私の内的な経験や考えと比べれば、それ以外のものはすべて私から遠く離れています。それらは、内的な経験や考えを通さなければ私のところへはやってきません。(内的な経験や考えって、なんですか)
例えば、「問い」心の内部は確実⇔心の外部(人はどうやって「知る」のか)は確実ではない。  「回答」野球で、ボールを打った時、「かなりいいあたりだ」という感触・感覚は確かだが、そのボールが、スタンドに入ったのを見たと言う視覚を確かめるのは難しい。  正しいと言うのは、一旦自分の中に取り入れないと確証できない。
確実なこと・・・~にみえる・~に思える・太陽が見える   確実じゃないこと・・・~であるなのか?・ほんとうにたいようはあるのか?
独我論・懐疑論・検証主義に当てはめて考えるといいのか?

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A 回答 (5件)

>幽霊が見えるので 



ということなので、
 むろん、世の中には、いわゆる霊的現象といわれるような不可思議なことが起きる場合もあります。
 しかし、それは、実際に幽霊や霊魂が引き起こした現象などではなく、感応の作用によるものです。
 感応について、わかりやすくお話すると、たとえば、私達が生活している空間には無数の電波が流れていますが、普段は、それらを私達の目や耳で認識することはありません。しかし、テレビやラジオ・無線機などを置いて、その電波に波長を合わせれば、そこから画像や音声が出てきます。
 これと同じように、死後の生命は、自らが作った過去世の業因によって苦楽を感じつつ、この宇宙の中に渾然一体となって溶け込んでいます。が、ときとして、生きている人間の生命力が落ちて、死後の生命が感じている苦しみなどと波長が合ってしまった(感応した)場合に、人によっては、死者の言葉が聞こえたり姿が見えたりすることがあるのです。生命力が落ちたり、宿業が地獄の境涯になったりすると、感応されやすくなり、幽霊とかを見るようになります。(これを、心身に内在するものの影響と前回、記述させて戴きました。)
 昔から、同じ場所にいながら、ある人には幽霊が見え、別の人には見えない、という違いが起きてくるのも、また、いわゆる心霊写真において、同じ所で複数の人がカメラのシャッターを切っていながら、ある人の写真にしか幽霊が映らないというのも、それは、そこに、幽霊や霊魂などという実体が存在していないからです(心霊写真の場合も、シャッターを切った人がたまたま死後の生命と感応し、それを自らの念の作用によってフィルムに映し出したものと考えられます)。
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この回答へのお礼

幽霊が見えてよかったです。今まで、すごく見えることがネックになっていたんだけど、認識の可能性が、少し突っ込んで分かれるようになっただけでなく、私の気持ちも、楽になりました。私は、事故で、三途の川に行ったけど、帰ってきた後から、幽霊が見えるようになったのですが、人生の途中からで、すごくとまどっていました。ありがとうございました(^-^)

お礼日時:2002/01/25 19:08

●霊のはなしが出ましたので 霊についてすこし・・・。



 眠っている時 夢をみますよね。この夢は脳のなかで映像や音や触覚などの
 感覚情報を合成したり編集したりしている事だと考えられます。
 この感覚情報の合成編集が顕在意識に現れることを幻覚といいます。
 (ドラッグはこの幻覚を発生させます。)
 おおくの心霊体験は この幻覚によるものです。

 自分の体験が幻覚でないことを知る方法は その幻覚に自分の知り得ない
 情報が含まれているか?ということを観察することです。
 自分が知り得ない情報が含まれていてそれが真実ならば その心霊現象は
 現実のものです。
 しかし 残念ながら いまだ心霊現象がそうして証明された前例はありません。

●個人的見解ですが 霊の必要性がみつからないのです。
 あるからには かならず それがあるための根拠があるものなのです。
 思念はあると認識しています。脳が活動するとき微弱の電流が流れるのは
 既存の事実ですよね。電流が流れるということはそこに磁場も発生するわけで
 空間を情報が伝わることは容易に考えられる訳です。
 ただその思念を空間に留めることはテクノロジーで将来は可能でしょうが
 しかし生物の進化の段階で思念を空間に留め置くことが
 生命として勝ち抜くための必然性として感じられないわけです。
 またどうやってその技術を身に付けるのか その手順が思いつきません。
 思念が出るのは脳活動の副産物ですから分りますし。
 思念が読めるのは 相手の考えを察知することに有用性があります。
 でも思念が空間に留まる必要性は 思いあたらないなあ。
 これからの科学の解明に期待をよせてはおります・・・。
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つい最近、このような哲学のテストがあったので、ちょっと自分なりにいうと


