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仏教の教えの本質は、執着からの脱却で、その目的は人生の苦しみから逃れるため、と解釈しています。
では、キリスト教の教えの本質は何でしょうか?
隣人を愛せよと説いていますが、その目的はなんでしょうか?
平和な世の中を作るためでしょうか?
魂の浄化に関わってくるのでしょうか?

物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えたので質問します。
(仏教で愛を説かないのは、その人物に執着しすぎてしまう恐れがあるからと解釈しています)

よろしくお願いします。

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A 回答 (9件)

こんばんは。

私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的で誰にでもわかる台詞でありながら本質に迫る問いであり、
人間を成長させる力を持っている言葉だと私は思いました。

私は、キリスト教も仏教も人間の幸福を希求していると思います。
より深く人を愛するには 慈悲と悟りの両面のレベルアップが求められる気がします。 
執着するなではなく、執着が無意味に思えるレベルまで認識が拡大することが悟り・解脱ではないでしょうか。
キリストの言行は、シンプルでありながら矛盾を含むようでもあり、
愛への認識の拡大を迫る。
個々の局面で自分の中の執着や冷酷さと向き合うことを要求する。

キリスト教の愛と、「愛別離苦」といった使い方をする仏教的な愛とでは、そもそも概念が違うと思います。
キリストの問いた愛は執着を超えた大きな愛であり、
キリストの言動は、そういう愛への示唆に満ちていると私は思います。
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みんな神様から生まれた人間ですよね。



だから書いているように「愛せよ」
ここは命令形みたいな形ですから本質も何もない

みんなが愛しあえば(許しあえば)この世に平和がくるはずなんだけど・・・・

愛というのは好きになれと言う意味ではなく、その人を
その人なりに認めなさい。こんな感じかな?
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イエスの語りかける所の本質は、ゆるしじゃないかな。


シッダールタの無我と言う所で共通していると思います。
執着の根本は、執着する対象にあるのでなく、対象を捉える主体にあります。
主体が消える、無我になることで、ゆるし(愛)が起こる、このようなステップが、悟りや愛といったものの道になります。
幸せ、不幸せということに惑うこと無く、本質的であることが、宗教の目的であるのではないでしょうか。
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No.5さんに続き、私も違った意見です。



まずキリストが隣人を愛せよと教えたのは、ユダヤ人に対してであって、その他の民族やクリスチャンに対してではありません。この教えを守るべき人は、当時のユダヤ人と、後の時代のユダヤ人です。(後の時代については話が長くなるのでここでは書きません。)

では今の時代、ユダヤ人ではない人に対してこの教えは何の意味があるのかということになってきます。キリストは隣人を愛せよと教えた時に具体例も挙げました。右の頬をたたく者には左の頬をも向けよ。下着を告訴して取ろうとする者には、上着をも差し出せ。自分に敵対する者を愛せよ。等です。

敵対する者を愛するということを説明するために、サマリア人の例えも語りました。その死に掛かっている人を無視して過ぎ去ったのは、祭司と律法学者(当時の宗教の先生)で、いわゆる良いとみなされていた人です。

サマリア人は、ユダヤ人と異邦人(ユダヤ教を信仰しない他の民族)との混血です。ユダヤ教では異邦人との結婚が許されないので、彼らはユダヤ人にとっては異端児で、異邦人以下に扱われていました。

ですのでユダヤ人とサマリア人の関係を説明するなら、ユダヤ人がサマリア人を迫害していたというのが正しい立場です。

さて、ここまでの事を教えていますが、正直みながそれだけのことが出来れば、世の中平和に丸く収まることは明らかでしょう。だけど出来る訳ないのです。自分を馬鹿にする人に対して、絶対に腹を立てないでいられますか?貸した金を全く返すつもりもなく、反省もしていない人に、続けて金を貸すなんてことはできますか?

無茶な話です!少なくとも私にはできませんし、少し考えたら誰がそんなことできるでしょうか。神の子キリストにしかできない事です。

ではキリストな何のためにそのような教えを説いたのかと言えば、世界平和のためにではなく、自分が良い人となるためでもなく、自分自身には人を愛する力などない者だと気付かされるためです。自分は正しいと思っている人に対して、本当は何も正しくないということを教えるためです。

キリストの教えに一貫していることは、神の御国(いわゆる天国)に入ることです。それにはまず第一に、自分の無力さに気付く必要があることから、人間にはできない教えを説いたという訳です。自分の力ではなく、キリストを通してのみ神の御国に入れるのだとも教えています。
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みんなとちょっと違う意見です。



