プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

イエスキリストなら、無差別に何の罪もない8人の児童を死に追いやったあの犯人に対してすら、更生の道を閉ざしてはならないとおっしゃるのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

心無い方がイエスを矮小化されているようですが。


あきれてます・・・・。
どんな悪辣非道な者であっても、イエスが見捨てることなど有
り得ません。
だいたい、8人殺したやつはケダモノだが、必要以上の爆撃で
何千人という一般市民を虫けらのように殺した連中は、仕方が
ないことになるのですか?
そんな連中を国の代表は支持しているのですよ。
また、そんな国の代表の選択を、多くの人は仕方がないと受け
止めているのですよ。
それは、間接的に、何の罪もない市民を殺すことを認めている
のと同じではないですか。
爆撃で殺されようが、殺人鬼に殺されようが、家族を失った方
の悲しみ・憤りは全く同じでしょう。
イエスは無差別の愛を説いているのです。
いいですか、無差別なのです。
例外などないのです。
どんな凶悪犯であれ、神の子になれる資質を持っているので
す。
命を絶つなど、もってほかであり、イエスが悲しむ顔が目に浮
かびます。
何を想像するのも結構ですが、イエスの名前を用いる以上は、
多少なりとも、イエスの思想を勉強してから、意見を言ってもら
いたいものです。

最後に一言。
憎しみを助長するようなことから、有益なものが生まれることは
ありません。
許そうと努力する心からは、無限の可能性が広がるのです。
イエスはそのことを御存知だからこそ、無知なる者にそれを説
いているのです。
    • good
    • 0

『イエスキリストならどう言うか?』という質問が、死刑制度の是非という話しに変わってますよね(これは意図的なものかしら?)。



私も#11さんと同じように質問への回答のみにとどめたいと思います。

『信じる者は救われる』『汝殺す無かれ』『汝の敵を愛せよ』等々有難い言葉もありますが、そういった側面だけではありません。

旧約聖書、イエスキリストが登場する新約聖書とありますが、当然の事ながらイエス様は神の子なわけです。神の教えを人々に説いているわけですから、神と同じ気質を持っていても不思議ではありません。

キリスト教の神様といえば様々な話しがあります。生意気になった人間を懲らしめる『バビルの塔』、腐った世の中を一掃する『ノアの箱船』等。

キリスト教の神は見限った者に対しては以外と冷淡です。イエス様が『無差別に何の罪もない8人の児童を死に追いやったあの犯人』を見限るかどうかは私にも質問者さんにもわかりません(たぶん質問者さんは『見限らず、更正するチャンスを残す』と考えると思いますが)。

で、イエス様はすでに存在しない人物である以上、何て言うか誰にもわかりません(正解はありません)。ただ、自分に都合のいいように今生きている人が想像するだけです。

ちなみに、彼は死刑判決が恐らく下されるであろう事を予期してか、最近『死刑制度廃止運動』に感心があるそうです(ニュースで報道されてました)。『死刑を望む』とか言っていても、いざとなったら他人は殺しても、自分は死にたくないという事でしょうか?

そこでイエス様はこう言うと思います。
『GO TO HELL!!』
    • good
    • 0

皆さんの憤懣やるかたないお気持ちや、このバケモノを成敗したいという衝動にも強い共感を覚えますが、OKWeb本来の趣旨を遵守して、ここは質問への回答のみにとどめたいと思います。



以下は、当然ただの個人的見解にすぎません。その点だけは皆さんと同じです。

先ず、神様と人間とを同じ次元で扱っても、ただ無意味に混乱するだけだと思います。これはキリスト教を話題にする時の基本認識です。

創造主である神様は、人間を深く愛しておられますが、テンからまったく信用してはおられません。だからこそ、ご自身の嫡男イエスをわざわざキリストとして人間界へおつかわしになったわけで・・・。人間同士がどんなにドサクサしようとも、それはもとよりご関心の外なのです。まして極悪非道な殺人犯が更生するもしないも、神様にはどうでもいいこと。大宇宙の秩序の中では、所詮人間界の片隅の塵よりチッポケな問題にすぎません。

まして、神の子イエスは、父なる神に絶対服従ですから、神様から命じられないかぎり、どんなことであれ、ご自身の判断で勝手に動かれることはありません。つまり、父なる神が、何かの拍子に、「更生の道を閉ざしてはならん」とお命じにならないかぎり、イエス様がそうおっしゃることはあり得ません。これが回答です。
    • good
    • 0

追伸まで



キリスト教に帰依したから仏教に帰依したからといって罪が消えるわけではないのですね。死んでも罪はなくならないし、反省もできないんですね。
犯人は「早く死んで楽になりたい」というご指摘のとおりの気持ちではないかと思います。さっさと死刑にして、それで被害者の家族も犯人も楽になれるのならいいのですが、そうではないでしょうね。だから罪を償うというのは長い長い期間、被害者の家族の恨みと石をあびつづけることですね。ざんげをし続けることですね。何十年後かわかりませんが被害者の家族がもういいかと思うまでですね。それが罪を償うということですね。被害者の方の恨みがなくなるわけではありませんがうらみ続けることも石を投げ続けることも何十年も続けられるものではありませんね。
それで気が済むというなら被害者の心も、犯人の心も和むのでは。それが罪を償うことでは。
    • good
    • 0

