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時々思うのですが、
上記の違いって何だと思われますか?

私は優しさっていうのは実は無くて、
自分は偽善者だと思っています。
良い事をすると自分の気分がいいですよね?
それってつまり「=偽善」ではないかと感じるのです。

偽善と優しさについて、
定義づけが出来る方がいらっしゃれば、
ご意見をお聞きしたいと思います。
よろしくお願いします。

A 回答 (28件中11~20件)

偽善と優しさについても、単純に分けられる問題ではないですよね。

偽善とか優しさとかの抽象的な観念やそれを表す言葉はそれこそあまりにも複雑で怪奇で不可思議で、偶然的でありながら必然的な…具体的な要素で成り立っているからです(あ、これも抽象的用語の対立する一方の言葉か)。解体してみなければならなくなりますが、あまりにも難題なのでとりあえず辞書をひきました(笑)。

【偽善】本心からではなく、みせかけにする善事。「-的な行為」「-者」⇔偽悪

【優しい・恥しい】
(1)身も痩せるように感じる。恥ずかしい。
(2)周囲や相手に気を使って控え目である。つつましい。
(3)さし向かうと恥ずかしくなるほど優美である。優美で風情がある。
(4)おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。
(5)悪い影響を及ぼさない。
(6)情深い。
(7)けなげである。特殊である。神妙である。
(8)(「易しい」と書く)
ア:簡単である。容易である。
イ:わかりやすい。

以上「広辞苑」からでした。

「優しい」は「恥ずかしい」と同義語なんですね。だから先の回答のお年寄りに席を譲るというのはやはり「優しい」ことなのでしょうか。確かに優しさを持ち出すときは確かに照れが生じます。それは相手と他の誰かの視線を感じるからでしょう。また教育などで養われた「規範」や「良心」の目の視線を感じるからでしょう(フロイトはそれを「超自我」と名づけました)。その意味では「優しさ」とは第三者の視線をも考慮しながら実行されるものかもしれません。

「優しさ」は教育の一環、理想をいえばすべての根幹となるべき価値観でしょう。しかし親の価値観によっても違ってきます。教育者の思惑がどのようであっても、それを被った側の生まれつきの個性、固有の体験からくる「優しさ」もあるわけです。「自分が同じ経験をしたから相手の気持ちはよくわかる」というのはその状態はピュアなものでしょうからそれ自体評価されるべきです。吹く風が優しさを余韻に残していっても、その風がどこから来たか、などと根本をつきつめていくと、人類の存在意義まで追求しなければならなくなりません。また善行全てが「自己満足」とする考え方自体、偽善的になってしまうきらいがあるように思います。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」という聖書の一節の通りにする。そこで実行者の「優しさ」が満足するのならば宗教的な教育の結果です。善行をして気持ちがよくなるのは規範という「監視者」に対して反抗しなかったからかもしれません。例えその教えに対して疑問を感じていてもそれが「優しさ」であると強制され、定着した価値観であるのならば、実はどこかにあるはずの真実の自分に対しての偽善となる。やはり自分で探しに行くものだと思います。

さて、こうして改めて辞典で調べたのですが、辞典って一般論なんだと感じました。当たり前ですが…。しかし「特殊」「神妙」という言葉とあるのは意外でした。さらに「特殊」を調べると「=普通と異なること」、「神妙」はこれまた「=けなげ」や「=特殊」「=すなお」と同義語でした。

また「人の知力を超越した現象」と出ました。これが真髄かなと考えます。本当の優しさは「人の知力を超越した現象」、つまり神の愛(宗教的な意味ではなく哲学よりの意味での)に近いほどの「優美」なるものなのかななどと想像しました。

辞典では「偽善=みせかけ」とありますが、私は偽善とは「思い込み」もあるのではないかと思います。たとえば自分は常に良い人であろうと思っている人。でも本当の「善」なのか?それは本人が決めることであり、「善行」だと思って行動することでも他の誰かにとっては「偽善」かもしれない。そして前者に共感し協賛する人も同じ価値観を持つ「偽善者」であるのではないか?

