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私はクリスチャンです。
しかし、このごろものすごい性欲で我慢するのが辛いです。

信仰歴は半年ですし、人間である以上
しようがないかもしれません。

普通の男と思うのですが本当のクリスチャンらしく性欲
が抑制できるようになりたいです。

聖書は姦淫を非常に駄目なことだと記されていますね。
そんなこともあり出来る限り女性をそんな目で見たくないのですが
神とのかわりがより一層欲しいです。

A 回答 (13件中1~10件)

まあさ、ダビデみたいな女ったらしもいたわけだし、


そう深刻にならなくてもいいんじゃないの?

適当なところでガス抜きしないと、ドカンといくかもよ。
何が?
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No.6です。

 何度もすいません。

死海文書というのが発見されたのが、、、1947年頃からだったと思います。
イスラエルの独立の前の日だったかな?

その歯科医文書にはエステル書以外の旧約全部が入っていた。
つまり現存する最古の写本です。
(新約聖書だと現存する最古の写本は4世紀だったと思いますが、それよりもっと古いんですね。 それでキリスト教側は自分達が持っていた旧約聖書とそんなに違わなかったので、ほっとしたわけです。)


その発見された写本の中には、クムラン独自の教義も入っており、規律に関するものも入っていた。
それによってクムラン宗団が一体どのようなものだったか、知ることができたわけです。

キリスト教との類似性がいくつかある。

例えば「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」はイエスではなくクムランの教え。
多数者 12人による聖餐式もあり、「これは神の肉体である。 これは神の血である」もクムランの儀式の一つ。


メシア(たち)がやってきて、闇の子らと最終戦争をするという終末思想を持っていた。

そこに入会して住み込むものは、財産を共同金庫に納めるとされた。

(なお クムラン宗団の方がキリスト教より古い。従ってクムランがキリスト教を真似たのではない。)


他にもキリスト教の内容と類似するものがいくつもありますが、今回の性欲に関することだと、、、


クムランは独身制度で、穢れを嫌い、少しでも穢れた行為をやったものは、沐浴をしてある一定の期間、聖所に近づくことを禁じられていたんですね

その一つが性欲を覚えたものは、穢れを清めなさい とある。

罪とされたというより、性欲を覚えて穢れたのだから清めなさい としていたわけです。

推測の域を出ませんが、独身制度であれば、神の祝福である子を設けられませんよね。
それで、一定期間、そこから出て町に行っていた。
その一定の期間はおよそ2から3年で、イエスがいきなり町に出きて布教活動をした期間と一致します。


聖書に成長の記録が欠如していますが、クムランで育ったというのであれば、突如 成人になって現れてもおかしくないわけです。


どうして2年から3年 宗団から離れて町で暮らすということになったのかというと、聖婚をするため。

性欲ではなく、神の祝福として子供を授かるという目的で性交をするという証を立てるため。
それで試験的結婚をして、決められたときまで、交わりをしなかった。
そして定められた月である12月に初めて性交をする。
それで妊娠が確認されなければ、次の定められた時まで、また性交をしない。
2年から3年の俗世の暮らしは、性交するため。
聖所ではやってはならなかったわけです。
定められた月に定められた相手と神の祝福を得る目的で性交をしていた。


ですが、健康な人間である以上、出すものは出さないと精神障害など引き起こしてしまう。
ですから、自慰などやったものは、一定の期間 穢れを清める沐浴をやり、聖所に近づかないということを定め、その行為をやったら穢れが清められ、従って穢れていない とされた。


