プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

昭和19年12月から翌年2月まで、大本営参謀本部兼軍令部の瀬島龍三少佐は「瀬越良三」の変名を用いて、表向きは外交伝書使としてソ連邦、首都モスクワへ出張しました。大本営が瀬島にモスクワ出張を命じた真の目的は何だったのでしょうか。ご存じの方、教えてください。

A 回答 (3件)

瀬島龍三少佐(瀬越良三)がモスクワへの出張を行った真の目的については、複数の見解が存在しますね。



一つの説としては、瀬島は大日本帝国陸軍の情報収集や外交活動を行うために派遣されたと考えられています。当時、ソ連との関係は大日本帝国にとって重要であり、大日本帝国陸軍はソ連との関係を維持・強化するための情報を収集し、外交交渉を行う必要がありました。瀬島の出張は、そうした目的の一環とされています。

また、別の説では、瀬島の出張はソ連との秘密の交渉や連携のためであったとされています。具体的な内容は不明ですが、当時の大日本帝国はソ連との関係を強化し、ソ連を中立的な立場に引き込むことを望んでいた可能性があります。そのため、瀬島の出張は秘密交渉や提案、連携のための準備の一環であったとも考えられます。

ただし、この件に関する具体的な情報や文献は限られており、真の目的について確定的な回答をすることは困難です。一般的には、戦時中の軍事機密や外交活動に関する情報は秘密とされ、詳細な情報が公にされることは少ないためです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Thank you

お礼日時:2024/02/01 22:55

戦争末期の瀬越隆三は、姻戚繋がりの元首相でもあった海軍の岡田啓介が早くから行っていた終戦和平工作を手伝っていました。


当時は東条内閣の絶対国防圏構想がサイパン島の失陥で崩れ、最後の大反撃作戦だった海軍のレイテ湾突入作戦も失敗。大艦隊を動かす燃料も無くなってしまいました。戦争指導者たちにとって、日本を敗北から救う術が完全に消滅した時期でした。

だから大本営は、和平交渉の仲介役としてソ連が頼りになるかどうかを瀬島に探りに行かせたのでしょう。
あそこまで戦局が悪化しては、瀬島が日本に居る必要も無かったでしょうし。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/02/01 22:56

当時のソ連の出方を監視するためではないですか。

当時日ソ中立条約はあったけれど、スターリンが何をするかはわからない。そもそも日本の仮想敵国はずっとソ連だったわけだし。また昭和19年は戦争の趨勢も見え来てたし、アメリカとの講和の仲介をソ連に頼もうかなんて話もあったわけで、ソ連とソ連軍の動向を調べるのは重要な意味があったと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/02/01 22:56

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A