プロが教えるわが家の防犯対策術!

 この正月、仏教徒と称する、ある寺の、私の高校時代の後輩に当たる若い坊主と話し込んでおりました。私「今の世の中、ひどいよなぁ。もうなんでもありだもんね」坊主「ええ、もうそりゃひどいもんです。でも人間のできる教育には限界がありますからね。じたばたしても始まりません」「・・・??? じたばたしても? じゃ傍観してろと?」「いえ、そういう訳じゃないのですが、末法の世は人間の力だけではどうにもなるものじゃないかと…」「笑わせるなよ、君。どうも修行不足のようだな。 何が末法の世だ。末法の世にしているのは他ならぬ君ら半端な似非仏教徒じゃないのか? 仏教徒を名乗る君らがそういう非生産的な諦観を在家の僕らに語って何の解決になる? もう一度山にこもって修行し直してくるか?」「…いえ、もう修行は充分積みました」「アホ抜かせ。君らみたいな似非坊主が人々を救済しようとするからおかしくなるんじゃないか・・・。まぁいいや。少し酔ったみたいだから今日は帰る。じゃ~ね。合掌」「あ、それはおやめください」「え、何で?」「あまり軽々しく合掌をするものではありませんので…」「君の中にある仏性を拝むのでも文句言われなきゃなんないのか。…ふ~ん。君みたいに人の発言の行間すらロクに読めない、人を咎めるだけの人間が宗教家、仏教徒か…。こりゃ、君の言うとおりだ。ホントに末法の世だな…」「何かお気に障ることでも?」「いいや、全然。君、35歳とか言ってたが、も一度修行をやり直した方がいいかもしれんな。人間観察の基礎ができてない。絵に描いた観念論や小難しげな屁理屈ばかり捏ね回していたって人の心は見えてこないよ…」とまあ、こんな具合で話が終わりました。こういう坊主が仏教徒を名乗っているのがどうにも納得いかない。質問文には字数制限がありますのでピンぼけの質問になってしまいましたが、皆様のご感想をお聞かせ願えたら幸いです。

A 回答 (6件)

こんにちは。


なんでそんなに怒っていらっしゃるのか、興味深く読んでます。
私の感想は、「慇懃でわかりにくい話し方を選ぶ人もいる。そういう人は
本来の自分より自分を偉く見せようとしていることが多くて、私は嫌い」
ということです。

masatoshi-mさんは仏教をはじめ宗教や、それに携わる人に対して
なにか期待しているものがあって、それにどの神様も宗教人も
きちんと応えてくれないから怒っているような印象を受けました。
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この回答へのお礼

 あ、こんにちは、mimosa2001さん。この間はどうも有難うございました。

 そうですね、私が怒りを覚えているのは突き詰めて言えば次の二点でしょうか。
 人の好意から発した「感謝の気持ち」を素直に受け取ることができない…どころか、批判さえしようとする。その度量の狭さ、独り善がり・・・。
 次に、人間の努力こそ最も尊ばれるべきなのに、すべき努力を放棄(少なくとも放棄するかのような発言)をして、踏ん反り返っているその態度です。しかも何かと言えば「〇〇(経典の名前)にはこう書いてあります」と、やたら経典の名前を出してきて権威付けようとする。

>私の感想は、「慇懃でわかりにくい話し方を選ぶ人もいる。そういう人は
本来の自分より自分を偉く見せようとしていることが多くて、私は嫌い」
ということです。

 とmimosa2001さんはお書きになっていらっしゃいますが、私も同感です。修行を積まない一般人ならまだしも、若い頃に厳しい修行を積んで、私のような「迷える凡愚の徒」を導くべき立場にあるものが、導くどころか批判さえするのなら、もう何をか言わんや、ですね。いや、私も何か批判されるような言動をしたのなら甘んじてその批判を受け入れるのです。でも私がしたのは相手への「合掌」。しかも素直な気持ちから出た行動です。彼にとっては何とか経典に書いてある「教義」の方が大事なのでしょう。でも、後輩ですからつい厳しい口調になってしまいました。愛情から出た彼への批判ではありましたが、私の方にももう少し言いようがあったのかもしれません。

>masatoshi-mさんは仏教をはじめ宗教や、それに携わる人に対して
なにか期待しているものがあって、それにどの神様も宗教人も
きちんと応えてくれないから怒っているような印象を受けました。

