この人頭いいなと思ったエピソード

意味が分からん教えてくれ
魂ってなんだよ、と色々調べたら人魂という幽霊の周りに飛んでる青い火の玉があるが、幽霊のオプションとして生きていかないといけないのか?あんな火の玉になってでも生に執着して嬉しいのかと疑問は増すばかり。

視点を変え、その人の想いを受け継ぐ事とあるが、そんな立派な奴が魂は死なないとか負け惜しみみたいな事言うわけないし、大体そういう事言う奴なんて、自分は何にもしないで頑張る人をバカだ無駄な努力だと嘲笑う奴らばかりだからそんな奴の想いなぞ受け継ぐなんて後免だ。

ますます意味が分からん肉体は死んでも魂は死なない、所詮は漫画の言葉かと、大体魂ってなんだよ、磨いて天国に行くらしいが行った事もないのに何で知れたの?誰かの嘘を信じてるの?と
魂なんて信じないで今生きてる時間を一生懸命生きた方が死後の世界を信じるよりよっぽどましだと思います。

魂ってなに?因みにスパロボの精神コマンドとか言う奴が出てくると読んでるから先に言っとくわwww

A 回答 (5件)

だからそういうのを信じる人が一定層いるので、そういうやつらを利用して


金を集めたり、宗教集団を作ったり、相手を心配にさせテロを起こせば
肉体は滅ぶけど、天国のようなところで幸せになれるんだ!
と信じ込ませることにより世界が回っています。

ゲームから宗教までこんな感じです。
大昔は特に天気を当てるだけでも神様の呼ばわりされたこともあります。
今だと天気予報は多少外れても、スマホで簡単にわかります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

魂とか見えない物、あるかないか証明出来ない物を掲げて力説する奴は腹が立つ

お礼日時:2022/06/25 07:17

死後の世界も霊魂の存在も神の存在も「有る」と証明できない


それと同じように「ない」とも証明できない

思うに、一生といっても現在の一瞬の積み重ねである。
今日を充実させられない人に、あすの開花はない。
瞬間を大切にできない人が、いくら百年の大計を
口にしても、絵にかいた餅にすぎない。
過去の因も未来の果も、現在の一瞬の諸法実相に
凝縮されているのであり、その一瞬の転換が
過去久遠よりの罪障の消滅も、未来に続きゆくであろう
永劫の福運も決定していくものである。

人間の体のなかには、大げさにいえば宇宙のあらゆる
運行のリズムが刻印されているという。
昼は心臓の鼓動が早まり血圧も上がる。
脳細胞の動きも活発になる。
夜はその逆で、血圧も低く鼓動もゆるやかになる。
宇宙のリズムとの驚くべき一致である。
人体の地水火風空は、大宇宙の地水火風空に呼応して、
絶妙の運動を続けているのであろうか。
私の先生はよく、
十二時には寝るようにといわれたが、
正鵠を射た知恵であった。

人間、この不可思議なるもの、つまり「生命」について、
まじめな探求と、賢明な解明を志すことがないならば、
現代の人々の不幸は、破滅へとすすむのではないだろう。
人間の神秘な不可思議さは、過去に数々の宗教を生んだ。
しかし、この探求と解明は、あまりの不可思議さに、
常軌を逸して、そのほとんどが迷路にはいってしまい、
人間を惑わすものとなってしまった。
しかし、
生命の法則についての究極の真理が一つあるならば、
おなじく、生命の解決法の宗教も一つあるはずである。
人間の不可思議さの探求にさきだって、現代の人びとは
宗教の深浅高低の識別から、その第一歩を踏み出す必要が
急務となっているのである。

生命とは
生と死を学ぶ事は、何を差し置いても重要な事だと思う
 現代文明は「死を忘れた文明」と言われ、
世界の抱える大きな問題も、この死と言う問題を
避け、無視、タブー視する所に、解決の道が開かれないのです

生命ほど不思議なものは、他にあるまい。
人体のもつ機能の側面を、機会にみたてている人も
いるようである。
よしんば、機械と見ることができたとしても、
これほど見事な機会は、近代科学のあらゆる方法を
もってしてもつくることはできない。
しかも、機械は他に作製者がある。
この生命という機械は、それ自体が作者であり、
作品なのである。

