プロが教えるわが家の防犯対策術!

皆さんは中学・高校で習って社会人になって「何でこんな役に立たないの勉強したんだろう?」って思った科目ってありませんか?

私個人的にはこんな感じです。

・古文、漢文→サラリーマン社会においては全く不要。今もたまに電車で高校生が教科書開いてるの見るけど何であんなの勉強したのか今だに分からない…

・英文法→あんなの実践では何の役にも立たない。覚えてる単語を並べて日本語の文章に置き換えたらそれなりに解釈できる。
英字新聞を丸ごと翻訳するとか、CSでCNNのニュースを見るとか、洋画orドラマを字幕無しで見るとかに時間を割いた方がよっぽど建設的な気が。

・国語→漢字はまあ必要としてもそれ以外の読解力とかは何だったのか・・・
大人になってから夏目漱石や宮沢賢治、太宰治なんかに触れる機会も出てきましたが
こういうのも中高生のうちから読んでも良かったなって今更ながら思います。

・科学、物理、数学の方程式等→理数系の企業以外では全然使う機会ない。必要と思う人だけ勉強すれば良いと思いますけど。
確率統計なんかはマーケティングとかの仕事でまだ使う機会はある。

・世界史→日本の歴史を知った上での世界の歴史。勉強するなら日本史の知識を完璧にした上で学ぶべき。
日本の歴史は知らないのに世界史は知ってるなんて外国から見たら笑われる。

・体育→地域、学校、先生によって異なるかも知れませんけど自分の高校時代はただサッカーをやらせるだけ、バスケをやらせるだけの授業だった。
あとで通知表を見て何でこんな評価なのかって疑問だった。

・道徳→あの授業も結局何だったのか・・・
街中で自分と同世代の大人のマナーや常識力を見てるとそんな教育が活かされてるとは到底思えない。

・給食(番外編)→今は知らないけど私の時代はパンと牛乳がメイン、週一でご飯だった。
まずはこれを米メインにすべき。
とにもかくにも日本の食育はここからでしょう。
月何回かは自分たちで作る機会も与えた方が良いでしょう。子供の頃からご飯を炊ける、最低限のおかずを作れるというだけで大人になってから生活力の面で大分違うと思います。


逆にこんな勉強こそ中高生からやっておいた方が良いというのはありませんか?
私はFPの資格持ってるのですが、お金全般や貯金・預金の種類、保険、税金に関する知識なんかは社会に出たら誰でも必要になってくるものなので、こういうのこそ社会に出る前に勉強が必要なのではと思うのですけど。

あと簿記なんかもどんな会社、組織にいても必要になってくるので、商業高校以外でも勉強する機会があっても良いと思います。

A 回答 (18件中1~10件)

購買を強制する制度は社会的癌です。


教育内容だけでなく、学校も教員も、児童生徒保護者の選択に任せるべきだと考えます。
    • good
    • 0

数学



方程式や関数なんか社会に出て使ったためしがありません
あれこそ究極の無意味です
    • good
    • 1

まだまだ青いな。


そのうち、ああ、あの時ちゃんと勉強しとけば、と思う場面が出てくるよ。普通に社会人やってるとね。
古文をさらさらっと暗唱してスナックの姐ちゃんを感心させたり、w
片言の英語でも話せばフィリピーナをナンパできるし、w
国語?ここでもまともな日本語をタイプすらできない奴が多いじゃん、じゃん。
科学や物理はSF読む時には必須。
世界史?日本史だって世界史の一部じゃねぇか、全部関連がある、ちゃんと勉強してないからそういうところが理解できない。
体育?運動する事によってカルシウムが骨に定着する。70才で違いが出る。
道徳、、まあ、教える方の徳が低いからな。教わる方はもっとだけど、w
給食?もちろんパンと牛乳だけど、おかずがちゃんと付くから。ご飯なんて後年になってやっと年数回だよ。でも、家では逆で、パンなんか普段は食わないからバランスは取れてる。日本史学べよ。完璧っつうからにはそういうのも理解できてなきゃ嘘。大衆の風俗も歴史だよ。
作るほうは家庭科でやるじゃん、あれ?今はやらなくなったんか?
簿記ってさあ、まともな算数の知識があればそれの応用でしかないんだよ。つまり、数学の基礎がなってないつうこと。
保険だの税金だの、国語や科学、数学の理解があれば、自分で調べて分かるようになってる。要するに基礎がいい加減だから何調べてもよく分からないで終わっちゃうの。読解力が無いから読んでも理解できないんだろ?て、こう書いてもどこまで理解されてるかさえ疑問だしな。
    • good
    • 0

