ガンダム SEEDとDESTINY どっちのキラ・ヤマトが好きですか?

僕は、断然SEED(種)の方です。

SEEDのキラは、よく泣いたり心の葛藤を口に出しながらも逃げずに立ち向かう姿が健気で人間味があって良かったです。
最後の「それでも守りたい世界があるんだ」と言う台詞も良かったです。同性からみても応援したくなります。

ただし、フレイを寝取ったことはいけないと思います。それは批判されても仕方ないと思います。
でもサイとちゃんと和解できたので大目に見てあげます。
それに近づいたのでフレイの方ですし。ちなみに僕はフレイが大嫌いです。あんな女のどこがいいのかわかりません。

それから、ラクスに関しては寝取ったとは言わないと思います。アスランの方から手放したという感じでしたので。
それにアスラン自身もキラとラクスが仲良くすることを責めてませんし、アスランもカガリの方へ行ってますし。


ちなみにDESTINYのキラは、泣いたり心の葛藤を口に出したりがなかったので好きにはなれませんでした。

A 回答 (1件)

メンタル面で弱く、超人の中にもある一般人の悩みと言うようなものがあったseedのキラの方が好きです。

destinyは容姿が良くなっただけで、共感できる部分がなく、主人公の師匠的な立ち位置に置いておくのがふさわしかったと思います。主人公にならなければそれはそれでよかったのかもしれませんが
フレイについてのコメントは-----ふれぃ?誰それ?そんなのいたっけ?-----以上です。
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Q赤穂浪士の吉良邸襲撃の成功の要因は?

赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入って、吉良殺害を成し遂げました。
吉良家は死者16人、負傷者23人に対して赤穂浪士は数人の負傷ですみました。
この圧倒的な差の要因は何でしょうか?
赤穂浪士は甲冑を着て戦っていたのでしょうか?
あるいは吉良家には戦える武士が少なかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

物理的に検証しますと、
1.浪士側は鎖帷子を着込み防御武装していた。  この防御武装では刀では斬れず打撲傷を与える位です。
一方吉良側は寝込みを襲われ寝間着のママの防戦でした。
2.浪士側は暖かい食事、酒で暖をとり十分な準備をしていました。
吉良側は寝起きから寒い寒気に曝され、しかも裸足が多かったといいます。  ある実験では雪中裸足でいると、感覚が麻痺し適格な判断能力や運動能力を欠くようになるという結果が出ています。
3.浪士側は吉良側の長屋の雨戸をくさびで開けられぬようにし、屋外で多数の人数が居るように見せかけのかけ声を交わし、弓を雨戸に射て飛び道具があるように擬装して吉良側の戦意をくじく工夫をした。
吉良側は雨戸が開かず、戸外に出る事ができず、(当時の長屋の雨戸は一カ所でも動かないと開けられない構造でした) 多数の敵がいると錯覚した。
4.浪士側は敵1人に対し2~3人が組になって戦うことにしていた。

このように準備が万全な浪士側に対し統制のある抵抗はできなかった事が吉良側の敗因でした。

QガンダムSEED DESTINYでの前作の主人公のキラ・ヤマト等は何歳なのですか?

ガンダムSEED DESTINYの前作の主人公のキラは何歳なのですか?
(何年後の世界なのですか?)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「血のバレンタイン」が起こったのがC.E.70年
それが引き金で開戦

SEED第一話の時点が開戦してから11ヶ月


SEEDのヤキンドゥーエ攻防戦が71年9月(16歳)

(キラはC.E.55、5月生まれ)