隣人愛についてイエスは、サマリアの人を例え話にして説明しています。

ある人が暴力を受けて死にかかっていたとき、自分が所属する共同体の人たちは、その死にかかっている人を無視をした。
司祭などは大きく道をそれて近寄らないようにして避けて通りました。

しかし 普段死に掛かっていた人が軽蔑していたサマリア人は、死に掛かっている人を宿屋まで運び、宿屋代まで払い、宿屋の主人に看病を頼みました。
イエスはこのサマリア人はよい事をやった隣人だと説明しています。


隣人とはどういう意味か。

私なりの解釈では、この種族は12支族です。
しかし、身内同士でありながら、内部分裂や争いが絶えなかった。
隣人でありながら敵対していたわけです。

その敵対相手(サマリア人)は、日頃自分たちを侮辱している人の命を助けた。
普通に考えれば、日頃自分を侮辱している人を助けないはずだが、元々は親戚同士。 つまり隣人愛から助けたのだと思います。

祖先を辿れば同じ人から枝分かれした親戚です。
異邦人となってしまったが元を辿れば同一民族。 隣人です。 

つまり 親戚同士 仲良くしましょうってことじゃないかと。


蛇足です。
ディアスポラでユダヤ人は各地に離散しました。
多くのユダヤひとたちはエルサレム以外の土地に住み、母国エルサレムより豊かな暮らしをしていました。

ペトロだったと思いますが、ペンテコステの時に、各地に散ってもはやヘブル語を話せなくなってしまったユダヤ人たちが同じ場所に集まって、ユダヤ教の祈りを捧げたとき、みんな言葉は違うが、同一の言語のように感じたと述べています。

結局 話す言葉は違っても、祈る対象は同一だと確認した事件だったのでしょう。
同じユダヤ人の血が騒いで興奮したってことだと思います。

集まった司祭たちは他国に市民権を持っているが、全員ユダヤ人。
親戚同士、隣人なわけですね。

「これからはイエスの元、今までのように同一民族でありながら敵対するのはやめよう。」

「離散したユダヤ人たちよ みんなエルサレムに集まれ」となり、各地に散ったユダヤ人たちの結束を図るために、伝道が始まったのだと思います。
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キリスト教の教えでも、究極的に神は「愛」である。


しかし日本語に翻訳された時、「愛」よいう日本語の
ちょっと誤解を招く訳で、ヘブライ語では限りなく
「慈悲、慈愛」の意味だそうです。
私はカトリックで、先日神父様からの教えの中でそう
いう講義を受けました。
だからユダヤ教の神も「怒れる神」でなく本質は「慈
悲」の神なのだとのことで、宗教行き着くところは同
じではないでしょうか。
今講義で聖書の言葉を原語の意味に直して解釈するの
を聞いています。
「隣人を愛せよ」と言うのも、「愛」の意味を思いや
る慈悲の心と解釈すべきなのです。

平和な世界がくれば良いですが、この世は残念ながら
そういう具合にいきません。
互いに憎しみあっていくのではなく、お互い認め合い
ながら生きていきなさいとのことです。

キリストは徹底的に人のため、弱者のためにご自分を
お捨てになって生きました。
我々信者もそれに倣って生きていく努力をするので
す。
そのためには心を「無」にして神(慈悲)を受け入れる
というこてです。
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仏教にもキリスト教にも、あまり詳しくはないのですけれど


>物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えた

これは私は逆のように捉えております。
結局は同じことを言っているのではないかと。

仏教で言う苦とは執着から生み出される…執着とは個我から生み出されるもの。

キリスト教が要求するところの「隣人を愛す」ということは個我に捕われていては不可能である…何となれば愛に反する憎しみ、そして争いは個我から生み出されるもの故に。

そもそもキリスト教が我が国に伝来した頃はキリスト教に沿った「愛」の適当な訳語が見当たらなかったため最初は「御大切」と訳したそうですね。つまり一般的に連想される恋愛や愛着の「愛」ではなく、もっと大きなレベルの意味、敬愛ということが含まれてくると思います。

仏教で「愛を説かない」というのは、何によらず捕われの心を持たずサラサラと流れる清水のような心境を最上のこととするからでしょうか。「愛」という言葉に相当するのが「慈悲」ではないでしょうか。

しかし個我というものに対する処しかたについては詰まるところ同じことを説いているように思います。
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仏教も、キリスト教も行き着くところは、魂の浄化だと思います。



魂の浄化という僕なりの意味は、仏心、霊体、魂の苦しみの基となる欲望をなくし、穏やかで、前向きに、生きれることだと思います。

仏教に関してあまり詳しくないですが、
仏教の執着というのは、煩悩から出るものだと思います。人の行動には、良い欲望と悪い欲望があり、悪い欲望が煩悩でその煩悩で行動するから、苦しみを伴う生き方をしてしまうのだと思います。
 その執着を捨てる、悪い欲望をなくす、煩悩を断つ、そうなるために、仏教の修行をしたり、隣人を愛しなさいと言っているのではないでしょうか?

