僕は今大学4年生なのですが、最近は毎日「生きていたくない」とばかり考えています。そう思うのには理由があります。

まず、何をやってもうまくいかないのです。今は就職活動中なのですが、全くうまくいきません。色々とスキルアップを試みても、いっこうに効果が表れません。恋愛もうまくいかず、22年間で女性とお付き合いをしたことがありません。そして交通事故に遭ったり、悪質な業者に騙されたりと、過去を振り返れば不運なことばかりです。

また、前に楽しめたことが楽しめなくなりました。前は音楽が好きでバンドとかをやっていたのですが、今はそれほど楽しめなくなりました。ギターを毎日弾くほどだったのに、最近はギターを触るのが面倒になりました。それはいけないと思い、他に興味のあることに手を出したりしたのですが、まるで自分が自分じゃないみたいに熱中できないのです(以前僕は興味のあることにはすぐ熱中してしまっていたんです)。友人とのコミュニケーションも少なくなり、一人で過ごす時間ばかりになりました。

生きていてもちっとも楽しくありません。いいことなんて何もありません。いったい何のために生きているのか考えてしまいます。やらなきゃいけないこと、前は普通にできていたこと、みんな億劫に感じます。そして自分にはいいところなんて何もないダメ男だと思うようになり、毎日心が絶望感みたいなもので支配されています。何をやってもうまくいく気がしません。

自殺も考えたことはあるのですが、考えていたら親の顔が浮かんで、一人泣いてしまいました。そして自分の夢のことも考えてしまいました。生きていたくないと強く思う一方で、心のどこかでは生きることを望んでいるのかもしれません。

僕はどうしたらいいのでしょうか?絶望感に満ち、何も楽しめなくなった今、なんのために生きていけばいいのでしょうか?または生きていくべきではないのでしょうか?

A 回答 (59件中1~10件)

floさん、tr4さん、camさん、kuronekoさん。



食材を目の前で調達して、目の前でさばいて、目の前で調理しても「これには毒が入っている!」といわれたら何もいえません。全てを目の前で明らかにしていても、ありのままに見えないんですから、私にはこの壁を取り除くことはできません。そのようにしか見えない人には、そのようにしか見えないんです。

養老孟司曰く「バカの壁」「超バカの壁」です。
私たち自身が気づくことだけでしか、この壁は取り除けません。
人を導くことが出来ても、救うことは出来ないとはこういう意味なんです。



で、最期に新しい言い方を思いついたんですが、
心の形成作用というのは、<鉄アレイ>と一緒です。

一瞬で心の中に鉄アレイが出来てしまうんです。
妄想なんて、何もしなくても、心の中に次から次へと生まれてきますよね。
こればっかりは、生存のための本能なので、どうすることも出来ません。
思い通りにならないんです。(ドゥッカ「苦」です)

で、その重さに負けたら、潰れてしまいます。
「重さ」の奴隷になってしまったら、筋力も衰弱していきます。
鉄アレイの奴隷、感情の奴隷になってしまうんです。

この「重さ」に反発することで筋肉がついてきます。
というか、それしか筋肉を鍛える方法は無いんです。
常に内省的に己に打ち克つことでしか、心の筋肉も鍛えられないんです。
これが四聖諦(苦・集・滅・道)です。(勉強してみてください)



この世の全ては各次元ごとに、性格違いの反対の性質をもっています(陰陽、プラスマイナス)
二極構造。二律背反で構成されているから「生まれる」ということが起こるんです。
「生まれる」が起きれば「滅する」も起きます。

これを完璧に安定したら、生まれるということが尽きるので、解脱です。
ようするにエネルギーとして成立しなくなるんです。
エネルギー保存則を超えてしまうんです(仏教の解釈では)

まあ、我々は、そこまでは無理にしても【心の形成作用が収まるのが安らぎである】と、お経にもあるように、不断に鉄アレイを持ち上げ続けることが、真の幸福になるんです。克己修身です。

このようにイメージしながらやると、楽しみながら、心を喜ばせながら気づけます。


本当に仏教に出会えてよかったと想います。
帰命頂礼 ....m(_ _)m

みなさんが、幸せでありますように。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまい、大変申し訳ございませんでした。
ご回答ありがとうございます。

もっと色々勉強させていただきたかったので、もうSyoさんの意見をいただけなくなってしまうのは非常に残念でなりません。でも「わからないことがあったらSyoさんに聞けばいい」という想いが、自ら勉強するというのを怠らせたのは事実ですね。Syoさんがいなくなっても、今度は自分で色々勉強をしたいと思います。

>みなさんが、幸せでありますように。

少なくとも僕は幸せです。大変素晴らしいご意見を、幾度にわたっていただくことができましたから。僕のために貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。
僕はここで学んだことは一生忘れません。それくらい大事なことを学びました。なにせ「生きていたいと思えない」と感じていた僕が、今は前向きに生きていけるようになれましたからね。Syoさんに出会わなければ、僕は今生きていなかったかもわかりませんでした。大袈裟ではなく、人生が変わり始めました。これからもっと良い方向に向かっていけるように、努力を怠らずに頑張っていきたいと思ってます。

本当に、本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/02/12 17:38

そうですか・・・・・・・・・・・・・・・・・。



「愛」と「愛のようなもの」は一見すると似てるので、仕事上の事務処理の一環として回答を読まれている管理者の方々には、その見分けはつかないのかもしれませんね・・・残念なことですが。
でも、それが宗教がらみでも宣伝でもなく、「本当に助けてあげたい」という愛以外の何ものでもないことは、本当に悩み苦しみ、Syoさんの回答を受け取った方々は感じていらっしゃると思います。もちろん私もです。きっとcamさんも。・・・・数ヶ月前、「生きていたいと思えない」といっていた人が、今こんなに力強く、地に足を着け、頑張っているのですから。
それに私のほうも、教えていただいたこと、早くもいろんな場面で役に立ってるんですよ。(^-^)


・・・私はここに入会してから今まで、生活と人生でいっぱいいっぱいで、ここへ来て投稿を読むことすらできない時期も何度もありましたが、それでも・・・ここへ来ればいつも、Syoさんの回答がどこかにあり、それがたとえ私の人生とは全然関係のないような質問に対する回答であっても、その中に、私自身の迷いに対する大きなヒントを見つけることができました。
時には突然、同じ理論をもとにたっくさんの回答を付けてらっしゃることがあって、なんだかSyoさんの嬉しさと喜びと一生懸命さがそこからあふれ出てて、「あ、すごい!この人、また何か発見したんだ!」って、モニターの前で思わず笑顔になる時もありました。

でもSyoさんがここを去る前に、こうやってお話できるチャンスを与えられたこと(今日、管理者さんから注意がきましたが(^^;))・・・・本当に嬉しく思います。生き辛さや、困難、音楽、そして真理を追求しそれを実際に生きるという決意と想い・・・・・我々3人を結ぶ共通の糸が、振れあい共鳴した、貴重な時間でした。


Syoさんのお話をもう聞けないのは、ものすごく残念です。でも・・・・・・・・
池に小石をポトンと落とすとその波紋が何層にも広がるでしょ?きっとSyoさんという石は、その行く先々で幸せの波紋をたくさんつくっていかれる方だと思います。
その波紋は、遠くにいても必ず届きます。


どうか、お体を大切に。
私も頑張ります、何があっても!

