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カトリックの者ですが、先祖は禅宗で、私も仏教などにも関心があり、坐禅の経験もあり、仏壇も家に置いて、毎朝晩、拝んでいます。
ちょっと気になったのですが、他のキリスト教の皆様は、仏壇をどのように扱っておられるのでしょうか? 又、キリスト教以外の皆様から見て、キリスト教の人は、他宗教の祭祀品である仏壇をどのように扱ったらよいと思われるでしょうか?

A 回答 (3件)

私はキリスト教以外の者ですが、仏壇はそのままでいいのではないでしょうか。


毎晩拝んでいてもいいと思います。
キリスト教では「神」と言う言葉を使っていると思うのですが、仏教には「神」と言う存在はないのではないかと思っています。
宗教としては、比較もできなければ、同列でもない、宗教として分類しただけの事で、どちらもどちらの教えに反するものではないと思っています。

この回答への補足

明日で2週間経ちますし、後続の回答もなさそうなので、締め切ります。たぶん、皆そんなにつき詰めて考えておられない問題なのかな、と思います。
唯、いわゆる「熱心な」キリスト教信者(特にプロテスタント)の中には、キリスト教を絶対と思うあまり、仏教や神道の寺社にお参りするのを潔しとしなかったり、寺の中にある先祖の墓や仏壇にもお参りしない人がおられるのではないかと思います。

もっと沢山の回答がほしいので、この後、カテゴリーを変えて、「キリスト教の皆さん、非キリスト者の先祖の供養はどうしていますか?」という質問を立てたいと思います。(1/23 21:58)

補足日時:2009/01/23 21:58
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この回答へのお礼

dell_OKさん、何度か私の質問に答えて頂いていますね。dell_OKさんのご回答にはいつも癒されています。今回も回答頂き有難うございました。
そうですね。仏教には「神」と言う存在はないようですね。「神」という存在があるキリスト教などとは、やはり次元が違うのでしょうか?

勿論、仏壇を取り除くなど、全く考えていません。
この質問は他のキリスト教の皆さんの意識を聞くために出したもので、私が変えるつもりなど毛頭ありません。

お礼日時:2009/01/22 20:37

私自身は日本によくいる無神論者です。



知り合いにプロテスタントの人が何人かいるのですが、殆どの人は「置いておくのはOKだけど、拝むことはしない」って感じですね。神社や仏閣へ観光等で訪れる時もそんな感じで、中は入るけど、拝むことはしないですね。やっぱり「拝む」っていうのは「神に対する」特別なことで、それはできないことのようです。

ちなみに、私自身はそんな彼らの態度を不自然には思いません。別にいいんじゃないの?という感じです。

>又、キリスト教以外の皆様から見て、キリスト教の人は、他宗教の祭祀品である仏壇をどのように扱ったらよいと思われるでしょうか?

別にどう扱ってもいいと思います。私の知人のように「置いとくけど、拝まない」もいいし、しかるべきお祓いをして処分するのもいいでしょう。ただ、自分の信じる宗教のものでないからといって乱暴にあつかったり、叩き壊してしまったり、燃やしてしまったりということであれば不快感を覚えます。あと、ここまで言うのは余計なお世話なのかもしれませんが、処分は、その仏壇の属する宗教の方式で行って欲しいですね。

ちなみに、クリスマスにうかれ、神社に初詣に行き、家には仏壇がある典型的ちゃらんぽらん日本宗教の私としては、質問者さまのように「クリスチャンだけど、毎朝晩仏壇を拝む」というのも「素敵!」だと思います。

この回答への補足

sawai197さん、久しぶりに満を持して、私への回答のために登場して下さり、有難うございます。
以下、大変長文(お礼欄だけで書ききれないのでここから始めます)で申し訳ないのですが、出来ればお付き合い頂ければ有難いです。

私は、宗教・神・霊といったものを100%信じている者ですが、多くの「無神論者」と称する日本人も、それなりに「お天道さまの下では、悪いことは出来ない」という典型的な「日本教」の信者であり、特定の宗教に所属していなくても、神様や仏様に対して一定の崇敬を持たれている方が多いのではないかと思います。

