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「天才と狂気は紙一重」というひとつの事実は何でしょうか?
例えばバイロンの家系は代々精神病者で、その過程で生まれたバイロンは天才といわれています。なぜそのような家系に生まれる必然があったのでしょうか?
もちろんバイロンのみならず、有名な芸術家はほとんどそれを網羅しているといってもいいほど、精神を病んだり、自殺をしたり、型破りであったりします。芸術にとってその必要性とは何でしょうか?

医学的、心理学的、哲学的どの分野でもかまいません。よろしくおねがいします。

A 回答 (20件中1~10件)

分業と密接に関連します。


天才とは、異常な能力を最低限ひとつの特定の分野で発揮することです。
なので、ほかの回答ともかぶりますが、

その分野に超集中できる感性を持っている人も多いのです。つまり、ほかの事が見えないし、興味もないこともある。こうした類の人たちは狂気って言っても良いと思います。
特に、自分の興味があることの「意味」なんて問いません。ひたすら、それに没頭できるのです。囲碁の世界では、ごせいげんという伝説的な棋士がいますが、この人は、目の前で対局相手が急病で倒れていて、周りが騒然としていても、まったく気づかずに周囲に静かにしろ、対局中だといったそうです。

でも、エジソンのように、ビジネスも好き、お金も好きなんていうやつもいます。つまり、結果的に異常な能力を発揮すれば天才なので、その発揮の仕方はさまざまでありえます。
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この回答へのお礼

俗に言う「おたく」とはそういうことだと思います。
おたくのイメージはとかく悪くいわれがちですが、私は天才肌を感じます。

エジソンがお金好きだったとは…意外ですね。でもビジネスのために左脳を使うようになっては天才もおしまいだと思うのですが、そこはエジソン、欲望も発明の原動力とさせたのでしょうか。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/27 14:01

 普通の人が考え付かないようなことを考え出し、それに固執するという点で天才と狂人は同じです。

天才は、それを普通の人が理解できるように示してくれます。狂人は、普通の人に理解してもらおうとはしませんし、多くの場合、理解させられるだけの知識をもちません。例えば、時間は、人によって流れる速さが違う、ということをアインシュタインは考えましたが、それを普通の人でも理解できるように示してくれました。同じことを他の人が考え付いたとしても、それを理解させることができなければ、狂人と思われるでしょう。もちろん、それだけでは狂人とはいえませんが、普通の人なら、理解しがたいことは忘れて、日常生活にエネルギーを使うでしょう。
 少し蛇足になりますが、人が社会に適応して生きていくためには、脳の高度な能力をフルに使っていかなければなりません。人とうまく付き合っていく、ということをコンピュータにやらせようとしても、現在の技術では不可能です。天才と呼ばれた人たちのなかに、人づきあいの苦手な人たちも多くいたようですが、彼らは、社会に適応して生きていくことに脳を使うことをやめて、その分の能力を専門分野で発揮したのではないかと考えています。
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この回答へのお礼

狂人と天才の違いについて、皆さんから伺いながらやはり「紙一重」と思いました。狂人であることが天才のひとつの因子だとしても、すべての狂人が天才にはなりません。でもその中に天才が隠されてるとしても、その一重とは「自分の偉業を沢山の人々に伝えたい、残したい」という意思が両者を分けるのではないか?と思います。

また確かに天才は社交性がないというのもひとつの特徴です。人付き合いは生きてゆくための術だとしても、小さくくだらないひとつひとつのことを、自己抑制、あきらめなどでつぶしてゆかなければやっていけません。ましてや天才などは自己あっての才能ですから、神秘とサシで向かい合う彼らにとっては、とてもじゃないけれどそんな面白くないことに心的エネルギーの大半を消費させることは耐え難いことだと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/27 13:22

ロンブローゾの名誉のために付け加えると、「生来的犯罪人説」こそ否定はされましたが、彼の犯罪に対するアプローチが現在の犯罪学の基礎となりました。

またこの考えはダーウィンの「進化論」の影響も受けているそうです。
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この回答へのお礼