そもそも論ですが、教育というのは何の為にやられるのか


を考えてみましょう。
1,国民意識の醸成。
2,国民としての知力、教養を養う。
3,社会に出てやっていけるだけの最低限の
  知識、スキルを身につける。

一番大切なのは「1」です。
途上国がどうして途上国なのかを考えたことはありますか?
それは国民としてのまとまりが無いからです。
まとまりがないから政治的に不安定になり、経済も
発達しないのです。
国民としてのまとまりを醸成するために、学校教育が
やられるのです。

明治維新前の日本では、藩意識が強く、日本人という
意識は非常に薄かったと言われています。
それを教育によってここまでにしたのです。

中国人などは、大正時代になっても、留学生ですら
中国人という意識はほとんど有りませんでした。
皆、北京人とか上海人という意識だけでした。
だから、日清戦争で、軍事力に劣る日本に惨敗
したのです。

こういう観点から、教育に何が必要かを考えて
みるべきだと思います。


・古文、漢文
  ↑
歴史の一環です。
歴史を学ぶことにより、日本を意識し
国民であるとの自覚が醸成され、日本人として
まとまることが出来るのです。
また、国民に要求される教養でもあります。


・英文法
  ↑
これは「3」のスキルという色が濃い部門ですね。
その点から疑問だ、という質問者さんの主張は
もっともだと思います。


・国語
  ↑
言語教育は国民意識の醸成と最も強く結びつきます。
それに、日本人は国語で考えるのです。
言葉は、意思伝達の手段だけではありません。
思考の道具でもあります。
複雑な、抽象的なことは言葉でないと思考できません。
その言葉に熟達することは、その人のレベルアップに
繋がります。
これはスキルの問題でもあります。


・科学、物理、数学の方程式等
   ↑
これは知力、スキルの問題ですね。
最低限の科学的知識や、科学的考え方というのは知力発達
の為に必要です。


・世界史
  ↑
日本の歴史を、という点は賛成です。
ただ、中国人の知人と話して、日露戦争を知らなかった
のには驚きました。


・体育
 ↑
これは賛同です。


・道徳
 ↑
学校教育で道徳は身につきません。
中韓などは道徳教育が盛んですが、効果は
さっぱりです。
英国などは、宗教を利用して道徳教育を
やっています。


・給食
 ↑
貧乏人は弁当を持って来られなかった、という経緯
があります。
仲間意識を醸成する、という意味もあるのでしょう。


”私はFPの資格持ってるのですが”
    ↑
や、それはすごいですね。
それはともかく、こういう話があります。
『すぐに役に立つモノは、すぐに役に立たなくなる』
    • good
    • 0

特にないです。


どれもこれも大人になってしまえばちょっと本を読めば
わかる程度の一般常識ですが、
それは学習していたからそう思えるわけで、
そうでない、もしくは本を読もうとさえも思わないような
ジャンルに関しては無知なままになってしまいます。

大学の友人で「ビジネスマナー」や「社会人としての立居振舞い」
などは学生時代のどこかでやるべきだ。と言っていた奴がいましたが、
(本人は随分とそれで苦労したようです)
質問者さんもたぶんそれに似た感想なのだと思います。

無学無教養の人より、
源氏物語の素養があって、ピアノも弾けて、
世界情勢にも詳しくて、アウトドアも得意で、
DIYなんかもてきぱきこなせて、
いろいろ資格を持っている人のほうがいいかな。
一応その程度は現在こなせてます。

個人的には、世代のせいもあるけど、
男子としてはもう少し料理や裁縫の素養が欲しかった。
英会話も日常会話くらいは学校でやってほしい。
ビジネスマナー云々も賛成かな。

歴史に関しては、誤りを一つ指摘しておきますが、
日本史は、世界情勢とリンクさせて学ばないと、
歴史を学んだ、歴史を生かす。ということにならないと思う。
学び方が浅かったのでは。と思わないでもないです。
歴史教育に関しては現代史を最初にするべきだとは思うけど。

米食で食育というのは、すでに議論されていて、
すでに完全米食を実験的に取り入れているところがありますね。
個人的には、小麦文化やとうもろこし文化の食事を
取り入れることも大切だとは思いますが。
    • good
    • 0

質問者さんは、「知識」と「知恵」の区別がついていないのでしょう。



確かに知識は、役に立たないものもが殆どです。
とは言え、人間の脳はパソコンみたいに「●ギガ」とかの制約は無いので、覚えられる範囲は、いくらでも詰め込んでおけば良いのです。

