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私は小説が大好きです。特に遠藤周作や太宰治、谷崎潤一郎を好んで読んでいます。

さっそく本題なのですが、洋書、所謂外国小説や詩を日本人が読む価値について聞きたいです。
カフカやドストエフスキー、ランボー、ボードレールなどは読んでみたのですが、どうしてもその世界に入り込めません。

特に詩となると、読んでてなんだかとても可笑しくなってしまって、あまりに見当違いな翻訳をしているような気がしてしまい集中できません。

つまり、手紙などならまだしも、小説や詩を外国語に翻訳して、それを作品にするというのはどだい無理があるんじゃないでしょうか?作者の表現を伝えきれるのでしょうか?

そういう意味で洋書の価値をお聞きしたいのですが、皆さんはどうお考えでしょうか?

A 回答 (5件)

まず、仰りたいのは、洋書についてではなく、翻訳書についてですね?



私自身、日本語の他には英語はどうやら読むことができますが、その他の言語はほとんど読めません。読むとなれば翻訳書ということになります。
たとえ翻訳が原作そのままであることが無理だとしても、全く知らないより知ってよかった、巡り会えてよかったと感じた書籍はたくさんあります。
そういう意味で、翻訳書は私にとっては価値がありますし、世界のあらゆる言語を知ることができない多くの人にとっても同様だと思います。「作者の表現が充分に伝わらない限り読まない」よりは、たとえ不十分であれ、その素晴らしさの片鱗でも味わいたい、という欲求があるからです。

ところで、文章よりお若い方と推察させていただきました。
例えばあなたのお好きな谷崎潤一郎、まわりのお友達でどれだけの割合の人が読んでいますか?
もし、英訳で谷崎を読んでとても好きになったという外国人の方がいた場合、あなたは「ふん、英語なんかに翻訳されたもので本当の谷崎の良さが分かるもんか」と思いますか?でももし、「えー、読んだけどさ、どこが面白いのかさっぱりわかんなかった」という日本人がいた場合、やっぱり不完全な翻訳でも読んで素晴らしかった、と感じてくれた方が嬉しくはないですか?

「作者の表現を伝えきれる」か、ということですが、私は母語である日本語の小説や詩を読んでさえ、その表現のすべてを受け取った、などと豪語する自信はありません(はたして、全て受け取れるものか、という疑問もありますが)。表現にも様々な側面があります、表現の見事さ、文章の美しさ、内容の巧みさ、思想の深さ....たとえその一面だけでも、その一部だけでも、自分が何かしら得ることができた、と感じたとすればその読書は価値のあるものになる、と思いますし、翻訳によって読書の可能性が大きく広がるのは有り難いと感じています。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって大変申し訳ありません。

私も世界の所謂名著を読んでそのすばらしさの片鱗でも味わいたいと言う欲求から手を伸ばしてみたものの…という感じで今回の疑問が浮かんだわけであります。

「翻訳書の価値」ではなくて「読書の価値」と言う物をどういった部分から拾い出せるかが問題なのかもしれないですね。

お礼日時:2005/10/07 03:18

すべての翻訳者がそうではないのですが、翻訳者の方数人に聞いたことがあります。



「日本語への翻訳は日本人に読みやすいように、自分(翻訳者)の解釈を自分(翻訳者)が作者の意図をくみとって翻訳したもの」だそうです。
最近は翻訳者が実際に原作者にあって解釈を聞いて翻訳する場合もあるそうですが。
そして文化の違いからか、その世界観が日本人にはどうしても理解できないことがあるそうで、そうなると直訳しても意味がさっぱりわからない・・・のだそうです。
詩を訳した方にはお話したことがないのでわかりませんが、詩自体が独特なその人の感性のみでできあがってるので、共感できる人でないと笑ってしまうのではないでしょうか。

前の方にもありますが、翻訳書の場合は翻訳者で読み分けた方がいいみたいですよ。
文章のクセってものがありますからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

翻訳者の方から話を伺ったというのは貴重ですね。

「日本語への翻訳は日本人に読みやすいように、自分(翻訳者)の解釈を自分(翻訳者)が作者の意図をくみとって翻訳したもの」との事ですが、他の回答者様も同じ様な事をおっしゃってますし、どうやらそれ以上でも以下でもないようですね。

特に日本語は言い回しが独特ですから、海外の人に日本の小説の真髄を翻訳して理解してもらうには限度があるような気もしてしまいますね…

お礼日時:2005/10/07 03:23

〈洋書〉というのは、外国から輸入した本(原書)のことを言います。

〈洋書の価値〉という質問ですが、正確には〈外国の文学作品を翻訳することの価値〉ということだろうと思います。

ランボーやボードレールの翻訳を読むと、可笑しくなるということですが、フランス語で読んでも、可笑しくなってしまう可能性が高いと思います。ランボーやボードレールは、フランス人でも、わかる人は少数派です。

最近の新しい翻訳は、相当よくなっています。 池内紀訳のカフカは立派な日本語の作品になっています。池内訳で、カフカの世界に入っていけなかったなら、ドイツ語で読んでも、入っていけないでしょう。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありませんm(__)m

洋書の概念を間違っていたようですね…ありがとうございます。

一度池内紀氏訳のカフカを読んでみようと思います。単純に日本の好きな作家の作品でも好き嫌いはあるし、数を読んでみる事も大事なのかもしれないですね。

お礼日時:2005/10/07 03:14

翻訳本の目的は原書の内容を原語の知識のない人々に紹介するものです。


当然正しい翻訳を心がける必要がありますが、文学書の翻訳は非常に難しい部類に属します。

従って文学書の翻訳は文学者、作家などが手がけたものがいいかも知れません。
しかしこれも程度問題で細かいニュアンスの解釈は人により異なるでしょう。
一番よいのは読者自身が翻訳する事になります。

他人の翻訳は不特定多数の人々を対象にしているので
それに違和感を感じるような人が利用するのが原書なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですね、それくらいの気持ちでかかったほうがいいのかもしれません。

本当に好きな外国作家ができたときに、自分自身での翻訳、解釈で読んで見たいと思います。

お礼日時:2005/09/30 19:35

確かに、外国語書物の原作と翻訳されたものを読み比べるとなんだか、ニュアンスが違うなぁと感じることが多いです。



思うに、書物を読んだとき、人それぞれ解釈も違うわけで、そのために生まれてくる違和感ではないかと、、、。翻訳者の方の解釈によって、表現方法も変わるわけで。

それを考えると翻訳されたものを読むより、原作を読んだ方が自分なりの解釈が出来てよさそうですが、、、。

しかしながら、私の場合、日本語以外の言語は少しの英語以外ほとんどだめなので、外国語の書物を読むとなると、やはりここは、自分にしっくりくるお気に入りの翻訳者を見つけて、その方の翻訳された本を読むしかないですね。
自分にしっくりくる翻訳者が翻訳された書物であれば価値は高いのでは?それ以外は、謎です、雰囲気しかつかめないかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

はい、それぞれの解釈というものが在りますよね。やはり詩となると、とても難しいようですね。

とりあえず名著といわれているものには目をとしてみて、価値というものを自分なりに見つけてみたいと思います。

お礼日時:2005/09/30 19:38

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