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それは誰にでも出来るからこそ、凡庸ではありませんか?

A 回答 (27件中1~10件)

その時代の世情に迎合した「美」を美しいと云うのはまさに凡夫のなせる業でしょう。



そういう「美」について語っているなら回答はここで終わります。

しかし、求める「美」がつねに「隠されてある」ものなら話は違います。
隠れた「美」を「美しい」と云うのはとうてい凡夫のなせる業ではないし、まして「凡庸」とは真逆の知的営為でしょう。

ところで質問者さんは「正しく」問いを発しているという確信はおありかな。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。No1から、なかなか重いお答えですね。シンプルが一番重い、と。

>求める「美」がつねに「隠されてある」ものなら話は違います。隠れた「美」を「美しい」と云うのはとうてい凡夫のなせる業ではないし、まして「凡庸」とは真逆の知的営為でしょう。

そうですね。僕もそう思います。問題は、どこに隠れているかだと思います。そして誰が、どのようにして見出すのか。醜いものの中にも美があると僕は言いたいところですが、これは勇気がいりますねぇ。

さて「正しく」問いを発しているか?という点ですが、シンプルが一番深いとお答えしておきましょう。どのようにでも解釈できるように作っていますから、どのようにお答えになっても可というタイプの問いなのです。「お前の問いは~~と解釈した。故に――と答える」でいいんです。

お礼日時:2011/06/26 04:29

誰にでも出来る事ではないから意味があるのです。

例えば骨董品はどうですか?違いわかります?貴方はわかるのですね?某鑑定的な番組みてても100%わかります?正直私は無理です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ははは、「美」っていっても、お前はわかんのかよ!わかんねぇだろうが!謙虚になれよ!ってお答えですね。

お礼日時:2011/06/26 04:31

「美しいと思う気持ち」は人それぞれです。

誰がどう見てもそれは美しいだろうと思っても、そうは思わない、あるいは興味を示さない人がいるということはあり得るものです。
なので、その人が美しいと思ったのであれば、そう思う気持ちを表すことは何ら意味のないことではないと思います。

ただそれが文学的表現などであれば、少し事情が違ってくるかもしれません。
以前小説家の渡辺淳一氏が、「美しいものをただ美しいというのでは何も伝わらない。何がどう美しいかを伝えるのが大切だ」と言っていました。
そういう意味では、ただ「美しい」と言うのは平凡で、そこには何もないという気もします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですね、時と場合によりけりですね。恋人を褒めるとか、友達の絵を称賛するのなら、やはり褒めても褒めすぎることはないかもしれません。しかし公的な場で語るとなれば、ありきたりのことを言っても、ふーん、当たり前じゃん?と言われて終わってしまいますね。

お礼日時:2011/06/26 04:33

美しいもの というのを 想定します。



美しさを感じる心があるとします。

対象としての美しいものは、 個性的な事物です。 そういう意味で「もの」です。 出来事です。

出来上がっているものです。 出来上がろうとしていることです。

「もの」

「こと」の違いは何でしょうか。


ものはそこにありいます。

こと は わたしものです。 ことばです。

うつくしいものを 美しい と いう のは 意味があるのでしょうか?

あるのは つまり こころだけです。

しかし こころは 存在しません。 

存在するのは個性だけです。

いみとは、 自分には個性がないのに 購入して 手に持っている もの を 通じて 自分に個性を与えようとしている 愚民たちです。

個性は食べ物だとおもい もっていればいつかは自分のものになると思っていることです。 凡庸ではなく 迷信です。 

意味とは 自己を味わうことであり、 痕跡を生き返らせることです。 誰にでもできることではないので前提を変化させる必要があります。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。詩のように深いお答えですね。シンプルでかつ、先の先まで議論を進めてくださいました。これ自体で完成されていますから、僕が下手なことを書きくわえるのはやめにしたいと思います。しかし自己を味わうこと、痕跡を生き返ること、前提を変化させること――見事な表現ですね。