一方で人間の脳は、パソコンとは違い、検索やら演算の結果を出すだけでは無く、それらを意見やら意思などの形でアウトプットしたり、実際に行動したりするのです。
それが知恵であり、学校教育では、知識と共に、思考訓練などをしているのです。

質問者さんの考え方は、バット以上の重量物を持たない野球選手は、「100kgのバーベルで筋トレする必要は無い」と言ってる様なモノで、実際にはそんなことは有りません。
役に立たないと思われる授業で、重要な「脳トレ」をやっているのです。

逆説的に言えば、授業が本当に役に立たないものであれば、「何でこんな役に立たないの勉強したんだろう?」と言う疑問も生じませんよ。

また、役に立たない知識も、「素養」などと言う形で、思考力の向上に重要な役割を果たしています。
その素養と言う面では、道徳などが判り易いですが、道徳律は法律の重要な素養になっています。
たとえば法律を含め、社会とは契約の塊ですが、それを道徳で「約束を守るのは良いこと」と教えているのです。
その結果、社会で法律違反や契約違反などの防止になります。

「必要な知識だけで社会を生きる」なんてのは、薄っぺらいアウトプットしか得られません。
必要な知識と言うのは、「最低限」の話しであって、それは最終的には、各人が手に入れて行くものです。
それに辿りつきやすい「素養」と「考え方」が、公的教育の役割です。
    • good
    • 0

まあ、現実はそうかもしれませんね。


ただ、学問は仕事のためだけにあるわけではありませんね。
日本国民として、社会人として必要と思われる教養の一つと位置づけられていると思います。
私も数学の微分積分なども学校以外で使ったことはないのですが、そういうものがあるのだと知っていることも必要かと考えています。
    • good
    • 0

学校の授業で覚えたことなんて、役に立たないのは当たり前です。



なぜなら、学校でやっているのは「自分で知識を習得する為の練習」であって「知識そのものを吸収する事」が目的ではないからです。

ただし、小学校から中学校の一部までは「知識の習得」そのものを目指しています。なぜなら(日本語でも英語でも)文字という知識が無ければ読み書きすらできず、加減乗除という知識が無ければ算数もできません。また辞書・辞典を引くために「あいうえお順」とか「部首索引」などの方法を知ることも知識そのものです。
これらの最低限の知識を習得してから、高校や大学などで「自分が今後、必要な知識を習得するための練習」を行うのです。

個別に「練習」という定義で見てみます。
・古文、漢文→温故知新、などの言葉そのものの成り立ちを覚える為の知識や歴史的なものを学ぶ為には古文や漢文の素養が必要です。最低限、古文の読み方や漢文の読み方などを知っていることで、歴史に学ぶことも出来るようになります。

・英文法→もし、仕事で中国語とかフランス語が必要になったとき、自国語以外の外国語を「習った」という経験はとても有益になります。こういう「覚える為の方法論」をメソッドというのですが、英語を題材にメソッドを経験する事で、どんな外国語も習うことが出来るようになります。

・国語→あまりにも幅広いのでなんとも言いがたいのですが、このサイトでも「理路整然として誰にも分かりやすい文章」を書く人も「何を言いたいのか支離滅裂」な人がいます。
その中には、分かりやすい文章、理路整然とした文章を書く人はそれだけ国語的な素養を身につけているわけです。
この素養を身につけたい、と考えれば国語の授業で行っていたメソッドを繰り返すことになります。

・科学、物理、数学の方程式等→方程式がある、ということを知っていることそのものが有益なのです。
この間、カンボジアの貧しい家庭へ薬を処方しても「薬に対する知識がない」ために、誤って服用してしまう事例を見聞きしました。

薬と言うのは、化学の方程式を使った難しいもので一歩間違えれば毒になる、という想像力が働かないのです。この「想像する」ために元になる知識が方程式などの「難しくてよく分からない科学の勉強」ということです。これらを習っているから「薬は危ないものである」と想像できるのです。

・世界史→私は逆だと思いますよ。「世界の中の日本の位置づけを知らずに日本の歴史を完璧にしても井の中の蛙」だと思います。

たとえば、織田信長は南蛮好みだったといわれていますが、当時の南蛮貿易がどのようのものであったかを知らないと、なぜ信長がビロードを好みそれを謙信などに送っていたのか、その価値(金銭的だけでなくステータスとして)を知ることはできません。