欧米の「一神教」への帰依を当然とする社会と違い、我々日本人は、温暖な農耕社会にあって、「この宗教、この神でなければならない」などという厳しい選択肢を突きつけられることもなく、温暖な自然を愛し、自然を表象する八百万の神に手を合わせ(神道)、仏教も取り込んで神道とともに拝ませ(神仏習合)、ついにはキリスト教も自分たちの都合のよい部分だけ(クリスマスやバレンタインデーや結婚式などの式典といったイベントを通じて)取り込もうとしたのでしょうが、どっこい、キリスト教はそういう寛容さを持ち合わせず、純粋にキリスト教のみへの信仰を迫り、他を「偶像崇拝」として斥けたことが、日本でいま一つ信者数を伸ばせない大きな要因だと思います。(善悪は別として)

このようなキリスト教信者を見て来て、自分もその一員として、尚(たぶん一生をかけても)、ぬぐいきれない違和感は、一体何なのか、折に触れて考えることが多いです。たぶん、私はキリスト教信者である以前に「日本教」信者であろうとしているからに他ならないのではないかと思います。
(お礼欄へ続く)

補足日時:2009/01/13 21:29
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この回答へのお礼

(補足欄より続く)sawai197さんのご回答を読んで、お知り合いのプロテスタントの皆さんとはどうしても折り合えない疑問点が多々あります。
(1)神社や仏閣の中へ入って拝むことはしないとしても、「こんにちは、お世話になります。」位の挨拶のために頭を下げても罰はあたらないのでは?
(2)キリスト教信者ではない先祖の霊の安息を願うことが「偶像崇拝」にどうしてあたるのか?
(3)仏壇という存在がいけないのなら、キリスト教信者は信者でない先祖の霊のために心の中で憶うしかないのか? 
(4)特にその家の当主である場合は、先祖を祀る責任をどのように考えているのか?
(5)仏壇などを置いとくけれど拝まないとすれば、置いておく意味がなく、祀られている仏様に対して失礼ではないか? それならいっそ、お寺に位牌を預け、永代供養をしてもらって仏壇をお炊きあげしてもらった方がましでは? 
(6)少なくてもお炊き上げなどは、その宗派の所属する寺にお願いするのが筋だと思われるが、なぜ教会などにお願いするのか?それともお寺のお炊き上げの式自体が他宗の行事なので出席したくないのか? それは先祖の霊のために行うとは考えられないのか?
(7)たとえ他宗の祭祀具であっても、敬意をもち大切に扱うことこそキリストの「愛」と「平和」の教えにかなっているのでは?
(8)マザー・テレサはインドの貧民街で「死を待つ人々の家」というホスピス施設を創設し、収容者の臨終に際し必ずその人の宗教を聞き、その宗教で葬儀を行ったと言われている。これをどう考えるか?
(9)他宗の帰依者は邪教だから救われないと考えているのか? それなら先祖はどうせ救われないのだから軽んじてよいのか?
(10)仮に家族がキリスト教信者でない場合どうするのか?強引に説得するのか?日本国憲法で「信教の自由」があるがそれとの折り合いは?
(11)クリスマスにうかれ、神社に初詣に行き、家には仏壇がある典型的ちゃらんぽらん日本教信者は、そんなに責められるべきか? 宗教の目的は、自分の教派にこだわることなどではなく、自己の心をきれいにすることであり、隣人や先祖にまず敬意を払うことではないのか?

sawai197さんでも、又他の方でもお答えいただければ有難いです。

お礼日時:2009/01/13 21:43

私の知っているクリスチャン(プロテスタント)の話ですが、


その人は家族と一緒に生計をともにしていたのですが、両親が
亡くなった時、家にあった仏壇を教会に持っていって教会で
偶像物焼却式をしたという話を聞いたことがあります。

プロテスタントの教会では唯一神(イエスキリスト)以外を
崇拝してはいけないと教えがあるからです。
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この回答へのお礼

困り度を「暇なときにでも」にしてしまいましたが、最近の小生質問の中でも最も回答を頂きたい質問の一つで、やっと24時間目に最初の回答を頂き、有難うございます。
(どうもこのサイトでは、回答をほしい質問ほど、回答をなかなか頂けないような気がします。)

クリスチャンの中でも特にプロテスタントには、キリスト教以外の神を拝むことは、例え先祖の供養でも「偶像崇拝」に当たるとして忌避する傾向が強いようですね。

クリスチャンとそうではない方も含め、是非是非是~~~非出来るだけ多く回答を頂ければ大変有難いです。

お礼日時:2009/01/12 12:28

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