お礼日時:2011/06/26 04:42

こんばんは。


珍しく短い質問ですね(素直に)。
なんとなく、長い質問を読む楽しみが減ってしまって残念な気もしますが、逆に緊張感が増す気もします。

どう答えたらいいのか、頭悪いんで当てずっぽうですけれど、

凡庸が故に尊い。
その凡庸さこそ、人が繋がれる可能性の大きさだからだ。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。いろいろあっただけに、いらしてくださると、尚のこと嬉しいです。えーと、長い方がいいんですか? ははは。では次は覚悟しておいてくださいね。

このご指摘もまた、簡潔ではあるが、深いですね。凡庸さが尊い。確かにそうなんですよね。奇妙奇天烈なことを言うより、ありふれたことを、自分の信じる形で主張することが、とても大切なんですよね。そうした考え方が古典というものを作っていくのであり、古典が共同体の基盤になるやもしれません。

しかしこの設問では、少し他の回答者の方の様子を見て、脱線し、多様なお考えを伺ってみることもしてみたいと思います。というのも、残念ながら、古い共同体とそれにまつわる価値観は崩れる一方です。新しい共同体を再構築することが日々、様々なところで、求められている時代ではあると僕は感じます。

これなら動機をちゃんと書いておけって? でも直接的にそうした議論をしなくても、何かそうした問題のヒントになりそうなお答えがちらほら出ているなという印象です。長々と質問の動機を説明して直接問うか、間接的に問うて自由に意見を出してもらうか、どちらがいいかといえば、両方やってみるにこしたことはないというのが今の僕の「直感」です。知的武装をしないで参加できる問って、いいじゃありませんか。

お礼日時:2011/06/26 05:32

感性によって得たものを言語化することによって確定しておく、といった意味があるのではないでしょうか。


失いたくない情報を、いつでも取り出せるように整理しておくといった事のように思います。
それは感性による照合の新鮮さを保ちたいという心の現れかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。俳句など、その最たるものですね。

お礼日時:2011/06/26 04:49

 こんばんは。

シンプルに答えさせていただきます。
「美しいものを美しい」と言うことは誰でも出来る。がしかしその「内容」を語る人によって「美の対象も深さも」様々に変化する。なぜならそれを裏打ちするのはその人が歩んできた過程によるから。と同時に「美的なるモノ」はあっても「美」そのモノはない。なぜなら「美しい女性」が歩いているとはいっても「美のイデア」が歩いているとはならない。
 もし女性の前で「貴女は美のイデアです」と口にしようものならば「何よ、それ!」との言葉の次にバチーンと平手打ちが飛んでくるかもしれない。
誰でも出来ることは抽象化すると普遍の顔を見せ、個別化すると特殊の顔を覗かせる。
 『街の灯』を観ていて映画が好きになった僕の原点です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。シンプルという試みにお付き合いくださって、これもありがたいです。「原点」とおっしゃるからには、深い内容を言ってくださったに違いありません。が。ごめん、今回はわかりにくいです。

女性に「君は僕のイデアだ」というと、引っ叩かれますか……イタリアン・ポップスの歌詞に似たような台詞があって、僕はありなのかなと思っていましたが。イデアという台詞がくさいかなぁ。ここが分からないので、話がどこでオチているのかが、よくわからないのです。読解力が乏しくて、すみません。

美の様相には二つあって、一つは普遍であり、もう一つは個別の変化する面であるという話は同意するところです。

お礼日時:2011/06/26 19:41

「美しい」という言葉は、単独では存在し得ません。

。。

主体と客体とを結ぶ情の切断面に「美しい」という言葉が現れるのです。。。

その切断面は、主体が客体(ないし「全て」)との間に、仮想的・幻想的に設定しうる境界に相当します。

「いま・ここにいる私」・「いま・ここにある心」・「いま・ここに躍動する魂」と「いま・そこにある対象」(ないし「私」「対象」を含む「全て」)との境界面です。

「全て」から「1つの生命体」として境界をもつことで(能動的に)生き、かつ(受動的に)生かされている「私・心・魂」。。。

「全て」に対する「私・心・魂」の境界は揺れ動き、時として対象(ないし「全て」)を包み込み、対象を排除し、対象を慈しみ、対象を憎む。。。

そうして、いつの日にか「全て」へと帰って行く「私・心・魂」。。。

「全体」から引き離されることで「生」を保っているからこそ、アルパ(始原)でありオメガ(最終)でもある「全体」への思い・情・郷愁の念が境界によって切断されるとき、「美しい」などの言葉が意味を持って発せられるのでしょう。。。

