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今年、特に6月ないし7月から半年間、不幸、災難続きで、常陸国総社宮と言う神社で、新年にお祓いと聖別の後に、護符と熊手をいただいたのですが、護符は家族が自分の分を実家に飾っており、 熊手は私のアパートの部屋に飾っておりました、しかし今日、不幸続きで「開運、招福、守護、除災、招福、大願成就、開運祈願」と、書いていることに、はらわたが煮え繰り返るほど憎悪が湧き立ち、ついに怒りに身をまかせ叩き割りへし折り踏み躙ってしまいました。
あと数週間で、いただいた神社に返却する予定でしたし、ここまでほぼ1年間不幸続きですと、無神論を唱えたくなりますし、神への信仰心なんて微塵もなくなってしまいます。
私は不幸のどん底に落とし入れた連中は今でものうのうと生きているわけですし、神様を信じていなくてもほとんどの人間が人生楽しく過ごしているわけですし、そもそも神様への信仰がなくても才能に恵まれた環境に恵まれ、自分の願望で社会的に成功したりとかする人間の方が大変なわけですから、自分に罰が当たることなんて一切入りませんよね?
だって祝福どころか災難だらけの1年なわけですから。

当方、今日熊手を壊した2ヶ月前に、かなり本格的に修行をなされた術師に占いをしてもらい、タロットによる結果では「塔の正位置」、「吊るされた男の正位置」と、凶を象徴するカードが出ております。
この時点で不穏な結果が出ております。
毎年神社には浄化、聖別のため通っていますが正確には無神論者ではなく、ルシファーといった存在に信仰心を持つ方向に行きつつあります。
良くてもギリシャ神を自分の中に主神に持つことで、和神に信仰を持つことをこれをきっかけにやめようと思っております。
自分を幸福に導いてもくれない、人間関係もめちゃくちゃにされ、自分を守ってくれないものになぜ敬意を払い、謝罪をしなくてはいけないのでしょうか?
それならかつて神に反逆を翻したルシファーに祈りを捧げ信仰するべきではありませんか?
現に無神論者が堕天使や悪魔に信仰を持つ事はあり得る事ですし。

脅しや誹謗中傷等はご遠慮下さい。

質問者からの補足コメント

  • いやいやどこが血気盛んなのでしょうかw
    こっちは数十年間人生ハードモードで生きてきて、
    やっとの思いで希望を見出した瞬間鉄棒に叩き落とされたわけですよw
    人のことも知らないで、気の短さ?とか何様のつもりだかしりませんが、同じ事を繰り返していると言うその決めつけと、その威勢に根拠があるんですか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/12/08 02:28

A 回答 (3件)

何を質問されているのか、どのような回答を求めていられるのか、読取りにくいですが。



> 自分に罰が当たることなんて一切入りませんよね?

「バチがあたる/バチはあたらない」という発想が、かなり、どうにも、回答しにくい状況を作ります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
罰が当たる:読み方:ばちがあたる:別表記:ばちが当たる、バチが当たる
悪い行いに対する神仏の懲らしめを受ける。悪事に対する応報を被る。「神罰が下る」や「仏罰を蒙る」などとも言う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
あまり「神仏が」では、答えようがないです。 本人が、罰が当たったと思うなら、それを他人が否定もしにくいですし、本人が、バチはあたってないというのであれば、他人としては、ソウですかという程度のことしか言えないです。


> タロットによる結果では「塔の正位置」、「吊るされた男の正位置」と、凶を象徴するカードが出ております。 この時点で不穏な結果が出ております。

タロットであろうが、おみくじであろうが、「不穏でも、凶でも、吉、開運でも、」 お遊び、ゲーム、ただのきっかけを偶然に懸けるというだけのことでしょう。 コイントスで決めるのと変わらないです。 結局、自分で決めているのですから、占いの側に原因や根拠を求めることではないでしょう。

> ルシファーといった存在に信仰心を持つ方向に行きつつあります。

何を信仰しようが本人次第でしょう。 結局、行動や不行動、どのような行動、どのような方法、いつ、いつまで、、、、などを決めているのは、本人自身です。 信仰を根拠に自分の行動であることを軽く考えるのは、不適切です。 カルトでも、強者・教祖・カリスマ・占い師・ボスが何を言おうが、自分でとった行動、自分がやらなかった行動の責任は、本人が負うのが、今の社会のルールです。

> ギリシャ神を自分の中に主神に持つことで、和神に信仰を持つことをこれをきっかけにやめようと思っております。

お好きになさって問題ないです。

> 自分を幸福に導いてもくれない、人間関係もめちゃくちゃにされ、自分を守ってくれないものになぜ敬意を払い、謝罪をしなくてはいけないのでしょうか?

現代社会で、謝罪しなければならないというのは、義務や責任を果たさなければならないのに、適切に出来なかった場合には、まあ当然とされます。 「自分を幸運を導いてくれていないから、謝罪しなくて良いのだ」「間関係もめちゃくちゃにされたので、謝罪しない」「守ってくれていないので、謝罪しない」というロジックは通じません。 敬意を払うのが嫌なら、敬意を示差なくても、まあ問題はないです。

> ルシファーに祈りを捧げ信仰するべきではありませんか?

何があろうが、どのような事情があろうが、「何かを信仰すべきである」という判断は、現代の日本社会ではまともとはされません。
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>希望を見出した瞬間鉄棒に叩き落とされたわけですよw


鉄棒に叩き落とされたんだ。
それは大変でしたね。
お怪我はありませんか?
鉄工所か何かのはなしですか?
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ずいぶん、血気盛んな人ですね。


不幸が続くからと言って熊手をへし折る?
まず、宗教を変える云々の前にあなたの、気の短さを変えないことには、また、同じことを一生繰り返しているでしょう。
この回答への補足あり
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