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平安時代などにしばしば催された「歌合」の様子が想像できず、質問させていただきます。

歌合では、複数の人が「和歌詠み合戦」のように
次々に和歌を詠んでゆき(しかも一人何十首も)、優劣を競います。

この歌合は、一首あたりどれくらいの時間をかけて行われていたのでしょうか?
いくら職業歌人であっても、「その場でどんどん歌を詠む」なんて
芸当が本当にできるのかどうか不思議ですし、
「千五百番歌合」ともなると、合計三千首の歌が詠まれたはずで、
全部でどれくらい時間がかかったのか、途中で休憩を取ったのか、
何日にも分けて行なわれたのか、
みんな疲れ果てて「やってられん」と思いながらやってたのか、
といった疑問が次々に湧いてきます。

たとえこれら全ての疑問が解決しなくても、歌合というものについて、
少しでも具体的なイメージを持ちたいと思っています。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

歌合は、天徳内裏歌合がその後の形式を定めたと言われます。


その様子では、ウキペディア 天徳内裏歌合の項
当日は午後早くから会場となる清涼殿の準備が始まったが、左方の州浜の参上が遅れ、歌合が始まったときはすでに日が暮れていたといわれる。歌合は夜を徹して行われ、左方の10勝5敗5引き分けで終わった。歌合のあと管弦の遊びが催され、退出は翌朝のことであった。
と廿番で半日ということでしょう。
この歌合のエピソードとして、右の講師(歌を読み上げる人)の小説の陰陽師で有名な源博雅が、あがって次の歌を読み上げ、負けとなったり、しのぶれどの平兼盛に負けた恋すてふの壬生忠見が、ご飯ものどを通らず死んでしまったとの伝説も生まれました。

同じく鎌倉時代の六百番歌合では、
建久3年(1192年)に出題に翌4年秋に披講・評定され、年内に藤原俊成の加判が終了したそうです。
この披講・評定の際の様子は、
とっこ‐かまくび〔トクコ‐〕【▽独×鈷×鎌首】
論争好きの歌人。六百番歌合の時、顕昭(けんしょう)が独鈷を手に持ち、寂蓮(じゃくれん)が鎌首のように首をもたげて論争したのを、女房たちが「例の独鈷鎌首」とはやしたところからいう。
【大辞泉より】
と延々とやっていたみたいですよ。
その加判後も顕昭は、六百番陳状として文句を言っております。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%B3% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
半日で二十番なら、まぁ一首に三十分くらいはかけられることになりますね。
納得の行くイメージが湧いてきました。

「実地型」か「ペーパー型」かでずいぶん様相が変わってくるのですね。

お礼日時:2009/09/24 09:12

 「千五百番歌合」についてだけですが、下記にあるように「ペーパー上」の歌合です。


 歌人や判者が一堂に会して行ったものではありません。歌が詠進された後、半年ほどかけて、判者がそれぞれに、提出された歌の原稿(?)を見ながら判詞を書いたのです。

http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu …

> 建仁二年(1202)9月2日後鳥羽院より30名の歌人に百首歌を奉じさせ、75首を一巻として、一人二巻、十人の判者に判じさせ、翌年3月完成したペーパー上の歌合。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんと、ペーパー上での歌合だったのですか!
がらりとイメージが変わりました。
もちろん、実際に一堂に会して行なわれたものもあったのでしょうが、
千五百番歌合に関しては違うのですね。

お礼日時:2009/09/16 16:41

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