DESTINY第一話はC.E.73年10月でキラは18歳。

おそらくそんなだったはずです。

Q吉良上野介の義理の息子・吉良左兵衛義周について。

赤穂浪士討入後、信州諏訪の高島藩のお預かりになった
吉良上野介の義理の息子(実際には孫だそうですが)
吉良左兵衛義周についての詳しいお話または資料を教えて下さい。
No.212488の質問にも同様のものがありますが、
更に詳しいお話をお聞きしたいので、
書き込みさせて頂きました。
ちなみに私が今まで集めた資料は、
『吉良の言い分・外伝』
『吉良さま御味方』
『上野介の忠臣蔵』
です。
亡くなった年齢や墓地のあるお寺等はわかったのですが、
高島藩での義周への対応等について
詳しく知りたいです。
(『吉良さま御味方』には高島藩の対応は悪かったと、
『吉良の言い分・外伝』には悪くはなかったと書いてあるのですが…)

Aベストアンサー

下記のHPに吉良義周受け入れ時の高島藩の対応が古文書で示されています。それによりますと、吉良家の当主らしく丁寧に扱われています。当時、城主格の人物が流罪になるときには、将来、再興されることがありますで、あまりおかしな真似はできません。同じ綱吉の治世、高田藩、松平光長・綱国父子が松山や福山に流されましたが後、津山10万石として再興されました。

参考URL:http://www.city.suwa.nagano.jp/scm/kikaku/kira/index.htm

QガンダムSEED DESTINY、ハイネ何話死ぬの?

ハイネが何話で死んだのか教えてください

どうぞよろしくお願いします!

Aベストアンサー

PHASE-23 戦火の蔭
http://www.nifty.com/b-ch/cs/title/detail/395/4.htm

Q吉良が浅野をいじめた証拠は?(赤穂浪士)

元禄14年2月4日:吉良義央と浅野長矩が勅使饗応役を拝命
2月29日:京都から吉良が戻る
3月12日:勅使・院使が登城し、聖旨・院旨を将軍に下賜する儀式
3月13日:将軍主催の能の催しに勅使・院使を招く
3月14日:吉良が旗本と儀式の打ち合わせ中、浅野が切りつける

刃傷の原因ははっきりしないようですが、
両者の間にトラブルがあっとすれば2週間の間のことです。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

この、1.2.3の質問に関しては、私も知りたいくらいです。
ただ言えることは、
(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。
(2)従って、元禄14年(1701)の時も、従前にならって準備を進めたと考えられます。
(3)しかし、この年は、5代将軍綱吉の母桂昌院(お玉の方)へ従一位が贈呈されると思われた年で、将軍綱吉も「そそうの無きように」とのお声があった、とも言われています。そして、吉良上野介が京都から帰って(あなたのおおせの通り、2月29日)から、院使清閑寺熈定の一行が3月10日に品川宿に着いたことを受けて、浅野氏も同日、伝奏屋敷に入りました。だが、この年の饗応には「特別な意味合い」がありましたので、2月29日から3月10日の間に吉良氏から「数々の変更」を指摘され、予算を大幅に超える事態となった、と言われています。
(4)だが、この事が「直接の原因」として、後の歌舞伎などでは取り上げられていますが、史実は「全くの不明」です。
(5)一説には、(吉良側の史料では)、
<1>吉良の拝領地三河国幡豆郡(その他にも、上野国緑野郡、碓氷郡を拝領)で「塩田開発」を真似ようとしたが、教えてもらえなかった。
<2>元禄3年(1691)12月23日に浅野は本所周辺の「火消し大名」に任命されたが、元禄11年(1698)9月6日に起きた火災での際、鍛冶橋にあった吉良邸を全焼させてしまい、吉良は浅野を嫌っており、対立が深まった。
<3>浅野家の小姓を吉良が所望したが断られた。
<4>高家肝煎の吉良に、教えを請うのに、浅野家江戸家老安井彦右衛門や藤井又左衛門らの「付け届け」をしたほうが良い、との忠告に従わず、「授業料」を払わなかった。
こうして、二人の間に対立関係が生じた。
などとも言われていますが、いずれも「確たる証拠」は残っていません。と、言うよりも見つかっていません。
なぜならば、ご存知のように、浅野内匠頭は、ただちに、奏者番田村右京太夫(陸奥一関藩主)の屋敷にお預けとなり、即日、切腹。となりましたので、浅野がどのような「遺恨」であったかが、書き残されていないためです。
(6)後世に幾つもの「推量」で書かれた本などもありますが、
例えば、
前回にならって、畳の表替えだけで良かったものが、吉良の指図で、急遽、畳全部を取り替えるよう、前日になって言われた。
とか、勅使の好みが違うので、食材を全部調達しなおした・・・。
などと、誠しやかに書かれていますが、全くの「闇」の部分です。
(7)ただ、>>3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。<< については、江戸詰家老や江戸詰藩士たちは、実際に「困らせられる」ようなことがあったとは思いますが、江戸詰家老たちは「討ち入り」に参加をしなかったため、日記などがあったとしても、一躍、浅野内匠頭が「時の英雄」となったため「闇から闇へと」葬られた可能性が高いと考えます。
また、江戸詰藩士の中でも最長老の堀部金丸(弥兵衛)などの日記も残ってはいるようですが、一切、「いじめ」に関しての記述は見当たらないそうです。

