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キリスト教において、不倫は神に背く行為として罪になると言いますが、例えば、精神的に一緒にいたいと思うこと、たまに会って話がしたいと思うこと、よき理解者としていたいと思うこと、は、不倫に属するのでしょうか?
男女の友情も、おたがいの好意がないと、ありえないと思うのですが、不倫との違いは何ですか?

A 回答 (9件)

カトリックではないのですが、元クリスチャンです。


同じことがカトリックに当てはまるかどうか分からないという点を
最初にお断りしておきますm(_ _)m

私の学んでいたキリスト教では、既婚・未婚にかかわらず
男女二人きりで会うこと、親密にやりとりすることは好ましくないとされていました。
親密なやりとりから、深い関係となり罪(不倫)に結びつく可能性があるからです。
クリスチャン同士であっても特定の異性と親密になるのは良いとされないのですから、
同じ信仰を持たない人とであればなおさらのことです。
信仰を持つ者は信仰を持つ者と、という教えがあり、
これは恋愛に限ったことではなく友情においても同じことが言えます。
クリスチャンにとって何より大事なのは深い信仰心ですから、
本当の友達は同じ信仰を持つ仲間の中にいると考えられているのです。
ご質問者様のお相手の方が信仰心の深い方であれば、
異性と親密に話し合い、しかも相手はクリスチャンでない
ということに対して罪の意識を感じてしまったのかもしれません。

とはいってもキリスト教には隣人を愛するようにという教えがありますから、
すべての人に平等な愛情をもって接するという意味で、男女の友情は成り立つと思います。
ここで大切なのは、誰でも分け隔てなく平等な愛ということです。

お相手の方はご質問者様からのものが異性としての愛情と感じたか、
自分が特別な感情をもってしまいそうな気がして距離をおかれたのかもしれません。
いずれにせよ、ご本人の信仰に沿う形でないと感じられたのだと思います。

同じキリスト教とはいえ細かな教えの違いを知らないままの回答で申し訳ないのですが、
参考程度にお読みいただければと思います。

この回答への補足

>男女の友情は成り立つと思います。
 ここで大切なのは、誰でも分け隔てなく平等な愛ということです。
正直な感想ですが、難しいですね。付き合っていくうちに相手の魅力を感じ、好きになってしまうことがありますよね。そうした場合、相手にそれがわかったり、自分の気持ちがそうなったりしたことを自分で気づいた場合には、もう男女の友情は、成立しなくなるのですかね?好きであれば、恋をすれば、誰にでも同じような愛といった博愛ということは、自然になくなるでしょうからね。

補足日時:2005/07/13 23:14
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この回答へのお礼

ありがとうございます。今まで、連絡があって、急になくなったということで、困惑しています。理由もわからないのですから。どうしたらいいのでしょうかね。

お礼日時:2005/07/13 22:13

不倫は倫理に反する、要するに人の道にはずれるっていうことですよね★


宗教なんて関係無いと思いますが・・・・・
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相手が結婚していて愛情を求めるならだめでしょう。


しかし、相談する場合や悩み事の場合を聞く場合はいいでしょう。継続するものではなく一時的で
相手(自分)のパートナーの理解している場合に限ります

あなたが連絡があって、急になくなったということで、困惑しています。
もしお互いが自由なら困惑する必要もないでしょう。

相手の心を縛っていませんでしたか?

あなたにパートナーがおり、相手が独身なら私なら避けますね。(逆の場合も)

神を信じ、神に救いを求めましょう。神の知恵をもらいましょう。信仰というのは人を信じ仰ぎ見るものではありませんね

すべて神に委ね祈りましょう。すべて神の計画です

この回答への補足

言葉はわかるのですが、クリスチャンでない者には理解できないこともありますね。
>いくら、神を信じ、神に救いを求めましょう。神の知恵をもらいましょう。信仰というのは人を信じ仰ぎ見るものではありませんね。すべて神に委ね祈りましょう。すべて神の計画です。
言葉ではわかりますが、クリスチャンでないものにとっては、自分のいいように振舞っているような気がします。つまり、こちらにパートナーがいて、それも知っていて近づき、こちらも好意を持ったら、音信普通ですから。
クリスチャンが神をたいせつにするということもわかりますが、神に誠実なこともわかりますが、人として、自分の行動にも責任を持つべきではないのですかね?決して相手の気持ちを疎かにしないようにはきをつけたきたつもりです。

補足日時:2005/07/14 23:08
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尊敬にも似た好意を 持った既婚者と 友情を築きたかったのだけど


不思議なことに ある時点から 踵を返して しまった。これを
どう 理解し自分に 納得させたものか 相手の 宗教的観点から
考察してみたい。 こう言うことですかね。
だとしたら、 
カトリックの人でも 不倫している人もいれば 清廉な人もいます。
死を前にして 取り乱している神父さんや(神父様ごめんなさい。事実です)
友人の悪口を言うシスター  あ、ここでは 関係ないですね。
質問者さんは カトリックのイメージが ある種作られたイメージだと
踏まえた上で 考えて いただけると 正解に近くなるのでは ないでしょうか。
その上で 相手の人が信仰心に 厚ければ こういう態度、これ以上近くなることを 避ける行動は一応 考えられは します。
この人種は ごく希少で 聖職者に 近いので 
金曜には 肉を食べないとか。
日曜の礼拝を優先するので 午前中のデート(失礼友人でしたね)はしない。
とか 食事の前の祈りを 欠かさないとか
数々の掟を 課しているので どの程度かは すぐ 分かるとおもいます。
不倫と友情の違いは  なにも 宗教を持ち出さなくても
一線を 超えたか否かじゃ ないでしょうか。
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昔「マディソン群の橋」という映画がアメリカを中心に社会現象にまでなりました。