仏教も、煩悩がなくなってくると、隣人を愛せるようになると思います。
ただ、「愛する」ということは、恋愛感情などではなくて、相手のことを考えて気持ち良く付き合うということではないでしょうか?これなら、仏教の修行で僕はできるようになりました。

ただ、キリスト教の教えは、隣人を愛するだけというものではないし、隣人を愛せれるようにに常にそういう意識を持って修行をしなさいということではないでしょうか?
 仏教でも、仏教を信じなさいといわれますが、はい、信じますと言える人は少ないのではないでしょうか?むしろ、否定に否定を繰り返しまうのが人というものです。

キリスト教であれ、仏教であれ、
本質は、魂の浄化、
行為は、修行方法であり、目指す意識のため
目的は、安穏とした境涯になり、さらに深い教えを体得するためと、この世の平和を実現するためだと思います。
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慈悲は仏教でもっとも大切な教えの一つです、菩薩になるための修行の徳目の第一が布施波羅蜜多(キリスト教でいう愛の実践)です



イエスが隣人愛を説いたのは自分も他人も等しく神の子だからです。他人(神の子)を愛することは神を愛することであり、自分(神の子)を愛することだからです。これを仏教では無我といいます
神と神の子を愛することが真の幸せへの道だからです
神は愛です、神の子は神と同じ行為をする(=神の子を愛する)ことで本当の幸せを得ることができます、ゆえにイエスは隣人愛を説きました

キリスト教の隣人愛と仏教の慈悲の違いをいうならば、キリスト教の愛は水平的な愛であり、慈悲とは万物を照らし育む太陽のような愛のことをいいます
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Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Q拘らず・関わらず??

すみません。以前から気になっていたので正しい答えを教えていただけないでしょうか。

「かかわらず」という言葉の漢字変換なのですが,
例えば

 雨が降ったにも「かかわらず」,彼は傘を差さずにやってきた。

というような文の場合,正しいのは「関わらず」「拘らず」どちらでしょうか。

国語辞典で調べてみたのですが,よく分からなくて(+_+)
すみませんがよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。それも「かかわる」でなく「かかる」です。「人命に係(かか)る問題」「係(かか)り結び」など。前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合(常用漢字の基準では)「係わる」でなく「かかわる」です。

結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。

漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的(「関わらない」「係わらない」)にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。

ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。念のため。

「物書き」のひとりです。

まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか(わる)」がないことです。常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。音訓表に無いものの代表的なもの(よく使われるもの)として「全(すべ)て」「画(えが)く」「〇〇に依(よ)れば/拠(よ)れば」などが思いつきます。

本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい...続きを読む

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q赦すと許すの意味の違い

赦すと許すの意味の違いを教えて下さい
どこからかの引用ではなく、言葉で解りやすく説明してくれるとありがたいです

Aベストアンサー

意味としては、どっちも同じ使い方ができるんですが。私の解釈
赦す:罪などをなしとすること。宗教的なところで使われることが多いですし、そういう意味合いが強いかと。恩赦とかいいますしね。

許す:上の意味もありますけど、何かをすることを認める、許可するという感じかと。

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qキリスト教の食事の前の祈り

キリスト教の食事の前の祈り…(十字架を書いて)なんですが、どういう意味を込めてなんでしょうか?
同時に祈りの文章を一緒に戴けたら幸いです☆

Aベストアンサー

カトリック信者です。

十字の意味は、イエスが十字架に貼り付けられ処刑されたのはクリスチャンでなくとも大抵の人が知っていますね。
よって、信者はイエスと同様に自分も十字架を背負って生きていく覚悟で洗礼を受けるのです。
ですから十字架を誇りに思っております。
また「十字を書く」ではなく「十字を切る」と言います。