本当に・・・ありがとうございました。<(_ _)>
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまい、大変申し訳ございませんでした。
ご回答ありがとうございます。

>宗教がらみでも宣伝でもなく、「本当に助けてあげたい」という愛以外の何ものでもないことは、本当に悩み苦しみ、Syoさんの回答を受け取った方々は感じていらっしゃると思います。

その通りですよね。ちょっとお礼が遅れた間になんか残念なことが起きていますが…。
Syoさんの文章全体の意味を汲み取らずに、部分部分で仏教のことに触れたことだけをピックアップしてしまうから、宗教がらみだの何だのっていうことになってしまうんだと思います。もっとじっくり読んで判断していただきたいものです。
「生きていたいと思えない」という質問をした僕が、今は良い方向へ向かっていこうと頑張れるようになりました。それはSyoさんの意見(もちろんFloさんをはじめ、他の方の意見もそうですが)があったからこそなんです。その事実を管理者の方はどう受け止めるのでしょうか?Syoさんの意見が、宗教だの宣伝だのっていう意見であったら、僕はまだ死にたいと思っていたはずです(もちろん僕はどの宗教にも入会・入信していません)。

Floさんにもとてもお世話になりました。膨大な時間を僕の回答に費やしていただいて、とても感謝をしています。僕は変わっていくために、努力は怠らずに頑張っていきます。どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/02/12 17:39

motosyoこと、元SYOです。

m(_ _)m
どうやら宗教がらみと誤解されたのか?退会処分となりました(^^

以前から、正しい姿勢が大切だと訴えていたことも「繰り返しの宣伝だ」と誤解されマークされていたんですが、ついに退会処分になりましたので、ちょうど伝えたいこともある程度伝わっている良い時期でもあるので、私はこれで潔くOKWEBから撤退しようと想います。

正しい真理を伝えていても、営利目的でやっているとしか観えない人たちもいるんですね。
哀しいですが、仕方がありません。

floさん、camさん、あと此処を覗いてくれてたかも知れない後輩のtrさん。
みなさんどうかお元気で、そしてしっかりと実践して欲しいと想います。
私も頑張ります!

この道に絶対!!に間違いありません。
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急な用事が立て込んで、しばらくバタバタしてます。

100%書きたいこと書こうとすると結局何も書けないので、小出し(^-^)にすることにしました。<(_ _)>


camさんのお礼欄読んで、本当に嬉しく思いました。あなたは変わります。変われる人です。
ほんとうに変わろうとして、実際に努力をする人にはちゃんと、自然が協力してくれるようになってるんです。目先の利益にとらわれずに、本当に目指すところを向けて弛みなく歩けば、たどり着くべきところに導かれていくんです。
この数年は私にとって、それを自分で体験した、貴重な時間でした。この何年かで私は、何十年分の人生を生きたかのように感じるほどです。一秒一秒を、一生懸命生きたからだと思います。
camさんもきっとこの先、これを体験し、実感されると思います。ほかの誰でもない、努力したあなただけが享受できる感覚です。それを感じ始めたら、もう既にcamさんの人生は正しい方向に進み始めているはずです。


私自身も、やっぱり今でももちろん辛いこともあるんですよ。
だけど、そんな辛い思いをして、負けそうになり、葛藤し、それでも正しく生きようと努力する、・・というこの繰り返しが、確実に私の底力を上げているんです。少しずつ、少しずつ、正しく生きようとする力が強く働くようになり、心がぐらつかない自分に近づいていってるのが、実感できるんです。私その昔、部活で運動をしてたことがあるんですが・・トレーニングで長距離走る時とかもそうでした。最初に「ふんっ!!」って出すエネルギーが、次のエネルギーを生むんです。走れば走るほど加速し、足が勝手に前に出だすんです。
歩いててもそうでしょ、Syoさん?

・・・だから、今こそ・・頑張ってほしいです、本当に。



>また、次回に瞑想について投稿しますので是非参考にしてください。

了解しました。
立禅もやってみます。

このところの忙しさで、常に客観的で心静かでいることの重要性、同時にその難しさを、ひしひしと感じます。
けれどもやはり常にそれを意識していることで、本当にすべてがスムーズに流れることを、実感もしています。
Syoさんの投稿を読ませてもらうことでも、すーっと静かな心が戻ってくるんですよ。感謝です・・。<(_ _)>
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>生きていてもちっとも楽しくありません。

いいことなんて何もありません。いったい何のために生きているのか考えてしまいます。
 自分もそんな性格です。以前自分も、何のために生きているのかというものをずっと考えていました。でもその答えは無いと気付いて、でもそれでも答えを求めていました。
 今の自分は「ただ生きているだけ」の状態です。でもそれでしょうがないと最近は思えてきました。抜け殻で生きることを認めはじめたら、すこしだけ気は楽になりました。
 
>自殺も考えたことはあるのですが、
 自分もそれは考えたことはあります。でも自分の場合は、「どうせ死ぬなら、せめて幸せになるまで生きよう」と思って生きてきました。「別に今すぐに死ななくてもいいか」と思えば、気持ちが楽になると思います。

 人生は悪いことが重なると落ち込みます。それに負けてしまう自分が嫌いになるのは、みんな一緒だと思います。camcamさん、時にはゆっくり生きてください。

 あまり参考にならなくてすみません。では。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまい、大変申し訳ございませんでした。
ご回答ありがとうございます。

他の方へのお礼欄を見れば分かると思いますが、僕は少しずつ前向きに生きれるようになりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/02/12 17:43

camさん。



>>何もせずに何かを変えるなんて不可能ですよね。

そのとおり!