(よもやま話)
(1)「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」、江戸時代中期の元禄時代に書かれたと思われる、当時の各藩の藩主や政治状況を解説した本。当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目される一方、編著者名や製作された目的も未だ不明で、「謎の史料」とも言われる。
によると、
長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好事、切也。故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。
浅野内匠頭について、以上のような記述がされており、
「知恵」や「公正さ」があって、武士も民も豊かだった。しかし、いかんせん、「女好き」であった。そして、数え歳17歳で赤穂藩主となったため、また、筆頭家老の大石内蔵助にしても、若干25歳であったため、一番年長の大石頼母助(内蔵助の大叔父で、浅野家とも親戚)や末席家老の大野九郎兵衛知房などに政務を任せたことが書かれています。
しかし、「女好き」にもかかわらず、子息子女はできず、弟大学を養子にしています。
ただ、「土芥寇讎記」は、刃傷事件の約10年前位に書かれたものだと言われ、浅野びいきで書いたものではないことは確からしいのですが・・・。
(2)井沢元彦氏の著書「逆説の日本史・忠臣蔵はデタラメだらけ」という本によると、
<1>刃傷は「松の廊下」ではなく、白書院(公式行事用の部屋ではあるが大広間よりも少し内輪の儀式用)で、吉良が老中などとの打ち合わせを終えて出てきたところを浅野が切りつけた。従って、「松の廊下」ではなく「白書院」の前の廊下が正しい・・・と、力説しています。

しかし、「梶川氏日記」を詳細に調べた結果、(口語訳ですが)、
「御白書院(桜間)の方より、吉良殿が御白書院よりやってこられました。・・・(中略)・・・私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もあるところで、吉良殿と出会い、互いに立ったままで、私が、今日、お使いの私の時間が早くなりました。と一言二言話したところ、突然、浅野殿が・・・」
と、あり、となると、現場は「松の廊下」だ、と、中央義士会の中島康夫会長も是認しています。

この「梶川日記」は、梶川与惣兵衛の残した日記で、梶川は、いわば、饗応役の使い走りで、まず、浅野と打ち合わせをして、次に、老中との打ち合わせが終わった吉良と相談すべく、浅野の数歩先を歩いていましたが、浅野が刃傷に及んだ時、あの有名な「浅野殿、殿中でござる。殿中でごさる」と叫んで、浅野の背後から止めた人物で、その後、この褒美として、500石を加増されています。

<2>井沢氏は、「松の廊下」には、良くTVなどで見るような「大きな松」が描かれてはおらず、実際は、「松原の様子」を描いたもので、海と砂浜、松、千鳥がバランスよく描かれたものである。とも言っています。これには、1988年に東京国立博物館で江戸城本丸御殿の障壁画下絵が発見されたからだ・・・とも書いていますが、

