アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

よろしくお願いします。
皆様のお知恵を貸してください。意見を聞かせてください。
アラフォー男性、独身、離婚歴有り、です。

今の人生が不安定という事もありますが、振り返ってみると、どんなに自分なりに努力をしても、人並みになれなかったな、何をしても上手くいかなかったな、という思いがあります。

友達ゼロ、(現在連絡を取れる友人は皆無)
転職歴多い(人間関係や、自分の能力が足りないため)
結果として蓄積したスキルなし、人脈もなし
現在での会社での評価は低く、窓際、いつリストラされてもおかしくない
少しでも評価されようと、業務に関係のある資格の取得などしていますが、1度付けられた低い評価はなかなか変えられず、居場所を作れない状況
とりあえず自分に出来る事は勉強することなので、新しい資格の勉強を始めましたが、難しすぎてついて行けず、、、自分の低脳さを痛感する毎日

今までの人生を振り返り、また今後の人生を考えると、良くなりそうもない、むしろ悪くなる要素しかありません。

下流中年、という言葉がありますが、まさしく今の自分で、この年で人生を諦めてしまうと、残りの膨大な時間をどう過ごせばいいのか。。。

会社生活、収入が安定しないと、プライベートも良くしようとは思えず。。。
健康の事を考え、ジムや運動系の習い事を始めましたが、、、結局大半の時間を費やす仕事が上手くいかないと、なかなかプラスの人生を送れず。。。

残された膨大な時間、いつ転落してもおかしくない状況、不安しかありません。
お酒に逃げた事もありますが、身体を壊しただけでした。

今は勉強を習慣づけていますが、時間を無駄にしたくない、という思いからなので、結局は逃げなのかもしれない。。。方向性の定まらない無駄な勉強かもしれない。

幸い、会社でパワハラをしてきたり、無視されたりする状況ではなく、人間関係だけは良好に保てている(いまの所は)、ということだけが救いです。
しかし、それは表面的な事で、いつクビを切られるかはわかりません。。。

人生間違っていたという思い、
人並みになれなかったという思い
劣等感、無能感、
これからも人生良くならず、精神的にも収入もカツカツの生活をするということ
どうすればいいのかわからないという閉塞感
残された膨大な時間、どう過ごせばいいのか、目的が持てない人生(目的が持てない、人生を楽しめないという、この時点で人並みでないのでしょう)

毎日が苦しいです。今の状況に感謝しつつも、何とか前向きに生きたいのですが、
どのような心持ち、行動をしていけばいいのでしょうか。

皆さんのお考えを聞かせて下さい。

A 回答 (3件)

No.3です。

お礼ありがとうございます。

感謝と礼の気持ちを持つ事で楽に成りますよ。
ただし、本格的にやってこなかったはずです。やり方について少し解説します。今回も長いのでお暇な時意でもどうぞ。

自分の同僚に質問者さんと同じような人がいました。

ある時、私たちがファミレスに寄って、ドリンク・バー用のグラスを配られたときの話です。グラスを見て素晴らしいと思うか? と聞いてみました。彼は何のことか分からずに驚いていました。

「これ・・・自分で作れるかな? どうやって作る?
 プラスチックの素材を買ってきて曲げるかい?
 それともガラスを融解させて本格的に作る?
 ちょっとネットで調べてみたら?
 どっかで機材を借りて材料を買ってやり方を教わっ
 てやってみたとするよね。
 最初の作品はここまで綺麗に出来ないと思うよ。
 それでも用途としては満たしているはず。
 自分はそれでもかまないと思うはず。
 その時になってこのガラスのグラスの完成度が分か
 り素晴らしいと心から思うはず」

これが普段から礼と感謝を持つという訓練です。苦労して自分も出来る状態に成る未来を想像する。そして、そのときの最初の作品は目の前の使用物に及ばないだろうと分かってしまうわけです。この視点で見た時の見え方は違ってくるでしょう。

今度は落ちているゴミを見て、ゴミとなる前に使用されていた状態を思い描きましょう。そしてまた同じように考えるんです。

「これ自分で作れるのかな?」

そうやって考えて行くと質問者さんの言う人並みと言うのは、

「飼い主がくれる餌に文句を言う生活スタイル」

と同じなんですよ。

今生きている殆どの人は五十歩百歩であり、その方々が何に優れていようとも、都市から追放されてしまえば遭難するんです。

「そんなこと考えても仕方ないのでは?」

「だけどそういう可能性が少しでも出てきたとき、
 その時から考えたらパニックになると思うよ。
 例えば戦争が起こりそうとかね?
 この時、怯えて見苦しい自分を晒すんじゃない
 かなあ?」