私も長い間、自分以外の何かが何かを与えてくれるハズ、どこかに行けば、誰かに出会えば、きっと何かが変わるハズとずっと想ってきたんですが、floさんも仰るとおり、自分が変わること以外に我々にコントロールできることなんて無いんです。

精神的安定も、「愛(気)」も、金も、仕事も、未来も、幸福も・・・全て自分で生産するものなんです。
この「心」が安定して自由自在に生きられれば、それが幸福への一本道なんです。

仮に、オーディションに不合格だったとしても、そんなことは関係ないんです。
だって誰かが貴方をミュージシャンと決めるのではなく、貴方が自律的にミュージシャンに成ってしまえば良いんです。
もし、今も、オーディションの結果をただ待っているのだったら、それは間違った態度です。
エサを待つ犬は飢え死にするだけです。


大仁田さんは、この点が凄いんです。
一時は日雇いの道路工事までやっていたのに、彼は、そこから自力で這い上がってきたんです。
デスマッチという見世物プロレスで、全身、血だらけ、傷だらけにして、捨て身で這い上がってきたんです。
さらに国会議員になったからといっても、まだまだ前進することを止めないんです。

郵政国会では投票棄権しました。(おそらく売名行為)
長崎の知事選も立候補を匂わせました(かなり売名行為)
タイゾー議員に付きまといました。(完璧に売名行為)
武部幹事長に反抗しました(確信的な売名行為)
・・と、彼のマスコミを利用したセルフ・プロデュースは終わらないんです。
私は本で知っただけなんですが、彼は、プロレス時代からずっとこのやりかたで這い上がってきた人なんです。だから、実は、彼は、全て計算の上で、楽しみながらやっていると想います。

だから世間から何を言われても、彼は、絶対に動じないんです。
だって、世間が反応するのを分かってやっているんだから、最初から、胎が据わっているんです。

逆に、彼の言動に騒いで揺れ動くのは世間の方なんです。
彼のやること、発言に対して、枯れ葉のように揺れ動くのは我々のほうなんです。
感情的になる世間を、彼は白けて傍観しているんです。

彼の座右の銘である「邪道」とは、アウトローという意味ではなく、誰に何を言われても、自分の好きな道を生きるという意味なんだそうです。

「涙のカリスマ」とも言われてましたが、実は、彼は、ずっとクールに冷静さを保っているから、人前で、何でも出来てしまうんです。どんなに稚拙で馬鹿馬鹿しいことでも、平気でやってのけてしまう平常心・不動心を持っているんだと想います。一流のお笑い芸人が冷静に計算しながら客を笑わせるのと同じことです。


長崎の知事選の話のときも、テーマパーク構想を出しましたよね。
「俺の知り合いが5000億だす」みたいな話まで飛び出しました。
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/news/dec/o2005122 …

とても稚拙で、馬鹿みたいな、詐欺みたいな話ですが、実は、これで良いんです。
なぜならば「目標」というのは、実現不可能なところに設定するべきなんです。
だって実現可能なことは、単なる「予定」なんです。
「予定」しか語れないビジョンの無い政治家なんて、それこそ必要ないんです。
慎重であるのはいいことですが、「おのれの保身」しか考えない人がいるのも事実だからです。


誰もが辟易とするようなくだらない話でも、夢は大きければ、大きいほど、その実現に向けて努力するので、必然的に前向きなパワーが溢れてくるんです。だから私は小泉総理の「郵政民営化」も内容はどうであれ感動したんです。ホリエモンの「世界一の企業にしたい」とか「宇宙にいきたい」というのも、実は、素晴らしいビジョンなんです(いまや過去形ですが)
実際にこのような発想で生きている人は大勢いるんです。

・・・で、ここで勘違いがあってはいけないのですが、大切なのは「欲望」ではなく「志」であるということです。
「欲望」と「志」も似非の関係なんです。同じ次元にある性質違いの関係です(対極の関係、陰陽、プラスマイナス)
(これが#48で説明したかったことなんです)

「ミュージシャンに就職できる予定が立たないから自殺します」・・・なんて大仁田さんに聞こえたら張り倒されるでしょう。
それより「俺の音楽でビートルズ以上に世界を変えてみせます」とデカイことを言わなければダメなんです。
そして、実際にそのための不断の努力、一歩でもいいから前進してみるんです。
今がどん底であろうが、どんな状態であろうが、老若男女問わず、ビジョンというのは、そういうもので良いんです。
子ども心全開な稚拙な発想で良いんです。計算高い大人の発想ではダメなんです。


でも街には私も含めて過去の栄光を語るような腰抜けばかりです。
たいしたこともない儲け話とか武勇伝を自慢げに聞かせるような小悪人な腰抜けが大勢います。
これは「愛(気)」が弱いんです。誰にも愛されなかったり、気が抜けている(現を抜かしている)と、必然的に、愚痴をいうか、過去の栄光にすがるようになってしまうんです。欲望と贅沢によって心が鈍化・衰弱している証拠です。ハングリー精神がなくなっているんです。



「無私の人」として有名だった土光敏夫という人が居ましたが、この人も毎日が苦悩の壁だったそうです。
毎日、毎日、新しいことに取り組んで、前向きに進歩(成長、変化、進化)しているからこそ、毎日が悩みの壁だったんだそうです。安穏とした日は、一日もなかったそうです。91歳で亡くなる数年前まで、働き続けたんだそうです。

でも、だからこそ鍛えられるんです。(錆ない鉄です)
「使うものは賦活する。使わないものは衰弱する」です。
土光さんも大仁田氏同様に、保身ではなく、捨て身の人生だったんです。
「めざしさえ食べていれば生きられる」と発言して「めざしの土光」として有名でした。

志が高ければ無欲の勝利。
無一物無尽蔵。
無欲は大欲に似たり。となるんです。

大仁田氏は40近くなってから高校に通い、大学にも通っていたんですよ。
レスラーとしても、タレントとしても、政治家としても二流、三流だけど、胎の据わりかたと「志」だけは超!一流なんです。
まあ、あんまり褒めすぎてもあとが怖いですが。。。


「欲望」ではなく「志」という意思エネルギーさえあれば、眼も耳も口もふさがっているヘレンケラーでも女子大にいけるんです。これ以上無いという、どん底からでも這い上がることが出来るんです。



floさんもきっとそうだと想いますけど、だから「どん底」まで落ちた人間は強いんです。
なぜならば、どん底にこそ救いが落ちているからです。
だって恵まれているところに、救いが落ちているワケがありません。
救いは、どん底にしか落ちていないです。
どん底に落ちないと、人間は救いを求めないんです。だから与えられないんです。