要は、「松」が大きかろうと、小さかろうと、「松の廊下」と呼んでいたには違いないのだから・・・と、「史家」や「学者」は反論しています。

まあ、まだまだ、真実は否かは別として、「面白い話」もありますが、長くなりましたので、この辺で・・・。

少しでも、あなたのお役に立てばと、思います。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.この間、吉良と浅野は何度会っていますか?
2.吉良と浅野が二人だけで話をする機会がありましたか?
3.浅野側近の者は何といっていますか?いじめの現場を見た者はいないのでしょうか。

この、1.2.3の質問に関しては、私も知りたいくらいです。
ただ言えることは、
(1)浅野内匠頭は天和3年(1683)2月6日にも、零元天皇の勅使饗応役を仰せつかって、江戸に下向した花山院定誠や千種有能の両名の接待を無事努め上げています。
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QガンダムSEED 双子のキラとカガリについて

現在レンタルでDVD5巻まで見ました。
地球に降り、主人公(キラ?)がカガリに会い砂漠の虎の屋敷に行った所まで見ました。

疑問に思ったのですが…


1、Wikipediaでは彼らは特殊な双子でカガリは姉だと言い張っているという事が書かれていましたが、キラとカガリはいつ自分達が双子だという事がわかるのでしょうか?

2、カガリは再度砂漠で出会った時に「なぜお前がそんな物に乗っている」といったアスランのような発言をしていますが、カガリはキラの事を知っているのですか?
キラは最初に助けた女の子という印象しかないように思いました。


続編は女関係でゴタゴタしてる感じで見る予定は無く、SEEDも先まで見たらわかるかも知れませんが、DVD6~8巻がレンタルされていていつ返却されるのかわからないので飛ばして見る事が出来ずにいるので教えて下さい。

Aベストアンサー

これはDVDを見つづければ解決すると思いますが、カガリのおやじさんが死を決した時にカガリに1枚の写真を渡します(たぶん、あいまいですみません)そこには2人のあかちゃんを抱いた女の人が映っていて、裏にカガリとキラという名前があったように思います、これでカガリはキラが双子の兄弟だと知るんですね

砂漠であった時のセリフはコロニーで助けられたただの少年?ぐらいにしか思ってなかったのでしょうか、それがガンダムに乗っていたのでそういうセリフになったのかな?

ちょっと古いので記憶があいまいかもしれません

Q吉良上野介は悪人でしたか?

忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、
吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。
1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?
  性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。
2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか?
3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか?
4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しスケジュール変更があった。吉良上野介はその連絡のために走り回ったり、老中たちと打ち居合わせをしていました。

浅野は家来とともに勅使らの宿舎・伝奏屋敷に併設された長屋に泊まり込みで生活の世話をしていましたが、勅使らよりも一足早く登城して玄関で出迎えることになっていました。

勅使らは予定よりも早く登城したことから、急なスケジュール変更になったようです。伝奏屋敷での時刻管理にミスがあったようですが、それが浅野の指示によるのか、伝奏屋敷にいた家来が間違ったかは定かではありません。

製塩に関係する確執があったという説はすでに否定されているし、賄賂(まいない)は吉良に限らず立場上当然のこととしていた人が大勢いるので、吉良にだけ少なかったということは考えられません。

ほとんど問題にされていなかったことですが、当日になっての急なスケジュール前倒し変更については検討すべきことだと思います。

さて、それがどうして討入事件に発展したか、です。

将軍綱吉は、自分の生涯でできなかった仕事を託そうと、次期将軍には娘(鶴姫)が嫁いだ紀井徳川家の綱教を考えていました。
ちなみに、紀井徳川綱教の妹は吉良上野介の息子・上杉綱憲の正室です。

一方で、甲府の松平綱豊(のちの徳川家宣)が次期将軍にふさわしいと考えている人たちがいました。
綱豊の正室は朝廷の実力者、関白の近衛基煕の娘・煕子です。
水戸光圀の正室の甥が近衛基煕ということもあって、光圀は次期将軍に甲府の松平綱豊を推していました。

