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それは誰にでも出来るからこそ、凡庸ではありませんか?

A 回答 (27件中11~20件)

人生を生きる意味があるとするなら、凡庸な発言をする意味もあると思う。



もし、人生を生きる意味が無いという観点から人の発言を評価するなら、もちろん、意味は無いと言わねばならない。
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この回答へのお礼

親方、ありがとうございます。そうか、人生は凡庸ですか。凡庸の中にも美を見出すのは、派手ではないけれど、いいものですね。深く息をして、のんびりできそうです。

お礼日時:2011/06/27 01:45

>美しいものを美しいということに意味はあるのか?



率直な肯定ほど美しいものはありませんね。

大いにあります。あると思います。

さて
>それは誰にでも出来るからこそ、凡庸ではありませんか?

いえ、誰にもできることではありません。


誰にもできる肯定は確かに凡庸です。

しかし誰にでも美しいといわれる美は偉大そのものといえます。
偉大なものの前ではすべてが凡庸になります。

なら
つじつまが合っているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。後世に凡庸だとみなされるほどのものを最初に作った人は、確かに偉大ですね。「モナ・リザ」とか、そうですね。

お礼日時:2011/06/27 01:38

凡庸でいいのでは


あるがままを、あるがままに・・・という感じで
俳句もそんな感じです。

私が俳句を教わった方の一句です。
「紫陽花の 毬から毬へ 蝶飛んで」

季重ねもあり、立派な俳句ではないかもしれませんが
さらっと詠んだ感じがして疲れなくていいです。

情景を写し撮るという、感性による美の確定の世界があるように思います。
そこには凡庸でありながらも、感性の働きの素晴らしさがあります。
意味といえば、感性の働きが誰にでも備わっているという事かもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。紫陽花の花の房を毬と呼びかえることで、蝶があたかも子供のように遊んでいる姿が浮かびますね。
しかし「感性による美の確定の世界」というのが、僕には今一つわかりにくかったのです。もう少し言葉を足して頂けると、有難いのですが。

とはいえ、俳句の性質について関心がもたれているので、別の問いを作りました。
http://okwave.jp/qa/q6837109.html

お礼日時:2011/06/26 21:05

こっちの土着民族にとっては「美しい」と吐くことは、


「すいませんね。美しいぐらいしか言葉がなくて」
という自分は凡庸な人間ですというへりくだり表現です。
ですから「美しい対象」より美しい表現をすることを
そもそもあきらめています。
なので質問者さまの意見はごもっともです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、そうか、他にできる言い回しがあれば、そちらの方が望ましいが、なかなか、それは思いつかないというわけですね。一本取られましたね。

お礼日時:2011/06/26 20:47

それは誰にでも出来るからこそ、凡庸ではありませんか?



○ 真理は簡単なものの中にあるのです。
それを、「山の彼方の空遠く、幸人の住む・・」で表しているのです。子供用ですと「チルチルミチルの青い鳥」の話ですね。
つまり、「美しいものを美しいということに意味がある。」のですね。それを忘れると路に迷うのですね。 多くのものが近くにあるダイヤモンドを石と勘違いして有りもしないダイヤモンドを探しにいくのです。
簡単なことが続けられないから凡庸になるのですね。非凡な人は凡庸な者ができないことを続けるから非凡と呼ばれるのですね。
簡単すぎてわからないかもしれませんが、難しく言えば、これは、中国の高僧天台チギの一念三千論の真理の部分なんですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。うーん、そうか。僕の質問はそうも読めましたか。僕は、誰もが認める「美しいものを美しいという」ことは、ダイヤモンドを探すこと愚か者のことだと考えていましたよ。それに対して、あるがままの姿は人によっては「醜い」と笑うかもしれない。でも、ありもしないものを求めて放浪しても難になるだろうか。むしろ醜さに美を見出すことにこそ意味がある――くらいに僕は考えたかったのですが。

お礼日時:2011/06/26 21:34

>俳句など、その最たるものですね。



わたしなら、俳句は推理小説の手順だよと言ってやりたくなりますね。
下手だとただえげつないところも同じ。

この回答への補足

別の問いを作りました。
http://okwave.jp/qa/q6837109.html
もしよかったら。

補足日時:2011/06/26 21:01
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この回答へのお礼

ありがとうございます。もう一方の方は、もう少し考えるお時間をください。なるほど推理小説の手順ですか。シンプルな表現ですね。
・俳句は論理的なものである。
とおっしゃっているのかな、と受け止めました。なかなか面白いですね。一般的には、感性のものだという話もありますから。もしよかったら、文学カテに別の設問を作ろうかと思います。

お礼日時:2011/06/26 20:43

>俳句など、その最たるものですね。



んにゃ、それじゃあんたは俳句はまるで解ってないってことを言っているだけだ。俳句は言語で描かれた墨絵なんだよ。和歌には色がある。絵画には時系列的に表すことが出来ない論理が表現されている。そう、論理的なんだ。だから、感性も理性も共に表現出来るんだ。

この回答への補足

というわけで、別の問いを作りました。
http://okwave.jp/qa/q6837109.html

補足日時:2011/06/26 20:59
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この回答へのお礼

ありがとうございます。僕としては、hetanosukeさんが俳句にご関心があった人だなと覚えていたので、そういう風な返し方をしたわけでした。しかし元の投稿文と照らしてみましたが、感性を留めて残しておくということにたいして、俳句もその芸の内でしょうねとお答えしたのでした。すると先生のご意見と照らしても、間違いではないと思うのですがどうでしょうか。理性も表現できるという意味では、俳句の本質を突いた言い方になっていないとしてもです。

