1. 新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。
▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。
「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。
「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。
「それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。
「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
彼らはそれぞれ自分の同胞に、
それぞれ自分の兄弟に、
『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
小さな者から大きな者に至るまで
彼らはすべて、わたしを知るようになり、
わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
(旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. すなわち たたき台として 次です:
(α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。
▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。
☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。
2-1. 板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によるということを示していると思われます。
(β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。
すなわち
(β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。
(β‐2) オシヘは要らなくなったということ。
▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
(γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天とあたらしい地の時代へ入るということ。
(γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっているということ。
すなわち 《普遍神》ということ。
A 回答 (4件)
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No.4
- 回答日時:
何がすっとこどっこいやねん。
あんぽんたん!わたしはクリスチャンとしてお答えします。中川氏が言っておられるように、聖書的キリスト教とは、ヨハネ3章16節「神は実に、そのひとり子を与えられたほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ここには、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく」と書いてあります。
何もしなくても不義がゆるされ、罪が消し去られるのではなく、イエスキリストを信じて神の愛を受け取る責任があるのです。
そして、ヨハネ14章6節には「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言っています。さらにヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」と言っています。
ヨハネ10:9「わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます」すべての人が自動的に救われるのではなく、イエスキリストを信じ、その門を通って入るなら救われるのです。
ブラジュさんとのやり取りは信仰が鍛えられます。聖書をもっと読み込まなければならないことを痛感いたしました。
★ 何がすっとこどっこいやねん。あんぽんたん!
▲ ( Jeremiah 31:34 )わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない
☆☆ なぜこの聖句を遠ざけるのですか? もう何度も尋ねています。
☆ このゆえであり また 次のゆえです。
★ ブラジュさんとのやり取りは信仰が鍛えられます。聖書をもっと読み込まなければならないことを痛感いたしました。
★ わたしはクリスチャンとしてお答えします。
☆ 分かっています。
★ ヨハネ3章16節には、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく」と書いてあります。
☆ ですから イエスの登場によって:
① モーセの律法体制から解放され
② アブラハムの信仰本位に立ち還った と同時に
③ アブラハムより以前からいたキリストなる存在が 現実の人間として明かされたのです。
これは 普遍神です。《神とわれとの関係》が 時と空間を超えて 余すところなく成っていたことが 文字通り実現しました。だから 《不義がゆるされ 罪は忘れ去られる》わけです。
その基礎のうえで たしかに信仰は 神からのハタラキカケを受け容れるという人間の側の意志行為によって最終的に成ります。
私見では たとえばイエスキリストの話を聞いて 《へえっ。キリストっていたんだ》と反応すればよいのです。あるいは 《ええっ? まさかキリストなんていう神がいるもんか》という反応でよいのです。デウス・アブスコンディトゥスなる愛。
理論上・自然本性における潜在性として ひとは例外なく:
★ 何もしなくても不義がゆるされ、罪が消し去られるの
☆ です。
★ イエスキリストを信じて神の愛を受け取る責任があるのです。
☆ 神は 恩着せがましいことはしません。
▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
☆ のです。
★ ヨハネ14章6節には「・・・わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」
☆ ですが:
▲ (ヨハネ福音 10:14 ) わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
☆ のです。
では ただちに人類みなが キリスト者になるか? そうあせらずともいいではないですか。神のはかりごとは 千年が一日ですし 難解ですよ。みづからの信仰が深まったなら よいのです。
No.3
- 回答日時:
福音宣教は神の国を宣べ伝えると同時に、人々の病をいやし悪霊から解放することでした。