吉良上野介は幕府の朝廷との窓口で、騒るさがられた存在でした。

刃傷事件の三ヶ月前に、水戸光圀が亡くなりました。

事件の3日後に、将軍綱吉は初めて紀井徳川家江戸屋敷を訪問しています。

刃傷事件の報を受けた近衛基煕の日記に「秘事」という言葉がありました。

各大名家に、参勤交代の時江戸に余計な従者を連れてくるな、との仰せあり。

事件の翌月、四月から六月まで幕府の軍隊を総動員した銃と弓による射撃演習がくりかえしおこなわれ、それが終わると江戸にいる大名が集められ、武家諸法度の厳守がいいわたされました。

この時点で、反綱吉派との和議が成立したのでしょう。


討入は幕府は幕府主導で行われたものでした。
はじめ吉良屋敷は鍛冶橋門内にあり、元禄十一年九月六日の大火で焼けたため、呉服橋門内に新たに屋敷を拝領しました。
そして、浅野内匠頭による刃傷事件発後、本所御竹蔵跡にあった松平登之助信望の屋敷だったところに移ったのです。

松平登之助の屋敷は、本所の前は神田川沿いにある神田佐久間町一丁目の北にありました。その屋敷が吉良の鍛冶橋の屋敷と同じ火事で焼けたため、本所の御竹蔵跡に新たに屋敷を拝領したのです。

浅野内匠頭による刃傷事件は、元禄十四年三月十四年日。松平登之助に下谷への屋敷替の命が下ったのは八月十二日。登之助は翌日には指定された屋敷の受取証を提出しています。

吉良上野介に本所御竹蔵跡の松平登之助の上ケ屋敷への屋敷替の命が出たのは八月十九日で、本所屋敷の受取証提出は九月三日でした。

ここで二つの注意事項があります。その一つは、「屋敷」の意味。本来は「館を建てるための敷地」です。しかし、館があるものを居抜きで拝領することもあります。

もう一つは、本所松坂町という町は元禄十六年十一月の大地震に続く大火の復興後にできたものでいっぺんにできたものではないし、本所松坂町は町人の住むところなので、「本所松坂町の吉良邸」というのはおかしい。「本所松坂町があった場所に吉良邸があった」のですが、松坂町の名も今から80年以上前になくなっています。

元禄十一年九月六日の大火後に吉良が拝領した呉服橋内の屋敷や松平登之助が拝領した本所御竹蔵跡の屋敷は、整地した後に区域わけの新道を敷いたり排水溝をつくっただけのもので、更地のようなもの。館は屋敷を拝領したのち、自前で建てたのです。

元禄十一年九月六日の大火は、万石以上の大名屋敷だけでも80以上も焼きました。それ以下の旗本・御家人の屋敷や町屋、寺地などを含めたデータは史料により差がありますが、今の銀座五、六丁目あたりから南千住まで焼き尽くしたたいへんな火事でした。

大火後の建築ラッシュを考えれば、松平登之助および吉良上野介に屋敷替の命が出た時点で、築2年ほど。松平登之助の本所御竹蔵跡の屋敷も吉良上野介の呉服橋門内の屋敷も新築に近いものです。

松平登之助は将軍の側に仕え、政以外の日常の諸事にかかわる「小姓」でした。彼には極めて親しい松平右京大夫という従兄がいました。その松平右京大夫は、柳沢出羽守保明(のちの美濃守吉保)とともに中央政治に深く関与していた側用人(この当時は側用人という言葉はなかったが)でした。

大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

武家地の辻には辻番がいて、夜でも戸・障子は閉めずに監視し、一とき(時・刻)に一度は周囲をパトロールすることになっていました。辻番の番人には二十歳から六十歳までの年齢制限があり、昼夜の番人の人数規定もありました。