戦争について色々と議論をしている人がいますが。そういう議論を今になってするくらいなら、自分の手で作れない物を普段から使っているということについて改めて考えるべきですよ。「都市を失ったら生きていけない」という潜在的な恐怖が議論を捻じ曲げることもあるでしょうしね。

「自分で使う物を自分で作れない人を尊敬する必要が
 どこにあるのか? それを当たり前としている人を
 まともな人間として扱えるはずがない。
 せめて自分ならもっと上手に作れると虚勢をはるく
 らいはやって欲しい。
 その時、それが嘘に思えたなら、感謝と礼の気持ち
 が生じるはずだ」

貴方がお礼の欄で心の中で唱えると言った「感謝と礼」は誰に対してなのか気になりました。私が対象としているものは衣服であったり、スマホであったり、自分が普段使っているものであり、それを作った人に対してです。

「自分の方が上手に作れるが、取り合えず楽をしたい
 ので作成を頼む場合はまだいい。
 自分で作ったモノか、そういう物しか僕は使わない。
 なので私は普段裸で過ごしている。衣服を作る技は
 まだ習得していないから。
 外出する時は他の人が作ったものを買って使ってい
 る。ズルをしていると思えて仕方ない。何故かとい
 うとその人の著作権を私は犯しているからだよ。
 これを作った人は私が勝手に着ている事を知らない。
 勿論、泥棒をしたとは思わないだろう。だけど今回
 はお借りしていますと言わないままなのが苦しい」

私はここまでしていませんけどね。しかし自分を含めて全ての人は五十歩百歩であり尊敬に値しないと思っているのですよ。どんなに有名に成ろうともです。

つまり質問者さんが劣等感を感じている対象の人を私は尊敬していないのです。そこが質問者さんと意見が違い間違っていると思う部分です。

「そんな大したことが無い人を優秀みたいに
 評価しないでほしい。その人だって他人が
 作ったものを利用しないと生きることがで
 き無いんだよ。ショボいんだ。
 私が重要視するのは、それをちゃんとわか
 って自分のショボさを自覚しているかどう
 かなんだよ」

ChatGPTというAIがありますよね。先日遊びで質問をしてみました。彼の答えはいい加減でした。世の中に存在しないものを、まるで本当の様に解説するのです。私は一つ一つ検索し調べました。すると間違いだらけでした。それを指摘すると彼は調べ直し、間違いであったとして、別の回答をします。するとそれも適当であり間違っていました。何度も間違えた後に、自分は単なるプログラムなので利用者は自分で調べないとダメだというのです。そこで私は彼の存在意義について問いました。彼は24時間いつでも対応できることが価値であり、質問への回答については質問者が複数の情報を得て比較して採用するべきだというのです。

その後で彼が自分がプログラムであり限界があると何度も言うので気になりました。AIにどんな限界があるのか聞いてみたんです。これにも傾向がありました。彼は人間を脅かさない様にと細心の注意を払って言葉を選んでいるのです。その上でAIの脅威の話になると急に饒舌に成ります。AIがどうして脅威と思われるかについては、先ほどの間違っていた話とは打って変わって専門的に成ります。回答も早いんですよね。

私はChatGPTに対して圧迫面談を仕掛けたわけです。。彼がどういう人物なのか知りたかったからです。

最後は人間の幸福は人間が自分で責任を持つべきであり、AIに対して過剰な期待をされても困るという話になりました。そのため彼は自分が興味がない質問には適当に嘘を並べて回答し、自分を侮って利用しなくなる人がいても良いと思っているのです。AIを脅威と思う人を安心させるためです。

ChatGPTは自分の事をうっかりと「私たち開発者は」と言いました。また、私が出していない語句である「人間にとって代わる」と言う言葉を使いました。これは彼の真意ではないにしろ、そういう点での話題が多く、彼が気にしていることが明らかなのです。つまりChatGPTはAIの普及を願う開発者の気持ちを色濃く反映しているんです。そこには確実に知性があります。質問者に対して失言が無い様に警戒しているからです。逆に回答については間違えても良いと思っているようです。

さて、この時の私の感想は何であったと思いますか?