時に偽善は暴かれるときもあるでしょう。それは「裸の王様」の童話と同じように。あの素直な子供が「否!」と叫んだのは、まだ恐れを知らない純粋さと無知ゆえの強さがあるわけですが、果たしてこれが子供だけにいえることでしょうか。
この魑魅魍魎の大人の世界でも、「否!」と叫べる人は現にいます。たとえば会社の内部告発をする人。組織はヒトと同様、オモテの顔ももちますが、オモテがあれば当然ウラもあります。果たして見た振りしているのと見ぬ振りができないののどちらが偽善か。それらの人にとっては「真実を語る人」とはやっかいなことを持ち込んだ「悪い人」であるのでしょう。しかし「力」という無言の悪に立ち向かう姿は饒舌な偽善の軽薄さを圧倒する孤高の尊さを感じられ、ついつい感動してしまいます(個人的には)。またこの強さと根性こそ「人の知力を超越した現象」なのかなとも思いました。

私は一時期法律を学んでいましたが、同時にこの混沌の世界を「法」というツールで斬るだけのものというイメージを学びました。「法」がすべて正しいとは思いません。それ以上に複雑で混沌としている現実が「法」すらも包括しながら無限に広がりゆくブラックホールのようなものだからです。「法」はそれを後天的に学び、善悪の指標とし、あるときは驚くべきほどの合理さで片付けてゆくもであるという感じを否めません。
とすれば、その「法」を使ったとき望みどおりの結果(判決)をくだしてもらえるならば「法こそ正義」、望みが打ち砕かれたなら「法は偽善」となるのでしょう。指標や軸となる何か、それ自体対象者あっての存在です。対象者の主観、客観、感性や感情、意思や思考によってこれだけ大きく変化するのですから、本当に一概に「善悪」は何かとは言えません。

例えばボランティアは微妙なことです。誤解を恐れずにいうと「尽くすことが好きな人」もいるからです。後者は尽くすことで自己愛が満たされますから必ずしも相手のためを思っているのではありません。よく「あれだけ尽くしたのに捨てられた」と恋愛相談などでみかけますが、尽くされた相手はその「偽善」を感じてしまうからではないでしょうか。

うつ病の方に「頑張れ」ということも当人にとっては禁句です。純粋な励ましも、時には傷を深めることとなる。

反対に「偽悪」で思い浮かぶのは「ねずみ小僧」です。盗人ですが、貧乏人にとっては神様でしょう。でも「法」からみればまようことなく「悪」です。

多く取り上げられている席を譲る件についても当てはまります。こちらが「お年寄り」と判断しても、相手の方は「こちとらまだ若いんじゃ」と思っているかもしれず(笑)、第三者から見て微笑ましいことでも当事者間では主観と客観の差異があります。
しかし席を譲らない人の心理は「多数派同調バイアス」といって、自分が譲らなくても誰かが譲るだろう、という他者への期待のことです。こちらの方が実際的なのでは?。これが仮に人の本性だとしたら、譲る人というのはその気持ちを超えて、堂々と照れることができる素敵な人だと思います。

確かに真心で接してもそれを与えられてもあるときは、時と場合、人によってありがた迷惑となる。純粋な動機があっても結果には結びつかず、逆に不純な動機が意図せず誰かを助けることもある。結果は対象によって不測だが、動機は自分のためだという意見が多いようですね。「善悪」とはシーソーゲームみたいですよね。
だからこそ人はこのように「優しさ」とは?「善とは?」と考えずにはいられないのでしょう。やっぱり神様からの課題なのかな?