認識というものは、目で見る視覚的なものと、三角形の内角の和は180度という
けっして変わらない不変の事実がある。
だから、後者のような認識の可能性は確実であある(絶対主義、定言主義を引用すると書きやすい)
で、前者は感覚的なもので、薔薇は赤くみえるのだが、その「赤」というものは
自分の視覚を通じたり、また光の屈折などによって赤いとみえるが
その自分がみているの薔薇は本当に赤いのかということが認識でないと考える事できます(こちらは相対主義、懐疑主義な考えかたです)

このような哲学的にものをかんえがる時な先人のことばや「~主義」「~論」をある程度かじってから考えると、うまくコトバにできたり、文章にできたりするような気がします。
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この回答へのお礼

絶対主義とか、定言主義って、思いつきませんでした。哲学には、いろんな「~主義」「~論」がありますね。難しい・・・。でも、教えていただいて、少し、多角的な立場から考えられるようになりました。頑張って、コトバにできるようにします。ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/25 19:00

質問の確信がよくつかめないのですが すこし認識の可能性について・・・。



●会社人間は リストラ又は 会社が倒産した場合い
 その後なにもできなくなってしまうことが よくあります。
 これは その人が会社で歩んできたことの多くを自分という内部を通して
 認識していなかったためです。会社というものを主体にして認識して
 しまっているのです。
●いかに会社人間であろうとも自分を主体に物事を認識している人間は
 会社がなくなってもそれまでの経験を生かせるのです。

●会社人間を例にとりましたが 実はなんにでもこのことはあてはまるのです。
 学校 社会 国家 宗教 恋愛 ・・・ などなど。
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この回答へのお礼

自分が挙げた例よりも、ずっとずっと分かりやすかったです。あんまり難しく考えると、かえって分からなくなるのですね。レポートが書けそうな気になってきました。本当にありがとうございます!

お礼日時:2002/01/23 21:32

 「八識」ということで、


 眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に、第七・末那識と第八・阿頼耶識の二つを加えて八識といいます。
 六識とは、眼耳鼻舌身意の六根が、色・声・香・味・触・法という外界の六境に縁して、その区別を覚知することをいう。六識が、外界の色心に縁して善悪好醜総別愛憎を了別するのに対して、第七の末那識は、常に自身の内にあって、意識の深層で活動されているとされ、第八の阿頼耶識は、七識のさらに奥にあって、善悪の業が蓄積される、とされています。
 法相宗では、この第八識を心王として立てているが、天台宗では、第八識のさらに奥深に第九・阿摩羅識を立てて心王としている。
 六根とは、生命の識別器官ですが、それが功徳により清浄になる、六根に備わる煩悩のけがれを払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることになる。
 正しい信仰を知らない人は、この六根が無明の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない誤ちを犯すことが多いのであります。
 催眠術等で、見えない物なのに見えると催眠・暗示をかけると見えるようになるといいます。
 これは六根の働きに異常をきたさしていることであり、六根に影響を及ぼしている何かがあるという証拠でしょ。
 幽霊等も見える人と見えない人がいるのも、そういった心身に内在するものの影響があるということでしょう。
 そういったものが目先を曇らせ誤まらさせているということであろうと思います。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

言葉、一句一句が難しいので、最初はよく分からなかったけど、自分の体、もしくは、他人の体にかんして考えてみると分かるっていうことですよね?自分は、幽霊が見えるので、その辺りで考えてみます。ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 21:36

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哲学のテストが今月にありまして、誰にしようかなと思いながら何冊か著作を読みましたがいざ書くとなると何と絡めて書けばいいのかわからず・・・(つまり理解できてない・・・)別のにしようかと思ったのですが、正直時間がありません。

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の中の哲学者から選ぶのですが、レポートの書きやすい人はいませんか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ヒューム

Qヒュームの懐疑論

ヒュームの懐疑論

来年度受験予定の高校2年生です。
世界史でどうしてもわからないところを質問させてください。

17~18世紀の文化のところです。

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観念論的経験論→懐疑論

とあります。

これをわかりやすく説明してくださいませんか?
一応、ウィキペディアなどのいくつかのサイトや、用語集、資料集、事典などは調べていますが、難しい言葉を難しい言葉で説明してあるものが多く、私には理解できません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 はじめまして、ご参考になればと想い筆を取らせていただきました。

 以下のWikipediaの説明文に解説を加えるという形で進めさせていただきました。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0) からです)

(1)ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立の過程をそのそもそもの源泉を問うというやり方で問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めたと同時に、確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていないと考える