でも、これを逆の立場から観ると、「救いの落ちているどん底」とは、泥の中から咲き上がった蓮の華でもあるんです。
美しい蓮の華は、その対極にある汚い泥の中からしか咲けないと書きましたが、どん底に落ちて、もう行き場もなくなり「自分自身を作り変えるしかない!」という想いに達し、救い(真理)に到達したということは、実は、泥の中からちょっとだけ顔を出した蓮の華と言い換えることもできるんです。どん底だと想ったら、実は泥の上だったってやつです。明けない夜は無いんです。

だって逆に、安穏とした生活を続けて、「今のままでどうにかなるだろう」と現状に甘んじている人は成長・進化することもないんです。泥の中が居心地がよくって、いまだ、泥の中にいる蓮華なんです。

冬の時代、艱難辛苦を乗り越えてこそ成長できるとはこういう意味です。
あとは、それを伸ばすも伸ばさないも本人次第です。
やる気(志)がなければ、結局、ダメです。

全てのものが移ろい続ける諸行無常の世の中での「停滞」は「衰弱」「死」を意味するからです。


floさん。
>>そういうことが、ある時点から頻繁に起こり始めたんです。
浅見帆帆子さん本には「精神レベルがあがると、情報のほうから勝手に入ってくる」とありましたね。
確かにこういうことってありますよね。(聞こえるはずの無い声が聞こえたりね。。。)


>>じっと座ってることすらきつかったです。

一番簡単なのは立つ瞑想(立禅)です。
ただ立って「立っている」という感覚や呼吸の感覚に気づいていればいいんです。
でも、そうしていると必ず雑念が湧いてきますので、それも客観的に観察するんです。

私はしょちゅう鏡の前で立禅します。
鏡に映る自分をジッと凝視しながら、ただひたすら立って観察するんです。
とても集中できるし、調子いいんです。
(これは、子どもの頃から自然とやっているんです。)

また、次回に瞑想について投稿しますので是非参考にしてください。
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camさん、



>まさにその通りなんですよ。もっと積極的に動いたりして、自分の思い描いたものに近づけるようにしていったほうがいいんじゃないかって思ってます。どうも「今、此処の自分を生きること」っていうのがピンと来ないんですよねぇ。今の自分に与えられたことを一生懸命にって・・・、簡単に夢は諦められませんし、就職先も決まってない自分にとって一体何が「与えられたこと」なのかもよくわかりません。で、多分「与えられたこと=やるべきこと」ということですよね?やるべきことがもう少し明確になれば、と思ってるんですけど・・・。

>どうも「今、此処の自分を生きること」っていうのがピンと来ないんですよねぇ。


ピンと来ないの、無理もないと思います。私自身、「今、此処の自分を生きること」ってどういうことか、そしてその大切さに気付くまでには、長い長いプロセスがありましたし、ご存知のように私はまだ、Syoさんがおっしゃってる気付きの瞑想を体得してませんから、そういう私の視点でお話しするしかないのですが・・・。
私の言う「今、此処の自分を生きる」とはすなわち、家事や雑務、親の介護などのなんでもない普段の生活であり、歌うことであり、曲作りやアレンジなどの作業であり、ここでこうやってコミュニケートすることであり、・・・要するにその時その時にやってることを全力でやる、ということに他ならないんです。


音楽をやっていて感じることは、音楽とは一つの完結した世界、言ってみれば一つの宇宙、だということです。歌を歌う、ピアノを弾く、ギターを弾く、曲を作る、etc.・・・これらは、その音楽という一つの宇宙での体験なわけです。
そして、自分の人生というのが一つの完結した宇宙ならば、音楽はその人生という原版のミニチュア版のようなもので、音楽をやるということは、人生を生きるということの、模擬体験のようなもの、だと思うんです。(どっちが原版でどっちがミニチュアか、どっちが実体験でどっちが模擬か、どっちが大でどっちが小か、という問題はひとまずここでは無視します)
これと同じように、例えばダンスの世界も一つの完結した世界=宇宙ですし、スポーツも宇宙ならば、そのひとつの野球も宇宙、柔道も宇宙、会社の仕事も宇宙なら、家事も宇宙、介護も宇宙、子育ても宇宙、病気との闘いも宇宙、そしてもちろん、自分自身も宇宙・・・。

その中の何をやろうが、何を追究しようが、結局は同じ事を、単に名前の違う、別の種類の体験から学んでるだけなんだ、と感じるんです。
よく、何かの討論番組にゲストで呼ばれた(例えば)野球選手が意見を求められ、「野球で言えばxxx」とか「野球に例えるとxxx」とか言ってるでしょ?あれです。たとえ未経験の分野のことであっても、野球を通じて経験し、学んでるわけです。前に私が、「人生を生きること」と「音楽をやること」は全くの同義です。」と言ったのは、そういうことです。

でもそれが分かってても、次に来るのが「それなら、自分のやりたいこと、望むことを与えられ、そこで体験をし、学びたい」という切なる思いです。世の中には、例えば・・・・小さい頃から親に楽器と音楽教育を与えられ、親のバックアップを受けて音楽の学校に進み、何の苦労もなく音楽の道に進んで、そこで仲間を作り、楽し”そうに”一生音楽にドップリ浸かってる人(少なくとも外からそう見える人)っているでしょ?だけど、それが与えられない人間にとっては、人生とはなんとも不公平で理不尽だと感じるわけです。そう感じないまでも、「私のやりたいのは音楽だから」と、自分が今持っている仕事に対して無気力になったり、無意味な時間を過ごしてるように感じて悩むんです。
私も今でこそお金をもらって音楽ができる、なんていう立場にいますが、もともと私の家族は私が音楽をやることに猛反対でしたし(今でもそうかもしれません。(^_^; )、ずっと歌を歌いたいと思いながらも、その「歌う」っていう単純な機会さえも与えられないまま、ずっと、音楽とは一見全く関係のない世界ばかりにいたんです。音楽でお金をもらうようになってからも、仕事があるときもあれば、全然ない時だってありますから、いつもいつも好きなことしていられる、音楽にドップリ浸かっていられるって訳じゃないですしね。


でもこの悩みは、「今、此処の自分」を実際に生き始めると、消えるんです。自分が望む、望まないにかかわらず、与えられたこと、実際に自分の目の前にあることを全力でやりさえすれば、その中で「おぉぉ!!」っていうほどの何かが見つかるんです。それが私の、帰国してからの大発見だったんです。私の場合は、この与えられたこと(望まないこと)を全力でやることによって、音楽でぶち当たった困難に対する答えをも、見つけることになりました。
・・・これは私が事実、与えられたことをやるしか道がない、というところまで追い詰められたからこそ分かったことかもしれません。たとえ少しでもその与えられた(自分の望まない)状況を回避する方法があれば、私はまだこのことに気付いてなかったと思います。今もまだ、文句言って泣いてると思います、・・そういう人間ですから、私(笑)。ほんとに追い詰められてはじめて、人間腹が据わり、理論を”実践”するに至り、真理の発見ができるのかもしれません。