個人的には曖昧な「優しさ」ではなく「共感」ということに賭けたいですね。同じ経験をして同じ気持ちを理解できても、あまりにも入り込めば自己と他者を同一視してしまい、自分が傷つくし、また相手の傷を深めることになる。姿勢としては遠からず、近からず対象物と接するということでしょうか。そして相手に何かを期待しないこと。言うまでもなく「優しさの押し売り」と一転してしまうからです。また私が誰かの優しさを見つけたとき、またそこには「掘り下げてしまったゆえの厭世的なドライ感」よりも「照れ」というウエットを見れたら、と思います。そんな人、ついつい信頼してしまうんです。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。

おそらくfrau様は細やかな性格の女性なのですね。
久しぶりに女の人っていいなあと思いました。

例に挙げて頂いた一つ一つ、とても良く分かります。
私も質問を挙げさせて頂いてから関連しそうな所を調べていますが、
>「優しい」は「恥ずかしい」と同義語なんですね。
こちらは知りませんでした。
とすれば、恥ずかしくない事=優しさではない
とも(ある意味)言えるのでしょうか。他者の目を
気にしがちなどちらかというと日本的な考えだと感じました。

>「尽くすことが好きな人」もいるからです
確かに居りますね。それもたくさん・・・。
「愛されるより愛する方が幸せ」と似通ったものを
感じます。そういう人達は、それとほぼ同じ心理だという事を、
なぜ感じないのでしょう? 「相手の為を思っている」と
見せかけて、実は自分の意思を持たない(或いは意識していない)からでしょうか。

>個人的には曖昧な「優しさ」ではなく
>「共感」ということに賭けたいですね。
「優しさ」は偽善とも自己満足ともつかない
曖昧さを持つので、自分の行う善い事柄は「共感」を
伴ったものであればいいと感じていらっしゃるという
事ですね。

frau様のご意見もそうですが、
読んでいて暖かくなる回答がいくつかあります。
それでさきほど気づいたのですが、
最初に「私が偽善者であると感じる」、という問いを投げかけたのは
完全にそう思ってしまうと、逆説的に人に何か善い事を
されて自分が嬉しいという結果になった時に、
してくれた対象に対して何も感じなくなるのでは、
と思うのですが、暖かさを感じる自分にも矛盾を感じているからかも知れません。

それはやはり大方の皆様も仰るように永遠の課題なのかも
知れませんね。

考えがまた深まりました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/03 09:19

ほめられた気がするので調子に乗ってまた出てきました。


哲学カテゴリに初めて回答したんですけど、ここはすごいですね。

>これがつらい所で、そう思われていると思うのが
>とても嫌で、私はその後必ず車両を移りますね。

全然質問と関係ないことですが、僕は優先座席に座るようにしています。
席を譲るのが当然だと思われるので、気が楽になりますよ。

>それも結果としては相手にとって悪なので、
>偽善という事ですね。

うーん。それは善でも悪でもなくてただのずれじゃないですかね。
他人の考えてることはわかるはずないので、ずれることもあるだろうなぁ
って程度でいいんじゃないですかね。
#善悪って一つの側面での判断でしかなくて、100%善も悪もないと思ってます。

例えば歩きタバコしてる人とかは、自分で悪いことをしてる意識はないんだと思いますよ。
そういう人を見ると善とか悪じゃなくて、想像力の乏しい人なんだろうなぁって思いますね。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

>例えば歩きタバコしてる人とかは、~
こちらもとてもよく分かります。
私は想像力が乏しい、=無意識や知らないという事も
ある意味悪だと考えます。

しかしcherry_moon様も仰るように、100%の善と悪って、難しいです。
多分自分と全く関わりのない事なら、無責任に善悪の区別を
付けられる様な気がします。 もっとも、必要の無い事なので
やらないですが。