辻番は、大名・旗本家が運営・管理していましたが、幕閣の若年寄もまた管理していました。若年寄の配下の目付の下にいる御徒目付(おかちめつけ)が、辻番を巡回して勤務状況などをチェックしていたのです。

辻番は番人に老人を使ったり、番小屋では食べ物を売ったりしていたといわれますが、それはのちに町人が請け負うようになってからのことです。

吉良屋敷の南西角に、辻番がありました。吉良屋敷とは地続き、北隣東側にあった本多孫太郎屋敷の北東角にも辻番がある。町屋には自身番があります。

辻番・自身番は、今の交番よりもはるかに密度が高い。

前原伊助は、吉良屋敷とは道を挟んだ南隣の本所相生町二丁目に店を開いていたので、討入前から赤穂の士が何人も出入りしていた。吉良屋敷の辻番のすぐ近くに浪人風情が何人も来ているのに何のお咎めもない。大石内蔵助は、「どうもおかしい」と思って江戸の同志に問き質だしたのでしょう。

松平登之助が住んでいた屋敷に吉良上野介が入ったのですが、松平登之助の屋敷だった時には南にあった表門が吉良屋敷になったときには東に移設されていました。

大石内蔵助ら表門隊は東の表門脇に梯子をかけて屋根から邸内に飛び降りて侵入しました。

表門が南にあったとしたなら、こうはいきません。当時の江戸には10か所の定火消役屋敷といくつかの大名屋敷にしか火の見やぐらがなくて、町人の住む町には屋根番がいました。

烈風のときや火事情報があったときは屋根に立って周囲を監視する。
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。

表門が東なら、屋根番の死角になります。

武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

それともうひとつ。都合のいいことに、吉良屋敷からさほど遠くないところに(現在の京葉道路と清澄通りの交差点近く)、中山勘解由の屋敷がありました。「鬼」と恐れられた初代火付改です。

中山勘解由は、放火容疑者を大量に捕まえ、拷問にかけて自白させた。拷問に耐えかねてウソの供述をした者がいたということで、「鬼勘解由」といわれていました。

事件当時、中山勘解由は「御使番」でしたが、御使番の職務の中には火事の際の定火消と大名火消の監督もあったのです。

近所に「鬼勘解由」が住んでいれば、夜中に多少騒がしくても野次馬に出ることはできません。

そんなわけで、討入は事前にお膳立てができていたのです。

ちなみに、吉良屋敷の北隣西側は当時の老中首座(土屋相模守政直)の本家、土屋主税逵直の屋敷。北隣東側は家康の次男(二代将軍秀忠の兄)を祖とする越前松平家の家老・本多孫太郎長員(二万石)の屋敷でした。

本多孫太郎は越前松平家の監視役ということで大名格として特遇されていたことから、江戸に屋敷を拝領していました。孫太郎本人は越前府中に常住で、江戸屋敷は本多家の江戸出張所のようなものでした。

本多家の江戸常府のナンバー2に忠扶衛門政常という人がいて、この人は堀部弥兵衛夫人(後妻・ほり)の弟でした。

そんなことから赤穂浅野家が改易になって鉄砲州の上屋敷が公収されたとき、屋敷内の長屋に住んでいた堀部一家は、本多孫太郎屋敷内に独立した居宅を与えられていた忠扶衛門宅に仮住まいし、その後、両国橋の西、広小路近くの「矢之御蔵」(米蔵)跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越しました。

弥兵衛・安兵衛が切腹してからしまらくは、両未亡人は忠扶衛門宅にいました。襲撃事件現場の隣です。

忠扶衛門の次男、文五郎は堀部の家を継いで熊本の細川家に士官。堀部家は熊本の地にずっと続いていたのです。

堀部弥兵衛の記録によれば、「吉良上野介が勅使らの宿舎・伝奏屋敷で浅野内匠頭に悪口を言った」ということです。
どのような悪口かはわかりません。

広島の浅野家がのちにまとめた文書によれば、浅野内匠頭がそのときになって場当たり的に吉良上野介に質問したことから」、他の人のいるところで「今になってそんなことを」と言われたとあります。

