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他人と比べるのをやめられたきっかけは?

私は思春期頃より他人と自分を比べて劣等感に苛まれることが多かったです。
(苛まれるというよりは苛むという方が正しいとは思います)

学生時代は人と比べられる(自分で劣等を感じる)のが嫌で、
敢えて何にも挑戦しないという極端すぎる時期があったほどです。

社会人になり、自分自身出来ることが増えたので少しはマシになったのですが、
その増えた分だけ劣等感を感じるパターンも変化してきた気がしています。
以前は「やっても無駄」だったのが「やったけど無駄」に変わった感じです。

「ありのままの自分を受け入れましょう!」と字面にすると簡単ですが、
やはりどうにもそんなに簡単なものではない気がしています。

今回は皆さんが人と自分を比べなくなったきっかけを教えて頂けないでしょうか?
理論より実戦というわけではないですが、理屈よりは理解できそうな気がしています。

よろしくお願い致します。

二十九才・男

A 回答 (9件)

人と自分を比べることは、一生つづくのではないかな・・と思います。


私の場合ですが、
私には頭脳明晰で優秀な姉がいました。
小・中の頃は、姉は出来るのに、なんで妹のあんたはできないの!?と親によく言われていました。
そこで勉強はできないけど、雪が降れば雪かきをしたり、
一緒にスーパーに行って重い荷物を持ってあげたり、
料理や食器洗いなどの手伝いをしました。

私だって、ある意味親孝行してるじゃんっ、と思えたとき、姉の存在は気にならなくなりました。

次に社会人になって、同期で入社した女の子が、しばらくして楽な部署に移動になりました。
とても激務な部署の中でも、同じように働いていたのに、あの子と私の何が違ったの?!
とかなりくやしい思いでした。

しかし、その楽な部署は仕事は楽でも、周りはジジ・ババばかりで人間関係に気をつかう。
私の部署は激務だけど、若い男にかこまれ、仕事が終われば一緒に飲みにいったりする。
そしてそのうち、その子はストレスから仕事を辞めてしまいました。

このとき、人生ってなんか、そーいうもんなんだなぁ~、と妙に悟った気持ちになりました。

そして現在。
結婚していますが、子供はいません。
少子化といわれる世の中、友人から毎年届く、年々成長する子供の写真付きの年賀状。。
これが結構キツイ。

大変ながらも子供を産み、育てることが何よりの社会貢献なんじゃないか、
それに比べ私は・・・となってしまいます。

しかし私は、このままでは死ぬ運命であろう猫を受け入れ、育てている。。
もし私に子供がいたら、この猫はどうなっていたのか・・と考えてみたり・・
でもやはり犬・猫より人間の子供を、ってのが世間の目でしょうね。
この件に関しては、まだ自分と折り合いはついておりません。

死ぬ間際にだって、隣のばあさんは家族に看取られたってのに、私は一人孤独死かぃ!?
なんてこを言っているかもしれません。。

何に対して劣等感を感じるのかは人それぞれだと思いますが、
自分には出来ることと、出来ないことがある。
手に入るものと、入らないものがある。

そーやって、都度自分と折り合いを付けていくしかないです。。

長々と失礼しました。
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この回答へのお礼

お礼遅くなりまして申し訳ありません。

>自分には出来ることと、出来ないことがある。
>手に入るものと、入らないものがある。

他人の芝が青く見えすぎてしまうと、本来自分が望んでいない
出来るようになりたいと思っていないものまで羨ましく見えることがあります。

「折り合いを付ける」というのは凄く的を得た表現だと思いました。

単純に出来ることを伸ばす、それだけで良いのかもしれません。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/19 17:00

僕の場合は毎日瞑想することを続けたら、


自分で実感できるぐらい人と自分を比べる回数が減りましたよ~。
そして人と比べて自分は....情けない....みたいにヘコむこともすごい減りました。

すごいシンプルですが、人と自分を比べるのに絶対に必要なことって
自分の脳みそを使って、考える(相手と自分の違いを頭の中で分析する)事ですよね。

ということは!