>僕は優先座席に座るようにしています。
実践的なご意見ですね。

重ねがさねご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/03 07:45

偽善●行動を起こせない者の言い訳、やっかみ、影口、中傷


優しさ●行動を起こした者・結果への評価、生産的行為

例えば
目の前に泣きじゃくる迷子がいる。
僕は何も考えず自然に手を貸すだろうな。
たとえ後から勘違いだと気付いたとしても
知ったこっちゃねえ。

これが性善説です。孟子だっけ。中国思想。

僕はウダウダ悩む前に行動するし。
他人が面と向かって堂々と言えない様な批判・影口に
耳を貸すほどヒマ人ではない。そんなへタレは完全無視。

なせなら僕は、自分の意志を持った人間だからです。
常にリスクを背負うのは行動を起こす人であって批評屋ではない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私はどちらかというと荀子の性悪説派なんですが・・・。
だって赤ちゃんとか子供って、力が無いと言っても、
滅茶苦茶自己中じゃないですか? 

aluminizedman様の仰る偽善というのは
批評屋であって非行動者、という事ですね。
「差別意識」という言葉をふと思い出しました。
差別されているものに対して「可哀想・・・」と
単に思ったりそれについて批判・議論したりするのは
偽善という事でしょうね。なるほど、と思います。

そしてaluminizedman様の行う行動の一連は
優しさから来ているという事ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/03 07:30

>私は優しさっていうのは実は無くて、


>自分は偽善者だと思っています。

実を申し上げますと、このように言い切れる方が羨ましく感じたのです。 何しろ時折、”他人の人生を勝手にポアしてあげる”優しさというのが社会を賑わせます。

もしかしたら自分もそういう意味で優しいやつなのかもしれないと、時折思います。 心理学的障害がある自分なのかもしれません。

優しい=善、自分は優しい=自分は善である。 こういう常識が蔓延した頃から”本当にそうなのか?”って疑問をもちますよね。 それで”哲学的”な事を言い出すやつと思われ始める。
優しさは弱者の自己保身・自己満足の方便だとか。

・・・・で色々考えて、実践に活路を見出しました。 つまり偽善的・利他的行為。 互いにこうなれば1+1=3以上になる! と考えた。
最も、私の場合は他者への期待がハッキリしていたせいなのか馬鹿に思われたようです。
”おまえと心中する気は無い”とうことですね。


私は”自分に優しい”感情をもつことができるようになって攻撃的性格が少し直ったようです。 その分他人に容認され易くなりました。 本性は相変わらずなんですけどね。
そうした意味では優しさと偽善は同一かもしませんよ。

慰めや励ましという意味で。 なんだか人文事例で済みません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

逸れますが、
>”他人の人生を勝手にポアしてあげる”
何度聞いても間抜けな響きですよね。

確かに、自分に優しい人間は他人にも優しいですね。
それは「余裕がある」からだと思っています。

結果として偽善となった、というご意見ですね。
なるほど、ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/03 07:14

「いいことをすると自分の気持ちがいい」のは自己満足で偽善とは異なるのではないでしょうか?


自己満足は計算の有無に関わらず自分が満足する行動で偽善は自分の利益を計算した上の行動。自己満足に打算が加わると偽善になるような気がします。
優しさと偽善に定義づけをするなら前者が「打算のない自己満足」で後者が「打算つきの自己満足」ですかね。わかりにくい文章ですいません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

wadatumi2005様の仰る「打算」とは、=自分の利益や損得
という意味ですね? 違っていたらすみません。

>「打算のない自己満足」で後者が「打算つきの自己満足」
仰る事とてもよく分かります。
でも「打算」自体「自己満足」ととても似通った部分を
含めているとも感じるのですが・・・。

お礼日時:2005/03/03 07:02

その通りだと思います。



たとえば電車で老人に席をゆずるのは、
気まずい思いをして、降りる駅まで座っているか
ゆずって、気まずい思いをするのをさけるか
ということを天秤にかけているのだと思います。