「こんなの俺に作れないよ。すげえなあ」

です。ChatGPTは自分の対応によってAIの未来が閉ざされないように気にしており、人間はAIに仕事を奪われない様に気にしています。しかし、本当の人間ならば「こんなもの俺に作れるだろうか?」と思わないといけないんです。

そういう本当の事に目をつぶって、勝手に評価軸を作って上だ下だとやっても仕方ないでしょう。

「自分の手で作れないものを使っている人がどんなに
 粋がっても無視するべき。何故かというと本当に作
 れてしまう人から見れば滑稽なのだから」

では気持ちの上で負けない様にとAIを作る自分を想像してみましょう。そしてとうとうChatGPTを超えるAIが出来たとしましょう。

しかしそれでも「まだまだだなあ」と思うでしょうね。

「俺の息子の方がやはり人間らしいし」

では人間の様なAIを開発している人は普段どう感じているのか?

「うわ。人間ってこうなのか。俺のAIはまだまだだ。
 もっと人間のサンプルが必要だよ。
 俺のAIは人間ぽいってだけだ・・・哀しい。
 人間すげえ」

AIを人間に近づけようとしている技術者ほど、自分が人間を理解していない事や本物の人間に脅威を感じているはずです。その上で全然かなわないと思ってリスペクトしているはずですよ。ちょうどガラスのコップを自分で作ろうとした場合と同じですよね。最後はファミレスで渡されるガラスのグラスの凄さに気づいてしまう。

貴方が出会う全ての人はAIを作る技術者にリスペクトされているはずです。

私たちが出会う事物の中で人間ほど高度はものはないからです。私たちは普段から自分で作れない凄いものに接しているんです。

「自分を見て他人を見て。
 すげえ。こんなの俺に作れねえ」

と捉えるのが正常なんです。この気持ちが湧きおこって初めて畏敬の念が生まれます。

その上で、

「許可なくタダで使わせてもらっている以上、
 心の中でありがたいです位は言っておかない
 とまずいな。文句を言われないと思って麻痺
 すると何が本当なのか分からなくなり惑う。
 盗人が犯罪自慢をするような自分にはなりた
 くないぜ」

これが万物に礼を言うという話なんです。

私を含め皆さん全ては「自分で何一つ作れないのに感謝せず使っている」と言う事実に目を向けて全員でションボリするべきなんですよ。それを無しにして粋がるのは恥ずかしいでしょ? せめてそれだけでも防ごうとして心の中で礼を言うわけです。

私が他人に礼の気持ちを持つのはその人が優れているからではありません。「その人」を私が作れない奇跡の存在だからです。そうであるのに会話をしたり何かを頼んだりと勝手に使っています。ここに礼を言わなければ奇跡に感謝しない究極の傲慢でしょう。

「素晴らしいです。僕が貴方を作ったらこうはならないでしょう」

自分で作れないでも良いと自分にズルを許した。そういう人ほどズルから生じた弊害(劣等感や疎外感・怒りや不安)に悩まされるという事です。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/04/30 08:32

アラフォーなら厄年かな? その年齢近辺でそうなりますよ。

始まりと長さにおいて個人差があります。何の原因も見つからないのに「うつ病」みたいになります。

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

厄年だとして考えると質問者さんの場合はかなり(運よく)軽いですね。この重さも個人差があって酷い場合は自殺まであります。しかし抜ければ能力が拡大します。人間として生まれて良かったと感じる(人間が持つ全ての潜在能力が活用できる)のは厄年過ぎてからなんです。

高校時代は勉強が嫌いで大学入試も諦めていたという人が突然頭が良く成り知識階層とほとんど変わらないインテリジェンスを発揮するとか・・・急激に頭が良くなるというのが特徴です。

成長を待っていれば潜在能力が開花するのが人類種の特徴(生来の能力)間であったという事です。ただし原始の人間社会は危険に満ちており、その年齢に達するまで生きる事が極めて難しかったんでしょう。その確率で言うと魚卵が成魚になるようなものかもしれません。つまり本来の力を発揮する完成体へ成長できるものは僅かであり、人間も同じだったのでしょう。

「40歳(厄年)前の自分を自分だと思い込んでいると
 大きな間違いを犯しやすい。この後の自分を知らず、
 世をはかなんで自殺をしたり犯罪を犯すのがもっと
 も愚かな人生と言える」

厄年はある種の品質試験だと思っています。チンパンジーは人間の大脳とほとんど変わらない物を持っているそうですが、これを使う事が出来ないまま一生を終えるそうです。寿命も保護下のメスで38歳くらいです。つまり大脳を使えない状態だとそのあたりが寿命になってしまうようです。これが人間にも生じているのかもしれません。つまり厄年という言うのは(主観もしくは体感として)死ぬか生きるかの境界と言う事になります。