そこに「凡庸さ」を見いだすのも、「対象、ないし全体」に対する自身の1つの境界線のあり方なのでしょう。。。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、人間は個性的でありたいという欲求をもっていますから、皆と同じものを指さして「美しい」ということは、個性を失う危険があるわけです。お考えには、美とは人々の認識を統合していくものだという前提があるように感じたのですが、それもおっしゃる通りですね。

お礼日時:2011/06/26 20:00

美しいと思うモノを美しいと言うコトは、個人の経験に根差します。


しかし、個人とは閉じた系に存在する様式や形式の容器ではありません。
個人の経験する世界には、milieuによる力学とmondeによる力学があります。
milieuの因子を探ることは、社会の分析を要求し、
mondeの因子を探ることは、自己の分析を要求します。

言説に分け入って、その思索の道筋、判断の由来、表現の溢出を意味付けるということは、
その言説が属する社会の波長と、その発話の駆動力とのあいだに、
平均的な結びつきがどのようにあるかを見出すと同時に、特殊な結びつきもまた見出すことであり、
そのように特殊な結びつきをパーソナリティと分かちがたくしている個人を、篩にかける手段となりえます。

> 誰にでも出来る

のは精神神経科にかかわるケースを除いてといわざるを得ませんが、
周知のように、人間は、美しいと思うことができなくなる場合もあれば、思うモノを言えなくなるコトもあります。
「誰にでも出来る」ように思われるその事がどれだけの機序に負うて成り立っているか、ここでいう力学のもとにどんな方向を付けられているのかを知ろうとすることは、
ethiqueの範疇にあるあらゆる分野を貫く基本的姿勢であると思います。また、

>凡庸

なのはほんとうに、「美しいものを美しいと言うことが誰にでも出来るからこそ」でしょうか。
上述のような、言説を作り上げる内部構造の結びつきから来る印象ではないでしょうか。
たとえばそれは、西洋美術でいえば、シュルレアリストたちが意外性を求めて痙攣的と称し、
あるいはモダニズムが、内容を逃れて享楽的に表層性を評価し、
さらにポストモダニズムが、アイコンやコンセプトを再検討することで、
揺さぶりかけようとしてきたところの凡庸さなのではないでしょうか。
そうでなければ、
東洋的な沈黙において、
美しいものを美しいと言わずに空気を張り巡らせるような言説の操作があることを、
kusa-muraさんは思い浮かべたのでしょうか。
そうだとすれば、たしかに西アジアから東アジアにいたる非西欧文化に認められるヴェールをかぶせた美意識は、漢詩と俳句において一層研ぎ澄まされていると思いますが、
粒子の波動のように繋がった観者と自然の心の僅かな一致を知覚するという意味で、たいへん官能的であり人間の極致に触れているとわたしは思います。
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あんた、初恋をしたことあるんだろう。

あたしが初恋をしたときに、世の中には何て美しいものがあるんあろうと圧倒されたね。そのとき美しいものを見て美しいと思ったが、んで、何か文句でもあるんかね。

『煙が目にしみる』って歌だったと思うが、それに「私の本当の愛を何故本当の愛だと聞くのか」ってな歌詞があったね。その言で行くと「美しいもを何故美しいと聞くのか、下がれ!」ってな返事も出来そうだね。

後日談。50年ぶりにその初恋の人とクラス会であって来たが、うちの婆さんと一緒になれてあたしゃ幸せだと思ったね。相変わらず彼女は美しかったけどね。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。思い出話、興味深く読ませていただきました。僕も手短に初恋の話を。

>「美しいもを何故美しいと聞くのか、下がれ!」ってな返事も出来そうだね。

かなり昔の話ですが、そう言われると思って、僕は告白できませんでしたよ(笑)。今でも、見るからに美人の人に美への賛歌を捧げるのは、躊躇います。当たり前じゃん?いまさら、何を言ってんの?と言われそうな気がしてしまうので。

お礼日時:2011/06/26 20:01

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