イエスご自身が言っておられることの中に「私は地上に平和をもたらすために来たのではなく、剣を投げ込むために来たのです」とあります。なぜこう言われたのかというと、当時の世の中の価値観とイエスキリストが宣べ伝える神の国の価値観とは大きな隔たりがあり、イエスに従おうとすると結果的に争いが引き起こされることになるからでした。平和とは程遠い状況にありました。だから、イエスキリストは山上の垂訓で「平和をつくり出すものは幸いです。彼らは神の子と呼ばれるでしょう」と言われたのです。剣が投げ込まれても、あえて、それらに立ち向かい平和を勝ち取っていくことを示されたのです。
イエスキリストが宣教を始められる直前、バプテスマのヨハネが悔い改めを導く洗礼をヨルダン川で人々に授けていました。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにするためです。イエスご自身もこのヨハネからバプテスマを受けました。ヨハネはイエスが自分からバプテスマを受けることを拒みましたが、マタイ3:15には「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」とイエスは言っています。神の国がもたらされるのには手順がありました。
このように、新しい天と新しい地は、突然天から降って来たり、自動的に与えられるのではなく、然るべき手順を経てもたらされるものだと思います。この世の神と言われる悪魔の支配から人々が解放されるためには、罪からの悔い改めが必須です。これは普段私たちが考える道徳的、倫理的な罪という
のではなく、神に背を向けて歩んでいたところから、真の神に立ち帰るという意志表示です。
神の聖性は変わらないと思います。旧約の時代、イスラエルの指導者たちは神を直接その目で見ることは許されませんでした。出エジプト記3:6に「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて顔を隠した」33:20「また、仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見てなお生きていることはできないからである』」と言われているように、神は聖なる方。この聖といういう語は、「分離」「遮断」を意味していますね。
★ 福音宣教は神の国を宣べ伝えると同時に、人々の病をいやし悪霊から解放することでした。
☆ 普遍神を指し示したイエスのことを伝えるためだと思います。
★ イエスご自身が言っておられることの中に「私は地上に平和をもたらすために来たのではなく、剣を投げ込むために来たのです」とあります。なぜ
☆ 逆説というのは その意外性でうったえるということもあります。
★ だから、イエスキリストは山上の垂訓で「平和をつくり出すものは幸いです。彼らは神の子と呼ばれるでしょう」と言われたのです。
☆ わたしの憶測では 《霊のつるぎ》です。人びとが悪行に慣れてしまったその思考傾向に立ち向かうものなのでは?
★ このように、新しい天と新しい地は、突然天から降って来たり、自動的に与えられるのではなく、然るべき手順を経てもたらされるものだと思います。
☆ 私見では イエスが磔に遭って息を引き取ったとき 一発でエレミヤ書のあたらしい契約が成ったと見ます。
罪の問題としては 刺さった矢がすべて抜かれたわけです。そのあと患部が癒えていくには 時間がかかります。
申し訳ないが 論点のズラシは あなたの心をご自分で傷つけることです。
すべて癒されますが 芳しいわざではないでしょう。
▲ わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない
☆ なぜこの聖句を遠ざけるのですか? もう何度も尋ねています。ええかげんにせんかいな。このすっとこどっこい。
No.2
- 回答日時:
確かに神はアブラハムに「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。
あなたから、王たちが出てこよう」と言われました。しかし、神はこの時、同時にイスラエルの民がご自分に反逆することを予め知っておられました。そのため、アブラハムの後の子孫にイエスキリストを生まれさせることを決めておられました。マタイ1章にイエスキリストの系図が書かれています。
1:17「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる」
この系図には、十四代が3回出てきます。14という数字は7×2。7という数字は聖書では完全をあらわします。完全の倍数が三回繰り返されて、イエスキリストの誕生につながります。
このように神はアブラハムと契約を結ばれたとき、イスラエルの民だけではなく、イエスキリストを通して異邦人の救いをも視野に入れておられました。
律法は人間がそれを自らの力で守れないことを証明するものでした。なぜなら人間は、食べてはいけないと神が言われたにもかかわらず、それを食べれば目が開け、神のようになれるのだという蛇の甘言に惑わされて善悪の知識の実を食べてしまったからです。神の命令よりも悪魔である蛇の言うことを鵜呑みにしてしまった、取り返しのつかない前例があるからです。このために悪魔は人間を合法的に支配できるようになりました。
ですから、神はイエスキリストをこの世に送られ、インマヌエルの神として、今も信じるものの内側に聖霊を与えてくださるのです。それがエレミヤの預言した「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心に書きしるす」という意味です。普遍主義とは違います。
★ 確かに神はアブラハムに「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出てこよう」と言われました。しかし、神はこの時、同時にイスラエルの民がご自分に反逆することを予め知っておられました。そのため、アブラハムの後の子孫にイエスキリストを生まれさせることを決めておられました。
☆ はい。おおむね。
★ 悪魔は人間を合法的に支配できるようになりました。
☆ 神〔の信仰をめぐまれた人間〕のもとにあっては そのようなハタラキを成す悪魔もしかるべく治められています。もともとです。
★ ですから、神はイエスキリストをこの世に送られ、インマヌエルの神として、今も信じるものの内側に聖霊を与えてくださるのです。
☆ はい。
★ それがエレミヤの預言した「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心に書きしるす」という意味です。
☆ そして 同時に:
▲ わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない
☆ が 成就しています。普遍的救いなる命題が生きます。それを:
★ 普遍主義とは違います。
☆ というのは いったいどうしたことでしょう?