 そうですね、「期待しているものがあって」・・・正しい宗教家にはやはり期待していますね。でも「神様」にはちょっと(笑)…。正しい宗教家というのは深い慈愛を有する、すぐれて倫理的な思索者であり、高度な哲学的求道者だと思うのですよ。こういう人たちに期待しないわけがありません(笑)。やたら「私は仏陀(キリスト)の生まれ変わり」だの「〇〇教にしか真の教えはない」だのと宣う宗教家がいるようですが、何かに権威付けを求めたり、「自分のところが一番」と思いあがる連中に本物の宗教家などいたためしがありません。その意味で日本仏教界の僧侶の末席を汚す(お前が言うな)件の私の後輩にも頑張ってほしいのです。一人の人間を不快にする宗教家が多くの人間の尊敬を集められるとは思いませんので・・・。
 お礼がつい長くなってしまいました。ご回答有難うございました。

お礼日時:2002/01/07 17:22

「末法」について多少解説します。


正・像・末(正法・像法・末法)三時の思想というのがあります。仏教の時代観としてのものです。
お釈迦様が亡った後
 ●最初の千年間は正法(しょうぼう)の時代。
  教えや修行が正しく伝わってよく残っている時代。
 ●次の千年間は像法(ぞうぼう)の時代。
  教えや修行が像(かたち)だけ残って本質が乱れていく時代。
 ●次の1万年は末法(まっぽう)の時代。
  ただ教えだけが残っている時代。
余談ですが、そしてお釈迦様が亡くなった日から数えて56億7千万年後、弥勒菩薩がこの世に現れ、乱れた世から私たちを救って下さると伝えられています。

お釈迦様が亡ったのは紀元前383年とされています。計算では2000-383=1617 1618年からは末法の世となります。その意味で今は末法の時代であります。

もちろん、末法だからとあきらめたりするのではなく、どんなに良いことでも、つねに努力していないと、時間とともに慣れてしまい形骸化するという警鐘と受け止めます。
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この回答へのお礼

 amida3さん、ご回答有難うございます。
 
 えっと、次の一万年…ではなく、千年…ですよね?
 
>余談ですが、そしてお釈迦様が亡くなった日から数えて56億7千万年後、弥勒菩薩がこの世に現れ、乱れた世から私たちを救って下さると伝えられています。

 その時にはもう地球は太陽と共に跡形もなく滅んでしまっていると思うのですが…。これは真面目にお伺いしたいのですが、amida3さんはどれくらい真剣にこうした話を信じていらっしゃるのでしょうか。それとも単なる「長い歳月」を表す比喩として語っていらっしゃるだけなのでしょうか。在家の我々としてはその辺りがどうにも戸惑ってしまいます。「弥勒菩薩がこの世に現れ、乱れた世から私たちを救ってくださる」・・・この話も僧侶の皆さんがどこまでそう信じて話されているのか分からないのです。そしてもしそれを信じて話されているとするなら「やはり思考経路が違うのかな」と思いますし、信じていずに話されているとすれば「人の心をかどわかす妄言の徒」と、まことに失礼ながら思ってしまうのです。いえ、誤解なさらないで下さい。私はいたずらに宗教そのものを排斥しようという思想は持っておりません。むしろ「信仰心を持つことで人生はより豊かなものになるのではないか」と、宗教というものに深く期待し、愛着を感じている者です。

>もちろん、末法だからとあきらめたりするのではなく、どんなに良いことでも、つねに努力していないと、時間とともに慣れてしまい形骸化するという警鐘と受け止めます。

 とお書きになっていらっしゃるところをみると、恐らくamida3さんはそうした話をひとつの「比喩」として語っておられるのではないかと推察致しますが、そういう理解で構わないでしょうか? 仏教や宗教を専門的に学んだことのない、私などのような門外漢には本当に理解に苦しむことが少なくありません。ご教示頂ければ幸甚です。

お礼日時:2002/01/05 13:35

はい、ごめんなさいよ!お邪魔しますね。


「今日の質問」のページをめくっていたら、気になるご質問。ご質問文を拝見してみればmasatoshi-mさんではありませんか?
あたいにも感想を書かせて下さい。

masatoshi-mさん、「釈迦に説法」だったはずが、どうもご質問文を拝見するに、「馬の耳に念仏」になってしまったような気がするのはわたしだけでしょうか?