クムランでは穢れを清めるやり方を規定しているので、それをやればもう穢れてはいないとされたのだから、キリスト教でも穢れを清めるやり方を定めればいいわけです。

聖水とかふりまくのか知りませんが、クムランの教義すら模倣したキリスト教なので、沐浴に似たような穢れを清めるやり方はあるんじゃないでしょうか。

ただ、クムランの沐浴だと、何か入っていたらしいんですね。
エッセネ派という説もあるので、薬草かなにかを入れていたのかもしれません。

これで本当に清められたことになるのかというより、自分が属する集団が、それでOKとしている以上、それでOKじゃないかと。

法律がOkでも本当に穢れが清められたのか怪しいものだ というのなら、クムランの教義を信じていないので、クムランから脱会すればいいと思うんですね。

キリスト教の穢れを清めるやり方を信用できないのなら、キリスト教を指示していないということが明らかになり、にもかかわらず属していることが矛盾することになります。

これは神父様、牧師様に このケースの穢れの清め方は、この教団ではどう法律で規定されていますか? と聞くしかないかと。

神父様だって牧師様だって、性欲を抑えて精神障害を引き起こしていたら、とてもじゃないけど仕事できませんので、健康ならちゃんと性欲をあり、ためたら病気になりますので、抜くということをやっているはずです。
その後 どうしているのか 聞いてみたらどうでしょうか?
病気により性欲が全くなくなり聖職者になった という人たちばかりなら、不健康だし、神の祝福が無い人たちということで、、、とてもこの宗教にとってとても重大な問題を抱える人たちが、責任者になってしまっている つまり 神から呪われた人たちが、幹部になっているということになってしまいます。


教皇だって健康な男でしたら、ちゃんと性欲はあったはずです。
教皇らは一生独身だったのでバージンのまま亡くなっていったと思うのですが、、、、
独身であっても心身ともに健康であれば、旺盛な性欲はあったはず。
そう思うと、楽になりません?


信者だって心身ともに結構であれば、性欲はあり、女性を見るだけで発情する時期もあるはずなんですね。
心身共に不健康な人のみ限定で信者になるってわけじゃないと思うので。
もしそうならキリスト教徒は全員病気で不健康な集団ってことになってしまいます。


キリスト教の歴史は男の性に対する悩みの歴史だと思うんですね。
女性を見ただけで発情して勃起してしまうのは、女性が誘惑したからと女性のせいにしてきた。
女性を誘惑する悪魔だとして、性欲の理由を女性が原因だとしてきた。

現代で、もし勃起したのは女のせいだ 自分は悪くない レイプしたのも女が誘惑して俺の息子を操ったからだ 全て女のせいで俺は悪くない というレイプ犯がいたら、どうします?

女性を見るだけで勃起してしまう男達は、女性を目にすることを極端に恐れるようになり、修道院を作ってこもってしまったんですね。
これでもう女性を見ることもなく、性欲に悩まされることはない と思ったら、、、、
相手が男でも性欲を持つようになってしまった。
とうわけで修道院で同性愛者が発生し、教会はこれを禁じることになり、同性愛は禁止だとなったわけです。
しかし 法律で禁止されても、発情し、しかも男しかいないので、男に欲情せざるを得ず、、、、、

修道院に逃げ込んでも性欲から逃れられなかったってことですね。

ということで、ノープロブレム。
手術しない限り、健康であれば性欲はあってあたりまえ。

ひとまず 穢れたと思うのなら、沐浴したらどうでしょうか?
それで穢れは清められるってキリスト教がお手本としたであろうクムランではなっていたんだし。
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 No10以外の答えを除いて、他の方の見解は主観が多く、ほとんど不十分と思います。



 まず「性欲」と「姦淫」は厳密に分けなければなりません。旧約における、いわば「姦淫禁止命令」は律法であります。しかし、これは「行為」でしかありません。したがって性欲というレベルでは、実は罪ではありません。

 性欲そのものは、食欲と同じく、神が人間に備えた一つの感覚であって、人間が正常に生活し活動するためのものです。考えてもみてください。もし食欲がなかったら、人間にとって食べることはつらいことであったでしょう。しかし、神は人に味覚をつくり、さらに豊かな食べ物をつくられ、私たちの楽しみとしたのです。
 性欲もまた同じです。生めよ、増やせよとはいっても、もし性欲がなければ、性行為は人に苦痛であったでしょう。それゆえ性は、人が子孫を荏円滑に産んでいくための神の知恵だったのです。

 さらにあなたはおそらく勘違いされていると思います。あなたがもし結婚していれば「姦淫」の可能性があるのですが、独身ならどんなことがあっても姦淫はありません。

 姦淫とは、いわゆる「離婚」をいっています。

マタイ19・9「不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである。」

 したがって、姦淫は「ふたりは一体である」の原則を破壊することに対する罪です(なぜ罪なのかということは、エペソ5章において明らかにされます、それはキリストと教会の一体性を破壊することを象徴するからです)。