●十字の切り方
まず自分の心を沈め、神を賛美し神への感謝を込める気持ちに満ちて、
(1)まず、ほぼ額の中央位置で右手中指で軽く触れ「父と」と言葉に出し、
(2)その手中指を胸の辺りに移動して止め「子と」と言葉に出し、(3)次にその手中指を左腕の付け根辺りに移動させて止め、「聖霊のみ名に」と言いながら
(4)右手中指を右腕付け根あたりにて止めた時には「よって」と言い、
(5)最後に両手を合わせ「アーメン」と言います。

続けて言いますと、
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン。」
また、声に出さなくてもよいのですが出せばベストですね。

「父と子と聖霊」は三位一体といって
神様=「父と子と聖霊」
ということを意味します。

●私の場合の食事のお祈り
(1)食事を頂くとき
両手を合わせた状態(いわゆる合掌)を保ち、
「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。
ここに用意された物(食物)を祝福し、私達の心と身体を支える糧としてください。」
ここで十字をきりながら、
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン。」

(2)食事を終えるとき
両手を合わせた状態(いわゆる合掌)を保ち、
「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。
あなたの慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら。」
ここで十字をきりながら、
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン。」
私の場合ここで再び両手を合わせ「ご馳走さまでした。」と言います。

以上参考になりましたでしょうか

カトリック信者です。

十字の意味は、イエスが十字架に貼り付けられ処刑されたのはクリスチャンでなくとも大抵の人が知っていますね。
よって、信者はイエスと同様に自分も十字架を背負って生きていく覚悟で洗礼を受けるのです。
ですから十字架を誇りに思っております。
また「十字を書く」ではなく「十字を切る」と言います。

●十字の切り方
まず自分の心を沈め、神を賛美し神への感謝を込める気持ちに満ちて、
(1)まず、ほぼ額の中央位置で右手中指で軽く触れ「父と」と言葉に出し、
(2)その手...続きを読む

Q教会における懺悔室について

教会にある懺悔室について詳しく知ってらっしゃるもしくは詳細がわかるHPや小説の抜粋等ありましたら教えてください。
必ず知りたいのは<懺悔室にも閉館時間はあるのか><どんな内容でも絶対に神父は意見を言わないのか>です。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

懺悔という制度は、キリスト教でも、たぶんカトリック特有のものだと思います。(ちなみに私は、元カトリック教徒) プロテスタント教会の信徒さんに聞いたら、そんなものはないと言ってましたから。
カトリック教会では「懺悔」とは言わず、「告解(こっかい)」と言ってましたが、今は「ゆるしの秘蹟」と言ってます。

ヨーロッパ諸国を初め、外国のことはよく分かりませんが、私が所属していた日本のカトリック教会では、復活祭(イースター)の前と、降誕祭(クリスマス)の少し前に、教会では「黙想会」というものがあって、そのときは、聖堂で神父の話を聞いて、その後、皆、私語を慎んで黙って祈り、自分の生活や信仰を顧みたりして、さらにその後、神父のいる部屋にひとりずつ入って行って、自分の犯した罪を告白していました。

ただ、これは教会側で設定された告解の日であって、普段の日でも、どうしても告白したい罪等があれば、個人的に申し出れば、神父さんには応じてもらえると思います。

昔は、月に2、3回は告解したものなのに、今は皆、告解をあまりしなくなって、たるんでいる・・・と嘆き怒っていたお婆さんの信者さんをよく見かけましたよ。


大きな規模の教会には懺悔室というようなものが、ちゃんと普段から設置されていますが、小さい教会にはそんなものはありません。私の所属教会でもそうでした。

ただ、教会の中には事務室や、会議に使える小さい部屋や、食堂なんかがありますから、告解をするときは、神父さんがそれらの部屋に入って待っておられて、信者はそこの前に並んでひとりずつ入って行きます。
入ると、神父と信者が顔を合わせないように、一枚もののついたてのようなものが立っていて、その真ん中へんに小さな小窓のようなものがありましたが、細かい網が貼ってあって、お互いの顔は見えなくなっていました。
演劇の舞台なんかで使われているドアだけのセットみたいなものを想像してもらったらいいと思います。
そのついたてをはさんで、罪を告白していました。

ただ、先ほども書きましたが、比較的大きな規模の教会には告解するための部屋がもともとあって、そこに入ると、教会によって造りは少し異なると思いますが、パチンコ屋の景品交換所とか、昔のラブホテルのキーを渡すフロントみたいに、壁で仕切られていて、その壁に小さい窓のようなものはあるけれど、お互いの顔が見えなくなっていて、壁を挟んで話します。