>「…いえ、もう修行は充分積みました」
彼、もう既に「終わっている」という感じですね。「だみだ、こりゃ」というのが感想です。もしかしたら、映画「ファンシィ・ダンス」(面白いので観て下さい。モッくんが主役です。)のような一定の「研修期間」が終わった経験からそう主張するのではないでしょうか?
人生は一生が修行のようなものだという事は、みーんな感じていると思うのですが。
確か瀬戸内寂聴さんは、仏教は、世襲制になったから駄目になったというような事をおっしゃっています。結婚して子供をもうけ、その子供を僧侶にするから駄目なのだと。でも、わたしの家は、浄土真宗ですが、我が家のお寺さんは初代から現在の三代目の方まで、良い形で受け継がれています。お経もしっかりしていらっしゃるし上手で、法話も上手。そして決して金品を要求しません。実に質素です。
ですから、世襲制を100%否定することは出来ないんですね。

わたしは、キリスト教に対して、歴史上の背景から最近否定的気味でした。けれど、マザー・テレサに関するドキュメンタリーなどを見ると、やはり否定もできないなぁと思います。

masatoshi-mさんのお住まいの地域では、「お仏壇の○せがわ」のCMやっていますか?小さな女の子が、「お手手のしわとしわを合わせてしあわせ。な~むぅ~」というかなり何年も前からやっているCMです。わたしは、本当に良いCMだなぁと思っています。人間は誰しも仏性をもっていて(仏性という言葉は他宗教で該当する言葉をそれぞれあてはめますね)、合掌はその表れなのではないかと最近思うのです。人間としての自然な動きなのではないかと。だって、例えばキリスト教徒だって、指を組まず、「合掌」していることがありますよね。
以前、曹洞宗のお坊さんが書いた本を読んだ時、食事の前にする合掌は、動物だったり、植物だったりの命を食べさせて頂く為のものだとありました。

まあ、それぞれの宗教の教義があるのでしょうが、実はわたしは個人的にお付合いをさせて頂いている方に、真言密教のお坊さんと、曹洞宗のお坊さんがいらっしゃいます。特に、真言密教のお坊さんは、今この世で苦しんでいらっしゃる方々のご相談にのるという事をなさっています。でも、未だかつて教義ではどうのこうのといったお説教を聞いた事はありません。お説教なさる際は、現実に即した表現で、時には怒鳴りつけられる位叱られます。でも、そちらの方がよほど堪えるんですね。
密教は、仏教の中でも修行が厳しいと聞きます。山岳信仰でもありますから、そのお坊さんも例えば奈良の吉野の方の山を駆け登り、駆け下るという事を昼も夜も無く繰り返すという修行があるそうです。夜になれば真の闇の中を駆けます。でも、それをくりかえしていて、途中休憩をしていて、自分は今下る途中なのか登る途中なのかわからなくなるそうです。他の方に聞くと、テレビで紹介されるコースは本当の修験の子供用のコースだそうです。
一般の人でしたら、闇とか急峻な道のりなどで、気がおかしくなるのではないかとわたしは思います。

これは密教の場合で、それを一例にさせて頂きましたが、現在、仏教の中でこういった厳しい修行をするケースは非常に少なく、冷暖房の行き届いた部屋で読んだ仏教書の教義をもっともらしく説教する僧侶が増えていることは否めないでしょう。

週末のリラックスした昼下がり、玄関のチャイムがなるので出てみると、独特の微笑を浮かべ、断っても断っても勧誘に来るセールスマンもどきの○のみの塔の人々や、未だ入信しようとする人にボッタクッテいる○ウム真理教の信者の人々のかたくなさと、masatoshi-mさんの後輩の方の「あまり軽々しく合掌をするものではありませんので」というセリフはダブるものを感じます。

人間が、純粋に心の平安を求めて信仰する宗教の中で、歴史上宗教戦争があったり、派閥争いがあったりしたのは、こういう風に教義をふりかざし、相手を理屈でねじ伏せようとする宗教家達の、人間らしき愚かな心があったらかなのではないかと思うのですが。

なんか、わたしのアドバイスもピンぼけですね。すみません。
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この回答へのお礼

