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古典には抽象度の高い本が多いです。必然的に抽象的な思考を要求されます。

どうして、良書というのは、抽象的なのでしょうか?

A 回答 (9件)

良書が抽象的である、というよりも、良書と言われるものは物事を「正しく」


抽象していると評価されているということではないでしょうか?

また、その人が血のにじむような努力で得た、形而上的なものの理解は、具象
的な表現では、表現しきれないから、必然的に抽象的表現になるのだろうと思
う。
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意味を考えているからです。


人生の意味、事象の意味、存在の意味、言葉の意味、木からリンゴの落ちる意味など。

ところで、意味を見出した人は満足します。
満足しない間は見出してはいない。
それで、繰り返し問い求めてしまう性質のものは未だ理解されていないものだと、知られます。

意味は自ら知るので満足出来る。他人が知った意味を分けてもらう事はできない。例えば美味しい食べ物を他人が食べても、自分は味わう事はできないし、腹も満たされない様なものです。

意味を見出す事は、自らに問う事から始まります。他の人に何かを言う事は関係しません。自分に問う人には学識が備わります。学識は知識を理解するもとのもので、考える力と言うべきものです。

良書とは、自分で考える事を促してくれる書物とも言い換える事ができるでしょう。

言葉を捏ねただけのものは、読むだけ時間の無駄になるので、駄弁、駄書ですね。
意味を記してあるものは素晴らしい本です。
読んで考える価値がある。
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具体的なものに普遍性がないからじゃない?

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方言どうしでしゃべっていて 話が通じるならそれでいいんでしょう


けれど やっぱりふつうは互いに通じるように 共通語を――決め合
って――用います。


ものごとは――特に人間の自由な意志行為というものは―― すでに
そのときその場における《一回きり》のものです。

(見直して修正できないという意味ではなく)。

そして 《一回性》として成るコトは 具象的なものです。

文学は むしろこの《具体的で歴史的な――その人それぞれの――
一回性なる〔そしてまた 実存的なでしょうか〕自己表現》を描いて
人間の人間たる所以やまたその真実を問い求め得るように つとめま
す。


しかるに 思想・哲学関係の自己表現としては それらの真実や人間
性といった共通の内容について考え・さらになお考えたところを問う
て行きます。

具体としての人間とその社会ないし歴史についてそこからさまざまに
抽象した概念を用いて その思考したところを語りあって行きます。



さて 具体を表象する文学は 互いに語り合う共通語を欠いているか?

どうなんでしょう。
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文章に具体性を持たせる程、文章の内容を、限定化する。



限定化すればする程、文章の深みや不確実性を排除し、
底が見えてしまう。

抽象的であることは、解釈の範囲を拡大し、深みを増すことと同じ。

読む者が、その抽象性の中で、想像力を発揮し、深みの殻を
ぶち破る。

古典が抽象的なのではなくて、抽象的深さを持っているので、
生き残り、古典になった、と言うことではないか。
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抽象的な記述は時代の変化に耐えるからです。



具体的な記述、例えばかまどの火の起こし方や、長刀(ナギナタ)で身を守る護身術などは、時代が変わると読まれなくなるのです。
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古典に抽象度の高い本が多いというよりも、「コンセプチアル」概念、基本的考え方、基本的観点のしっかりしたもの以外は淘汰され次世代に継がれないからでしょう。

100年も1000年も先の事を考えて書いたものではないが、コンセプトがしっかりしているから生き残れたという事でしょう。
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抽象度合いがもっとも高いのは「暗号」「数学」でしょう。

数で思考を処理するのですから。抽象度合いを高めることで、特殊事例の説明を省く分、それらの情報を抽象語彙にコンパクトに圧縮するからです。情報が冗長でなく、凝縮され内容密度の濃い、情報量溢れる文章となります。ですから理解できると色々なケースに応用を利かせ考えることができます。数学、哲学、詩は我々の身近にある抽象言語ですね。
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思考を自家薬籠した結果、自ずとそうなっていくのではないでしょうか?


ブログと詩、テレビドラマと映画の違い、みたいな。
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