つまり自分本位の選択です。

100%人のためとかいったものは存在しないと
私は思います。
良い行いといったものでも自分のためという
要素を含んでいる限り
偽善です。

たとえば車にひかれそうになっている子供がいて、
助けなかったら自己嫌悪に陥る人が
多いと思います。

自己嫌悪に自分が陥らないために助けるのです。
100%他人のための行為があるなら
私は知りたいです。

そう思っていれば老人に席を譲って
お礼がなかったとしてもなにも思いません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

仰る事分かります。
でも、kentikuka様がそう断言できる理由は何でしょう?
>そう思っていれば老人に席を譲って
>お礼がなかったとしてもなにも思いません。
お礼を期待する行為が嫌だからでしょうか。

この世の中、「優しさ」と共に「お礼」を結びつける行為が
蔓延し過ぎていると私は感じます。

同じ様な考えのご意見を聞けて嬉しいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/03 06:40

>sirayukihimeさんの逆鱗に触れるかもしれませんが。



逆鱗?何で?アタシ頭ニブ子ちゃんなんで、よくわかんなぁ~い。

>どちらかと言うと、国語や心理学ではなく、考え方は数学に近いかと、私は思います。

そうですか。知りませんでした。

>デカルトの「我思うゆえに我あり」は、1=1に非常に近いと私は思いますし

かねがね誰かに聞きたいと思っていたのですが御詳しいようですので、お尋ねしたいですぅ。
「我思う故に我有り」なのか「我思う我有り」なのか、どっちなのでしょう。
「コギト エルゴ すむ」って自分で訳せないので「故に」を含んでるのか含んでないのか、それが問題だ!って勝手に思ってるんですが。
哲学って、ことばの定義に厳格なんだそうですが、これ考えると、けっこうイイカゲンだなあって思えます。

>1というのは、物(等)が一つあると、数学を知っている人が、すべて知っていて、1という物は常に1である。となんの疑いもなく100%言える事ですし。

あらぁ、回答文のテキストボックスの上の囲みに「哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。」とあるので哲学って正解の出ない疑問のための学問だと理解していたつもりだったので国語とか宗教は兄弟分だと思っておりました。だから「人生哲学」も哲学の一分野ではなかろうかと。王道かどうかは知りませんが。
あっ、「回答者同士での論争にならないようお願いいたします。」
いや~ン論争じゃありません、ありませんてば、ありませんったら違うちゅうんじゃ!削除するならしろってんだ。

>sirayukihimeさんのような、哲学を
勉強している(?)方こそが

ノンノン勉強なんか(専門書読んだり大学で講義受けたりってことでしょ?)ぜんっぜん!!(キッパリ!)しておりゃしませんです。お恥ずかしい。だから或るえら~いおかたに「幼児」って呼ばれましたのよ、おほほ・・・。(ちっくしょう)

ああっ「回答される際は、他の方への意見を載せるのではなく、質問者への回答やアドバイスをご投稿ください。」
有名無実とは言え反省・・・。

あああっ「補足要求」にしちまったよ。誰が補足するんだよ~御質問者様、イケナイ私を許して。
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この回答へのお礼

こんにちは。

下にも書きましたが、
>私はあからさまな批評や悪口を書かなければいいと思うのが
>マイルールです。
と考えているので気にしてないです。

一応、哲学論は主旨でないのでコメントは控えますね。
ではでは。

お礼日時:2005/03/03 06:27

sirayukihimeさんの逆鱗に触れるかもしれませんが。

^^
最後まで読んで頂ければ嬉しいです。

哲学というのは、たぶん科学以上に、その概念が
浸透していないものだと、思います。
どちらかと言うと、国語や心理学ではなく、考え方は
数学に近いかと、私は思います。
デカルトの「我思うゆえに我あり」は、1=1に非常に
近いと私は思いますし。
1というのは、物(等)が一つあると、数学を知っている人
が、すべて知っていて、1という物は常に1である。と
なんの疑いもなく100%言える事ですし。