更正の道を閉ざしてはなりません。

死刑判決の一番恐怖に感じることは、死刑の瞬間ではなく「いつ死刑になるか」毎朝恐怖におののくことだと言われています。間違いのない極悪人には死刑判決のあと出来るだけ生かして、真人間に矯正して、それからじっくりと死の恐怖、生への執着を味わわせてから、処刑すべきです。それも一度はわざと失敗して生き返らせ、再び処刑するというのはどうでしょうか?(法的には一度死刑に失敗すると「刑の執行が終わった」とみなされ「無罪放免」されるそうですが・・・・)
    • good
    • 0

件の犯人に対し、中日新聞社の記者がとらえた犯人像を一言でいうと、「打算的」だそうです。

私も、ポン、とひざをたたいて、そのとおりだと思いました。

彼が考えていることは、とにかく早く死んで楽になってしまいたいということ。被害者のことを本当に人道的に考えようとすると、自分を責めてしまって苦しくなるので、人の心を捨てることで楽になろうとしていること、裁判の場でも、どこまでならば、毒づいても大丈夫かを考えて話していること。自分は悪くなく、育った環境や、他者のせいにすることで、合理化を図っていること。…

かつて、水戸光国(これもその新聞で読みました)は、極悪非道の殺人犯を裁くとき、「すぐに死刑にするのはやめなさい。その代わり、彼には徹底して学問をさせなさい」としたそうです。その男はいろいろ学ぶ中で、自らの行いの罪深さがわかり、罪への償いの気持ちを持った上で死刑となったということです。(一度読んだだけなので、ちょっと記憶違いもあるかな?)

私も、今回の犯人に対しては、とうてい許す気にはならないし、死刑などして、楽をされてはたまったものではないという気持ちです。人権を奪う、という判決こそが、彼にふさわしいと思っています。

しかし、キリストのような人ならば、上に挙げた水戸光国のように、入信させた上で、学問を叩き込むかもしれませんね。罪の意識を自覚させることに精力を注ぎ込むかも。

でも、それならば、私は、多少は納得します。楽な死刑など、まさに犯人の思う壺です。そんなことで終わってしまうのならば、世の中、壊れてしまいますよ。江戸時代みたいな懲罰も、そう考えると、意味があったのではないでしょうかね。
    • good
    • 0

追伸まで


イエスでも釈尊でも、どんな罪人であれ、「ごみ」という認識を持たれることはないと思いますが。
お二人とも、どんな罪人であっても必ず改心することができると、信じられていたのではないでしょうか。

心のごみですね。心のごみは死んでも取れないということなんですね。だからこの世で心のごみ取りに精出しなさいということです。改心するというのは心のごみを取るということなんですね。心のごみを取らないと本来の自分にならないでしょ。改心というのは簡単なことではないんですね。同じように死んだら仏になるという間違った思想がありますから、これを戒めているんですね。自分でやったことは心も、うらみも自分で処理しなさいということでしょうか。
    • good
    • 0

こんにちは。


イエスキリスト本人が言った事と、現在のキリスト教各宗派(全部ひっくるめたとしても)を同列に扱うことはできないと思います。

創始者の考えは継承する団体によって歪められていくのが普通です。
日本の各種仏教だって同じです。

きっとキリストさんもお墓の中で飛び上がってるかもしれませんよ。

それにしてもキリストさん本人だったらなんて言うのか興味がありますね。

さて、とんでもない事件でしたね。
個人的にはここまで明白な、えん罪の考えられない史上まれにみる凶悪事件でありながらこういう結末というのはとても考えられませんね。
私も本来なら死刑とか敵討ちとか、放火に対する火あぶりとか、本来あってしかるべきだと思いますが。
    • good
    • 0

少し他の方と意見が違うのですが、キリスト教の本来の教えは「Unconditional Love」です。

これを何かと言いますと、その人が誰であろうとも全ての人に愛を与えるというものです。つまり、誰であろうとも差別をしてはいけないというのが基本的な教えです。
もしも、凶悪犯が心の底から過ちを後悔し、更正を望むのであれば、更正の道を閉ざすべきでないと言うことでしょう。
この場合、周りの人に更正の道を閉ざしてはならないとは言わないと思います、むしろ犯人に対して更正の道を歩むように解くのではないでしょうか。周りの人には、なぜ彼が更正の道を歩んでも良いのかということ解くことになるでのではないでしょうか?
    • good
    • 0

私も今朝ニュースを見てこの事件のこと、改めて怒りがこみあげてきました。


こんなの映画の世界。現実にあってはならないことです。でも最近は残酷な凶悪事件ばかりで悲しくなりますね。
私が20年間生きてきた中で1番心に残る事件です。
遺族の思いは私達では察することのできない、強い思いでしょう...。
当時ニュースを見たときは、言葉も思いつかないくらい、ショックを受けたのを思い出します。
死刑ということですが、当然。
8人の子供たち..他人の私も悔しい!!
このコたちが犯人に何をしたっていうのか....。
悲しくて、悔しくて、切ない。
こんなこと、ありえない。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答え有難うございます。

>死刑ということですが、当然。
>8人の子供たち..他人の私も悔しい!!
>このコたちが犯人に何をしたっていうのか....。

お気持ち良くわかります。
私も強い憤りを覚えています。
ただ一つ引っかかるのは、犯人は本気で死を望んでいるように思えることです。
ようするに、いち自殺志願者が、普通に自殺するのでは面白くないので、考え付く限りの最悪の迷惑を周りに及ぼしてから死んでやろう、というノリに思えます。
これでこのままあっさり死刑にしてしまったのでは、まさに、犯人の思うツボと思えてならないのですが。

お礼日時:2003/05/25 13:26

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!