 一例として、“万有引力の法則”を上げますと、これは一般的な科学では、基本原則となっているかと思われます。確に、その存在については疑問を持たないのが普通かと思われます。ですが、その原因の必然性を考えて見ますと、もちろん、なぜ“万有引力”なるものが存在しているのかについての原因・理由はわからないと思われます(事実、その引力が生じる原理は全く今の科学でも未解明です)。そこで、「とにかく存在するのだ」とこじつけがみられるのではないでしょうか。そして、明日もこの“万有引力”なるものが存在し続けるかは、その保障はないと考えられます(誰も、断定できないと思われます)。従いまして、“(人間が作り出した、公理系である)数学”のみを論証可能な学問と位置づけたわけです。

(2)ピュロンのような過激な懐疑は避けた比較的緩やかな懐疑論を打ち立て、結果的に人間の知および経験論の限界を示した。

懐疑論の定義:世界というのは、本当は私たちが経験しているのは全く違ったものなんじゃないか、つまり、私たちが経験しているのは実は世界についての完全なる幻覚なんじゃないか、と疑うこと。あるいはその姿勢。
本気で疑っているわけではなく、我々が日常的に信じている前提を正当化するのに使っている理屈や概念のほうを問い直すことが目的。

 以上のような“懐疑論”を打ちたて、人間の知(理性)について、その限界を示唆したかったのでしょう。
当時は、例えば、「絵画で、アダムの裸像を描くとき、そのとき、ヘソを描くべきかどうか」という討論がなされたといわれています(アダムは女から生まれたわけではないため、そのような疑問がでてきたのかと思われます)。ですが、これにつきまして、真偽を確認でれるかといいますと、それは、不可能だと断じるわけでございます。
 また、上述(1)ように”経験論”の問題点も浮き彫りにしたと考えられます。



(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%96%91%E8%AB%96 からです)

(1)ヒュームが疑うのは、経験的事実ではなく、そこに設定される因果関係と帰納によるその正当化である。

 ヒュームが問題視するには、“経験的事実”(実験結果もしくは、実験から得られた観測結果)ではなく、因果関係と帰納(科学的経験則により導かれた結論・推論)により得られた“正当性”です。つまり、彼によれば、帰納的推論により得られた“真理”と思われているものに対しては、“真理”とは断定できないと解します。つまり、極端に申しますと、それは、“幻想”だという訳です。

(2)ヒュームによれば、「初めて存在するものには、すべて存在の原因がなければならぬということは、哲学で一般的な基本原則となっている」が、「よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤っており、こじつけである」

 以上の説明から、概略はつかめるかと存じます。
 またな何かございましたら、以下の“補足要求”にて、ご質問くださいませ。

 ご参考になれば幸いでございます。

 はじめまして、ご参考になればと想い筆を取らせていただきました。

 以下のWikipediaの説明文に解説を加えるという形で進めさせていただきました。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0) からです)

(1)ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立の過程をそのそもそもの源泉を問うというやり方で問い、数学を唯一の論証的に確実な学問と認めたと同時に、確実な知に人間本性が達すること...続きを読む

Qなぜ日本人は地球温暖化懐疑論デマに溺れたのか

約20年間、気候変動の問題に関わってきて、いまだに不思議に思うのは、正式な学術会議で議論され、国連から報告されてきたIPCCの報告書が、知識の浅い一般国民や金儲けに奔走している企業人ならいざ知らず、専門知識外とは言え、高学歴の元東大教授などが批判し、これをマスコミの多くが取り上げて、日本中に温暖化懐疑論デマがはびこったことです。

なぜ、日本人は先の大戦で300万人も戦死するような国民的狂気に突っ走ったのか疑問に思いましたが、これと同じことが目の前で繰り返されているのではないかと思いました。

最近、予測通り気候変動が少し顕著になってきたので、正気を取り戻してきたマスコミもあるようですが、これでは、ムチを打たれて方向を変える家畜と知的レベルが変わらないではないでしょうか。

氷河期が終わって約1万年間で最も気温の高かった時期が約6千年前の縄文海進期で、その時の気温は+2.0℃でした。これを超えると現在の生態系や気候が激変すると言われてきましたが、ほとんど本格的な対策を講じてきませんでしたので、CO2の濃度はかなり高くなってしまいました。
ここに至って、+2.0℃以下を順守しようとすると、今世紀後半にはCO2排出量を100%削減し、その上で+2.0℃に相当するCO2濃度まで下げるため、大気中に拡散してしまったCO2を人為的に回収しなければならない。
このことは、9月に発表されたIPCC第5次評価報告書を読めば理解できる内容です。

現在起きている「地球温暖化」とはこれほどまでの事態なのに、NHKの解説委員までもこの「温暖化懐疑論デマ」に流されてきました。
日本人はどうして巨大なデマに弱いのか不思議でならないのです。