だからこそ確信を持って言うんです。camさんの思い通りにいかない今の状況こそが、camさんを「今此処の自分を生きる」という”実践”に導いてくれるのだと。そして、camさんにとって大切な何かを見つけることへと導いてくれるのだと。たとえこの冬の時代が、あなたに音楽をする時間を一分も与えてくれなくても、あなたがこの時代を「今此処の自分」を全力で生きようとする限り、あなたをより素晴らしいミュージシャンにしてくれると思うのです。Syoさんもおっしゃっていますが、この冬の時代こそが、camさんにとって本当に必要な時間であり、あなたの人生に本当の意味での革命をもたらすものなのだと、思うのです。


「夢」というのは、決して自分が思い描いた道筋で叶うものじゃない、というのが私の実感です。全然関係ないところをさまよってたのに、ある日気がつけば既に叶ってた、みたいなものだと感じるんです。叶ってみれば、普通のことだった、みたいな・・ね。
それは、夢が叶う、良い結果が出る、ということは、自分にその良い結果を受け入れる準備ができた、ということの証しだからだと思います。もしその準備期間を経ないでバラ色の夢の実現に至れば、今度はそのバラ色の状況を受け入れることができない自分との戦いになるのです。いずれにしろ、今抱いてる夢の実現とは、camさんの成長に伴って、嫌でも(笑)やってくるものです。

だから・・・夢を諦める必要もなければ、今叶わないからと言って、絶望する必要もないんです。(^-^)




Syoさん、

>floさんと話をしたら、永遠に終わらない気がします。

終わらないですね、きっと。私もそう感じます。(^-^)
このことも、あのことも、・・って、次から次へお話したいことが湧いてくるのですが、だからこそ、今何も言えなくなってしまう自分がいます。

・・・面白いことがあるんですよ。
私ね、ここでお話しするようになってからは、ネットにつなぐ度、お二人から新しいコメントがないかチェックするので、比較的早い段階で読むだけは読んでるんです。でも、用事が立て込んでてまとまった時間が取れなかったり、取れても書くことが全然まとまらなかったりして、いつも投稿が遅くなっちゃうんですけど・・・
不思議なもので、例えばそうしてる間に、ここに書こうと思ってメモしていたことを、Syoさんがこことか、別の質問への回答にずばりそのまま書いてたり、あるいは全然こことは関係なくても、ある日生活の中で痛感したりしたことをそのまま、Syoさんのコメントとしてモニター画面上に見たり、疑問に思って考えてることの答えが書かれていたり・・・・そういうことが、ある時点から頻繁に起こり始めたんです。

今回のは、「念」でした。
全然関係ない話で恐縮なんですけど・・この間、正夢(夢で見た情景を後日現実で見る、とか夢で起こったことが現実に起こる、とか)をみたんですよ。私小さい頃からたまに見るんですよね、この正夢を。これってどういう現象なんだろ?って考えてたんです。
この話をするといつも友人に(冗談で?)変人扱いされるんですけど・・・(笑)
例えば亡くなった人の霊を見るとか霊と交信できる、という人、いるじゃないですか。私自身はそういう経験は皆無なんですけど、・・・そういう人は、その亡くなった人の生きてた頃の念を時間を超えて見ている、と考えると、何も不可解な現象ではないなあ、といつも思うんです。それと同じで、正夢って、未来の自分の念、あるいは誰かの念を、今の自分が時間や空間を超えて見てるのかもしれないな、なんて想ったんです。その時ふと、「あれ?じゃ”念”ってなんだろう?こういうとき”念”という言葉を使っていいのかな?」って疑問に思ったんですよ。そしたらその日の晩、目にしたのが、Syoさんの「「念」というのは、「今の心」なんですよね・・・・」というコメント!(笑)

・・・・・いや・・生きてるとおもしろいことがいっぱいありますね。


ところで、瞑想についての詳しいご説明、本当にありがとうございます。
読んでて、おそらく私には瞑想についてある種の先入観があったのだろう、と感じました。なので今度は、Syoさんの言葉をそのまま言葉どおりに、実践してみようと思っています。

>でも、いきなり、この感覚で瞑想するのは、難しいんです。
だって、荒れ狂った、騒がしい心のままでは、観察どころではないからです。
だから最初に心を静めることが必要なんです。

これ、この間経験しました。
私、いままで何度かやってみたんですけど、あまり普段と感覚が変わらなかったんですよね。でもこの間夜、精神的にすごく不安定だと感じた時があったんです。なにかこう、理由もない不安みたいなものに包まれてる感じで。
その時に、「そうだ!今だ!瞑想やろう。」と思って座って始めたんですけど・・・雑念どころか、ただ頭がわんわん鳴って空回りしてる、という感じで、じっと座ってることすらきつかったです。

ま、とにかく焦らず気長に、やってみます。


>でも、これも精進していないとすぐに汚れてしまうんです。
経典にも「鉄が自身から出た錆で朽ち果てるように、心も内側から朽ち果てるので、不断に努め励みなさい」とあるんです。

おっしゃるとおりだと思います。痛感しています。
そういう意味でも、一生努力を続けていかなければならない、と覚悟をきめました。その覚悟と共に・・・何か恐怖にも似た、でも恐怖とは違う、言葉で言い表しようのない感覚に、ときに襲われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

僕、変わりますよ。成長するってどういうことか、少しずつ分かってきました。Syoさんへのお礼の欄にも書きましたけど、「自分に革命をもたらせるために冬の時代が与えられたのではないか」って感じるようになってきたんです(全く逆の想いを抱くときもありますが…)。あまりにも苦痛に感じることばかりが続くと、そう思ってしまうというか思わずにいられなくなるというか…。
僕は最近は(かなり長い間ですけど)本気で笑ってないんです。笑えないんです。それくらい苦しみに打ちのめされているんです。だから周りの人間の幸せそうな顔を見ると、「こんな苦しみを感じているのは自分だけだな」って思う反面、その分この壁を越えさえすれば、周りの幸せそうな人間には到底味わえないような喜びや幸せ、そして掛け替えのない大切なものを手に入れられるような気がするんです。floさんほどではないにしろ、追い詰められた結果そういう考えができるようになったのだと思います。