また常憲院御実記によれば、浅野内匠頭はよく「時刻を間違えた」ということです。

浅野の刃傷を制した梶川輿惣兵衛の日記によれば、当日の朝になって急な前倒しス...続きを読む

QガンダムSEEDにおけるキラの「やめてよね」のシーンに関して

ガンダムSEEDにおけるキラの「やめてよね」のシーンに関して

前提として私はアニメの作品やキャラに格別思い入れたりシリーズ云々で批判することのないオジサンです。

機動戦士ガンダムSEEDの「やめてよね」の部分におけるキラの言動はよく批難されるシーンのようで、第三次スーパーロボット大戦αというゲームで再現された時も味方から批難されており、ニコニコ動画の関連動画などでも批難している人を見ました。
しかし、正直私にはそんなに批難される理由がわかりません。
強引にフレイに迫っているようにしか見えないサイに対しては冷静に話で対応しようとしましたし、それでカッとなったサイにいきなり殴りかかられたキラが腕関節をとっても正当防衛です。純粋に格闘でサイが勝てないのも事実でしょう。
もともとフレイとサイの間に恋愛のような関係があったのが~という男女間のもめごとの部分も自由恋愛と言ってしまえばそれまでです。
強引なサイを制止しようとし、殴りかかられても怪我もさせていない彼がそこまで非難される理由がわかりません。
上述のゲームでは「お前より強いやつはごまんといる」と、それほど思いあがっていないように見えるのに、キラがひどく思い上がっていて、なおかつそれが全ての原因であるかのように言われており、サイのしたことが全て無視されて片付けられているのも納得しかねます。

どういうことなんでしょうか?

ガンダムSEEDにおけるキラの「やめてよね」のシーンに関して

前提として私はアニメの作品やキャラに格別思い入れたりシリーズ云々で批判することのないオジサンです。

機動戦士ガンダムSEEDの「やめてよね」の部分におけるキラの言動はよく批難されるシーンのようで、第三次スーパーロボット大戦αというゲームで再現された時も味方から批難されており、ニコニコ動画の関連動画などでも批難している人を見ました。
しかし、正直私にはそんなに批難される理由がわかりません。
強引にフレイに迫っているようにしか...続きを読む

Aベストアンサー

う~ん、あのシーンでキラが悪者っぽく見えた(サイにも視聴者にも)、というのであれば、あのシーンの演出は成功だった、ってことですね。

でもこのシーン、単に「痴情のもつれ」を描いただけの場面ではありません。
終盤で、キャラクターは異なりますが、これとそっくりのシチュエーションのシーンがあったことも思い出して欲しいのです。
そう、アズラエルの少年時代の回想シーンです。
(作品のテーマに関わる重要なシーンですが、「やめてよね」のシーンはこれと対になるものです。)

アズラエルにとっては、自分とは異質な(しかも自分より圧倒的に能力の高い)者に対する、嫌悪・嫉妬・恐怖・憎悪を明確に意識した事件であり、彼がコーディネーター根絶のための戦争を遂行する、情熱の原動力となるものでした。

そして、程度の差こそあれ、同じものがフレイの中にもサイの中にもあります。
フレイはコーディネーターであることだけを理由に、ラクスを「気持ち悪い」と言いますが、サイはそれをたしなめます。
しかしそのサイ自身も、自分の中に同じものがあることを初めて自覚したのが、「やめてよね」のシーンでした。
サイに、アズラエルと同じぐらいの恐怖と屈辱を味わってもらうためには、「やめてよね」のシーンは必要不可欠で、そのためにはキラが思いっきり悪役っぽく見える演出が、必要だったのだと、私は解釈します。

