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幽霊っているんでしょうか?
色々体験したことあるんですけど
未だに信じられません
みなさん体験談とかありますか?

A 回答 (5件)

科学的とかいうものにもいろいろありますし、物理学もあれば医学も科学ではあるけれども、私の知っている科学は、最初から幽霊を否定するわけではないようです。

ただ、個人の妄想の類ならいくらでもあるけれども、少なくとも、その現象を、「結論有りき」で話を進めたら、信用に足るものではなくなってしまいます。科学だからこそ、分からないこともあると言い切ったほうが、科学的な回答かもしれません。

ただ、こういう問題で、よく言われることは、見る前と見た後のその人の恒久的な心理的な変化があるかをもって、その現象が、事実であったかどうかを判定できるというように言われていると思います。(このことは講談社ブルーバックスの『怪談の科学』などには出ていたはずです。)

さて、想像を交えてなので、恐縮なのですが、今、ふと思ったことですが、これは、おそらく、非常にプリミティブ(原始的)な感覚なのではないでしょうか。昔は、通信手段も限られていたし、相手に連絡する方法もないのに、相手に伝える方法のひとつではないかと思いました。

特に、亡くなった後に、自分の死をどうしても伝えたいということで、そういうことが起きたのではないかと思いました。これは、心理学者の宮城音哉先生も、戦後、フィールドワークを行ったそうですが、かなり高い確率で、「虫の知らせ」の現象を得られたというそうです。これを幽霊や霊魂の存在に結びつけるというのは、別問題ですが、ユング心理学などでは、深層心理の段階で、人の心のつながりが見いだせるとも言われています。

信じない人でも、肉親や親族の死に対して、また親しい友人などの死を、どういうように受け止めるかによっても変わってくるはずです。もちろん、幽霊として見える人はそれほど多くないかもしれませんが、まったく幽霊などいないと思う人は、人の死は孤立した事象だと考えているのではないでしょうか。また、人とのつながりをどのように考えていくか、有機的にみるのか、それとも無機的なものとしてみるのかによっても違うと思います。

      芥川 龍之介
   また立ちかへる水無月の
   歎きを誰にかたるべき。
   沙羅のみづ枝に花さけば、
   かなしき人の目ぞ見ゆる。

この歌は、芥川が自分の愛している女性の死後に作ったものだそうですが、それを数学者の岡潔氏は、まったく別の意味に受け取りました。「かなしき人」とは、情念と悲哀を持った人であり、沙羅(さら)の木というのは、めったに花が咲かないけれども、お釈迦様が亡くなった時に、一斉に花が咲いたと言われている故事からですが、沙羅の花が咲いた時に、自分の大事な人が亡くなったことを知るということです。幽霊は幻影かもしれません。しかし、その脳の創りだす幻影にも、まったく無意味なものではない、意味が分かる人がいるのです。幽霊を見た時にそのメッセージを受け取ることができれば、それは、幻影(ファントム)はファントムではなくなります。

ちなみに、歌の女性は、片山廣子氏だと言われています。この方は、「花子とアン」の村岡花子氏の事実上の学校の先輩であり、翻訳者としても先輩にもあたる方です。

私個人のことですが、今、もう40年近く前に親しかった人の姿が、最近、突然浮かんできて、何かがあるのか、もう調べても調べられないものの、気になってしかたがないのです。連絡をとる手段はないものの、どこかで心と心は未だつながっているのだろうと思っています。

とかく、今どきは、幽霊譚は、流行らないのかもしれません。テレビでは、興味本位に人を驚かすだけなのか、それともフィクションにしてしまいます。幽霊という現象ではなく、幽霊の話は、昔も今も、その持っているストーリーは多かれ少なかれ悲しいものなのだと思うのです。それは、存在がある・なしで割り切れるものではないはずなのです。おそらくは、物理科学の世界にはいないでしょうけれども、それは、文学の世界には存在するものでしょうし、それはまた、その死者の思いを汲み取れればこそ、それにまさる慰霊はないと思うのです。

>みなさん体験談とかありますか?
私のそれは大した事ではありません。上記で書いているように、自分にとって意味のあるものとそうでないものがあるというだけです。自分にとって意味があるものは、誰かに、それを理解してもらう必要はまったくありません。まして人に話すようなものではありません。ただ、幽霊をみたという本人が、幽霊の現れた理由を理解できない場合は、悲しい気持ちになるのです。