 ここの不品行とは、売春・淫行とも翻訳されます。つまり、夫か妻のいずれかが他の人と「淫行」(性行為)をおかした場合には、離婚しても「姦淫」にはならないのです。
 ですから、一度結婚したら、どんなに仲が悪かろうが、奥さんがどれほど凶暴であろうが、いかなる理由においても離婚できないのです。離婚することは「姦淫」になるからです。
 しかし、唯一の例外は「不品行あるいは淫行」です。これがいわゆる不倫のことで、夫か妻のいずれかが不倫をして性行為をしたなら、離婚しても「姦淫」にならないということです。


ローマ6・17~
「不品行を避けなさい。…しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」

 不品行と訳された日本語は、同様に売春や淫行のことです。

 結論的に聖書では、「姦淫」と「淫行」の2つがあります。

 「姦淫」は直接的には結婚している状態で離婚することで、あるいは結婚していながら妻以外の者と性行為をすることを含むことがあります。

 「不品行」「淫行」は、結婚してない状態で性行為へといたることです。つまり、神の定めでは、性行為の条件は、(1)結婚していて、(2)妻とだけ、性「行為」をするということになります。


 もう1つきわめて重大なことがあります。これはほとんどの人が見過ごしていることです。旧約と新約では、姦淫の原則が変わっているのです。

マタイ5・27-28
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」

 旧約の原則は、性の「行為」でした。しかし、新約の原則は変わり、わたしたちの「心」にまでいたるのです。「情欲を抱いて」、「見る」こと、すなわちある女性をいやらしい思いで見ることなども、すべて罪として換算されてしまうというわけです。

 ややこしいのは、マスタベーションは罪か否かということです。旧約の原則にいえば罪とはいいきれず、新約の原則でいえば罪の可能性が高いです。なぜなら、ある種の妄想が含まれているからです。


 ここまで読まれると絶望的になるかもしれません。 
 しかし、問題は罪を犯すことではなく、罪を犯した後のわれわれの態であると聖書は言っています。福音書におけるイエスは。罪を責めたのではなく、罪をおかした者たちの「態度」に注意を払ったことを見てください。
 ヨハネ4章、サマリヤの女は5人の夫をもった姦淫だらけの女です。しかし、イエスは彼女の罪を責めず、彼女の態度に注意を払い、導いたのです。

 第1ヨハネ(書簡)1:9-10を読めば、罪の告白が重要であることが分かり、罪を犯すことを神は折り込みずみだということが分かります。問題は罪をおかした後の告白であり、そのたびに救いとなるわけです。

 ですから、ダビデは姦淫の罪をおかし、預言者ナタンによって責められ、悔い改めました(詩篇51篇を参照)。彼は赦され、神に生きました。しかし、ダビデが生涯で過ちはほとんどおかしていないため、原則上は相当、神に仕えた人です。

 クリスチャンは神に仕える者であるべきですが、時に過ちを犯します。しかし、悔い改めの祈りをもつなら、赦されるのです。
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私は中学で洗礼を受けたカトリックです。


確かに十戒では「姦淫するなかれ」と書かれています。
これは非常に難しい問題だと思います。今でも婚姻後以外の性交は原則として禁止しています。が、性欲もまたヒトとしての神から与えられた正常な生理です。
本来なら、人は性欲の盛んになる頃には、既に生活の糧を自立して得なければなりません。昔は15歳で成人になり、20歳までには自立できました。しかし、現実ではいまや25歳くらいまでは自立できない社会になっています。
私は、頭の中だけで創り上げた宗教の縛りは本当に合っているのか、長い間考えました。性に対して後ろ向きでしかない人達が未だに縛っている戒律が正しいのだろうかと。

結論だけ言えば、吐き出すべきものを吐き出さなければ、女性を性欲以外で見るのは難しいと思います。身体に溜まる物がなければ、余裕を持って見る事ができるようになります。
その状態で、自分が相手に求めるものと相手に出来る事を良く考えていきましょう。