「進化論」で思い出したのですが、たまたま昨日テレビでやっていましたが、コレラ菌に感染したサルが二足歩行を始めたそうです。コレラ菌はずーっと氷山に冷凍保存されていたのが、この温暖化のせいで溶け出した氷と共に流出し始めているそうです。北極のアザラシなどの謎の死亡原因あたるのではないか?と。また江戸時代に多数のコレラ菌患者の排泄物を川に流したことで、これもずっと眠っていたコレラ菌が、温暖化のために目覚め始めている、東京湾は危ない、という恐ろしくも興味深いことやっていました。

進化論はコレラ菌が原因では?という見解でした。進化論って様々な説がありますよね。尽きないです。

お礼日時:2004/09/19 18:55

追記すれば「天才」に対する嫉妬心からも、この言葉が生き残った理由とも考えられないでしょうか。

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ちなみに:「天才と狂気は紙一重」は19世紀イタリアの犯罪学者ロンブローゾの言葉です。

彼は「生来的犯罪人説」といい、犯罪を犯すものは先天的遺伝を持ち、それは身体特徴に表れると「犯罪者識別法」を考えました。この説は現在では否定されていますが、前述と「ハゲに悪人はいない」の2つの言葉は生き残りました。
 「天才と狂気は紙一重」は、天才とされる人物が「狂気」と思われる行動・言動を行った場合のみがセンセーショナル的に記録されて、それが「普遍的事実」だと誤認されているだけでしょう。なぜなら、天才とされる人が普通の生活を送り、専門分野以外では平凡に一生を終えたとしても、その事実はなかなか一般には伝わりませんから。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794801 …
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この回答へのお礼

この説の名称から想像しているだけですが「生来的犯罪人説」とはとても危険な思想だと思います。

確かに、天才は狂人ばかりとはいえないですよね。
ひっそりと平凡な人生を送っていても、世紀の天才が今どこかに潜んでいるかもしれません。
また芸能界で活躍している有名人なども、確かにセンセーショナルな方もいらっしゃいますが、だいたいは一般市民として生活していても天才と称されている方が大多数です。
「天才に嫉妬心」、これにも同感です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/15 00:41

ちょっと観点がずれますが何かのSFで読みました。



「いわゆる「き○○○」と呼ばれる人々は現在の人類の進化した形態で、ある種の超能力者である可能性が高い。そこら辺を飛び交ってる電磁波や電波を直接受信する能力や、他人の微弱な脳波その物を読み取れる能力、時系列を無視した人間の想念を感じ取る能力等を獲得した人々である可能性がある。それらの取得情報が整理できずに混乱すると、「き○○○」になり、そうでなければ、超能力者、天才等と呼ばれる、、、。」
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この回答へのお礼

超能力といえば本来誰でも持っている潜在的な能力だそうですが、本来精神病は情報処理の混乱という説もありますが、読み取るのが普通の情報ではなく、狂気は電磁波も読み取る能力の突出というところが、SF世界でも「天才と狂気は紙一重」と裏づけてられているのですね。面白い発想だと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/12 01:30

何かの本で読んだのですが、「大脳生理学の最近の知見では、脳内にドパミンと言う物質が増えすぎると統合失調症を来たし、天才の家系にはこの疾患の方が有意に多い」と書いてありました。

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この回答へのお礼

大脳生理学などの進歩によって、心の病も脳と関係が深いということがわかってきました。たとえば鬱病はセロトニン不足など。
でも天才の秘密も医学で説明できるとは!つまり「もしかして天才なのに世間的には無名の」人々の日夜の研究や努力によって明かされていますよね(笑)。言い方としては悪いのですが「天才は凡人によって暴かれる」というのでしょうか。

私は「天才とは神の神秘を暴く者」として畏怖してきました。でもドーパミンなどは私たちの体の中にも存在しているわけです。それは天才と分け隔てなく平等にもっている。でも天才と同じ量のドーパミンが配分されても凡人は必ずしも天才とはならない。そこにも別の意味での神の神秘は存在している。脳内物質ではなく、天才という称号を与えられるのはなぜか?と思っています。この世で自身の神秘を解体し、再び統合させ、その実態を凡人に知らしめるための役割を「天才」と区別される者にその使命を与えた、本人それは神、のみぞ知る、ということでしょうか?

