No.3ベストアンサー
- 回答日時:
【土佐日記】
紀貫之は帰京してから、土佐からの旅を記録に残したいと考えました。
また宮廷歌人であった彼は、和歌をその中に入れたいと考えていました。
また真実を多少膨らませて自由に書きたいとの思いもありました。
その気持ちを書き記したのが土佐日記です。
【文体】
日記として、また自由に書くのならどのような文体が適しているかを貫之は、思案しました。
和歌を入れたり、人々の会話、旅の情景を感じたまま書くには、
変体漢文で書くよりもひらがなで書くほうが適せていると結論するに至りました。
【女性とひらがな】
女性がひらがなを使って日記を書くことは、普通に行われていましたので、
貫之はひらがなの文章しかかけない女性が書いたことにしました。
【第三者的な立場】
女性が書くことにしますと、客観的に見たことが書かれ、
日記が記録から離れて文学的な要素が含まれます。
ということで
「男もすなる日記といふものを女もしてみむとて、するなり」
という書き出しになりました。
もちろん女性が書いた日記ではなく紀貫之が書いたことは和歌などを見れば、
一目瞭然であったということは、いうまでもありません。
参考URL:http://www.e-t.ed.jp/edotori40094/tosa.htm
No.2
- 回答日時:
しかとした回答ではできませんが、示唆に富む本を紹介いたします。
萩谷 朴著「紫式部の蛇足 貫之の勇み足」新潮新書 です。土佐日記の深層主題の一つとしての「自己反照一」を是非お読みください。お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報