ただ、いくらついたてがあっても、いつも逢っている神父さんと信者さんなら、信者さんの声とか話し方でその人が誰か分かる場合がありますでしょう。そうすると、たとえば、とんでもない大きな罪を告白しちゃったわはいいけれど、次の週からその神父に逢いづらいとかいうことになり兼ねないので、先に書いたような教会が設定している年2回の告解のときは、そこの教会の神父さんはよその教会へ行き、そこの教会には、また別の教会の神父さんが来たりします。そうすると、神父も信者も知らない同士だから、声を聞いても、神父さんが「ああ、あの人だな」なんて
分からないでしょう。


告解する部屋に閉館時間はあるのかということですが、基本的に、やっぱり夜9時とか10時になると、教会の門自体が閉められて、神父さんも就寝しちゃうので、普通だと
ずっと開いているわけではないと思います。
ただ、もう、どうしても今夜中に告白したいのです!と電話入れて懇願でもすれば、その切羽詰まり具合によっては夜中でも応じてくれることもあるのかもしれません。
しかし、基本ややっぱり教会の門を閉めた時点で、告解の部屋も閉まるということになりますでしょう。

あと、神父は告白されたことを絶対に、ほかに漏らしてはいけないというのは、厳守されていると思います。
神父は個人的な意見も特には言わないです。ただ、罪の告白を聞いて「では悔い改めの祈りをしましょう」というようなことを言われて、一緒に祈祷文を唱え、「同じ罪をおかさないようにしましょう」と言われるくらいです。
と言うか、告解の台本みたいなものがちゃんとあって、信者はここでこう言って、それに対して神父はこういうように言うというのが、すでに定型であるんですよ。ただ、その告白する罪のところが各々個人で違うだけで、あとは台詞が決まっているので、その通り言って終わりです。

神父は「告解」のときに、あれこれ意見は言わないですが、たとえば「私は殺人を犯しました」とか「強盗を働きました」とか言う、明らかに法的にも犯罪のことを告白されたら、警察に通報したりしてはいけないことになっていますが、その本人に「自首しなさい」と説得するそうです。これは、現役神父に聞きました。


日本はキリスト教の人口自体がものすごく低いので、映画でも適当なものが思い浮かびませんが、フランスやイタリアなどのカトリック信仰国では、映画にも告解しているシーンがよく出てきます。
たとえば、大ヒットしたイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」や、リュック・ベッソンが監督して、ミラ・ジョヴォビッチが主演した「ジャンヌ・ダルク」なんて映画には、告解のシーンが出てきますから、一度、ご覧になってください。あと、サスペンス映画の巨匠、ヒッチコックの映画の中に「私は告白する」という映画がありますが、これは、先ほどの話ではありませんが、信者に「殺人を犯したことを告白されてしまって、苦悩する神父の話
です。
いずれもレンタルビデオ店に行けば、ビデオがありますから見てみてください。

長文になりましたが、参考になりましたでしょうか。まだ、分からないことがあれば聞いてください。

懺悔という制度は、キリスト教でも、たぶんカトリック特有のものだと思います。(ちなみに私は、元カトリック教徒) プロテスタント教会の信徒さんに聞いたら、そんなものはないと言ってましたから。
カトリック教会では「懺悔」とは言わず、「告解(こっかい)」と言ってましたが、今は「ゆるしの秘蹟」と言ってます。

ヨーロッパ諸国を初め、外国のことはよく分かりませんが、私が所属していた日本のカトリック教会では、復活祭(イースター)の前と、降誕祭(クリスマス)の少し前に、教会では「黙想会」...続きを読む

Qパーセントの計算がまったく出来ません…

本当にお恥ずかしいのですが、パーセントの計算方法を教えて下さい。

お店のバーゲンセールなどでよく「50%オフ」「45%オフ」といった表示を見ます。50%は半分ということは「感覚」でわかるので、定価が2000円ならその50%オフは1000円ですし、1500円なら750円と計算が出来ます。
ですが、たとえば75%オフだとか、44%オフだとか、80%オフだとか、そういう中途半端(?)な数の場合、さっぱりわからないのです。テレビなんかでバーゲンセールを取材している様子を見るとリポーターの女性なんかが「定価が○○円で、65%オフ!?ということは○○円ですね!?」などとパッと暗算で計算しているのを見るととても驚きます。

暗算とまではいかなくても計算機(ケータイにもその機能はありますし)があればいいので、どういう計算式でその%オフされた数字を出すのか教えて下さい。

また、今のバイト先で、商品の売り上げ目標というのを作るのですが、先輩たちのミーティングを見ていると「目標○○万円でしたが、××円しか売り上げがなく、△△%の達成率となってしまいました」と報告をしているのですが、この場合もどのような計算式で計算しているのでしょうか?