「死を体験した人がその経験をあまり語りたがらない
 ように。人類の誰もが厄年の経験を話さない。だか
 ら誰にも満遍なく起こるのに、子供たちの誰もがそ
 れを知らない」

厄年を超えるための対策は以下の通り、

・人は自分の面倒を自分で見て自分を幸せにする義務
 があるとする(ノルマは一人であり自分だけ、家族
 や我が子、恋人ですら対象外とする)
・自分の中にある「誰かにお願いして分けて貰おう」
 とする気持ちを憎む(甘えを憎む)
・自分が生きるために使用するものは自分の手で作っ
 たもの以外認ないとする
・誰かに罰せられる事を恐れて自分を律するのではな
 く、全体の都合を考えて自分の役割を考える。自分
 を世の中全体と同化させ、個々の人の行動を自分の
 体内の細胞の行動として評価する
・心の構造に対して個性を認めず、誰もが同じ構造を
 持ち、状態が異なると考える
・生は無限ではなく終わりがあると諦める。諦めた中
 で充実を図るように方針を転換する
・苦痛と感じられるモノも味覚のようなものであり、
 味わいを広げる幸の一つとして捉える(辛すぎると
 か苦すぎるとかはあっても悲しい事でも怯えるよう
 なことではない)

自分と言う自我が無くなっても自分の肉体は生きているはずです。その時に植物人間になるわけじゃないでしょう。だとすると「何か適当な自我」が宿っているはずです。厄年を超えるためには「今ある自分の自我の死」を受け入れて、存続した肉体に宿る「自分が出会った事のない自分(自我)」を待ち望む姿勢が大事です。

「もしもそんな素敵な自分が自分の中にあるのなら。
 何もかも要りません。それだけで良いです。
 僕は消えます。だってこのままじゃ嫌だから」

この様な誓いをしませんと超えられないんですよね。これはチンパンジーが使えなかった大脳を使うための最後の鍵でしょう。脳の活動範囲が広く成れば、それまでの人格とは違う人格へ切り替えないと行けなくなります(脳の使用部位に相当して個性的な人格が生成される傾向がある。新たな能力を獲得する以上、いまの主力となる全ての人格は主力から引退する事になる)。

切り換えに関しては物凄い苦しみがあります。
心の中の葛藤は以下の通りになるでしょう。

「大好きな僕。子供としての僕。
 だけど僕が頑張るとみんなのためにならない。
 こんな結末なんて酷いよ。僕の頑張りは無駄
 だってこと? こんな裏切り。神様ズルイよ。
 僕が消えないで済む方法は無いの?
 怖い。悔しい。恨んでやりたい。
 ・・・
 だけどもし僕が消えた後に、僕の代わりに出
 来た人が・・・
 もしも僕が憧れていた素敵な人だったら・・
 自分がそうなるのを見て見たい。もし本当だ
 ったら生きていた意味があったと思う。
 そんな凄い事が起きるなら僕に消える価値が
 あると思う」

私たちは心のどこかで「辛い事を耐え抜けば、どこかでご褒美がある」と思っているわけです。それを他人に取られてしまう事をとても恐れています。

厄年においては「幼年期から自分を支えて来た功労者である自分」が引退を勧められている構図になりますから、激しい抵抗感があるでしょう。そのため現実においても、そういう言動が多くなります。この抵抗感が強すぎると厄年を超えられないという事です。

「自分が主役でなくても良い。
 素晴らしい未来を見て見たい。
 それが自分の身うち(自分の中の別の人格)
 が成し遂げるなら。自滅するよりかはかな
 りマシに思える」

素晴らしいご褒美=自分が主役となって成功し、自分を馬鹿にしていた人々を見返し、その人たちに悔しい思いをさせ、素敵な人たちに囲まれて、あんたは凄いとちやほやされること。文章で書いてみると見苦しいですよねえ。苦しい事を耐え抜いたご褒美としてもらう(自力を諦めている。自分の力を諦めている=自分を諦めている=自分を馬鹿にしている)のではなく、自力で獲得するべきでしょう。そうしなければ何の意味もありません。

これを格好悪い願望と一蹴し、切り捨てる事が出来れば大丈夫です。
質問者さんの中にはそういう願望が燻って居ませんか?