ところで、理性と感性は面白そうだから、また別で、やることにしませんか? 当然過ぎて、俺は関心がないと言われてしまえば、まぁ仕方ないかと諦めますが、文学カテに投稿してみようかと思ったりします。一つの箇所に、あまりにも問いを詰め込んでしまうともったいないですから。せっかくの御馳走をバイキングで一気食いするような気持ちです(結構、僕はやってしまうんですけれどね)。

お礼日時:2011/06/26 20:38

あんた、初恋をしたことあるんだろう。

あたしが初恋をしたときに、世の中には何て美しいものがあるんあろうと圧倒されたね。そのとき美しいものを見て美しいと思ったが、んで、何か文句でもあるんかね。

『煙が目にしみる』って歌だったと思うが、それに「私の本当の愛を何故本当の愛だと聞くのか」ってな歌詞があったね。その言で行くと「美しいもを何故美しいと聞くのか、下がれ!」ってな返事も出来そうだね。

後日談。50年ぶりにその初恋の人とクラス会であって来たが、うちの婆さんと一緒になれてあたしゃ幸せだと思ったね。相変わらず彼女は美しかったけどね。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。思い出話、興味深く読ませていただきました。僕も手短に初恋の話を。

>「美しいもを何故美しいと聞くのか、下がれ!」ってな返事も出来そうだね。

かなり昔の話ですが、そう言われると思って、僕は告白できませんでしたよ(笑)。今でも、見るからに美人の人に美への賛歌を捧げるのは、躊躇います。当たり前じゃん?いまさら、何を言ってんの?と言われそうな気がしてしまうので。

お礼日時:2011/06/26 20:01

美しいと思うモノを美しいと言うコトは、個人の経験に根差します。


しかし、個人とは閉じた系に存在する様式や形式の容器ではありません。
個人の経験する世界には、milieuによる力学とmondeによる力学があります。
milieuの因子を探ることは、社会の分析を要求し、
mondeの因子を探ることは、自己の分析を要求します。

言説に分け入って、その思索の道筋、判断の由来、表現の溢出を意味付けるということは、
その言説が属する社会の波長と、その発話の駆動力とのあいだに、
平均的な結びつきがどのようにあるかを見出すと同時に、特殊な結びつきもまた見出すことであり、
そのように特殊な結びつきをパーソナリティと分かちがたくしている個人を、篩にかける手段となりえます。

> 誰にでも出来る

のは精神神経科にかかわるケースを除いてといわざるを得ませんが、
周知のように、人間は、美しいと思うことができなくなる場合もあれば、思うモノを言えなくなるコトもあります。
「誰にでも出来る」ように思われるその事がどれだけの機序に負うて成り立っているか、ここでいう力学のもとにどんな方向を付けられているのかを知ろうとすることは、
ethiqueの範疇にあるあらゆる分野を貫く基本的姿勢であると思います。また、

>凡庸

なのはほんとうに、「美しいものを美しいと言うことが誰にでも出来るからこそ」でしょうか。
上述のような、言説を作り上げる内部構造の結びつきから来る印象ではないでしょうか。
たとえばそれは、西洋美術でいえば、シュルレアリストたちが意外性を求めて痙攣的と称し、
あるいはモダニズムが、内容を逃れて享楽的に表層性を評価し、
さらにポストモダニズムが、アイコンやコンセプトを再検討することで、
揺さぶりかけようとしてきたところの凡庸さなのではないでしょうか。
そうでなければ、
東洋的な沈黙において、
美しいものを美しいと言わずに空気を張り巡らせるような言説の操作があることを、
kusa-muraさんは思い浮かべたのでしょうか。
そうだとすれば、たしかに西アジアから東アジアにいたる非西欧文化に認められるヴェールをかぶせた美意識は、漢詩と俳句において一層研ぎ澄まされていると思いますが、
粒子の波動のように繋がった観者と自然の心の僅かな一致を知覚するという意味で、たいへん官能的であり人間の極致に触れているとわたしは思います。
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「美しい」という言葉は、単独では存在し得ません。

。。

主体と客体とを結ぶ情の切断面に「美しい」という言葉が現れるのです。。。

その切断面は、主体が客体(ないし「全て」)との間に、仮想的・幻想的に設定しうる境界に相当します。

「いま・ここにいる私」・「いま・ここにある心」・「いま・ここに躍動する魂」と「いま・そこにある対象」(ないし「私」「対象」を含む「全て」)との境界面です。

「全て」から「1つの生命体」として境界をもつことで(能動的に)生き、かつ(受動的に)生かされている「私・心・魂」。。。

「全て」に対する「私・心・魂」の境界は揺れ動き、時として対象(ないし「全て」)を包み込み、対象を排除し、対象を慈しみ、対象を憎む。。。

そうして、いつの日にか「全て」へと帰って行く「私・心・魂」。。。

「全体」から引き離されることで「生」を保っているからこそ、アルパ(始原)でありオメガ(最終)でもある「全体」への思い・情・郷愁の念が境界によって切断されるとき、「美しい」などの言葉が意味を持って発せられるのでしょう。。。

そこに「凡庸さ」を見いだすのも、「対象、ないし全体」に対する自身の1つの境界線のあり方なのでしょう。。。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、人間は個性的でありたいという欲求をもっていますから、皆と同じものを指さして「美しい」ということは、個性を失う危険があるわけです。お考えには、美とは人々の認識を統合していくものだという前提があるように感じたのですが、それもおっしゃる通りですね。

お礼日時:2011/06/26 20:00

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