 こんばんは、adelaideさん。あはは、「馬の耳に念仏」か。うまいことを言うなあ、adelaideさんは。これ「馬耳東風」とも言いますよね。でもまぁ、「釈迦に説法」という気は初めからありませんでしたよ、今回は。後輩があまりに慇懃無礼な態度だったものですから・・・ね。フフ…。

>確か瀬戸内寂聴さんは、仏教は、世襲制になったから駄目になったというような事をおっしゃっています。

 なるほどね~。ある種の「親方日の丸」ですね。「親の七光り」かな? 世襲制であっても優れた僧侶は大勢いらっしゃるようなのですがね…。映画「ファンシィ・ダンス」は是非観てみます。

>masatoshi-mさんのお住まいの地域では~

 はいはい、やってますよ~、その宣伝。、「お手手のしわとしわを合わせてしあわせ」という言葉を初めて聞いた時には「うまいこというなぁ」と感心したものです(根がダジャレ好きなものですから)。

>でも、未だかつて教義ではどうのこうのといったお説教を聞いた事はありません。お説教なさる際は、現実に即した表現で~
 
 教義なんかどうでもいいとは全く思いません。しかしその教義の字面を後生大事に抱え込んで、現実社会に即した処方箋を変幻自在に出すことができないならば、それは生きた宗教ではなく、死んだ宗教だろうと思うのです。「合掌」を批判されたのは生まれてこの方初めての経験だったものですから、少々慌てました(笑)。
 それともうひとつ。私の後輩の坊主はあまりに「他力本願」なのですよ。親鸞聖人の「他力本願」はまことに見事天晴れなのですが、「末法の世にあっては人間の教育だけではどうにもならないものがある」って、まるで人間の力を信頼していないかのような言いぐさなのです。本来の「他力本願」はそういう文脈で語られるものではない、と私は思っていたのですが…。

>例えば奈良の吉野の方の山を駆け登り、駆け下るという事を昼も夜も無く繰り返すという修行が~

 へぇ、それは凄い。後輩の坊主はひょっとしたら子供用のコースで修行をしたのかも(笑)。

>断っても断っても勧誘に来るセールスマンもどきの○のみの塔の人々や~

 そうですねえ、私も自分の後輩ですからあまり悪くは言いたくないのですが、「かたくな」という一点においては共通するものがありそうです。「かたくなな心」って宗教心からは程遠いと思っているのですが、もし「かたくな」でなければ信仰心は持てない」というのであれば、私は今後もずっと無信仰のままでしょうね(笑)。

>人間が、純粋に心の平安を求めて信仰する宗教の中で、歴史上宗教戦争があったり、派閥争いがあったりしたのは~

 adelaideさんご分析のとおりでしょうね。「ここからしか真理へ到達する道はない」と言い合っているだけです。まったくバカバカしいとしか言いようがありません。「真理へ到達する道」はいくらでもあります。宗教家は迷える凡愚の徒が百人いたら百通りの方法で、千人いたら千通りの方法(これが《方便》でしょう)で、真理へ至る道を教示すべきなのです。それすらできないくせに「宗教家」を名乗ったりするからおかしなことになる。また俗界の一般人から敬して遠ざけられることになる。ここらあたりを若い宗教家には是非知っておいていただきたいのですが…。

>なんか、わたしのアドバイスもピンぼけですね。すみません。

 いえいえ、とんでもない。程々にピンぼけしているのが一番かもしれません。ご回答、有難うございました。合掌。

お礼日時:2002/01/04 20:42

 「合掌礼」は、禅宗では仏性に対してされているとされています。


 武道でも、合掌はしなくても、相手を尊敬しているということで、礼をしているわけですが、そもそも「合掌」とは、尊敬・信頼しきっている姿、拝する意味で、命を帰命することであります。
 軽はずみにも、人間等に対しては合掌しないようにされるべきでしょう。自分の命を差し上げるといっている事にもなります。
 それから、「印契」ということですが、真言宗ではこの十本の指が法界だというのです。そして、指を伸ばしたり折ったりして、色々な印を作る仕方があります。しかし、そのようなことは全部、仏となる直道ではありません。
 大事なのはただ一つ、合掌印であります。合掌印に全部の宇宙法界の大真理はこもっているのです。
 ここまでは、誰もが知っているような一般常識程度の合掌のことですが、
 合掌は荘厳な仏前で、もっとも尊い御本尊に向って清浄な心で行なうものであり、その十指は十界互具を意味し、胸にあてるところは、我が胸中の心性の白蓮華を生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作三身・事行の一念三千の当体であるという深い意義を備えているのです。
 このことを日蓮大聖人は、
 「合掌とは法華経の異名なり向仏とは法華経に値い奉ると云うなり」
と仰せられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。
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この回答へのお礼