またそのイエスキリストなる神の聖霊としての普遍性が 実現したからには したがって その現実では:
▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
☆ わけです。
普遍神〔なる命題〕は それでよいかどうかとうたがう必要などどこを探しても見つからないのであり 遠くアブラハムとの約束が果たされたとも言えるあたらしい天とあたらしい地の時代になりました。
あなたは なにかイエスを十字架から引きずり降ろそうとしていますか? なぜ?
No.1
- 回答日時:
私はブラジュさんのように系統立てては説明できませんが。
出エジプト記3:14に、神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」これはモーセが神にその名を尋ねた時に、神が答えられた名前です。『わたしはある』とは、わたしは過去に存在し、今存在し、未来永遠に存在するという意味です。この『わたしはある』とは神の独立性、永遠性を表しています。そして、もう一つ、この『わたしはある』というのは、ただ単に「わたしは存在する」ということだけを言っているのではなく、「わたしは意志をもって行動し、その意志を実現する」と言っています。この時の神さまの意志は、イスラエルの民を奴隷状態から解放し約束の地カナンへ導くということでした。このために行動を開始されたことが、『わたしはある』という名前に込められています。
神がモーセを通して十戒を与えられたのは、イスラエルの民を正しく導くためでした。この戒めで最も重要なことが、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」でした。
しかし、彼らは旧約の時代、それを守ることができませんでした。それゆえ神はイエスキリストを通して、新しい契約を立てられたのです。当時、ユダヤ社会は律法主義が蔓延し、律法を守ることが神の国に入るための絶対条件だとされていました。律法学者、パリサイ人らがさらに細かい規則を作って、守れない民衆を罪人といって排斥していました。そのただ中にイエスキリストが現れ、律法主義の中にある偽善を激しく批判されたのです。心を伴わなくても律法の遵守があれば何も問わないという、その形式的な行為を厳しく糾弾されたのです。たとえば安息日について言えば、「七日めは、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」という戒めが律法化されて、安息日にしてはならない39か条の禁止条項を作り、それを守るために、さらに234の行為が禁止されるようになりました。
エレミヤ31:33で預言されている「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」とは、外側からの教えによってではなく、内側からの声によって彼らが自らそれを行うようになることを言っています。山上の垂訓はイエスキリストによる律法の解釈です。たとえば律法の「目には目を歯には歯を」これは「目をやられたら、相手の目をやりなさい」という意味で、放っておけば募る人間の復讐心を抑制しているものですが、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」イエスキリストは復讐ではなく善をもって悪に勝つように言っています。律法の「姦淫してはならない」これをイエスは「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」これでは救われる者はいません。
エレミヤが記した新しい契約とは、このイエスキリストを通して実現される契約です。彼は人間を罪から救う方でした。旧約の時代、何度も何度も神に反逆して従うことができなかったイスラエルの民を捨て去るのではなくて、なぜ罪を犯してしまうのかに目を留めて、最終的に神さまがしようと思われたことが救い主を送ること。イエスキリストによって人間を罪から救うことでした。ですから、この方以外には救いはありません。普遍主義は聖書と反対の立場です。「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行くものが多い。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13-14とも書いてあります。
聖書が教える価値観は人類に対して普遍的なものであると同時に、隔絶性、尊厳性、超越性を合わせ持ったものだと思います。
お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。