私は、女性を長く共にするパートナーとして付き合えば、姦淫の罪はないと考えています。単なる付き合うだけの恋人ではなく、将来を見据えた人として選べば、罪とは思いません。
姦淫とは欲情だけ、快楽を求めるだけの交際だと解釈します。
確かに、自分で処理する為にもある程度の「相手」が必要かもしれません。しかし、キリストもその(神が人に与えた)生理上の罪を知っていたから、娼婦を赦したのではないでしょうか?だから石打つ人に「罪がないのなら打て」と言ったのではないでしょうか?
自分が大きな間違いを犯さないための行動を責める事など、誰にも出来ません。妄想などは自然に湧いてくるものです。そんなものを罪だとされても困ります。ただ、それだけに捉われては本当の罪になります。
だからその程度なら、素直に犯した罪を告戒所で告げて、赦しを得ればよいと思います。

そして、女性とは、お互いに理解しあう姿勢を持って、真剣に付き合いましょう。そして性に対しても真正面から向き合い、二人で考えて行動して下さい。またその様な人を見つけて下さい。
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主は己の姿に似せて人間を造ったと言うでは有りませんか、何を恥らう事がありましょう。



あなたがそのような状態と言う事は主も同様だと言うことですから堂々とそれを認め何ら恥らう必要は無いのです。
主は人間をこの大地に増やそうと様々な特性を与えましたが中でも性欲は最も有効な特性でしょう。これが無ければ人間はここまで発達しなかったし途中で滅んでいたかも知れません。

しかし現実社会には法律が有りますので社会の決まり事も守らなければいけません。法律を守り良き社会人となりつつ主から戴いた性欲を有効利用してください。これこそが主のご意思です。
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キリスト・イエスに 掟は ありません。



神を愛せ そして 人を愛せ つまり これら二つは同じことで 自分と同じように人を愛す これ以外にありません。このようにするから クリスチャンになったのではありませんか。

姦淫は 両者ともが それぞれ 人を裏切っており 人を愛すに反します。

聖書が あなたの神ではありません。(《文字は殺し 霊は生かす》です)。あなたの神に聞いてみては いかがですか。誰も神と対話できるとは思いませんが その努力のなかで 答えが見つかることもあるでしょう。

(神を愛すとは 人を愛すと同じことであるように 人に尋ねることが 神に聞いてみることと同じであると見ることも出来ます。見方によるとも考えられますが)。

《本当のクリスチャンらしく性欲が抑制できる》というのは 《性欲については 人を愛すこととしてそれを満たすことのみを行なおうとする》という意味だと思います。なお 《性欲のない生殖に至る》とも観想されています。パウロの文章も参考になると思いますが。
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No6です。



訂正です。

>イエスの両親も、子供ができず、神殿に神に祝福が欲しいとお願いに行ったところ、

イエスの両親じゃなく、イエスの母マリアの両親でした。
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聖書を読むと神の祝福とは、子沢山のことであるとわかります。



神は何度も人間と契約を交わしていますが、祝福した対象の者は沢山の子供に恵まれ、家系が繁栄したとなっています。

子供が多いほど、稼ぎ手は多く、それだけその家系の人数が大きくなるので、勢力が大きくなるわけですよね。

「生めよ増やせよ地の果てまでも」これが神の祝福なわけです。


でも、十戒に「私の愛する子供達が姦淫などしようか するはずがない」と書かれていますよね。
(古代ヘブライ語には否定+禁止が無かったそうなので、○○してはならない という現代の訳は正しくないそうです。)