 ウ~ン、段々難しいことになってきたぞ、こりゃ(笑)。
 簡単に言うと「人間ごときを相手に合掌するな」ということですね。「神社仏閣でなら構わないが」と…。今の仏教界が堕落しているとするならこの辺りに原因があるのではないでしょうか。何故そう四角四面に物事を考えなければならないのか。何故そうまで形にこだわって(形にこだわることを悪いとは言っていないのです。こだわりすぎることを問題にしているのです)人の心を素直に汲むことができないのか。私にはこれが不思議なのです。「合掌」に「自分の命を差し上げるといっている事」という意味があることは迂闊にも知りませんでしたが、在家の何%の人がそうした事実を知っているのでしょうか。「いや、それは常識だ」とおっしゃるのであれば、それはそのまま仏教界と一般人の世界(俗界?)との乖離を表しているのだと思います。我々一般人は感謝の思いを表現したい時に素直に相手に合掌するのです。また、少し宗教に関心がある人なら相手の中にある持って生まれた「仏性」を拝するときに合掌をするのです。それを「軽はずみにも」とおっしゃるのであれば「人間に対して感謝の思いを表現するのは程々にしておけ。無闇矢鱈に感謝をするな」ということになりますが、如何でしょうか。それとも「合掌」はやめて言葉だけで表現せよということでしょうか? 

>そもそも「合掌」とは、尊敬・信頼しきっている姿、拝する意味で、命を帰命することであります。
 
 ともodd-artさんは書いていらっしゃいますが、そうであるならば尚のこと「合掌」する姿は美しいと思うのですが…。合掌は同時に祈りにも通じます。食事をする前と後に我々は合掌をして、食事として供されたあらゆる命に感謝と祈りを捧げます。と同時に食事を作ってくれた人にも同じ思いを捧げます。その思いが「合掌」と「いただきます」「おご馳走様でした」の言動だと理解しているのですが、これではまずいのでしょうか?

>大事なのはただ一つ、合掌印であります。合掌印に全部の宇宙法界の大真理はこもっているのです。
 
 「宇宙法界の大真理」とやらがどんなものかは存じ上げませんが、人の心ひとつ愉悦を与えることのできない、それどころか不愉快にさせてしまう坊主には「宇宙崩壊の大真理」しか待っていないと思うのです。何が大切なのか。勿論「法」も大切でしょう。しかし「法」を守ろうとするあまり、或いは教義に誠実であろうとするあまり、「生きた人間の心を蹂躙する」ような言動を取るのであれば仏教界に未来はありませんね。私は神社仏閣でも手を合わせますが、日常生活の至る所においても感謝に満ちた、或いは荘厳な気持ちを抱いた時にはそれがモノであれ人間であれ合掌します(勿論「偶像崇拝主義者」ではありませんよ)。これを軽々しい行為だとは思いません。これが軽々しい行為なら私の抱く「感謝の念」が軽々しいものだということになってしまいます。

>真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。

 かもしれませんが、私の定義によれば《「真実の合掌」とは森羅万象を貫く大いなる生命(「生命」と書きましたがこれは「死」も含んでいます。「死」も「生命」のひとつの表れだと思っておりますので)への深い尊崇の念、畏敬と感謝の念が形となって表れたもの》です。
 そういう思いがあるからこそ件の坊主に対して「修行し直して来い」と申しました。俗界に住む、私などのような一般人の気持ちを汲み取れないというのなら(と言うより批判さえするというのなら)仏教で人は救済できませんよ、と言いたかったのでした。経典に書かれてあるような小難しいことはよく分かりません。しかしどんなに素晴らしいことが経典に書かれていようとも、人の心ひとつ掴めないようでは坊主として失格ではないかと、まぁ高校時代の先輩として、かわいい後輩に教えたかったのですが、如何でしょうか?