また明治維新の特徴とそれ以降の日本の有り方、そして現代における日本の地位など、今現在の日本と周辺諸国の諸問題や世界との付き合い方にも影響します。

世界を知らなければ日本だけ知っていても意味がありません。

・体育→うちは器械体操ばっかりやらされていましたよ。そもそも体育の先生なんて「授業なんて、社会に出ても役に立たない」と考えている筋肉馬鹿が多いわけですから、まともな授業ができるわけがないでしょう。


・道徳→私もそう思っていたのですが、最近自分の子供たちを見ていて、一概にそうでもない、と思うようになりました。
外国に行くと「道徳」という授業がない、というか「他人の気持ちを考えよう」というメソッドすらないんですね。だからこそ「ペイフォアード」のような映画が「すげーアイデアじゃん!」みたいな形で感動作として語られるわけです。

道徳というか「他人を思いやる」ということを考える訓練はそれだけで重要でしょう。

・給食(番外編)→自分達で作る機会なら家庭科であるでしょう。林間学校などでもキャンプ料理したりしますよね。ちなみに、自分たちで配膳して後片付けまでやるのは日本の給食の特徴です。料理を作る技術までは、難しいとしても、衛生的なことに配慮しながら食事環境を作り出すことを学ぶわけです。


このようなメソッドを体験するというだけでも授業の価値はあるわけです。これらの経験をして居れば、どのような場合でも自分が必要とする知識を自分の力で習得することが出来るようになります、もちろん自分の力というのは「外国語が必要だから語学学校に行こう」とか「現地の学校で習おう」という判断も含みます。

これらの下積み経験があって初めて人は自分で学ぶことが出来るようになるわけです。

「学校で習わなかったから」ということを言い訳にする社会人は、とても恥ずかしいことなんですよ。
    • good
    • 0

明治になって西洋文明を取り入れようと、欧米から各分野の専門家を大学に招きました。

科学の講義の最中にあった逸話が残っています。
「先生、こんな勉強して、将来どんな役にたつのでしょうか?」
「学問は金儲けのためにするのではない。ものの考え方を学ぶためにするのだ。」

漢文には漢文の考え方があり、それを学ぶのです。他の教科も同じように考えてください。「青は藍より出でて、藍より青し」と言います。学校で学んだことが土台になって、今の自分があるのは確かです。質問者さんは恩師を遥かに凌ぐ才能を身に着けておられるのだと想像します。(英文法は中二程度の知識は必要だと思いますが、それ以上は日常てきには不要ですね。)

給食に関しては賛成です。
学校給食に限らず、現在の日本人がパンを食べるようになったのは戦後のことです。食糧難の時代にアメリカが給食のためのパン(小麦粉)を無償で日本に提供してくれたからです。「朝食にパンを食べる」という生活が、欧米式のカッコいい生活様式になったのは、子供時代にパンの味を覚えたからです。そうすれば、成人してからもパンを食べ続けるので、日本は永久に小麦粉をアメリカから輸入することになります。全てはアメリカの戦略だったのです。

>貯金・預金の種類、保険、税金に関する知識
つまりは財テクの初歩のことでしょうか?子供時代は役に立つかどうかではなく、興味だけで無益とも思える勉強ができる次代なのです。その芽を摘み取ってしまうような気がします。簿記なども、高校以上の学校で専門的に勉強するのが適切だと思います。同じ会社でも部署によって必要な技量は違ってきます。もちろん知っていれば就職で有利であることは否定しません。農業、製造、建築などの現場で働く人には不要だと思います。
    • good
    • 0

 それは単に「学校=知識を与える場」としてしか観ていないからでしょうね。


確かに「日本の学校制度」およびシステムとしては「知識を与える場」との色彩もありますが、実際には日本の小中校生のレベルが低すぎるとの問題もあります。
 本来ならば、知識をベースとして「考える」との営みが目的ですが、現状としてはその目的の入り口に辿り着くだけで精一杯状態といえます。
 国語を一例としてとりあげますが、国語は実際に総合科目としての性質も有し、そこで扱う文章の領域もかなり広く設定されています。自然科学から始まり社会科学そして文学理解や言語形成までを扱いもします。
 そこに活用形だとか文学史としての作品名と作者名などをデータとして扱うから、単なる知識レベルに留まってしまうともいえます。
 FPに関する知識などよりも、実際には経済原論そして哲学概論と社会科学概論を扱うべきでしょうね。もしFPやマネーゲームに関する知識を与えても、それは単なるマネーゲームでしか社会が動いていないとの近視眼的な俗物を大量に粗製濫造するだけでしかありません。
 アダム・スミスが『国富論』を著作として遺す一方で『道徳感情論』を書いた理由が、マネタリズム教育では説明もできません。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!