約20年間、気候変動の問題に関わってきて、いまだに不思議に思うのは、正式な学術会議で議論され、国連から報告されてきたIPCCの報告書が、知識の浅い一般国民や金儲けに奔走している企業人ならいざ知らず、専門知識外とは言え、高学歴の元東大教授などが批判し、これをマスコミの多くが取り上げて、日本中に温暖化懐疑論デマがはびこったことです。

なぜ、日本人は先の大戦で300万人も戦死するような国民的狂気に突っ走ったのか疑問に思いましたが、これと同じことが目の前で繰り返されているのではないかと思い...続きを読む

Aベストアンサー

普段から関心を抱いている問題です。ご質問に感謝します。すでに立派な意見が幾つか寄せられていますので、私は、(回答にならないかも知れませんが)少し違った観点からお答えします。

(1)この種の問題に関心を持たれたことに敬服します。
世はまさに無関心時代。ノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼルは言ったそうです。「愛の反対は、憎しみではない。それは無関心だ。戦争の反対は平和ではない。それは無関心だ。無関心こそ、最悪の罪だ」と。そんな風潮の、つまり、無関心の跋扈する昨今、こういうことに関心を持ち、問題提起なさったことに感謝します。

(2)行動原理のよりどころすなわち判断基準とすること、は大きく分けて2つあります。
「正・不正の原理」(人類・生命・地球にとって正しいことか否か)と、「要・不要の原理」(自分にとって必要か否か)です。我々は通常、無意識のうちにこの2つを使い分けていますが、残念ながら多くの場合この両価値観は対立しますね。それで、様々な苦悩や対立抗争が発生してきます。先進国と開発途上国の対立などは、その典型的な拡大版と言えるのでははいでしょうか。悩ましい問題です。

(3)アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」と。これはつまり、「後者、人類の愚かさが無限であることについては確信がある」ということの別表現と捉えられなくもありませんね。
それというのも、「人類は99%以上の確率で自滅する」という見方があることとも呼応するからです。確かに我々は愚かで、自分で自分の首を絞めるようなことを延々とやってきたのかも知れません。しかし、自滅の確率が「100%ではない」ところに一縷の望みを繋いで、より賢明な判断や行動を模索したいものです。

(4)ものの見方に関する当為として、例えば弁証法やパースペクティビズム(遠近法主義)などがありますね。いずれも、自己の見たものと他者のそれとをすり合わせて、より普遍的な真理を模索しようとする姿勢と言えるでしょう。自分で自分を滅ぼしてしまうような愚行を避けるために、今ほど衆知を結集しなければならにときはない、と思います。
その意味で、一石を投じてくれた質問者様と、すでに寄せられている多くの回答に感謝する次第です。上で私は、具体的な提言はあえてしませんでしたが、「地球温暖化」については、このサイトなどを参考にさせてもらいながら、考え続けていくつもりです。人間のみならず、地上のあらゆる生命にとっても重大問題に違いありませんので、つねに心に留めて、「草の根」的な原動力の一部になっていければ、と考えています。

普段から関心を抱いている問題です。ご質問に感謝します。すでに立派な意見が幾つか寄せられていますので、私は、(回答にならないかも知れませんが)少し違った観点からお答えします。

(1)この種の問題に関心を持たれたことに敬服します。
世はまさに無関心時代。ノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼルは言ったそうです。「愛の反対は、憎しみではない。それは無関心だ。戦争の反対は平和ではない。それは無関心だ。無関心こそ、最悪の罪だ」と。そんな風潮の、つまり、無関心の跋扈する昨今、こういうこと...続きを読む

Qカント以降の経験論と合理論

カント以降は経験論と合理論の論争はなくなったのでしょうか?もし、なくなっていないとしたら、カント以降から現在までどのような状況で存在しているのでしょうか?
私は哲学の初心者で、一応自分なりに調べたのですが分かりませんでした。どうか返答をお願いします。

Aベストアンサー

大雑把に言って3つの方向に分かれたように思います。
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一方合理論の系譜は論理主義的傾向に行き着きます。
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Q経験論と合理論

現代では、瞬時に「パッチ」を当てられて、オシマイですか

Aベストアンサー

「経験」=時間軸と、「合理」=空間軸は、相容れない
ようでいて、量子論の不確定性原理における「位置Sと
運動量St、時点TとTs質量の2対の確率性において、
一方を確定化しようとすると他方は無限不確定に発散
する」というように、相補性を成して、それらを確定せず
階層現象表面的に(いい加減に)捉える事で、仮象的
に有限な存在性を派生させているのです。


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