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日本製のマーチ・行進曲の名曲に『軍艦マーチ』があります。よくパチンコ屋で耳にするあの曲です。最近では日本の吹奏楽団で演奏される機会もないようですがこの曲について詳しい方おしえてください。
(1)名曲だと思うのですが、この曲を中学や高校の吹奏楽部で演奏することはタブーなのでしょうか。
(2)軍艦というぐらいなので、海軍の曲なのでしょうが、いったいどういう場面で演奏されていたのでしょうか。初演はいつなのでしょうか。また作曲された経緯、曲に込められた思いは何なのか。
(3)正式曲名
※情報をお寄せいただく場合、出典や参照された本等を添えてください。

A 回答 (6件)

元海軍軍楽長瀬戸口藤吉の生まれた鹿児島県垂水市


では、平成11年より毎年「瀬戸口藤吉翁記念行進曲
コンクール」が垂水市、市教育委員会などの共催、
鹿児島県、NHK他の後援により実施されています。

県内外の小、中、高、並びに大学一般職場の四団体の
吹奏楽、金管バンドを対象に、瀬戸口の作品から一曲
を「課題曲」そして任意の「自由曲」の二曲でグラン
プリを競いますが、その中でこの行進曲「軍艦」が演
奏されることがあります。

行進曲の発想のそもそもは進軍の足並みを揃える為の
はずだったわけですから、不偏であるはずの教育の一
環として捉えられるクラブ活動の中で、顧問の先生方
や生徒達が例えばスーザの「星条旗よ永遠なれ」は良
いけれど「軍艦マーチ」はかっての軍靴の響きがする、
とか好戦的だとかの理由で敬遠しているとすれば、残
念な話しです。

日本人で初めて本格的な吹奏楽を演奏したのは薩摩藩
(今の鹿児島)軍楽伝習生の若者たちでした。また薩摩
出身の数多くの人々が日本海軍の草創期を支えた事か
らも、コンクールという形でこのような風土や伝統が
受け継がれているのは興味深いことです。
  

現在の行進曲の形になったのは明治33年(1900年)頃で、
元々の゜守るも攻むるも゜の歌詞が付いた軍歌「軍艦」
は別の旋律でその三年程前から存在していました。

初演は「明治33年4月30日、神戸沖観艦式へ向かう常
備艦隊旗艦『富士』乗り組み軍楽隊によって行われ
た」と伝えられていますが、これには種々、異論が
あるようです。

日本のわらべ唄に多く見られる、俗に゜ピョンコ節゜
と称される土着的なリズムをちらつかせながら西洋調
に発展させ、更には中間部(トリオ)に組みこまれた雅
楽調の「海ゆかば」との好対照な旋律については、当
時の列強諸国の音楽を明治維新以来ただ受け入れるだ
けから、まがりなりにも日本独自の作品を創作しよう
と世に問うた33歳の海軍軍楽師瀬戸口の意気が伺えま
す。

明治22年の大日本帝國憲法公布、翌年の議会開設により
国内制度の整備が進み、その後、不平等条約の改正で国
際社会の中での地位を獲得し、日清戦争の勝利によって
国力に自信を得たであろうその時期は、ある面において
日本人全体が明るい未来や文明の発展を信じていた時代
だったと思います。日本の音楽にとっても実りの多い時
期でした。「キンタロウ」(マサカリカツイデ、キンタ
ロウ)、「鉄道唱歌」、滝廉太郎の「お正月」「花」
「箱根八里」「荒城の月」など今でもよく知られる唱歌
や曲が、行進曲「軍艦」と同じ時期に不思議なくらい集
中して生まれました。

日本海軍では、大正元年8月9日に「儀制ニ関スル海軍
軍楽譜」として10曲を定め、その第10号としてこの
曲は「進水式ニ於テ船体滑走又ハ進行ヲ始ムルトキ其ノ
外観兵式等」と簡単にその用途を定めていました。

艦隊の旗艦には必ず軍楽隊が編成、乗艦しており、司令
長官以下、司令部職員の昼食時に合わせて、天幕を張っ
た甲板上でセミ・クラシック曲やこの「軍艦」などを練
習を兼ねてBGM演奏をしていましたが、これは太平洋戦争
中、戦況がかなり悪化していた時期までこの習慣が続け
られていた、という話がある生き残り水兵の反感を込め
た戦中の体験談として伝えられています。

現在の海上自衛隊では昭和36年1月18日に制定された「儀
礼曲の統一に関する通達」の10曲目に、以下のように
正式に用途が定められています。
1 観閲式における観閲行進の場合
2 自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
3 自衛艦命名式における進水の場合
4 その他必要と認められる場合

大湊、東京、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各地方隊に所属
する音楽隊は、地域の催事に出張演奏をする際のアンコー
ル曲に「軍艦」を吹奏することが多いですから、これから
も何処ぞの広場で聴こえてくる事があるかも知れません。

参照引用文献:
音楽之友社「軍歌集」音楽之友社編 1963年
新潮文庫「軍艦長門の生涯」阿川弘之 1982年
朝日新聞社「戦艦武蔵の最期」渡辺清 1982年
NHKテキスト「日本人と西洋音楽」團伊久磨 1997年
大村書店「行進曲『軍艦』百年の航跡」谷村政次郎 2000年
キングレコード「軍艦マーチのすべて」(KICG3073)1998年
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この回答へのお礼

よくわかりました。ありがとうございます。参考文献も示していただき、重ねてお礼申し上げます。

お礼日時:2006/01/28 16:48

軍隊ルーツで考えた場合


生徒手帳→軍人手帳
詰襟学生服→軍服
セーラー服→海軍
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 「タブー」ということだけで回答しますと、日本のブラスバンドの歴史自体、軍楽隊のルーツであるわけなので、「君が代反対!」などという(戦争に関係あるものは全てこの世から排斥せよという立場)考えを持つ学校は、ブラスバンド部をもってはいけないのです。

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高校生のとき、近くの楽器店で楽譜(コンデンススコアとパート譜のセット)が \1,500- くらいで売られていたので、買ってしまいました。

(卒業するときに高校に置いてきたので、今は手元にありませんが)

思想上の問題だけでなく、肉体的 (?) な難易度の問題として、中学生や高校生が演奏するのは厳しいかも知れません。
各パートとも、ほとんど休みがなく吹きっぱなしです。
また、中間部の跳躍の多い旋律が 1stコルネットにもあったりします。
楽譜を見て、「やっぱり昔の軍楽隊はスゴイ!」と思いました。
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 まず、この曲の正式名称は「軍隊行進曲」です。

曲が作られたのは明治30年で、作詞は当時華族女学校の教師だった鳥山啓で、そのときの題は「この城」でした。作曲者の瀬戸口藤吉は旧日本海軍軍楽隊の准士官で楽長の田中穂積より依頼され「この城」に曲を付けました。このときの曲名は「軍艦」だそうです。
 その後の明治43年に行進曲として発表したものがこの曲です。中間部には「海ゆかば」の旋律が使われています。

 尚、盛岡第一高等学校の校歌の旋律はこの「軍艦行進曲」と同じものが使われているそうです。

参考:「決定版 日本の軍歌★同期の桜」日本コロンビア/ビクター音楽産業(廃盤)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6% …
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海軍の唄ですからね・・・


それに歌詞を見たら判ると思いますが
右派の学校ならいざ知らず
通常左派系が多い学校では馴染めない曲でしょう・・・
君が代ですら反感持っている方が多いんですからね・・・

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6% …
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