もしなにも考えなかったら、比べる事自体が不可能になるやん!
だったら、‘考えない’事を生活の中に取り入れてみようと毎日瞑想やってます。

最初は瞑想なんて、なんかお坊さんみたいだし、僕はそんな悟りを開くなんて考えてもないしなぁ~。
それに何も考えない事って、悩みの解決にならんだろうと内心思ってた部分もありました。

それが不思議なんですよ~瞑想し始めてからは、
人と自分を比べて気分が落ち込む回数が明らかに減りました。

多分、色々考えて上手くいかなかったり、考えたら考えるほど悩む時は、
な~~んも考えないのが良いのかもしれないです。

僕は思うんです、ありのままの自分を受け入れようと考えるためには
‘私はありのままの私を受け入れる事ができていない’という前提が絶対必要になってきますよね。

そんな風に捉えると、受け入れようと考える行為は、
‘受け入れる事が出来ていない’事を自分自身に認識させてしまう側面があると思います。

受け入れようとすればするほど、受け入れる事が出来ていない事を認
識させられていたら、何が起こるでしょうか?

受け入れようとしても受け入れる事ができないというジレンマに陥ったり、
違和感を感じる結果になる可能性があると思います。

そんなジレンマや違和感も、ありのままの自分を受け入れようと考えなかったら、
生まれてこないですよね。

たぶん世の中の悩みには、考えて解決を導き出す必要がある悩みもあったら、
考える事によって生み出された副産物的な悩みもあると思うんです。

その手の生み出された悩みには、「考えない」という方法は、有効な手段の1つだと思いますよ~。
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この回答へのお礼

お礼遅くなりまして申し訳ありません。

確かに余計なことを考えて「あの人は私が嫌いなんだな」と深読み
し過ぎる癖があるのだと自分でも思います。

その無駄なことを考えている時間を建設的に使えれば理想なのですが、
満たされていない現状においては不満が顔を出すたびに悩みが
雪だるま式に出ては消えてゆく、そんな負のスパイラルに巻き込まれている
気がしてならない時があります。

無駄な思考をする暇がないくらい熱中できるものがあると有難いと思います。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/19 17:04

私も時々まわりの人を見て「○○ができるなんていいなあ」と思いますが、


でも違う人間なんだから、能力も違って当たり前だよな。で終わってます。
私の場合は、「自分が感じていることを他人も感じるとは限らない」ことに気がついてから自他を「違うもの」と認識するようになったので、ご質問の「きっかけ」にはあてはまらないかと思います。

ただ、「努力すれば何でもできる」という言葉は嘘だと思っています。
前述のとおり、人にはそれぞれ違った資質があると考えているので。

でも、
「何事もやってみなければわからない」これは本当だと思います。

やる前からあきらめるより、やってみてダメだった時の方が
何かを得られているはずです。それは出会いであったり、方法論であったり…次に生かせる何かを。できること、できないことを明確に理解できるのも財産だと思いますし。

自分にできないことは、できる人にお願いする。
「ありのままの自分を受け入れる」とは、それが素直にできるようになること、
ではないでしょうか。
先の「努力すれば…」の「努力」は、自分一人だけではなく他人の力も借りる努力、という意味であれば嘘ではなくなるかもしれません。
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この回答へのお礼

お礼遅くなりまして申し訳ありません。

「他人は他人である」という概念が私の中に根付いていないのも原因です。
「やっても無駄だから何もしない」学生時代を得て辿り着いたのは
私も「とりあえず一回やってみよう」という認識でした。

皆が皆、私と同じ思考であるという思い込みを捨てきれないことも悩みの一つです。
自分が出来ないことを出来る他人から学ぶ、受け入れることが大切なのだと
やっと最近は認識できているような気がしています。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/19 16:56

私は大学生の時は、人のことを全く気にしていなかったけど、


今気にしてる状態です。

時すでに遅し的な。

大学生のときは、自分を支えてくれる彼氏がおり、毎日楽しく話し、勉強をし、仲のいい友達と遊び、旅行をし、部活をし、

「人と比べる時間が全くありませんでした。」

今は、違います。その後、自由な人生を送ってしまい、なんていうか思いっきり道を外れています。
(大学院、外資系で5年に3回転職したし、うち1回はアメリカに住んでいた。TOEIC900点。13年間彼氏が途切れなくいて、4人の彼氏にプロポーズされ、断り、世界中の友達160人、アメリカで食事だけのデートした男性60人。)