十戒を授かったが、それがどういう意味なのか、このケースの場合も駄目なのか いいのか ということで、律法学者はあれこれ論争したそうです。

例えば古代女性に相続権がありました。
女性に代々財産が引き継がれていってたわけです。

その女性が夫と離縁すると、夫はすってんてんになってしまう。
この男から神の祝福は遠ざかってしまうわけです。

また、夫を捨て、他の男と妻が再婚し、後にその妻が死亡した場合、前夫の財産は亡き妻のものであると、死亡した妻が再婚していた男から要求されたりしたわけです。


そうなっては困るので、夫が生きている間、妻は離縁して別の男と再婚することは姦淫である とした。

そういうことになる可能性を持つ、例えば、夫が死んだ妻がその一族以外の男と再婚しそうになるのも、姦淫だとして、再婚をさせないようにしていた。

さらに神経質になり、夫が死んだ妻が、一族以外の男と口を利いただけでも、チラっと見ただけでも、「姦淫をした!!」として石打の形にするまでになってしまった。

律法学者 つまり方の番人たちは、こうやって民族の戒律を十戒を基本に詳細に規定していったわけです。

確かヨハネはヘロデ大王だったと思いますが、姦淫をしたとして非難し、ヘロデに殺されていますよね。
ヘロデの姦淫とはなにか、弟だったと思いますが、その妻を自分の妻に横取りした。
弟が生きている間に、その妻を自分の嫁にしたためそれが<姦淫をした>ことになったわけです。

レビレート婚ってありますよね。
兄が死亡した場合、未亡人となった妻は、夫の兄弟 あるいは 一族の誰かと再婚をしなければならない という法律。
妻の財産が他の一族に流出するのを防止する、すなわち一族の繁栄を守るために、妻が他の一族と結婚することを防止する法律。


イエスが姦淫をしたとされた女を救出したエピソードがありますよね。
これを読んだ現代の読者は、独身女性が誰かとセックスをしたため、淫乱として人々から石打の処されそうになったのだろう あるいは 売春婦だったから、姦淫したとして処刑されそうになったのだろう と推測しています。

そうも取れますが、姦淫とは、みだりにセックスをすることではなく、未亡人が他の一族と口を利いただけでも、チラと見ただけでも、「もしかして この女は一族以外の男と再婚をしてしまうかもしれない。財産の流出を阻止するためには、再婚される前に殺すしかない」 ということで、律法を乱用して殺そうとしていたとしたら。


イエスは律法重視だった。
しかし、イエスは律法を完成させるようとしていた。
律法学者は姦淫とはなにか についてあれこれ議論していた時代、イエスは姦淫とは、未亡人が他の一族の男と口を利いただけでは姦淫にならない としたかったのではないかと。

前の夫が生きているうちに、別の男と再婚をしたら、神により与えられた結婚という祝福を、人間側が拒んだことになり、背信になりますが、それを拡大解釈する律法学者たちの解釈は正しくない としたんじゃないかと。

姦淫をした女を、マグダラのマリアと同一視された時代がありましたが、1960年代だったと思いますが、教会は同一人物ではないようだ と発表しています。
にもかかわらず、現代でも<罪深い姦淫した女 マグダラのマリア と思われてしまっています。
しかも汚らわしい娼婦マグダラのマリアすらイエス様は救ってくださったのです と一番のキリスト教の布教の広告に悪用してしまっている。
律法学者たちの拡大解釈と変わらない解釈をして イエスの真意を伝えていないのではないかと。。。。。


トマスの福音書には、何度もイエスはマリアと口づけを交わしており、それにペトロが嫉妬し、マリアはペトロの憎悪を怖がっていたとあります。

これは比喩で、イエスが口伝で伝えた内容を、マリアが一番に理解していたということだと思えます。
ペトロは同じ内容を聞いてもマリアほど理解できず、それでイエスはマリアばかり愛する と嫉妬したのであって、自分もイエスと口づけを交わして、イエスと愛を交わしたかったわけじゃあない。

「何故マリアばかり愛するのですか」と問うペトロに、イエスは「何故私はマリアほどにあなたを愛せないのでしょうか」と逆に理解しないペトロに問いを投げ返している。


カトリックの場合は、マスタベーションも禁止です。
カトリック信者にどうやって性欲を抑ええているのか聞いてみてはどうでしょうか?

