
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
源氏がどうのではなく、坂東に流刑になってやってきた天皇の血統を持つ人物(貴種)が源頼朝だったのであり、その頼朝が坂東武者たちに担がれて、朝廷から半独立を狙ったわけです。
別に貴種であれば源氏じゃなくても平氏でも何でも良かったのです。下手をしたら、藤原摂関家の血筋でも良かったのでしょう。実際に鎌倉幕府の将軍4代目以降は、摂関家からも迎えられていますね。で、頼朝が関東半独立を狙った際に、幕府の設立を提案したのは、京から迎えた側近の大江広元でしょう。
幕府とは、朝廷が派遣した遠方への派遣軍が占領地を治めるために造る臨時の政庁のことです。つまり、関東に幕府を作れば、関東一円に関しては幕府(将軍)が統治する名目ができるという仕組みです。
それで、朝廷に頼朝は幕府設立許可を求めますが、その辺は後白河上皇も承知しており、許可は出しませんでした。許可が下りたのは後白河上皇が崩御した後のことです。
源平でどっちが上か下かなんて血筋上は、あまり関係ないでしょう。源平合戦では、天才義経がいた源氏が勝利しただけのことです。
秀吉は人臣最高位の関白に登った人です。征夷大将軍の遥かに上の地位ですから、徳川将軍家なんて豊臣の前では平伏しなければならないのが本来の姿です。
この回答へのお礼
お礼日時:2024/10/17 10:52
義経は哀れ、常陸坊海尊は義経の死後に生きていて
頼朝殺しに行ったという小説読んだなあ。空想でもあれは面白かった。
豊臣は家康に倒されてこれも歴史の哀れ。
秀頼と淀君はかわいそうね。
これは余談。
No.4
- 回答日時:
源氏が征夷大将軍を家職とするようになったのは室町幕府成立以降です。
鎌倉幕府では、源氏将軍は三代で絶えて、その後は頼朝の妹の子孫を頼朝の孫娘の婿として迎えますが、孫娘が出産時に死亡してそのまま妹の子孫が摂家将軍として2代続きます。その後、三代実朝が後鳥羽と取り交わした口約束を口実に皇族を将軍として迎える宮将軍が幕府滅亡まで続きます。このように、鎌倉幕府の将軍家は「源氏」ではなく「頼朝の後継者」でした。また、室町幕府は全く新しくできたのではありません。当時の感覚では「(鎌倉)幕府が復活した」です。幕府というのは、あくまでも「頼朝とその正統な後継者の家政機関」です。
室町幕府が成立すると、征夷大将軍を家職とするのは清和源氏という意識が定着しますが、先例をみれば坂上田村麻呂から多数の非源氏が就任しており、源氏の将軍の方が少ないです。ですから、義昭追放後に朝廷は、信長をほぼ将軍と同待遇にし、将軍と同じような権限を付与しています。また、武田氏滅亡後には「三官推任」といって、信長を将軍か太政大臣か関白にするという話題が出てきています。
秀吉は、ちょうど発生した摂関家の内紛に乗じて、善良な仲裁者を装い将軍任官を辞退して関白になっています。将軍になれなかったではなくならなかったです。
さらに、官職で比較したら、従一位太政大臣の清盛の方が、正二位右近衛大将の頼朝より上です。源氏が清盛と並んだのは足利義満からです。
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