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以前の職場で全人格を否定され、今なお立ち直ることができないでいる友人がいます。

一人の人間としての根っこの部分を批判され、そして否定され続けたようで、彼女自信とても精神的に参っている様子です。

彼女の話を聞いていて思うのですが、なぜ世の中には他人の人格を否定し、またそのような行為が社会的に正しいと考える人がいるのでしょうか。

能力の優劣や性質の向き不向きもあることでしょう。
ですが、“できる”人間は、“できない”人間に対して常に優勢な立場にあり、彼らはその事実に、惰性を理由にして“できない”人間を非難します。

努力をしてもできないという現実は、社会では通用しないことのかもしれません。いえ、社会とはそういうものだ、とおっしゃる方々もたくさんいらっしゃるでしょう。

ですが、事実できない人間にとって、それがイコール社会に出るな、という答えになるか、といえばそうではないでと私は思うのです。

能力の劣る人間に対し厳しい評価を下すのはかまいません。ですが、彼等の全人格を否定するのは、間違っていると、私は思います。

“できない”という事実を、そのような彼らの性質をまず受け入れてあげて、そしてその上で彼女なり彼なりにあった仕事を与えてあげる、または彼らなりの努力を認めてあげる。職場であっても社会であっても、そういう考え方もあっていいと、私は思うのです。

皆様はどう思われますか?

A 回答 (13件中11~13件)

#3ですが、せっかく反論をいただいたので、少し書かせていただきます。



>客観的な努力、の基準とはどこから来るのでしょうか?職場の人間の平均値から割り出されるものなのでしょうか?

主観ですが、自己投資ができるかどうかだと思います。
仕事以外の時間の使い方や給料の使い方はもちろん自由ですが、自分が他人の足を引っ張るような存在であるならば、自己を高める為に使うべきでしょう。
努力してますと口だけ動かす人は、すぐにわかります。

>また、社会では、結果でしか判断されない。その努力の過程など、評価に価することはない、などという意見もあります。私はこのような意見に当然否定的なのですが、“できる”人間の論理としては、かなり一般的なものではないかという認識はあります。

私は仕事の評価は結果だけで判断するべきだと思っています。努力のフリが評価されたり、容姿で判断されたり、賄賂の多少で判断されるよりはよっぽどいいです。
しかし、社会と言った場合にはそうではなく、活動内容や努力を評価していいし、容姿や賄賂も評価されていいと思います。仕事の結果が出せなかった努力も、本人や社内の人間関係にとっては無駄ではない。

>自分なりの解決策を、見出せないから“できない”のではないでしょうか。もちろん、それを惰性と取る人もいるのでしょうけれど。
>ですが、事実自力ではその答えを導き出すまでにはいたれないのです。

私は自分が給料60万円の人の1/5しか仕事ができないなら、12万円までしか要求するつもりはありません。
私の能力はそこまでです。でも給料60万円の人と同じコストパフォーマンスですよ。

世の中、上には上がいますが、下にも下がいます。目標を持つのはいいことですが、人は自分にあったポジションを知るべきです。高望みをするなら針の筵を覚悟するしかないし、”できない”人間という強迫観念から開放されないと、精神壊れますよ。
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お友達にとっては、大変辛いことであったと思います。


また、そのことを受け入れてくれる人がいたということは、大変幸せであったとも考えます。
はじめの大きなところを乗り切るためには、誰かの力が必要になることもあるものですから。

けれど、優しい気持ちでお友達を守ってあげるだけでは、何も変わらないのではないでしょうか。
一つずつ、いろいろなものを、だんだん受け入れていかなければならないのではないでしょうか。

仕事ができないからと言って、全人格を否定する等という権利は、たしかに誰にもないでしょう。
けれども、たかが職場の人間に(家族や恋人でなく、と言う意味です)人格を否定されたからといって、それがなんだというのでしょう。
お友達は、それほど仕事にすべてをかけていらっしゃったのでしょうか。
また、それほどまでに苦しめられて、完全に追いつめられるまで職を辞さなかった理由がそこにあるのだとしたら、どこかで自分の意地があったのではないでしょうか。
誰だって、自分の限界を見ること、知ることがあるはずだしそれは大変辛いことですが、自ら乗り越えなければならないことです。
また、そうなったからといって、自分の価値に変わりがあるわけではなく、苦みを知ってまた歩き出すことでつかめるものがあるのではないでしょうか。
詳しいことはわかりませんが、もう済んでしまったことであるなら、恨み言ばかり言ってネガティブに悩み続けてもそれは相手の思うつぼというものです。
「あんな性根の腐った奴らと縁が切れた。」と、考えてみたっていいんじゃないですかね。

そしてそのことと、仕事の能率や「できる人」「できない人」という話は、別のものだと思います。

>“できない”という事実を、そのような彼らの性質をまず受け入れてあげて、そしてその上で彼女なり彼なりにあった仕事を与えてあげる、または彼らなりの努力を認めてあげる。職場であっても社会であっても、そういう考え方もあっていいと、私は思うのです。

とのこと。それは、そういう考えの会社があっても、いいとは思います。いいのですが、その場合は、もちろんその人に返るべきもの「給料」もその程度のものになるしかないでしょう。

社会とはそういうものだ、などと言ったりはしません。
優しい人だって、いるじゃありませんか、あなたのように。
どこかで評価の基準を作り能力をはかるというのが、冷たく思えて辛いというなら、そういう優しい組織を、まずあなたが実現してみるのが良いと思います。
皮肉ではなく、そうすればきっと、ここで厳しいことを言う方の気持ちも、逆によくわかってくると思うのです。

全体主義、社会主義は論理的には良い社会です。
けれど実現したユートピアは、現代社会にないですよね。
失礼ですが、お返事を見ていると、少々頭が固まってしまっているように思えます。
きちんと見回してみれば、世界はそんなに汚くありません。
お友達と一緒に、ゆっくり見回してみてください。
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友人が辛い立場にあるときに、なんで、こんな酷いことになるんだろうって、とっても腹が立ちますよね!


信じられない、この人はこんな言い人なのにって。。
最近私の友人も会社を辞めることになりました。

ただ、私も、友人に対して、
会社の人は酷い!とか、一緒になって怒っていました。
でも、それでは何かが違うと思うんです。
何が正しい、正しくない、じゃなくて、
どうしてこうなってしまったんだろうって考えないと、
問題は進まないような気がします。
当事者じゃないと何が起こったのかはわかりません。
私の友人はあまりに怒る私にたいして、
自分にも非があったのだから、、と最近は言うようになりました。

彼女自身がどうしたいのか、それを聞いてあげることが大切ではないかな、と今は思います。
趣旨がずれてしまっていますね・・・
お友達が早く元気になるよう、祈っております。
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