お礼日時:2002/01/04 17:42

 釈尊滅後、二千年が経つと『白法隠没』という「末法時代」が法華経に説かれています。


 白法(悟りの法の意で、釈尊の仏法自らをさす)の利益がことごとく隠没(効力を失う)する時代であるとしています。
 そして、末法に日月の光明のごとき大人格者が出現され、経文に示される種々の大法難を体験して、法華経の肝心要の法を説き弘めることを予証しています。
 ここで深く留意せねばならないこととして、「末法時代」は、もはや釈尊のいかなる仏法をもってしても、民衆を救済することのできない時代であります。したがって、末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高
真実の仏法が出現することを示しているのです。
 しかして、釈尊の種々の予証を寸分違わず身に実証され、末法のために、法華経の文の奥底に秘められた肝心要の法を説き弘められた御方こそ、全世界において日蓮大聖人ただ御一人であります。このことは歴史に照らしても明らかなところであり、大聖人の三大秘法の仏法こそ、末法の長い闇を破って民衆を救済する、前代未聞の大白法なのであります。
 このことを語れ知れる僧侶は、日蓮正宗だけであり、他宗の僧等が弁えているとは思えません。
 如何でしょうか? 
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この回答へのお礼

 「如何でしょうか?」と言われてもねえ。末法については少しだけ分かったような気もしますが、折角ご説明頂いたのに申し訳ないのですが、門外漢の私からすると甚だ失礼ながら「何だ、日蓮正宗の宣伝か」と思ってしまいます。勿論日蓮や法然、親鸞、或いは最澄、空海等の偉大なる宗教家を尊敬する念は持っておりますが、何というか、誰か特定の人物だけを絶対視して一切の批判を封ずるといった空気はあまり好きになれないんですよ。そして「それを知らなければ真実は語れない」という表現も好きではありません。山に登るのにひとつの道しかないとは思わないんですよ。

 ・・・まぁ、いずれにしても私の本来の質問からは外れますので、この件に関してはこれぐらいで…。で、件の坊主から私の「合掌」を批判された理由が今ひとつ納得できないんですが、odd-artさんはお分かりになりますか?

お礼日時:2002/01/04 14:23

 涅槃経には、末代の僧侶について、


 「持律に似像(じぞう)して少く経を読誦し飲食を貪嗜(とんし)して其の身を長養し、袈裟を著(ちゃく)すと雖も猶猟師の細めに視て徐(しずか)に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」
と説かれています。この意味は、表面は戒律を持ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。
 また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
 この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。
 しかし、「末法」という意味をご存じなのでしょうか?
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この回答へのお礼

 >また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
 この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。

 ウ~ム。確かにそうだ。今も昔もロクでもない僧侶というのはいるようですね。自分のことは棚に上げて他人のことばかりとやかく言うヤツ。そして商売宗教家、欲心のみ旺盛な外道。勿論その後輩がそうだと言うつもりはありませんが、もう少し仏教徒らしく、敬虔な気持ちも持ってもらいたいものです。言葉の揚げ足を取るばかりか、わざとのようにこちらの言いたいことの文脈を取り違えて人を説教したりするのは単なる「夜郎自大」にしか見えませんでしたね。

 そもそも私たち在家の者に向かって訳の分からない仏教用語を並べ立てられたって、分かるはずがないじゃないですかねえ。「アンタは勉強してそれぐらいの知識は常識なのかもしれんが、こっちはそんな難しい本読んでないんだからねっ! もっと分かり易く説明しろ!」って怒りたくなる気持ち分かります? 
 
 私、「末法」という意味もよく分かっていないんだと思います。だってその坊主、やたら小難しい言葉ばかり使って話すんですもの。何でもっと一般的な、分かり易い言葉で話さないのかと思ってしまいます。まぁ小難しげな言葉を羅列してると自分(坊主)は分かったような気になり、そういう自分(坊主)を在家は尊敬するとでも思っているのかもしれません。難しいことをやさしく語れるのがその道のプロなのに、何を勘違いしてんだか…。しかしodd-artさんなら小難しげな仏教用語もやさしく語れそうですねぇ。私、全くのド素人です。「末法」とは何なのでしょうか?

お礼日時:2002/01/04 12:08

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