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素朴な疑問ですけど、何で北海道で捕れる、タラの子が、辛子明太子になって九州の福岡,博多の名物に成ったのですか?

A 回答 (2件)

辛子明太子が博多明名物になった経緯は以下の通り。



辛子明太子は朝鮮半島由来の食品で、17世紀頃には、朝鮮半島の東海岸でとれるスケトウダラの卵を、塩辛にして食べていた。 この塩辛に唐辛子を加えるようになったのが、辛子明太子の起源である。

明太子という呼び名は、元はと言えば韓国語である。スケトウダラは韓国語で「明太(ミョンテ)」と書かれる。 言い伝えによれば、17世紀頃に朝鮮半島の明川(ミョチョン)という街で、太(テ)という名前の人物がとったある魚(スケトウダラ)が美味しかったことから「明太」という名前がつけられたそうだ。 ちなみに想像に難くないが、明太子は明太の子という意味からつけられている。 

辛子明太子が日本で食されるようになったのは、20世紀に入ってからといわれている。 日本における辛子明太子の歴史については諸説ある。 中でも一番古いのは、明治時代に樋口伊都羽(ひぐちいづは)氏が初めて辛子明太子作りを始めたという説である。

会津藩士の息子であった樋口伊都羽氏は明治時代に朝鮮半島に渡り、のちに漁業に従事するようになる。 その時にスケトウダラの卵巣がほとんど捨てられてしまうのを残念に思い、辛子明太子として商品化することを考え始める。 明治40年には釜山で樋口商店を創業し、辛子明太子の販売を開始。 樋口氏の辛子明太子は韓国だけでなく日本にも入ってきた。 しかし終戦で樋口商店は廃業となり、戦後は韓国から辛子明太子を輸入することが難しくなった。

戦後、朝鮮半島から日本へ引き上げて来た人は大勢いた。 彼らにとって毎日のようにおかずとして食べていた辛子明太子の味は忘れ難いものであったという。 なんとか再現できないかと、日本で辛子明太子の試作が行われていくのである。 現在、辛子明太子といえば博多が有名だが、博多明太子が知られるようになったのは、戦後、博多にふくやを創業した川原俊夫氏の汗と涙の結晶と言える。

川原氏は戦前、現在の韓国の釜山に住んでいたが、終戦を機に夫婦で日本に引き上げる。しばらくして日本で辛子明太子作りを始めたのは、かつて慣れ親しんでいた辛子明太子が忘れられなかったからだそうだ。 しかし最初は日本人の口に合うような辛子明太子ができず、納得のいくものができあがるまでに、10年という歳月を費やした。

川原氏は評判になりはじめた辛子明太子の製造法を企業秘密とせずに、知りたい人には喜んで教えたそうだ。そ の甲斐あって博多では辛子明太子の製造会社が増えていく。 1975年には、新幹線が博多まで伸びたおかげで辛子明太子輸送が容易になり、博多明太子が全国に広まり知られるようになった。 

日本のスケトウダラの産地は、北海道、岩手、宮城などだが、現在博多の辛子明太子の原料であるスケトウダラの卵は、品質も安定しており、なによりも量の調整が簡単であるアメリカやロシア産の物が多く使用されている。
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「明太子」という言葉は、朝鮮語でスケトウダラのことを指す明太(ミョンデ)で、その子という意味で明太子(ミョンナンジョッ)と呼ばれていやのからきています。

ですから、朝鮮半島由来の食べ物で、戦後、引揚者が多かった福岡で、明太子を食べる習慣ができ、これを現在も盛業中の「ふくや」の主人が辛い汁につけこむことを考案して辛子明太子として商品化し、その漬け汁のレシピを秘匿せず広く公表したことから、福岡の名物になりました。

日本より寒い朝鮮の海ではスケトウダラが獲れ、それを使っていたので福岡でもスケトウダラを使っています。
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