「その時その時にやってることを全力でやる」ですか…。できそうでできないことかも知れませんね。人間てどうしても、楽をしたがるというか、手を抜いて仕事をこなそうとしますからね。僕も自分の大好きな音楽のことに関しては全力でできるんですけど、それ以外のことはやはりどうしても・・・。でもこれからは全力で取り組む努力をします。日常の些細なことも手を抜かないようにします。自分を変えます。成長させます。いつまでも冬の時代を彷徨っているわけにはいきません。

お礼日時:2006/01/29 20:41

連投失礼します。



瞑想について説明したんだから、これも説明しないといけないんです。
それは「姿勢(FORM、動作、所作、動き、型・・・・)」です。

養老孟司さんによると「身体の動きというのは、実は、頭を使っているからおこる。逆に言うと脳みそから何かを引き出そうとすると、身体を動かすしかない。・・・・なぜかというと病気で筋肉の動きが完全に止まると一切の表現が出来なくなる。何を考えているのか外に現れなくなる」とあるんです。
つまり「心」は自然と姿勢(FORM、動作、所作、動き、型・・・・)に現われるんです。
これは武道でも、芸能でも、遊びでも、どんな仕事でも、なんにでも当てはまることだと想います。
心は型に現われるし、型は心の現われなんです。

これもきっと、どこかで「Form follows function」この言葉とリンクするハズです。




禅の世界でも「行住坐臥」といって掃除中も、食事中も、歯磨中も、お風呂中も、立つ時も、坐る時も、寝る時も、・・・いついかなる時でも、自分の行動に注意しなさい、目覚めていなさい、覚醒していなさい、サティ(気づき、念)を入れていなさい・・・という意味に使われるんです。油断なく覚めていなさい。「マインドフルネス」とも言います。

ですから、この姿勢への気づきも、不断に努力してほしいんです。

だって、もし、姿勢が乱れたら、それは心の乱れの信号でもあるからです。
姿勢の乱れを治すには、心の乱れを治すに尽きるんです。

「病気」も同じ理屈なんです。
「病は気から」と言いますが、病気というのも、元々は心が作っているものではないかとも言われています。
心の持つ”ポテンシャル”の現われということになると想います。

まあ、しかし、事故の話にしても、なにからなにまで心の問題だという「一因説」ということではなくて、実際にはこの世は同時多発的に変化消滅を繰り返している世界なので「多因」ということになるんですけどね。

まあ「姿勢」ということも、是非、頭において生活してみてください。
「生活態度」「心的態度」と言い換えても良いと想います。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

姿勢ですか。昔からよく「猫背だから気をつけろ」って言われてきたんですよ。最近は気をつけるようにしてますし、背筋などを鍛えているので改善されているとは思いますが。よく姿勢が悪いと、骨格が歪んでいるとそれが様々な病気を引き起こす原因になるって言いますよね。姿勢をよくするために、心の乱れを治して、もっといい自分になれるように努力したいと思います。

お礼日時:2006/01/29 20:25

camさん



>>世の中意外と良くできてますね。

これホント!(^^
ジェームズアレンの「原因と結果の法則」にも「この世は混沌ではなく、秩序で出来ている」と書かれていますが、本当にそのとおりだと想います。私も、そんなに歳食っているワケではありませんが、もっと若い頃に、この道理(真理)を知っていればな・・と悔しい想いをしていますので、貴方は頑張って勉強してほしいと想います。

「あるべき矛盾」・・そうでなんです。
我々は、どーしても一元論で考えてしまうんですが、逆も真なりで、この世の全ては陰陽、プラスマイナスで出来ているので、必然的な矛盾をはらんでいるんです。
でも、これこそが希望なんです。
我々も、不安定な心だからこそ、対極にある安定した心に成長できるんです。

今は、就職先も決まらず、生きる希望が無くなったかのように錯覚する時期だと想いますが、この時期を過ごすからこそ強くなれるんです。この冬の時代を生き抜くからこそ成長するんです。
その成長方法は、不安定な自分の心を客観的に観察する・・・ただそれだけです。
ただ、これだけのことに、恐ろしいほどの真理が隠されています。。。。





floさん。
floさんと話をしたら、永遠に終わらない気がします。
きっといろんなことがあったと想うんですが、貴女は奇跡的にも正しい方向に進んでいると想います。
女性は気を使うことが多いから、ボケも少なく、長生きするんだという説もあります。
まあ男女ともに厚顔無恥で早くボケる人もたくさんいますが、「使うものは賦活する、使わないものは衰弱する」という法則があるんです。気遣いが多いと、その分苦労も耐えませんが、逆に、感性が高まるのも確かなことなんです。
天敵の居ない安穏とした生物より、天敵の居る生物のほうが、生存のための本能が多彩に使われますので、何かと進化も早いのかも知れません。

これまでもいろいろ拝読しましたが、やっぱりfloさんは、小さいかも知れませんが悟りの境地に至っていると想います。
でも、これも精進していないとすぐに汚れてしまうんです。
経典にも「鉄が自身から出た錆で朽ち果てるように、心も内側から朽ち果てるので、不断に努め励みなさい」とあるんです。

まさにこれです。
>>この頃には、理屈の上ではすべて、達観してた(つもりだった)んですよ。達観してたくせに、です。

やっぱり、我々は弱いですから、気づかない間に他人の錆も貰うし、自分からも錆てしまうんです。
で、私のようにうつ病になるほど錆ないとも限りませんので、(うつ病も多くの人の心の中から生まれてきている時代病だと想うので)不断に心を磨く努力をしていってほしいです。




>>「声に出して読む般若心経」読みました。
>>あまりのすごさに、20分くらいで一気に読み終えてしまいました。

そうですか、お役にたってよかったです。
これはfloさんが経験者で、自分でたどり着いたからこそ理解も深いんです。

特にこの本は名著だと想います。
本当は仏教書というのは、みんなこうでなくっちゃいけないんです。
仏教の眼目は苦の消滅なんですから実用的に機能しなければ意味が無いのに、多くの仏教書は、悟りの妨げになるような小難しいものばかりなんです。私も、おかげで、えらい遠回りしました。で、書店にいくと「ブッダとシッタカブッダ」とか、いろいろありますが、みんな世俗の領域から概念を伝えているだけであって、百聞は一見にで、体験したほうが早いんです。


>>これは本当に科学ですね!