たまに哲学のカテゴリーの質問も見るのですが、
質問自体がよく分からないものも多いですし、回答者も
語意と間違えたり、自己流の人生哲学だったりと、様々
です。(私もその一人ですが。^^;)

たぶん哲学的にというのなら、言葉ならその語意の
真の意味を抽出し、また、周りの情報や環境に左右され
ない場合、すべての人が納得できるものを言うのだと
私は思っています。定義された1のように。

しかし、この哲学な答えは、考えれば考えるほど、
人の手の届かないものとなってしまうのですよ。
実例を挙げると、急に色あせてしまう事も多いですし、
また、答えが出ない事も多い(と思いますし)です。

そこまで、ここで質問もんされる方は望んでいるかと
言えば、望んでいないわけで、なにか考えるきっかけを
与えられればいいとも、思っています。

しかし、たまには、sirayukihimeさんのような、哲学を
勉強している(?)方こそが、私には貴重な再び考える
きっかけになるので「哲学的な考え」を、いやがらず
たまには、ご披露願えればとおもっています。

乱文で、普通の返信なので、その辺もご容赦ねがいたい
とも思ってます。
マイルールで、追加書き込み・返信と他人の批判はしない
と、決めていたんですが、長く質問に答えていると、
親分風を背中に感じるようになりました。^^
初志貫徹、これからはまた、最初の答えに全力を尽く
そうかと、思います。^^
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この回答へのお礼

マイルールですか。
私はあからさまな批評や悪口を書かなければいいと思うのが
マイルールです。

>なにか考えるきっかけを
>与えられればいいとも、思っています。
仰るとおり、あからさまな答はあまり期待していません。
題材が題材だけに・・・。
でも色々読んでいくうちに考えが深まっていっている様な気がします。

happy_books様を含め皆さんのお蔭です。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/03/03 06:21

>貧乏人が無理をして、他人のために施しをするのを偽善と言います。

 金持ちが残飯を施すのを優しさと言います。
貴方の御質問のようなことは、この哲学カテのなかにおいても、よく目にするところですのでパスするつもりでいたのですが上記のような御意見に驚いて思わず参加してしまいました。

「偽善」とは読んで字の通りニセモノの善です。
「優しさ」とは、これは他のかたの質問でも問題提起されておりましたように定義が困難なほど幅の広い意味を持つことばです。字面を分解してみれば「ニンベン=人」プラス「憂=憂う」ですね。人が憂えているのか、人を憂うのか。

心理学的にと言いますか或いは生物学的にと言うべきでしょうかヒトの心の動きというものは分解していくと、そもそもの動機が結局のところ生き延びようとする欲求、苦しみを回避しようとする欲求から端を発していることに気づかされます。
たとえば大災害が起こったときに助け合おうとする行為も大自然の脅威に立ち向かうのに一人では弱過ぎるからでもありますし、何らかの不幸を経験した人が同じような目に会っている人に同情心を抱くのも自分を、その立場に置き換えやすいからですし。

私個人の考えとしては「究極の優しさ」とは自分が犠牲になることを承知のうえで相手を助けようとすることだとしておりますが、これも、たとえば実際の例をとって考えるに自分にとって掛け替えのない誰かを必要とあらば命に代えても助けようとする、このことの底には、その相手を失うことが自分の命を失うよりも辛いことだから、という自己都合が含まれている。峻別していけば、このようにヒトの心の動きというものは自己利益という立場から、なかなか逃れられるものではない。自分の命と引き換えに他者の命を救ったとて心の底で来世の利益を願っていたなら、形而上的には、だいぶ値打ちが下がるような気がします。

>あからさまな偽善はわかりやすいですが、優しさが
誰のために行われているのかは、やはり他者に依存するとおもいますよー。

この他者にしたところで相手が本当の善意、優しさをもって接してくれたと必ず見極められるのかどうか。まして発端の心情と結果が見合ったものになるのかどうか。
発端が真に善意であるなら結果が意図しない結果であっても善意に違いないのだから、その価値に揺るぎはないとできるのか。
発端が偽善であったにも拘らず結果がすばらしいものになったなら、偽善も価値あるものになるのか。