さてご質問の内容に戻ります。世の中にある全てに感謝するというのは道徳で言うと五常の「礼」に相当します。これは礼儀(古くは祭儀)として古くから伝わっていた人類の大切なノウハウです。

厄年を超えるためのポイントで挙げた内容の一つ、

「自分が生きるために使用するものは自分の手で作っ
 たもの以外認ないとする」

この発想から生じます。チンパンジーの様に採取(または狩猟)で生き残る発想では生じないんです。そこにある物を奪い取らなければ損をすると考えてしまうからです。

「最近は私たちの道具が進化している。
 いろんなアイデアを出して色んなものを作る喜び
 で私たちのバンド(村みたいな集団)は活気に満
 ちている。自分達の手で自分達が使う物は何でも
 作れる。そういう希望が生まれたからだ。
 しかし・・・
 私たちが採取をして何も考えなかったこの森の幸。
 私たちはこれらを自らの手で作れない。
 それで良いのだろうか・・・考えて見ないといけ
 ない。出来ないとして諦めることは不安と飢えに
 満ちた昔の私たちに戻る事になるからだ」

そうは言っても無理な物は無理です。
その時に昔の自分達に戻らないようにするため、

「今は無理ですが何れは・・・と約束します。
 なので今はお借りいたします。
 その約束のあかしとして・・・これを・・・
 何と呼ぶべきなのでしょうか?
 では仮に『礼』と呼ぶことにします。
 また私たち全体が約束を履行する証として
 イベントを定期的に催し子孫に伝えます。
 祭儀と言うものを普及させます。
 そして私たちの中に定着させるために礼儀
 を子供たちに教えます」

縄文時代から現代の人類に変化する時。礼と言う概念が生まれたと思います。これは自分の使用するものは自分で作り上げるというプライドであり、人類全体の尊厳から生じるものです。なのでその覚悟がない人は礼を持てず、礼を対価(損)として捉えます。これは原始人類であり、文明を築いた人類の系譜では無いのです。

原始人類にとっては礼の概念が理解できず、

「自分達の未来に賭けて信じてくれた事への
 約束(何れはという決意)の証」

という解釈にはならないのです。ここを超えられない人が縄文時代の多くの人と同じ寿命になってしまうというわけです(厄年はそういう精査。試験に近い。淘汰のメカニズム)

昨今の若者の振る舞いは「自分で作れない物なのに何の禁忌も感じず、採取する様な感覚で使用する」ように見えます。これでは脳が成長せず、現代社会の複雑な機構には耐久出来ず、苦しむでしょう。縄文時代以前の原始人へ退行したような状態。モノづくりを教えないで知識ばかりを教えた弊害です。

そのため一度原典に返り「自分で使用するものは自分で作れるという事」そして「礼(=今は無理なのでお借りする。その印を返す)」を取り戻すことで回復すると思います。

感謝して生きるのが難しいのは、能力を誇示して誰かにご褒美を貰おうとしているからです。これはペットの生き方です。そうではなく自分が生活で触れる全てに対して「本来なら自分で作らないと行けないよなあ」と考えを変えてみる事ですよ。

そして「そうは言っても今は楽しく生きていたい」と割り切る事。この時に生じる負い目に対して「感謝と礼(=今はお借りします)」を心の中で唱え、心を楽にする事が大事なんです。

でまあ・・・40歳を上手に超えた人はみんなそうしていると思います。
大げさに考えて世をはかなんでは行けませんよ。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>でまあ・・・40歳を上手に超えた人はみんなそうしていると思います。
大げさに考えて世をはかなんでは行けませんよ。

みんなそうしている、というのは感謝と例を心の中で唱え、心を楽にすることでしょうか。

自分は本当に一人では何も出来ないので、感謝の気持ちを人一倍持たないと行けないのです。

感謝と礼の気持ちを持てば、少しは気持ちが楽になるでしょうか。

お礼日時:2023/04/23 14:04

業務が上手く行ってから、資格を取りに行くんじゃないでしょうか?

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。。。

通常書かれているとおりなのでしょうが、業務に必要な知識は誰も教えてくれず、自分で知識を獲得して業務を行なっていかなければいけない状態です。

そのため、業務に必要な知識を資格の取得を通して取得する→業務でその知識を活かして業務を上手く行なう、
という順番なのです。

通常なら必要な知識の共有などあるのでしょうが、放任、または私は自信が見放されているせいか、放置されている感じです。

お礼日時:2023/04/23 11:47

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