じゅうぶん:
★ 系統立てて説明
☆ なさっていると思います。ただし 満足はしかねます。コメントにおいてて復唱をはぶく失礼をおゆるしください。(字数制限です)。
★ 出エジプト記3:14:「わたしは『わたしはある』という者である」
★ この『わたしはある』とは神の独立性、永遠性を表しています。
☆ はい。
★ そして、・・・この時の神さまの意志は、イスラエルの民を奴隷状態から解放し約束の地カナンへ導くということでした。
☆ そのとおりであると同時に この律法体制についてあたらしい見方を――あなたがこのあときちんと触れておられるように――:
▲ (コリント後書 3:6 ) 文字はころし 霊は生かす。
☆ という命題で示しました。
★ 神がモーセを通して十戒を与えられたのは、イスラエルの民を正しく導くためでした。
☆ 私見では 新約聖書でパウロも指摘しているように 基本は――思考と意志の努力による自律という行き方ではなく――あくまで 知性を超えた霊性の問題であり すなわちアブラハムの信仰です。
モーセも 個人としては同じです。ただし 集団としての内的な秩序と外的な安全保障が必要であり そのために倫理規範が与えられました。と理解します。律法体制なる文字はころし 霊が生かすという根本は初めから終わりまで変わりません。
★ 偶像
☆ というのは この知性による自律主義に用いるオシへも入ります。ファンダメンタリズムは 聖書〔の文字〕を拝んでいます。
★ エレミヤ31:33で預言されている「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」とは、外側からの教えによってではなく、内側からの声によって彼らが自らそれを行うようになることを言っています。
☆ だけではなく:
▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
☆ ことをも イエスは成就させたのでは?
▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。
☆ をも同じく。
★ 最終的に神さまがしようと思われたことが救い主を送ること。イエスキリストによって人間を罪から救うことでした。
☆ これが 完全に成就しました。後遺症が癒えるには 時間がかかるというのみです。神にとっては 千年が一日です。
つづく
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じんるいがみな救われるといういわゆる普遍的救いなる説を否定する説があることを承知しています。次がその例です。
中川健一【3分でわかる聖書】:Q31最近、すべての人は救われると聞いたことがありますが、本当ですか?
☆ この説を前提として質問の趣旨を説明したつもりです。おしえてください。
№1つづき
オシヘは要らなくなりました。原罪があがなわれ もろもろの罪は神が聖霊によってそのつどほろぼしてくれている。
▲ (アウグスティヌス:悪ないし罪について)~~~
かの全能者は
最初の人(アダムとエワ)からであれ
その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
わたしたちに起こっている悪を
その満ちあふれる恩恵によって
滅ぼしている。
(『ユリアヌス駁論』 1・5 金子晴勇訳)
~~~
★ 普遍主義は聖書と反対の立場です。
☆ どうしてでしょう。次の普遍性は イスラエル民族の範囲を超えるはずではありませんか?
▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。
☆ 上のアウグスティヌスの預言(解釈)をよしとしたいと思います。
つづく
№1つづき2
★ 「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行くものが多い。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13-14とも書いてあります。
☆ 《文字》たる倫理思想であると見ます。
ほろびに到っても 不義は赦され 罪はその以前から思い出されてはいない。つまり アブラハムは信仰によって義とされた(ローマ書 4:3 )というのは その信仰が このエレミヤ預言とそれのイエスによる成就にかんする問題だということではないのです?
★ 聖書が教える価値観は人類に対して普遍的なものであると同時に、隔絶性、尊厳性、超越性を合わせ持ったものだと思います。
☆ 民族の違いに《隔絶性》はなく アブラハムの《子孫》は ユダヤ人に限らないでしょう。