……で、一番大事なのは、「その後サイは、アズラエルと同じ道は歩まなかった」、ってとこなんです。
それを描くためには、「やめてよね」のシーンを外すことはできません。
表面に現れた事象だけ描写すると、「キラって根性悪りぃ~!!」で終わってしまうのですが、もっと作品の内面に踏み込まないと、もったいない気がします。

キラとサイとフレイ、誰が悪いのかって話は、(子供のケンカなんだし)誰かが一方的に悪いのでなく、結局皆それぞれに悪いところがあったのだと思います。
当事者はそれぞれに乗り越えたのだから、周りで見てる大人は温かい目で見守ってやれば……と思うのです。

まぁ、作品の受け止め方は人によって千差万別ですので、どれが正しくどれが間違っているってものでもありません。
私のも含めて、他者の解釈に振り回される必要はありませんよ。

う~ん、あのシーンでキラが悪者っぽく見えた(サイにも視聴者にも)、というのであれば、あのシーンの演出は成功だった、ってことですね。

でもこのシーン、単に「痴情のもつれ」を描いただけの場面ではありません。
終盤で、キャラクターは異なりますが、これとそっくりのシチュエーションのシーンがあったことも思い出して欲しいのです。
そう、アズラエルの少年時代の回想シーンです。
(作品のテーマに関わる重要なシーンですが、「やめてよね」のシーンはこれと対になるものです。)

アズラエルにとっては...続きを読む

Q忠臣蔵・赤穂浪士・吉良について

忠臣蔵といえば映画にもなっているし、いろいろな言い伝えなどもあると思うんですが、どっちかといと吉良の方を悪く?書いているほうが多いですよね。それ前提として思うのですが、赤穂浪士の土地兵庫県赤穂市の方と吉良の土地愛知県吉良町の方は仲とかは悪いのでしょうか?もう昔の事だろうし大げさかもしれないですが、少しは現代にも何かしら尾を引いているのいでしょうか?また、やはり赤穂市と吉良町では忠臣蔵の伝わり方(内容)などは違うのでしょうか?

Aベストアンサー

事件の真相は一先ずおいといて・・・

最近は確かに交流の行事はありますが、赤穂ではやはり吉良への反感は根強く、吉良のことを良く言う方はほとんどいません。
吉良は強欲爺、浅野さんは可愛そうな殿様という昔ながらのイメージが今も息づいています。赤穂義士は当然、郷土の誇りであり英雄です。

以前、赤穂城のすぐ近くに「四十七人の刺客」という映画で使われた吉良邸の表門のロケセットを持ってきて公開していたのですが、その時も市民から大変な反対がありました。映画のロケセットとはいえ、赤穂に吉良の屋敷など気が悪い!けしからん!!と。
しばらく観光客で賑わったようですが、結局そのセットはいつの間にか撤去されていました。

ちなみに討ち入りに参加せずに逐電したことで評判の悪い家老、大野九郎兵衛は悪役として千種川の土手の改修に関する民話にも登場してきます。(大野があまりに酷使するので人夫がみんな厠に行ってしまい、ゆっくりタバコを吸っていたので奉行が交代させられた・・・というような話だったように記憶しています)

QガンダムSEEDのキラはなぜアンチが多い?

ターンAガンダムのロランは人気者なのに
なぜガンダムSEEDのキラはなぜアンチが多いのですか?

二人とも性格は穏やかで優しいですし

守るべきものために精一杯がんばるといった似ている点もあります。

キラの最終回での「それでも守りたい世界があるんだ」と言う台詞はかっこよかったです。

Aベストアンサー

自分が思ったのは
・親友の女を寝取る(しかも2回も!)
・大した努力をしてる様子もないのに強すぎる
・戦争やってるのに誰も殺さず機体だけ破壊とか無理すぎでしょ。
こんなとこでしょうか。
質問者様には申し訳ありませんが精一杯がんばるというよりかは
都合が良すぎるだろって感じてしまいました。


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