アメリカから帰国したら、なんだか日本人女性がとても可愛くて、
「あれ?自分イケテない?」と思ったところらへんから始まって、
帰っても仕事が決まらないし、彼氏はアメリカ人なんですけど、冷たいし。

「あれ?私って生きる価値ないの?」とか思ってきました。

道を歩く女性やカップルをみては自分と比較するようになり、すごい劣等感にさいなまされる羽目になりました。また、広告代理店で成功している同級生や出版社・新聞社・テレビ局・国連などで活躍してる友人を見ると、

「しまった。なぜに私はこんな道を選んでしまったのか?」などと後悔もします。結婚している友達にも会うのすら嫌です。31歳で独身だからです。

他人と自分を比べなくなる理由は、
「恋人からの温かい手」
「他の人に比べて目だってしまい、突き抜けてしまうこと」
↑私は学生の時目立つと割かし有名でした。
「夢に没頭すること。」

じゃないですか?
私は今、自分が同じことに悩んでるので、参考になりました。どうも。
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この回答へのお礼

お礼遅くなりまして申し訳ありません。

他人から認めてもらうことで劣等感や苦しみから解放される気はします。
しかし、それを得るためには「人から認めてもらわなくてはいけない」
そう考えると全ての人間に認められようなどこれは無理な話で、
半径5m以内の人に認めてもらうのさえ、至難の技になってしまいますね。

一番強いのは「どう思われようが、俺は俺で良い!」と言える人だと最近思います。

お互い悩みは尽きない人生を選んでしまったのかもしれませんね。
一歩ずつ進んで行きましょう・・・偉そうにすいません。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/19 16:53

もーーーーーんのすごく気持ちわかります。



私も以前、そうでした。人と比べるというか、極端に競争心が強くていつも心が疲労しているような、そんな状態でした。


同じ(だと思う)タイプの人間からのアドバイスとしては、申し訳ありませんが「ありのままの自分を受け入れる」が本当に一番良い方法だと思います。すみません・・・

それだけが正しいとは言いません。あなたが正しいと思った方法をとればいいのですから、ただのひとつの意見だと軽く捉えてもらえれば幸いです。

「ありのままの自分を受け入れる」ということは「嫌なところも全部含めて自分だと認める」ことです。

もっと簡単に言えば、「自分を許す」ことなんです。何も、自分を好きになる必要など、一切ありません。

また、もう一つの考え方としては、これもまたありきたりな言葉で申し訳ないのですけれど「相手の立場に立つ」ことです。
相手もまた、劣等感を抱えています。例えばあなたに負けた相手にもまた、あなたのような感情があって、「悔しい」と感じているわけです。

色々な考え方があります。確かに競争心や劣等感は向上の力です。ヒトラーやナポレオンがその例です。しかし例え成功したとして、心はしんどいままではないでしょうか?

あなたはこの問題について、じっっっっっくり考える必要があると思います。私の場合、明確な「きっかけ」というものは無く、自分で色々と考えて、解決策を見出しました。今の所、これが私にとっては一番心やすまる方法なんです。

貴方にもあてはまるとは限りませんが、お力になれたら、と思って答えさせて頂きました。
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この回答へのお礼

お礼遅くなりまして申し訳ありません。

競争心や劣等感を抱えて、他人に勝ったとしても、
きっとそこからずっとその繰り返しの人生になってしまうと
気付いてはいまして、それを打破するのが
「ありのままの自分を受け入れる」ことまでは辿り着きましたが、
これを実践し、自分のものにすることがどれだけ抽象的で
難しく、なおかつ誰も正解を持っていないので悩んでします。

経験談に基づくご意見を聞くことで自分にも分かり易く理解が
出来るかもしれないと思いましたが・・・そう甘くはないですね。

他人の感情までは理解しようと思っても理解できず、
自分の想像の範囲でしかないところがどうにも難しく思えます。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/19 16:49