消費税を出す場合につきましても教えて頂きたいのですが、今現在の税率は5%で、その計算をする場合は「定価×1.05」で出ますよね。なぜ、1.05をかけるのかわからないのです。

本当にお恥ずかしいのですが、どうか教えてください。まったくわからないので、出来る限り丁寧で細かい説明をして頂けると本当に助かります。よろしくお願いいたします。

本当にお恥ずかしいのですが、パーセントの計算方法を教えて下さい。

お店のバーゲンセールなどでよく「50%オフ」「45%オフ」といった表示を見ます。50%は半分ということは「感覚」でわかるので、定価が2000円ならその50%オフは1000円ですし、1500円なら750円と計算が出来ます。
ですが、たとえば75%オフだとか、44%オフだとか、80%オフだとか、そういう中途半端(?)な数の場合、さっぱりわからないのです。テレビなんかでバーゲンセールを取材している様子を見るとリポーターの女性なんかが「定価が○○...続きを読む

Aベストアンサー

丁寧で細かい説明が希望とのことなので、ちょっと長くなりますが書いてみます。
数学的には無駄の多い説明ですが、分かりやすく説明したつもりですので読んでみてください。

1000円の50%は500円、30%は300円であることは分かりますね?
これは以下計算をしていることになります。
 1000×(50÷100)=500
 1000×(30÷100)=300
●%ってのは●÷100のことです。
で、▲円の●%を求める場合、▲×(●÷100)で計算します。

次、1000円の30%オフって場合ですが、「オフ」=値引きです。
つまり、1000円の30%分を値引きします、ということですよね。
だから、元の値段1000円から1000円の30%分である300円を引いた
残りである700円が答えです。
でもそれを計算するのは面倒なので、ちょっとテクニックがあります。
30%オフということは、元の値段の70%分を求めればよいと考えます。
つまり、1000円の70%なので700円、となります。
ここまではいいですか?

次、達成率の計算ですが、、
目標100万円に対して売り上げも100万円だったら達成率は100%なのは
感覚的に分かりますよね?
つまり、達成率=(実際の値÷目標値)です。
%で表現する場合はこれに100を掛けます。(●%=●÷100だから)
たとえば目標50万円で売り上げ35万であれば35÷50×100なので70%になります。

最後、消費税。前述のオフとは逆で、消費税5%分を上乗せする、と考えます。
つまり、税抜き●円であれば、●円と●円の5%を足した金額が税込み金額です。
式にすると●+(●×5÷100)です。
これが基本ですが、先程のオフの計算のテクニックと同じ考え方が適用できます。
5%上乗せした額ってことは、元の値段の105%分を求めればよいと考えます。
ですから●×(105÷100)です。
ここで出てくる(105÷100)は1.05ですよね。
つまり、元の値段●に1.05を掛ければよいのです。

おまけ。暗算を早くするためのテクニック初級編として3つだけ書いておきます。
1.計算式に掛け算と割り算しかない場合、もしくは足し算と引き算しかない場合、
  順番を無視しても答えは一緒です。
  上の例でいくと35÷50×100は35×100÷50でも答えは一緒です。
  で、100÷50を先に計算して、それに35を掛けます。
  これならすぐに暗算できますね。

2.割り算の場合、前後の数字に同じ値を掛け算しても答えは一緒です。
  たとえば35÷50であれば、前後に2を掛けて(35×2)÷(50×2)でも
  答えは一緒です。
  35÷50の暗算は一瞬悩むけど、70÷100なら簡単ですよね。

3.掛け算の場合、前後の数字を分解して細かく掛け算しても答えは一緒です。
  たとえば25×32を計算する場合、32は4×8なので25×4×8を計算しても
  答えは一緒です。
  25×4は100、100×8で800ということで25×32=800です。
  これなら暗算できそうですよね。

丁寧で細かい説明が希望とのことなので、ちょっと長くなりますが書いてみます。
数学的には無駄の多い説明ですが、分かりやすく説明したつもりですので読んでみてください。

1000円の50%は500円、30%は300円であることは分かりますね?
これは以下計算をしていることになります。
 1000×(50÷100)=500
 1000×(30÷100)=300
●%ってのは●÷100のことです。
で、▲円の●%を求める場合、▲×(●÷100)で計算します。

次、1000円の30%オフって場...続きを読む


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