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の質問において、「長期記憶の保持は、機能タンパク質の作用によりシナプス結合が長期増強されることによって行われる」(らしい)と言うことを理解しました。


臓器移植を行った際に、提供者の嗜好・性質(性格)・記憶がうつった等の事例をテレビで見たことがあります。

また、似たような話で、ある一定の学習(迷路上に置かれたエサの探索)を行ったプラナリアを細切れにして、別のプラナリアにエサとして与えたところ、一定の学習効果が見られたというコラムが、大学時代に読んだ教科書か参考書に記述されていました。


質問は以下です。
・移植もしくは化学物質の摂取で記憶を受け継ぐことができるか(できると思うか)。
・解明されてきたら、極端な話、「日本史サプリ」とか「英語サプリ」とかできるのか(できると思うか)。
・どこか(たしかオーストラリア)の部族で死者の脳を敬って食べる習慣があったが、
 実は経験・記憶を無駄にしない方法として、生物的・物理的に合理的なのか(だと思うか)。

アンケート的な質問ですが、専門性が高いので生物カテに質問しました。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

こんにちは。


前回のご質問で長期記憶と機能タンパク質に就いて発言した者です。私の回答をお読み頂きありがとうございます。お招きに甘え、再びお邪魔します。

今回質問者さんが提示なさった問題は、全てできないと解釈して良いのではないかと思います。
前回の回答にも書きましたが、化学物質やタンパク質は、記憶を保持するための神経回路や細胞の「働きに作用するもの」であり、決して情報の因子ではありません。
では、情報の因子いうのは何かと言いますれば、それは神経細胞ひとつひとつの反応によって発生する「神経インパルス(電位信号)」であり「神経伝達物質の放出」ですよね。そして、その因子とは我々の体内では感覚器官を始めとする神経系自身が、その機能によって唯一獲得できるものです。つまり、目、耳、舌といった我々の感覚器官は、光、音、味など、身体内外で発生する物理的・化学的現象を神経信号に変換するためのものです。これにより、我々は初めてそれを情報として扱うことができるようになるわけです。例え内分泌ホルモンであろうとも、受容体がなければそれが信号として変換されることはありません。
従いまして、薬物や化学物質を投与したり、あるいは他の細胞や臓器を食物として摂取したとしましても、分解・吸収をして血肉・栄養にすることはできますが、消化吸収器官にはこれを信号に変換するという機能がありませんので、それが体内や脳内で記憶情報として再構成されるということは、まず間違ってもないと思います。つまり、新聞紙を食べても、それを読んだことにはならないということですね。

ちょっと調べましたら、プラナリアの実験は1960年頃に実際に発表されたものらしいですが、実は明らかな間違いだったそうです。
この学者さんは、記憶の因子とは化学物質であり、「記憶の薬」「頭を良くする薬」は作れるというノーベル賞級の主張をしました。ですがこの実験は、その後二度と追試によって再現されることがなく、この学説は間もなく完全に否定されてしまったそうです。元々実験の方法そのものも、結構いい加減なものだったようです。

>私が究極的に知りたかったことは、外部因子によって記憶を左右できるかということです。

これまでに申し上げました通り、その受容器官がない限り、薬物や化学物質の投与ではそれができないというのはご理解頂けるのではないかと思います。
ただ、薬物といいますならば、シナプス間に放出される伝達物質を受容するレセプターに作用して、その反応を変化させてしまうといった「作用剤(拮抗剤)」なるものが、現在では既に精神治療薬として使われています。ですが、それは神経の反応や思考・記憶などの作業に対して情報の伝わり方をコントロールするものであり、その作用剤を使って何らかの情報を外から送り込んでいるというわけではありません。何よりも、飲んだり注射したりといった薬物に何かの情報を書き込んやること事態がそもそも不可能に近いですよね。
では、情報を書き込むことのできない化学物質では無理ですが、元々情報を運ぶことのできる電気や電波であるならば、感覚器官やレセプターなどの「受容器官」を使わずに情報を送り込んだり、それを使ってテレビの映像や新聞の記事などを、我々の脳内で扱うことのできる信号に作り替えてやるということはできるのでしょうか。これに就きましては、近年たいへん画期的な実験が、確か日本でも成功しています。

神経系の傷害によって目の不自由な患者さんの視覚神経にバイパスを設け、そこに電気信号を神経インパルスに変換するためのチップを取り付けます。そして、このチップを通してテレビカメラの捉えた外の映像を脳内の視覚野に送り込んでうやろうというものです。実験の結果は、今まで全く何も見えなかった患者さんですが、おぼろげながら像が見えたというものだったそうで、同様の症例に対する新しい治療法としてたいへん注目されています。
つまり、電気信号を神経信号に変えて、その情報を脳に知覚させるという実験は、極めて初歩ではありますが何とか成功したということです。では、これを使って脳内に様々な情報を直接送り込むことができるというのでありますならば、我々の脳は、将来コンピューターとの接続も可能になるということです。更に、神経信号の変換機能を持つメモリー・チップを生体ディバイスとして生め込んでやるならば、あなたの脳は東大合格間違いなし、そして、アイテムとしてあれこれと交換が可能であるならば、私はこの世の全てに対してスペシャリストということになります。但し、これにはひとつ問題があります。