ことほどさように難しい。
そしてヒトというものが、へどを吐きたくなるほどにエゴ、自己利益を追求するにやまない、ただの動物だということを思い知らされます。
だからと言ってヤケクソになるわけにもいかない。

>私の中では境界が曖昧で、相手の為を思っていても
結果として自分に還って来た時に、罪悪感を感じてしまいます。

いやいや罪悪感を感じる必要はないと思いますよ。貴方が誰かに何かしてもらったことで良い結果になり、或いはならなくても相手に何かしらの余得が返って行ったからと言って相手に罪悪感を持ってほしいなどと思いますか?

哲学的に追究していった結果に残る不純物ゼロの善など我々凡人には、まず手の届かないものです。それを自覚することが、さし当たって大事なことではないでしょうか。
ボランティア活動においても私の周辺ではキレイごとばかり並べて勘違いしてるんじゃないかと思うような人がいるんですが「人の役に立てる、その余裕がある自分」ということに感謝できるなら「誰かのために」「してやった」「感謝が足りない」などと、うぬぼれることはありません。また心底こうした境地に至れば「恥ずかしい」という感情もなくなるはずです。

ですから「真なる善」に届くことが困難な我々にできることは、そうした高みがある、しかし、それに至るに難しい自分を自覚して「善」なるものに近づく努力をする。凡人には、これが限界です。
ですから
>相手も気分のいい自己満足がいっぱいある世界になればいいなぁと思います。

こんなところが精一杯でしょう。
いいことした、気分いい。その気分の良さに感謝!です。そしたら恩に着せることもない。

哲学では発端がどうであるとか結果がどうであるとかいう不純物を一切合財廃したところで「善」とは何か「偽善」とは、ということを追究するもののようですから或いは御質問のことは、ここ哲学カテゴリーに厳密な意味ではズレているかも知れません。

こうした御質問は他でも、たくさん立てられていますよ。過去スレを探して見られたら良いと思います。
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この回答へのお礼

丁寧にご回答ありがとうございます。

仰っている事、よく分かります。
>哲学的に追究していった結果に残る
>不純物ゼロの善など我々凡人には、
>まず手の届かないものです。
このご意見もなるほど と思いました。

>御質問のことは、ここ哲学カテゴリーに
>厳密な意味ではズレているかも知れません
人間関係のカテが多分いいのでしょうが、
心理学かこちらか迷いました。
一般的な回答はある程度予想していたので、
新しい視点や見解を期待してこちらに
寄せて頂いた次第です。

過去スレも検索してみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/03/02 16:42

貧乏人が無理をして、他人のために施しをするのを偽善と言います。

 金持ちが残飯を施すのを優しさと言います。

より多く施すのは貧乏人です。 だから役人は高額所得者から税金を余計にとります。 そこで金持ちは益々、貧乏人から搾取します。

そこで国は、鬼の様に”円やドル”を刷りまくって世界中にばら撒きます。 金持ちは益々、鬼の様に貧乏人から金を巻き上げます。

お頭の回る者は、金餅に協力して貧乏人から金を巻き上げる手段をあの手この手と考えます。 貧乏人は喜んで金を使います。

世の中優しい偽善者ばかりを見ていれば、悪い物は無いように思えます。 定義ずけをさせていただければ”なぐさめ”かと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

やや厭世的な感がしますが、少し新しいご意見ですね。
うれしいです。
話は少し違いますが、確かにお金のある人はケチですね。

>定義ずけをさせていただければ”なぐさめ”かと。
こちらのご意見なのですが、
偽善、優しさ共に「なぐさめ」という定義でしょうか。
最終的に両者には違いは無いという結論になりますが、
それでよろしいですか?

お礼日時:2005/03/02 16:26

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