日本で言えば「失楽園」ブームと同じです。

以上のことから言うまでもないと思いますが、
アメリカだろうが日本だろうが一般モラル(倫理)の問題であって宗教云々は関係ないです。
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クリスチャン歴、ウン十年です。
カトリックの場合。

>精神的に一緒にいたいと思うこと、たまに会って話がしたいと思うこと、よき理解者としていたいと思うこと

いずれも罪にはなりません。
むしろカトリックの精神です。

大切なのは、人を傷つけるような事はしない事・裏切らない事・心配をかけたり惑わせたりするような事はしない事。
そして配偶者を誰よりも大切にする事。

これらが出来るかどうかがそのまま友情か不倫かの境目になります。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですか。すべて当てはまるような気がするのですが、少なくても誠実には付き合ってきたつもりなのです。体の関係も一切なく、一つ心当たりがあるのは、「好き」という言葉を使ってしまったことだと思います。でも、これは先の回答者さんの中にあるアガペーに属するものです。でも、急に連絡がなくなり、反対に着信拒否されてしまいました。宗教観もちがうので、理解しにくいところもあります。また、キリストのカトリックの中にも宗派のようなものがあると思うのですが、それらによっても上記の考え方は同じなのでしょうか?

お礼日時:2005/07/13 22:22

キリスト教系の学校で、いやいやながら何年も宗教の授業を受けていました。

信者ではありませんが、少々の知識はあります。

聖書によると、愛情には2種類あります。「アガペー」と「エロース」です。これは、クリスチャンにとってとても大切な観念です。

アガペー=人類愛とでも言いましょうか、親が子を慈しむような、無償の愛。

エロース=自分の欲望に基づく愛情。男女の肉欲を含む愛情はこちらです。

つまり、お相手が「この人に対する感情はエロースだ」と判断されれば、不倫ですね。あなたがどう感じるかは、この場合あまり関係ないでしょう。
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この回答へのお礼

思い出しましたが、アガペーとエロースという言葉は、高校の倫理社会で習った気がします。
私自身は、相手がクリスチャンということも知っていたので、その人との関係をこわさないように、その人の心を疎かにしないようにしてきたつもりでした。確かに言われるとおり、reikatoさんの言われるとおり、相手のとり方、感じ方にあるので、どうしようもないですが、こちらは、それ以来、連絡が取れずに困っています。本当に心でつながっていたかった人ですからね。

お礼日時:2005/07/13 22:41

信者ではありませんが、その手の勉強をしたことがあるので回答させていただきます。



カトリックにも厳密に言えばいろいろな宗派があるのですが、
一般に「結婚(婚姻)」というのは、単なる儀礼というよりも
宗教儀式の性格が強いようです。
婚姻は、男女の意思だけでなく、そこに神の導きがあり結ばれるものであるというところから、
カトリックでは結婚式は重要な儀式とされています。
ですから、一度婚姻を結んだ相手を裏切る行為は到底許されるものではありません。
神の前で共に生きることを誓った相手を裏切るのは、神に背く行為だからです。

不倫というものは「婚姻を結んだ相手をないがしろにする」ということではないでしょうか。
好意の有無というよりも、どちらにより重きを置くか、ということではないかと思います。
キリスト教は基本的に博愛の宗教ですから、人に対して好意を持つこと自体を咎めることはないと思います。

友情や友愛といったものは、広く与えることができる感情です。
見返りを求めず自然に物事を慈しむ感情ともいえるでしょう。
ですから男女の間の友情というのはありえると思います。
しかし、どちらかに邪な気持ちがある場合、それは友情ではありません。
なんらかの見返りを求め、与えるよりも欲求することが増えます。
時間も、気持ちも、肉体も欲求します。
それを受け入れれば、それは婚姻に背くことになり不倫といえるかもしれません。
もちろん肉体関係があれば、それは「貞節の誓い」も破ることになり、間違いなく不倫です。

ただ信仰を持っている人にとっては、具体的に体の関係があるとか、デートしたとか、
そういうものがなくても、精神的に「これは不倫である」と感じることもあると思います。
ですから、結局のところ基準は「お相手の方の信仰の深さによる」ということかもしれません。
(ご両親がカトリックだったので気がついたら信者だっただけで、実は大して信仰していないということもあります。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
カトリックの人と付き合ったときに、肉体関係は一切ありません。しかし、突然、自分の考えが、宗教観が目覚めたのか、音信不通になってしまって、戸惑うばかりです。別に私自身が見返りを求めたつもりもありません。本当に、大切に、心が通う、これからも付き合っていきたい人、という感覚であったのですから。よくわからず、戸惑っています。
いろいろな意見が聞きたいので、まだ開いておきたいと思いますが、よろしくお願いします。

お礼日時:2005/07/13 08:54

カトリックは厳しいですが プロテスタントはいい加減です。

愛しているのなら不倫でも背信ではないらしいです。いい加減なものです。拡大解釈でなんとでうも言えるわけです。米国人の大半がプロテスタントでキリスト教ですが博愛の精神に乏しく国連決議無視して空爆するのと同じです。 神は信じていても行いが伴うとは限りません。

この回答への補足

早速のご回答ありがとうございます。
そうなんですか。ちなみに相手はカトリックですが、もう少しどのへんまでが不倫になるのかとか、男女の友情との違いについて教えていただけると、ありがたく思います。

補足日時:2005/07/13 01:31
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