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土一揆と一揆の違いを簡単にわかりやすく教えていただけませんでしょうか?幕府に徳政令を出したのはどっちか、など、できるだけ具体的に教えていただけると助かります。

質問者からの補足コメント

  • 国一揆と一向一揆もお願いします。

      補足日時:2024/09/11 17:38

A 回答 (4件)

一揆とは「揆を一つにする」という意味で、「揆」とははかりごとややり方といった意味です。

南北朝の動乱により、戦火が全国に広がると、それまでの本宗家・庶子家といった血縁での結束よりも、「遠くの親戚より近くの他人」ということで、当てにならない遠方の一族よりも近隣の似たような立場や実力の武士たちと協力しあって不測の事態に備えるようになりました。この盟約が「一揆」です。
室町時代になると、「一揆の時代」と言われるようになり、下は農民たちから上は守護大名まで、同じ社会階層同士が地縁による盟約である一揆を結成しました。
例えば、毛利家は同じ国人領主たちと一揆盟約を交わした盟主という立場でした。
このような「様々な一揆」を分類すると、
国一揆  国人領主たちの一揆
土一揆  土民(身分上では農民)たちの一揆。実際には農村の支配層である地侍や小領主が主体。
一向一揆 一向門徒たちによる一揆
徳政一揆 徳政を求めた都市住民を中心とした一揆
ここまでが室町時代。
百姓一揆 江戸時代の農民たちによる一揆
現代人にとって、一揆というと農民暴動を思い浮かべますが、それは明治以降の為政者が刷り込んだ作為的なイメージです。
一揆はあくまでも同じ社会階層の者たちが、同じ目的のために結んだ盟約のことで、実際の一揆もそのようもので、一揆で要求書を作成して平和的に為政者に突きつける行動を取っています。
江戸時代にも、「一揆の作法」というものがあり、農民側も領主側もその作法に則って要求の交渉を行っています。しかし、江戸末期になると「打ち壊し」という暴動も頻発し、次第に一揆盟主の指導や一揆盟約に反して暴徒化する一揆参加者も現れるようになりました。江戸時代には一揆と打ち壊しは明確に分けて認識されていましたが、明治時代になっても一揆や打ち壊しが頻発したことから、明治政府が一緒くたにすることで、一揆=反政権暴動というイメージを作為的に作り上げたのです。
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2024/09/12 16:23

一揆とは、現代風に云うと、労働者一人ひとりでは経営者に対抗する力が弱いので、労働組合を結成して経営側と団体交渉することにした。

そういうことです、

最初から武力蜂起を目的としたものではありません。

誰がとか、一揆の規模によって、〇〇一揆とか呼び方が変わりますが、労働者が支配者に対して物申す一団であることに変わりはありません。
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2024/09/11 18:56

「揆」はやり方とか方法とかを意味するもので、集団でそれらを1つにまとめた目的にすることを一揆と呼びます。


武士だったり集落だったり、自分たちの危機的状況に一人一人がバラバラに行動してたら解決できないので1つにまとまろうってもの。
よく一揆というと反乱とか暴動みたいなイメージが持たれていますが、必ずしも力に訴えるというものでもなく、暴動も一揆のやり方の一つに過ぎません。

土一揆は農民が起こした一揆です。
「土」とは農民のこと。

国一揆は国全体を巻き込むほどの大きな一揆です。
大名たちに歯向かうのはこれですね。

一向一揆は一向宗の門徒たちが起こした一揆です。
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2024/09/11 18:52

自分で調べにゃ、勉強にならんと思うよ。

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この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/09/11 18:51

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