そうなんです!
現代の心理療法のエッセンスも、中国の気功法のエッセンスも、全てがここに詰まっているんです。
「今、此処の自分に生きる」・・これが机上の理屈ではなく、実感として体験することに本当の意義があるんです。

camさんも、>>どうも「今、此処の自分を生きること」っていうのがピンと来ないんですよねぇ と言っているので、この際ですから、素人ながらちょっとだけ瞑想について少し説明させてください。こんな感じなんです。


たとえば「見る」という行為は「視覚」という”感覚器官の反応”にすぎないんです。
「聴く」という行為も「聴覚」という”器官の反応”です。
「想う」「妄想する」「考える」という頭脳さえも、単なる”器官の反応”にすぎないんです。
同様の理屈で鼻も、舌も、身体感覚も・・全て、単なる”器官の反応”にすぎないんです。
般若心経にもある「眼、耳、鼻、舌、身、意」ですね。

・・・と、これらを第三者的な感覚の白けた眼で観察(洞察)し、同時に実況中継(ラベリング)するんです。

「離人感」という言葉がありますが、普段の自分とは違った新しい観点から自分を観察するんです。
普段の考えている自分、感じている自分、想っている自分、反応する自分、行動する自分、・・・生まれてから今日まで、当たり前すぎて、まったく疑うことのなかった「自分」というモノから、一歩離れて、手放して客観的に観察するんです。
これがFEELの世界の入り口です。


だって、今、此処に居る自分は、実は自分では無いんです。
たとえば、お笑い番組をみて → 笑うでしょ?
風が吹いたら → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

誰かに馬鹿にされたら → 腹がたちます。
これも風が吹いたら → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。
我々は、常に、自分以外の何かに縁って翻弄されているだけなんです。
【無我】【不自由】

でも、その感覚が、あまりにも!! リアルすぎて気づかないだけなんです。
これこそが紛れも無い自分だ!と錯覚しているんです。
ところが、自己観察すると、実は、どこにも主体性・自律心・自由がないことに気づきます。
朝から晩まで、下手したら一生涯「心、此処に在らず」で暮らしているんです。
この自分以外の何かに翻弄され続ける感情を【煩悩】と言います。
風に吹かれてどうにでもなってしまう”枯れ葉”とでもイメージしてください。
(「声に出して読む般若心経」にも同じことが書かれてあったと想います。)


でも、我々には、そんな自分を客観的に観察する主体性、自律心、理性的な自分も居るんです。
この「心」を育てることこそが、「愛(気)」の生産でもあり、安定(幸福)への一本道です【涅槃】
不自由な自分から解放されて【自由】になるんです。
風に吹き飛ばされない不思議な枯れ葉です。

  手足の無い、達磨さんの人形ってありますよね。
  倒されても、倒されても、自分の力で起き上がってくるんです。
  あらゆる行き止まりに道をつけられる、「自由な心」なんです。
  ※ 達磨さんが、ヴィパッサナー瞑想を中国に坐禅として伝えた禅宗の開祖です。



食事中の匂いも、味も、身体の痛み、痒み、痺れも、自分の発想、思想、妄想・・心の領域さえも・・・・これら全てを”単なる器官の反応”として<意に介さない> <気を取られない> <心を止めない>ように、第三者的な視点で客観的に、淡々と観察し、実況中継(ラベリング)していくんです。

【私は立ち止まることなく、あがくことなく煩悩の激流を渡りました。
  立ち止まる時には沈み、あがくときには溺れるのです。
  このようにして立ち止まることなく、あがくことなく渡りました】という感じで。

>>でもその一つひとつに動揺する、ということがないですよね、そういえば。
>>単に事実だけを淡々と受け止めてる、って感じで・・。

まさに、こんなような感覚で、自分自身の「眼耳鼻舌身意」を第三者的な感覚で観察します。
・・・と、文字にすると難しいんですが、あまり難しく考えないで、子どもの遊び感覚でやるといいんです。
自分の全てにラベリングするラベリングゴッコだと想ってやるといいです。
「今、XXさんのことを考えた」「妄想の中で、こんな会話をした・・・」とか、「右手を動かしている」「左足が痒い」・・・とか、出来るだけ多くのことに気づくように、チェックできるようにしていきます。

これをしていると、汚れきった自分の心とは対照的な綺麗で無垢で安定したもう一つの心の存在(?)を感じるかも知れません。


で、人間の心の特徴は「三毒」といって「欲望(貪)」「怒り(瞋)」「妄想(痴)」に大別できるんです。
我々が思い浮かべることや、行動の根っこには、必ずと言っていいほど、この三毒があるんです。
ですから、今、自分が思い浮かべたことが貪りの気持ちだったのか? 怒りだったのか? 愚かさに基づく妄想だったのか?、という風に分析的に気づいていくことも智慧の開発に役立ちます。この気づきによっても頭がクールダウンされてきます。正気に戻ってきます。

まずは、こんなところから初めてみて、本格的に勉強してみてください。
(#48のリンクが不正だったみたいですが、アマゾンで「釈迦の瞑想」で検索すれば4冊ヒットすると想います、また、「ミャンマーの瞑想」(マハーシ長老)もお勧めです。(いずれも散財せずに図書館で借りてください))



でも、いきなり、この感覚で瞑想するのは、難しいんです。
だって、荒れ狂った、騒がしい心のままでは、観察どころではないからです。
だから最初に心を静めることが必要なんです。
現代でいえば、癒しCD、アロマ、お香・・・のリラックスタイムが必要なんです。
これに当たるのは「サマタ瞑想(止の瞑想)」と言われています。

これはなんでもいいんですが、やっぱり「慈悲の瞑想」がお勧めなんです。
「慈悲の瞑想(止の瞑想)」をして気持ちを落ち着かせてから、ヴィパッサナー瞑想(観の瞑想)をするんです。
この二つがセットになって、いわゆる「止観」というんです。
簡単でしょ?
もちろん慈悲の瞑想をしなくてもいいし、他のことをやってもいいんですよ。
間違っても、宗教的な儀式ではないからですから誤解無く。



「気づく」ことを「サティ」というんです。
「サティ」というのは「念」と漢訳されるんです。
「念」というのは、「今の心」なんですよね・・・・

インドのものを中国で漢訳したときには、本当に考え抜かれているんです。
現代の我々がおろそかにしてはいけないなと、知れば、知るほど想います。
何から何まで先達の智慧と努力は、恐るべきものだと思い知らされます。


・・・と、まあ、私も言うほど出来ていないんです。。。。><;
すぐに意に介してしまうんです。簡単に気を取られます(苦笑)
でも、だまされたと想って、気長にトライしてみてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>貴方は頑張って勉強してほしいと想います。