性欲を覚えるということは、神の祝福が下りてきたということで、セックスを神が要求していると考えてはどうでしょうか。
ただし、独身なら神から祝福があれば、女性とめぐり合うでしょうから、その方と性欲が起こるたびに神の祝福であるセックスをすればいいと思うんですね。

カトリックだと避妊具は禁止ですが、避妊具を使用するということは、神の祝福である子沢山を拒む行為になるので、それで避妊具も禁止になっているのだと思います。


古代、性欲が無い人、子供ができない人は、神から呪われているとされました。
イエスの両親も、子供ができず、神殿に神に祝福が欲しいとお願いに行ったところ、子供のいない夫婦は神から祝福されていないとして、お参りを拒否されたんですね。

それで、夫は荒れ野で40日ほど修行をして、(インポテンツの治療?
)、妻は自宅で「もし 子供が授かりましたら、初子を神に捧げます」と約束した。

そしてめでたく夫婦に子供ができ、マリアとなずけられ、約束通り初子であるマリアが神殿に捧げられた と。
これがイエスの母マリアの出生の秘密となっています。

私は前マリアは神殿娼婦だったんじゃないかと言って、かなりバッシングされましたが、娼婦と利いただけで、キリスト教徒はおぞましいものをイメージするようなんですね。
マグダラのマリアは誰とでも寝る売春婦だったとキリスト教徒は言うし、神殿娼婦とは神殿におまいりに来る観光客目当てに体を売る娼婦だとキリスト教徒は思っており、それでイエスの母マリアを売春婦呼ばわりするなんて と激怒したようです。

私に言う神殿娼婦とは、観光客相手に春を売る女のことじゃあない。
古代の神殿娼婦はそういう概念じゃあない。
神の地上の体現者 神の化身が神殿娼婦。
王に権力を与え、霊的な導きをするものが神殿娼婦。

で、マリアは夫選びの時、ヨセフの杖だけが反応したので、ヨセフを夫として聖別したとある。
その聖別されたヨセフが、イエスの義理の父親となるわけです。
マリアとヨセフの間には沢山の子供ができた。
初子であるイエスは神に捧げられた子供になるので、ヨセフの子供じゃないとなり、ヨセフは義父だとされるようになった。


というわけで、夫婦であれば、自然な行為なので、早く神からの引き合わせがあり、結婚すればいいのではないかと・・・・。

結婚相手とまだめぐり合っていないのであれば、神からまだ祝福されていないということですが、こればかりは一方的に祝福は下りてくるので、人間が「神よ早く嫁さんください」と祈るのは筋違い。


いつも思うんですけど、どうして各宗教の信者は、信者ではない人と結婚をしたがるのでしょう?
宗教教団内に結婚紹介所とかどうして設置しないのでしょう?
どうして外部の人から嫁をもらいたがるのでしょう?
宗教の拡大のため、信者ではない人と結婚をして、その人も信者にしなければならないという暗黙の了解があるのでしょうか?

信者ではない人と結婚しても、価値観が違うので、無理があると思うんですね。
教団内に信者同士の結婚相談所を設置するよう、教団に要請してみてはどうでしょう?

もし、信者が魅力的ではなく、外部の女性が魅力的なら、どうして信者の女性は魅力が無いのか、どうして外部の女性は魅力的なのか、考えてみてはどうでしょうか。

何故自由意志を持っている女性が輝いているのか。
生き生きとしているのか。
何故信者の女性は自由意志を持たないのか。

信仰の核に迫るものなので、回避したいことでしょうけど。
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ご自分のことをさしてクリスチャンというということは、あなたはエホバの証人ですか? この回答はエホバの証人であるということを念頭に書いていますので、違ったらごめんなさい。




確かに聖書中、十戒というもっとも基本的な部分に「姦淫してはならない」とあり、イエスの言葉にも「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とあります。

しかしながら、イエスはこうも言っています。「(娼婦をさして)『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」。
欲望だけで女性を抱くのは好ましくないかも知れませんが、それ以上の気持ちであれば問題はないのかも知れません。

もっとも、エホバの証人というコミュニティの中での受けは、また別の話です。
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キリスト自身も、確か偽典か外典で、布教か何かの際に「マグダラのマリア」と言う名の娼婦を連れており、一筋縄ではいかない人物だった様です。

15世紀には、修道女が接神体験したと言う記録も残っていますし、真言宗の経典の「理趣経」には、「欲望と悟りは一体である」と言う「煩悩即菩提」と言う教えもあるので、一概に「性欲は悪である。」とは言え無いと思います。一神教でも多神教でもこの問題は、共通の問題の内のひとつです。※「理趣教」はあくまで仏の視点から説かれているものです。最澄は空海にこの経典の解説書である「理趣釈経」の借用を断られ絶縁に至っています。
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