生命へのアプローチは、科学の本領である分析と総合に
よるのではなく、直感智によらなければならない。
それは、すぐれて直感的なものであり、
生きている自己への生命観である。
人間の幸、不幸の諸相は、この生命観の変化相以外の
なにものでもないからである。

ただ、人はこのおのおのの、生きうる人生に真剣にとりくみ、
偉大な仕事をなしとげることによって、
五十年の人生を百年にも千年にも匹敵する
人生とすることができる。
――真の長寿は、この肉体が何年間、生態活動をつづけたか
ではなく、この生命が、どれだけの仕事をやりきったか、
によって判定されるべきものなのであろう。

解脱ということは東洋独特の言葉で、西洋で、
しいてこれに類似する用語を捜し出せば
「自由」ということになるが、やはり解脱と自由とは違う。
これは、換言すれば東西の「自由観」の相違ともいえるが、
西洋流の「自由」という言葉は、制度的な社会原理として
考えられている。それに対し、解脱という東洋的な自由観は、
どのような社会、体制にあっても、本然的につきまとう
人間の生死の苦悩をつきつめて考えていく。
そして、その根源の事実からの解放を強く希求している。

仏法では臨終という問題を重視している。
臨終は、その人の一生の総決算であるとともに、
未来世を踏み出す第一歩であると見ているからである
諸法実相で、その死の瞬間に、一生の善悪の業績が
一つも残さず、その相にあらわれる。
怖いくらいである。少しのごまかしもきかない。
臨終の明暗は、そのまま、今世の姿の諸法実相であり、
未来を映しだす鏡である。

大乗仏教においては
、“生死不二” といって、生と死という時間・空間次元の現象は、
時・空を超えた実在である生命の、二つの異なった顕われ方である
と説いています。
個々の生命体は、生命が顕在化した状態であり、死とはその生命が
“冥伏” した状態です。 冥伏とは無に帰することではありません。
 さきほどから私が提起してきた “空” の概念は、
目には見えなくとも厳然と実在する、
有無のいずれか一方に決めることのできない概念です。
これに対して、現実にさまざまな個別の姿をとって現れてくる姿を
“仮(け)” と名づけています。 身心統一体としての生とは、
この“仮,の姿であり、しかもそのなかに“空”をはらんでいます。
死後の生命は “空” として実在しながら、そのなかに
“仮” の傾向性、方向性をはらんでいます。
そして、この “空” と “仮” を貫く生命の本質を
“中” と呼んでいます。
あるときは顕在、あるときは冥伏という姿をとりつつも、
無限に持続していく生命の本質ということです。
 この持続していく生命の本質とは、現代の哲学用語でいえば、
最も根本的な意味での “自我” という表現に通ずるものです。
さらに仏法では、この “空” と “仮” と “中” は
円融一体のものであって、それらを全体として統一的に
把握しなければならないと説いています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

進めば極楽、退けば地獄とか言ってた坊さんが戦国時代にいたなあ

お礼日時:2022/06/25 07:24

コマンド??コマンド違うと思ったら意識はそう働くから


撃墜するじゃないですか?
意識と無意識と自覚

アレルギーの時 病気の時意識より身体の細胞先に反応する
意識するより早く細胞は戦ってるから
アレルギー出てから意識は気付く自覚

すると

無意識を魂と言うのかもしれなくて


気付かされると無意識から意識へ魂出て来たら自覚
汚れた魂だと自覚したその時どうするのか?は 人格の違い
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なんだ、ただの脳の経験の蓄積による条件反射を魂というのか

お礼日時:2022/06/25 07:20

昔は土葬だったから 腐った死体からリンが出て燃えるんです


それを人魂だと呼んだのです
    • good
    • 0
この回答へのお礼

魂の正体はリン、ただの化学反応か

お礼日時:2022/06/25 07:27

肉体を動かしてる魂は死なない。



肉体は死んでも魂は死なないと言う
ことわざです。
肉体は限界に来ても、根性で持ちこたえるの意味、この程度の事くらい知ってた方がいいよ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

肉体が限界近くなる、現実に恐怖する、精神を折られたら人間は生存本能が働いて、動けなくなる前にその場から逃走します。
肉体の限界を越えるなんて漫画ではありがちですがね

お礼日時:2022/06/25 07:51

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報