はい、勉強したいと思います。勉強して色々知れたら、僕と同じような悩みを持った人間に対して、今度は僕が回答者側に回れるようになりたいですね。

>冬の時代を生き抜くからこそ成長するんです

その言葉を信じて頑張りたいと思います。周りの人間が就活なり人間関係でうまくいって幸せそうなところを見て、「なぜ自分には何も与えれていないんだろう」と考えたときに、「自分に劇的変化、革命を起こさせるために冬の時代が与えられているのではないか」…と最近思うようになってきたんです。他人と比べるのはどうかと思いますが、あまりにも差がありすぎるように感じて、なんか「自然が自分を変えさせようとしてるに違いない」って思わずにいられないって言うか…。でもまぁ、僕の心はまだまだ幼くて、情緒不安定で、次から次へと悩みが生まれてきて、「自分を自殺へ追い込もうとしてるのではないか」って思ってしまうこともあるんです。この間も、何をやってもダメで人に迷惑をかけてばかりいる自分がすごく情けなく感じて、夜に一人で泣いてしまいました。

・・・やっぱり瞑想ですかね?僕って本当に「自分以外の何かに縁って翻弄されている」だけです。風に飛ばされない枯葉になりたいものです。瞑想頑張りますよ。何もせずに何かを変えるなんて不可能ですよね。壁を越えようとするのであれば、今の自分にないものを求める、又は弱い部分を鍛えなければいけませんよね。

お礼日時:2006/01/29 20:25

camさん、




自己矛盾を抱えた当人です。<(_ _)> ・・・(笑)


>不躾な質問で申し訳ございませんが、疑問はなるべく解決させたいので。

いえいえ、疑問があれば遠慮なく聞いてください。自分の漠然とした考えを再考する機会にもなりますし、camさんの納得いく説明ができるかどうかはわかりませんが、最善を尽くしたいと思います。

とはいえ、私に説明できる以上のことをずばり、Syoさん(もう一人の自己矛盾を抱えたご当人。(^-^))が説明してくださったので(私の疑問にも答えてくださいました。)、もう言うことがないのですが・・・補足、というか、ちょっとピントはずれるかもしれませんが、私自身が感じたことを言わせてください。


「大河の流れの中の一点」や「完結している」というのは、理屈よりむしろ、自分自身の経験からビンビン伝わってくる感触というか、経験からくる体系的なイメージ、のようなもので、どうも言葉で説明できないので・・・・・・
説明できることだけに焦点をしぼってお話します。


まず・・もちろん、犯罪や悪事を肯定してる訳ではないです。
自分の欲を満たす為、するべきことではないことをして、他人の命を奪ったり、他人の体や心を傷つけている人はたくさんいます。そんなことは、もちろんすべきことではありませんし、積極的に許すべきものでもないと思います。
ですが、我々一人ひとりの人間には、他人の行動やその心をコントロールすることはできません。

・・・私が今まで生きてきた中で何度も何度も、嫌というほど思い知らされたのがこのことでした。
自分の母親に始まり(私がコントロールできない最たる人でした。)、友達、仕事仲間、恋人、夫、・・・他人(自分以外の人)という他人は全て、私にはどうすることもできない冷たい壁、でした。さらにはオーディション、仕事、日本社会、アメリカ社会、人種差別、病気、etc.・・・ほんとに細かいことに至るまで、この世には、自分の力ではどうにもできないものばかりなんだ、という冷たい壁に何度も突き当たりました。その壁を感じるたび、やりきれない思いでいっぱいになりました。自分がどれほど無力であるか、思い知らされました。

でも逆に言えばそれは、「お前にコントロールできることがあるんだよ。それを探しあてなさい。」という、経験が私に与え続けた強いメッセージだったんです。そのことにより私は、「今、此処の自分」だけは、私のコントロールの範疇にあることなのだ、ということにやっと、気がついたんです。そして実際に「今、此処の自分」を生き始めたとき、そのことが有するとてつもないパワーを、実感したんです。

そして、「今、此処の自分を生きること」だけが我々にできることならば、世の中を正しい方向へもっていくために我々にできる努力、とはすなわち、「今、此処の自分を正しく生きる」ことに他ならないと思うんです。今、此処の自分を100%正しく生きさえすれば、それが我々にできる最高の善行なのだと思うのです。
でも我々・・少なくとも私は、これすら満足にできないわけです。これすらできないのに、自分の目の前に与えられていることに不満を言い、「こんなわずらわしいことに時間をとる必要がなければ私はxxできるのに」とか、「こんなことではなく、xxをして自己実現したい」と・・・今自分にできないことばかりに心を馳せ、今自分にできること、つまり「今、此処の自分を生きること」をおろそかにしていたんです。


今の時点ではもしかしたらcamさんには、「自分に与えられたことだけをやるなんて、受身だ」と感じられるかも・・しれません。かつて、理論だけを頭に描き始めた頃、私はそう感じていましたから。もっと積極的、効果的に自分の力を発揮し、この世に貢献する方法があるんじゃないか?って。
でも今は、極めて積極的な生き方=極めて受け身の生き方、ではないか?と感じるんです。言い換えればそれぐらい、「今、此処の自分を生きること」による無限のパワーを感じ始めているんです。


結局、Syoさんがおっしゃったこのことが言いたいんです。

>社会を少しでも良くしたいと想ったら、私たち一人、一人が自律的な安定を果たすべきなんです。平和を声高に訴えて、自分以外の何かを変えようとするのではなく、まず「自分」が変わってしまえば良いんです。誰よりも、まず「自分」が進化、成長を遂げて、世事を達観し、同時に人助けをするような「愛(気)」の強い、大きな心の人間になれば、これほど世の中に対して貢献することはないんです。人類に対しても最大級の貢献です。だから克己修身して「完結している」と考えられるような心の安定した人が増えれば、相乗的に社会も良くなるんです。

これを信じているんです。


・・・・ちゃんと説明できたかどうか分からないんですが、言わんとしてることは分かってもらえたでしょうか?



P.S.
>(floさんへの返信は別にします。)
了解です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>今の時点ではもしかしたらcamさんには、「自分に与えられたことだけをやるなんて、受身だ」と感じられるかも・・しれません。

まさにその通りなんですよ。もっと積極的に動いたりして、自分の思い描いたものに近づけるようにしていったほうがいいんじゃないかって思ってます。どうも「今、此処の自分を生きること」っていうのがピンと来ないんですよねぇ。今の自分に与えられたことを一生懸命にって・・・、簡単に夢は諦められませんし、就職先も決まってない自分にとって一体何が「与えられたこと」なのかもよくわかりません。で、多分「与えられたこと=やるべきこと」ということですよね?やるべきことがもう少し明確になれば、と思ってるんですけど・・・。

お礼日時:2006/01/24 00:48
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