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/10 15:27

#12です。

追加情報です。

地球上の生命体の中で、人類の持つ非凡さを考えたときに、今多数を占めている「計画を立てて几帳面に実行していく」という、「ちゃんとした普通の人間」の行動が際立って風変わりなものに見えてきます。

統合失調症に焦点を当てて、人類の進化を考察した本をご紹介します。

『天才と分裂病の進化論』デイヴィッド・ホロビン

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4105419 …
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この回答へのお礼

後進国の原住民族は精神疾患はないと思っていました。でもそれは疑問視されていますよね。

また「制約」も天才を養うことになるというご意見にも納得しました。逆に「抑圧」が反動力となってその力を発揮させるのかもしれません。

ご紹介いただいたURLのぞいてみました。難しいけれど面白そうな本ですね。仮説の域をでていないそうですが、実現できないことは仮説=予測はたてられないという言葉もあります(それも仮説?)

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/09 05:42

天才も狂人も、極論すれば非凡に対する評価の相違だと思います。

非凡な執着心、非凡な情緒、非凡な身体能力といったものが発現するには、それなりの先天的・後天的な理由があるのではないでしょうか。

なにごとも普通にできる人には、あるレベルを超えた能力や心の動き方・感じ方を自分のモノにするインセンティブがありません。生まれついての盲人の触覚が発達するのも、圧倒的な演技力で人を魅了する俳優・女優のパーソナリティ障害の傾向も、当人にとってはそうせずにいられなかった、他の選択肢がなかった、ということがほとんどのようです。

ご質問者が#2へのお礼で書かれている「才能は自由が土壌」に対して、私はむしろ「才能は制約が土壌」だと考えています。相反する考えだとは思いません。視点を変えればそうも言えるということでしょう。

他の回答に自閉症の例がありますが、脳の癖というかOSのプログラミングのされ方というか、そういう違いがあることをもっと我々は理解すべきだと、最近の医学や生物学は教えてくれます。統合失調症や発達障害・人格障害は「変わり者」として、昔からどの民族でもある一定数の発現があったようです。多数の普通の人に対して、違うやり方でないとできない少数の人たちで、ここに多くの天才たちが含まれていたことは事実のようです。
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私は西洋の芸術家のことは良く知りませんが、東洋の芸術家


の中には、天才的な才能の他に、人格的な素養をもつ
人物もけっこういるように思います。

東洋の芸術、例えば書画や詩などは、それ自体の作成を目的と
する他に、勉学の一環としても取り入れられています。
つまり、人格修養の一手段として、芸術が用いられていると
言うことです。

西洋では、芸術家の人格を抜きにして芸術を評価します。
それゆえに、芸術家は己の芸を極めることにのみ没頭し、
自分の人格の修養をないがしろにしています。
しかし芸術以外に、人格の素養を重んじる東洋では、
芸術家の才能が原因で、彼自身の人生を破綻に導く事例は
少ないようです。


次の言葉が、質問者の方が掲げる問題の本質を突いていると、
私は思います。

原文:
『徳は才の主にして、才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、
 家に主なくして奴の事を用うるがごとし。
 幾許か魍魎にして猖狂せざらん』

意訳:
『徳(人格)が主人であり、才能は召使である。
 才能だけあって徳が無いのは、主人のいない家を
 召使が仕切っているようなものだ。
 これでは化け物にやりたい放題にされても仕方がない』

(菜根譚より抜粋)
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この回答へのお礼

確かに勤勉さ、真面目性、努力・・・。東洋人の素晴らしいところだと思います。また思想も西洋の哲学よりも東洋の哲学の方が私個人としては好きです。

でも「天才は99%の努力と1%の才能だ」と言った西洋人もいます。これは謙虚さとも思えます。

>才能だけあって徳が無いのは、主人のいない家を
>召使が仕切っているようなものだ。

確かに有り余る才能をコントロールする理性が伴っていないと、自らの中に巣食う魔物に滅ぼされてしまうでしょう。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/09 00:58

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