私の生まれた実家は、代々の幽霊の話はつきものでしたが、歳を取るにつれ、その幽霊の現れた意味が分かるようになりました。そして、それは、その存在よりも、その思いこそに意味がある、ということなのでした。その思いは、今生きている人たちの幸せを願うものなのに、そうにはならなかったという二重の悲しさがあるのでした。
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幽霊が存在しないという立証は誰にも出来ません。



例えば、幽霊と言う変な知識が有りますから、脳が錯覚を起こしたり補正機能が働いた時に、その変な知識が使われると考えた場合、反対に、脳の錯覚や補正機能と言う知識によって、実在の何かを見ても、何でも無い物・見ていないものと、錯覚してしまう可能性が出てくるわけです。
真に『枯れ尾花正体見たら幽霊だ』と言う所ですね。

怖い怖いと思っていれば、脳が錯覚して怖い方に補正すると考えた場合、怖くないと思っていると、脳が錯覚して怖くない方に補正する可能性も生じ、一方では、怖いと思っていない時に見た幽霊は、本物(少なくとも錯覚ではない)と言う事になります。

そして脳の錯覚や補正機能などによっての思い込みを主張すればするほど、幽霊はいない、見ていないという判断の方が、脳の錯覚や補正機能などによっての思い込みである可能性が同時に生じます。
実在の否定は出来ないわけです。

もちろん、脳の錯覚や補正機能による事象を医学的にも科学的にも説明出来ても、幽霊がいない立証には全くなりません。説明が出来る事と、証明や立証は、別の事だからです。
(当然、霊の存在を前提に、説明する事も出来ます。)

むしろ、脳の錯覚や補正機能で見るものなら、幽霊以外の様々な錯覚を見そうなものです。変な知識なら幽霊以外にもいくらでもあるのに、なぜ幽霊の形の錯覚しか見ないのか?と言う疑問が残ります。

また、物質として存在しないのなら、物的痕跡を残す例や、
複数同時の目撃などは、説明が困難です。

結局、どこまでいっても幽霊がいない、証明や断言は出来ません。
何らかの形でいるかも知れない?としか、
今の時点では、言いようがないように思います。


信じる信じないは、純粋に個人の判断ですから、
どちらもあり得るでしょうし、自由でしょうし、
主観や比較対象で、いくらでも変わりうると思います。

>みなさん体験談とかありますか?

はい。あります。

ただ「体験があるから霊は存在する」と、
主張したいわけじゃないんですよね。
むしろ体験があるので、これは何なのか?の、
科学的な答えを、知りたいんです。

脳の錯覚や補正機能で“説明”をいくらしても、
再現性を持って、科学的に立証する事が出来ないと言う意味では、
霊界が存在するから霊はいるのだ。の“説明”と、
同じレベルに思えます。
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つまり、霊感がそうさせるだけで、実際は居ません。


見えるというのは、霊感により半透明で映像的に見えるというものです。
それはどこから?というと、この世ではない異次元です。
みた、感じた者にしかわかりません。共通して同じことを言います。
つまり、個人の錯覚ではないのです。
江原さんの言っていることを参考にしてみてください。
中傷がありますが、それは、やはり科学的に解明できないことであるので
仕方のないことです。
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存在しない物です。


幽霊と言う変な知識が有りますから、脳が錯覚を起こしたり補正機能が働いた時にその変な知識が使われたり居ますので、
明るいところから暗いところへ入った時の残像現象の残像を人の様に補正してしまったり等としますので、何でも無い物を
幽霊と錯覚してしまうだけです。
真に『幽霊の正体観たり枯れ尾花』と言う所ですね。

> みなさん体験談とかありますか?

ありますよ。
子供の頃に自室に入って灯りを点けようとした時に青白い人型の影と言うか光と言うか見た事も有りますし、人魂と言われる
現象も見た事も有ります。
極め付けは階段を上がってくる音は全くせず、自分の部屋の前から足音が聴こえ、隣の部屋(空き室)に入って動き回る様な
音も聴いた事もあります。
この時はまだ覚醒している時で有り眠気など全く無い時でしたが、それでも医学的には説明出来るものなのでしょう。
当時は古い家でしたから、足音を立てずに階段を上がってくる事など超至難の業ですし、踏み板に体重がかかれば軋み音も
する程でしたからね。(笑)
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いません。

見えるだけです。
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この回答へのお礼

見えるだけとは?

お礼日時:2016/04/21 00:44

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