他人と比べるのをやめたりしません。



他人と比べようが比べまいが、自分のできることは
変わりません。やりたい事も変わりません。

自分が劣っていると言う事は、同じ人間の相手が
そこまで勝ることができたということです。
それなら、自分もその可能性を持っているという
ことです。
本来なら自分で能力アップの手法を編み出さなければ
なりませんが、お手本があるわけです。

大いに参考にさせてもらってます。

ありのままの自分を受け入れるのは良いと思いますが、
そのまま未来永劫成長しないのでは、自分自身で我慢
できませんでした。だから、他人と比較分析し、
自分に生かせないか?取り入れられないか?常に
目を光らせております。
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この回答へのお礼

私もまだ「ありのままの自分を受け入れる」という
言葉の意味を完全に把握しているわけではありませんが、
それが努力を放棄するということではないようですよ。
私もそうしたら堕落してゆくだけだと思っていましたが、
そうでない捉え方もあると以前の質問で回答してくれた方がいました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/10 12:43

人と自分を比べる事は無くなりました。



故意にではなく、自然にですが。
比べるのは止められていません、ひたすら「かつての自分」と比べてしまいます。

駅の階段を急いで走ったら辛かった、数年前までは大丈夫だったのにと過去の自分と比較。
夏のスーツがキツい、あれ?去年は大丈夫だったはずなのに。
人となんか比べてられません、ちっちゃい人間なので。
モデルさんと比べて体型を悩むつもりはありません、新しいスーツを買う出費が痛いのと、そうやってオバサン体型になって行く我が身が悲しいからダイエットするのみ!!

29歳のあなたはとりあえず、二十歳のあの頃の自分と比べてどうですか?
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この回答へのお礼

ステキな向上心だと思います。
確かに昔の自分と比べれば出来ることは増えています。
体力の減少を痛感しているので運動量も増えました。
自分と自分を比べるのは出来ますが、
「人と自分を比べる事」が出来ないのが悩みです。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/10 12:39

こんにちは


 
完全克服!という訳ではないですが、そもそもの所に着眼し、
分析することで本当の意味での比較が出来ないという事に、
”理性”では気がつき、ある程度上手に
自分に言い訳ができるようになりました(苦笑)
 
 
比較というのはしてしまうと思うんです。
でも、それが本当にきれいに比較できるか?というと
3次元空間では難しいという結論に私はなりました。
簡単に言うと、
”同じ人なんていない””同じ環境がない”
”同じ遺伝子ではない”条件が違う。ということです。
 
比べる為にはまず、
条件を均一にしなければ厳密な計算って難しいと思うんですよ。
 
たとえば3人の人間がいたとします。 ABC。
Aは国語のテストで100点でした。
Bは国語のテストで50点でした。
Cは国語のテストで0点でした。
 
点数だけ見るとAがもっとも秀でて見えますが、
はたしてこれはAの能力だけの問題か、というと理由がかわってきます。
これは仮定ですが、こんな事も想定できます。
家庭環境を設定してみましょう。
A)家族仲がよく、自室もあり、安心して勉学が出来る環境がある。
B)家族仲が悪く、自室はあるが、いつも家族関係で悩んで集中できない。
C)家族に虐待をうけており、自室はおろか、家では安心できない。
 
今回は分かりやすくこんな設定をしましたが、
結果にはプロセスがあり、それを生み出す環境や生活にが強くかかわります。
もし、BがAと同じ環境で、同じ遺伝子をもってこの世にいたら、
BはBではなく、まさにAなのです(ややこしいですが)
 
ですから、貴方は、貴方として生まれて、
その環境、遺伝子、素因そしては、貴方であることは必然。
....むずかしいですかね(笑)
 
もちろん逆境の中より、努力をする事でいかようにも能力は伸びますし、
どんな安泰な環境でも怠惰をすれば能力は生まれないでしょう。
 
比べてもいいですけど、それって ”本当に比べられる”んでしょうか。
私、うわべは出来ても本質に迫るほど確実性を失うと思います。
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この回答へのお礼

非常に理論的です。
育った家庭環境の影響は大きいかとは思います。
ただ、それでも努力で成長される方もいらっしゃるので
私もいつまでも親の影響を引きずりながら生きるのを
やめたいと思っています。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/10 12:36

燃えるような情熱がなくなったとき。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/10 12:33

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