我々は、何か取るときには手を使い、歩くときは足を使えば良いということは誰でも知っています。ですが、では考えるときに何をどう使えば良いのかということをちゃんと知っているひとはいるでしょうか。ということになりますと、仮に超小型大容量・高性能の最新型メモリー・チップを脳内にバッチリ生め込んだとしましても、ではいざというとき、どうやってそれにアクセスしたら良いのか、一生懸命に意識を集中してはみますものの、そのやり方が皆目分からない??? ということになってしまう可能性があります。脳内では、いったい誰がどうやってそれを記憶として手繰り当てているのでしょうか。
これは、記憶というものが一塊の物理的状態を持っているとはいいますものの、果たしてそこにありさえすれば、それは記憶として扱ってもらえるかどうかという問題に発展してくると思います。では、外科手術による記憶の生体間移植というのは、いったいどのようなものなのでしょうか。

記憶というものが脳内で一塊の状態にあるというのは、そもそもは脳の障害によって言語や人名などといった特定の記憶が失われてしまった患者さんの症例に基づいて生まれたものです。そして現在では、解剖学的にも生理学的にも、それがほぼ証明されつつあります。そして、そこには回路を組み立てている細胞同士の結合やタンパク質の合成という物理的状態が保持されているわけなのですから、その部分をそっくりメスで切り出してやるということは、やりようによっては可能であるということになります。また、何処がどのような記憶であるのかといったことも、現在の、脳内の神経回路の反応分布をコンピューター解析する技術が更に進歩するならば、ある程度特定できるようになるかも知れません。
ですが、それを取り出して他の脳に移植するにしましても、いったい何処に縫い付けてやれば良いのでしょうか。元の脳と同じ場所であるならばベストのような気もしますが、そうなりますと今度は、いまそこにある組織は何処かにずらさなければなりません。そもそもそのひとの場合、その記憶回路の取り付け場所は、前のひとと同じところ、同じ向きで良いのでしょうか。これが、私が、果たしてそこに縫い付けて移植をしただけで、ひとつの記憶としてきちんと扱うことができるようになるかどうかと考える理由です。
更に、脳がそれを情報として検索するためのインディックスや、連想記憶や関連記憶というものはどうなるのか。そのひとにとってその記憶というのはいったいどのような意味を持つのか、他にも様々な問題が考えられますが、とてもひとつひとつ検討できるものではありませんので、やや中途半端で申し訳ないのですが、こちらはこれくらいにさせて頂きます。

このように、記憶の生体間移植というのはたいへん面倒なものですし、何よりも、考えるだけであまり気持ちの良いものではありません。ならば、そんなおどろおどろしい外科手術などしなくとも、もっとスマートな方法があります。
先ほど、現在の医学は電気信号を神経信号に変換するところまで漕ぎ付けたと申し上げました。ならばその後は、逆に神経信号を電気信号に変換することもできるようになるかも知れません。では、神経信号として脳内に想起された記憶情報を電気信号として取り出すことができるのでありますならば、外科手術などしなくとも、それを再び神経信号に変換して別のひとの脳に送り込んでやれば良いということになります。
但し、これにもひとつ重大な問題があります。それは、我々の記憶情報というのは、実際の体験に対してあれこれと加工が施されているだけではなく、その情報量が大幅に削減されているということです。
例えば、Aさんの頭の中にある生まれ故郷の風景という視覚記憶は、それがデジカメであるならば数百万画素の情報量に相当するはずなのですが、Aさんの脳内に収納されているのはそれぞれにの色や特徴といったパーツや組み合わせに整理・削減された、たいへん単純なものです。Aさんの脳は、また別な思い出や論理記憶を使ってそれを補っています。これを電気信号として取り出し、試しにディスプレーに映してみたとしましても、もしかしたら、それがまともな風景として再現されることはないのではないかと思います。
情報を送り込むということは、その先で本人用に加工されるということですから、これには全く問題はないのですが、それを取り出してもう一度使うということになりますと、このように話が全く違ってしまいます。そして、それを別なBさんの脳内に送り込んだとして、その知覚・認知の過程で更に情報が加工されてしまうとするならば、それはいったいどんなものになってしまうのでしょうか。記憶情報を信号でやり取りし、他人同士でも同じ体験をすることができるなんていうのは正に夢のような話ですよね。ですが、やはり、そう簡単にはゆかないようです。

取り止めのない説明になってしまいましたが、このように、幾つかの問題に就いて考えてみましても、確かに記憶というのは物理的形状というものを持つ部分もあるわけなんですが、やはり、ものを扱うようにというわけには中々ゆきません。どうしてかと言いますならば、それが生命現象であり、脳の構造や営みがたいへん複雑であることは申し上げるまでもありませんが、加えてそれは、記憶というものの因子は飽くまで物質ではなく、「情報」であるからということになるのだと思います。

この回答への補足

>決して情報の因子ではありません。
>情報の因子いうのは何かと言いますれば「神経インパルス(電位信号)」

そうなんですか。よくわかりました。


>ちょっと調べましたら、プラナリアの実験は1960年頃に実際に発表されたものらしいですが、実は明らかな間違いだったそうです。

ちょっと調べて私のうろ覚え情報の詳しい話が出てくると言うのはすごい情報力ですね。
明らかな間違いですか…。夢が崩れて残念です。でも、そんな情報を載せてる教科書か参考書があるんですよね…。ちょっといい加減ですね。


今回も大変勉強になりました。10年ほど間違って覚え続けていた知識が整理され本当によかったです。
ありがとうございました。
また機会があったらよろしくお願いします。

補足日時:2006/04/30 16:15
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いくらなんでもカニバリズムは関係ないと思うな~. 脳を食べたらシナプス結合は切れちゃうような気がする. もちろん宗教的 (あるいは

社会的) には意味があるんですけど.
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