といふは しからしむといふことばなり。

  しからしむといふは行者のはからひにあらず 
  如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
 
    * 爾(に・じ):しかり。そうである。

■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~

  自己を運びて万法を修証するを迷とす。

  万法進みて自己を修証するは悟りなり。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/12/22 17:23

お前たちには理解できない。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

72. 思う存分 遊んで行ってね。

73. あなたが突然変異で 大哲学者に変身するかも知れない。

74. あとの者が先になり 先の者があとになる。

75. わたしが生きている内にね。

お礼日時:2015/12/22 20:17

12.ブラジュ先生が悟りを得たということは、世界中の


あちらこちらで、同様のことがかつてあり、現在もある
ということになると思うのですが。つまり、普遍神との
感応は、人類にとっての「経験事象」ではないのですか?

また、仏といわれる人たちの「悟り」は同様のものでな
いと断ずることができるのですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

76. ★ 仏といわれる人たちの「悟り」
☆ は 中身が分からないので 何とも言えません。

77. 推測するに 次のようではないかと。:
☆☆ 69.:(N9) さとりを含むものだと言ってよいと自慢します。基本的
には信仰が与えられたという出来事です。

78. その中身として 《鏡の方程式》のほかには たとえば《いま現在時にお
ける生身のからだでの〈復活〉》が あります。

79. そう言えば この《復活》については 自然の身体から霊の身体に生まれ
るといった説明がされていますが 実際にはいまの《さとり》と同じく 中身が分
かりません。

80. ★ つまり、普遍神との感応は、人類にとっての「経験事象」ではないの
ですか?
☆ 信仰という出来事は 《あっ これは神からのわが心の窓へのノックだと 主
観的に受け取ったときに そのおとづれ〔なる全くの非知のナゾ〕をわが心に受け
容れること》です。

81. 受け容れる(これが 信じるです)のは 《人間たるわたし》の意志行為
であり 経験事象です。

82. 受け容れたものは マボロシです。

83. この《さとり》を含むと思われる《信仰体験》については:
★ 世界中のあちらこちらで、同様のことがかつてあり、現在もあるということに
なると思うのですが。
☆ わたしもそう思います。

84. ただし わたしの述べている体験と同じことが起きて共有されているとい
ったことは まだ聞いたことがありません。

85. おそらく違いは 説明としての自覚においてではないかと考えます。

86. 普遍神とのカカハリとして同じひとつの信仰だと捉えますが なにぶんそ
の言わば自己紹介というものが 違っている。と言いますか ほとんど成されてい
ない。のですから まだ《連帯》が成っていません。

87. 似たような《神論》に出会ってはいます。
 ▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~
 人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない
( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。

 (宮本久雄・大貫隆・山本巍共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・
グノーシス』1997  pp.105-106 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/12/23 18:31

お礼ありがとうございます。



13.先生が経験された、その体験というものは一体
どういうものだったのでしょうか?

それが、何故「普遍神」との交流であると言い切れ
るのかが、全く分かりません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

88. 《その神〔をめぐる信仰を得る〕体験はどういうものだったか》 これは
どうなんでしょう。すでに言ったように 《心の窓をたたく神の霊のおとづれとそ
れに呼応してそのマボロシを心に受け容れた》というように抽象的に述べたほうが
よいと思うのですが。

89. その理由としても 次に《なぜ普遍神との交流だと言い切れるか》 これ
は 一般的に捉えるならいまもなお《模索中》であると言うべきかと思うからです。

90. 言いかえると その理論について建築工事中であるとも言えますし しか
しながら そのつど 仮説としてでも一定の理論を形成して みなさんの前に提出
する。ということです。

91. 人びととのあいだでの交流がすすむにつれ あんがいわたしの体験と理論
づけが有効であるように思うようになったということです。

92. 《普遍神》という言い方は まだ 一年も経っていません。

93. でも いまのところ 整合性があるように見られます。どうでしょう。

お礼日時:2015/12/24 17:44

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